robin■和装イラスト集出す人 @robiiiiiimmm ヤベェ本を買ったぞ… 昔の偉い人たち(ザックリ表現)の服の構造や成り立ち、色合いや文様の意味、アクセサリーの種類とかが分かりやすくまとめられてる。 ネット知識でフワッと把握してた所がしっかり解説されてて、痒いところに手が届く一冊だった… 絵描き字書き立体屋問わず全創作者にオススメ。 pic.twitter.com/z1W3Kgl1DL 2019-09-21 22:25:06
古今東西、あらゆる作品の織田信長を紹介する新感覚評論本『信長名鑑』が、太田出版から発売されます。11月14日発売、1800円(税別)です。どのページめくっても織田信長しかいない……! 織田信長だけを集めたマニアック過ぎる評論本です ゲームにもアニメにも漫画にも、いろいろな作品に登場する織田信長。至るところで創作されている織田信長をとことん調べ上げたマニアックな同人誌『信長名鑑』が、一般書籍になって登場です。同人誌時代から大幅に増補して、「織田信長」や「織田信長をイメージしたキャラ」を幅広いジャンルから掲載しています。 歴史上の人物というよりも、キャラクターとしての織田信長のイメージに迫った書籍で、美少女になった織田信長や、タイムスリップした織田信長など、ありとあらゆる織田信長を分析しています。総数585作品、703人の織田信長が登場する、究極の織田信長本と言えそうです。読んでいくうちに、織
126年前の1895(明治28)年10月8日、日本の軍人らが朝鮮王妃を殺害した「閔妃(ミンビ)暗殺事件」で、実行グループの一員だった外交官が、事件翌日に郷里の親友に宛てたとみられる書簡が見つかった。「自分たちが王妃を殺した」と経緯が詳しく記されており、研究者は「事件の詳細を解き明かす貴重な資料」としている。 書簡の差出人は、現地の領事官補だった堀口九万一(くまいち)(1865~1945)。郷里、新潟県中通村(現・長岡市)の親友で漢学者の武石貞松に宛てた、1894年11月17日付から事件直後の95年10月18日付の計8通が見つかった。 名古屋市に住む切手や印紙の研究家、日系米国人スティーブ長谷川さん(77)が古物市場で入手し、「朝鮮王妃殺害と日本人」の著書がある歴史家、金文子(キムムンジャ)さんが毛筆の崩し字を判読した。手紙がもともと保管されていたとされる場所や記されていた内容、消印、封書の
長野県中野市で果樹農家を営む男性が、自宅の蔵の整理をしていて見慣れぬ行李(こうり)を見つけた。入っていたのは、大量の文書と1枚の写真。専門機関に相談すると、「大変なもの」だった。 資料を見つけたのは田中武徳さん(67)。3年ほど前、大切な文書などを火災などから守るために堅牢につくられた文庫蔵を整理していた際、2階の棚に黒っぽい行李が置いてあるのに気づいた。手の込んだつくりに思え、貴重なものがはいっている予感がした。開けると、濃紺の風呂敷がかぶせられ、中からは大量の文書と、建物を写した写真が出てきた。写真の裏に「枢密院の建屋」と手書きされていた。 どんな価値があるものなのか分からず、国立公文書館(東京都千代田区)に持ち込んでみた田中さん。その場で「貴重なもの」と驚かれた。 公文書館が数カ月かけて作成した目録によると、見つかったのは、明治憲法下における天皇の最高諮問機関だった「枢密院」の関係文
室町幕府の将軍、足利義満の姿を描いたとみられる肖像画が、新たに見つかりました。黒々としたあごひげや若々しい表情などが特徴で、調査を行った専門家は「新しい義満像を読み取ることができる重要な発見だ」と指摘しています。 見つかった肖像画は、縦1メートル余り、横40センチほどの大きさで、僧侶の姿をした人物が畳に座っている様子が描かれています。 東京都内の男性が古美術商から購入し、その後、東京大学史料編纂所などが調査したところ、顔つきや衣装などから室町幕府の3代将軍、足利義満の出家後の姿を描いたと判断されました。 義満の肖像画として広く知られている京都の鹿苑寺所蔵のものと比べると、黒々としたあごひげや顔のしわが少なく若々しい表情などの特徴が見られます。 史料編纂所などは、この肖像画は描かれた布地の絹や押された印の特徴から、義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。 中世に
このごろのキャッシュレス このごろいくつかキャッシュレスの話題をネットで見かけた。 飲食店などが、キャッシュレス決済の手数料の高さに困っている、という話である。おれはそういう商売に携わったことがないのでわからないが、なるほど高そうだ。 とはいえ、この問題で小売店に同情する声というのはあまりない。ほとんどないといってもいいかもしれない。 「だったら現金オンリーにすればいいのでは?」という声が多い。「なじみの店、応援したい店では現金払いにしたい」という声もあるが、あまり多いとは言えない。 むしろ、オダギリジョーのCM(オダギリジョーの店に大口のお客さんがきそうになるが、キャッシュレス決済ができないことによって機会損失する……テレビをまったく見ない人向けの解説)のように、「じゃあいいですー」ってなるよ、という人が多い。現金まったく持ち歩かないよ、という人もいる。 おれは、どうなのか。おれはつねに
つれづれに思いつくまま 萩尾望都先生の『一度きりの大泉の話』が出版されてから心がざわついて落ち着きません。 どうしてこんなことになってしまったのだろう?と、凄く残念な気持ちです。 何がいけなかったのか? 誰が悪いのか? いくら考えても答えが出ないのです。 人生に「誤解」はつきもの。そう理解していても口惜しい… 5年前に『少年の名はジルベール』を出版して以来、萩尾先生のところにドラマ化や対談のオファーが相次ぎ、ご迷惑をおかけしていたらしいことを『一度きりの大泉の話』を読んで 知り、驚きました。本当に残念に思います。ですが…誤解が多々あるようなのです。 それが原因で心が落ち着かないのかも?と思い、マネージャーとして知っていることだけを忠実に、せめてblogにでも書き綴ってみようと思い立ちました。 ドラマ化については『少年の名はジルベール』の出版以来、二度ほどオファーが来て、私達も断るのに苦労し
新型コロナウイルスの感染拡大で注目された妖怪アマビエが出現したとされる2カ月前、同じように流行病を予言する奇妙な姿の妖怪が現れていた。アマビエをはじめとした「予言する妖怪(予言獣)」を研究する福井県文書館職員の長野栄俊さんが確認した。 うろこに覆われた胴体や3本足はどことなくアマビエを連想させるが、角の生えた顔や、何より謎の光線を出す玉を両手に持つ姿はまるで別物。アマビエと違い自らの名を言わなかったため、名前は不明という。 この妖怪が確認されたのは、尾張徳川家の旧蔵書を中心に所蔵する「名古屋市蓬左(ほうさ)文庫」。尾張藩大道寺家に仕えた水野正信が、江戸後期から明治初頭に起きた城下の出来事や各地の風聞を書き留めた「青窓紀聞(せいそうきぶん)」(全204冊)に残されていた。 記述によると、1846(弘化3)年2月19日、備後(現在の広島県東部)の海辺に毎夜、「光る物」が出るの…
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、細川家が九州の有力大名となる礎を築いた細川忠興が記した書物の裏に石田三成や古田織部の自筆の書状があることが東京大学史料編纂所などの調査でわかりました。専門家は豊臣秀吉に仕えた武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。 細川忠興は戦国時代から江戸時代初期の武将で、豊臣秀吉などに仕え、細川家が九州の有力大名になる礎を築いたほか、茶道などにも通じた文化人としても知られています。 細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫と東京大学史料編纂所は共同で巻物になっていた忠興が記した書物を調べたところ、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかりました。 その中には、1586年ごろ、秀吉に一緒に仕えていた石田三成や古田織部が自筆で忠興に宛てた書状が含まれていました。 石田三成の書状では、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興
鹿児島市にある県歴史・美術センター「黎明館」に預けられた島津家一族の資料の中から、豊臣秀吉が妻の北政所に宛てて書いた自筆の書状が見つかりました。 書状は、朝鮮半島に兵を出した文禄・慶長の役の際に、秀吉が城を築いた現在の佐賀県の名護屋から北政所に宛てて書かれたものです。 天正20年(1592年)6月3日に書かれたと推定されています。 手紙には、「当年中には唐国、明を取り唐国に遷ったら迎えを遣わせる」と書かれ、文末には「まんどころ殿太閤」と記されています。 東京大学史料編纂所の協力を得て、筆跡などの研究を進め、秀吉の自筆の書状だと確認したということです。 この書状は5月31日から「黎明館」で開かれる企画展で展示されます。
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