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» 東京国立博物館「古代メキシコ展」がガチだ! 全てを放り出して見に行け!! / もう鶯谷は終わった 特集 2023年6月16日から9月3日まで、東京国立博物館 平成館にて開催される特別展「古代メキシコ マヤ、アステカ、テオティワカン」(以下 古代メキシコ展)。 マヤ文明、アステカ文明、テオティワカン文明にフォーカスしたもので、約140点の出土品が展示されるというもの。 そのメディア向け内覧会がひと足先に実施された。これはヤバい気がすると思って私も参加したところ、想像を超えたヤバさであることが発覚! これはとんでもない展示ですよ皆さん。仕事とか辞めて見に行った方が良い。 ・メソアメリカ トップの写真は平成館に入ってすぐの光景。展示はエスカレーターをのぼった先で行われている。現時点では、個人利用に限り会場内の全作品が撮影OK。驚愕の対応だと思う。 上白石萌音さん(ナビゲーター)と杉田智和さん
1500年余り前に日本からソウルに移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。最近、彼らが暮らしながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日本特産の土器が相次いで確認されたためだ。 大韓文化財研究院は6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の官営土器窯関連遺跡(京畿道城南市福井洞(ソンナムシ・ポクジョンドン))から、古代日本の権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物の「埴輪(はにわ)」を初めて発見したと明らかにした。大韓文化財研究院は地中の文化遺産を発掘・調査する機関だ。 埴輪は5世紀前半の古代日本の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。 城南市福井洞の百済土器窯関連遺跡の廃棄
1974年、中国、陝西省のなんの変哲もない農地で、農民たちが史上もっとも重要な考古学遺物に偶然出くわした。 地面を少し掘ったところ、粘土で作られた人の彫像の破片が見つかったが、これはほんの始まりにすぎなかった。 さらに発掘作業を進めると、農地の地下にはたくさんの穴があることがわかり、そこには何千もの等身大の兵士や軍馬のテラコッタ(粘土を用いた素焼きの焼き物)の彫像が、ぎっしりと並べられていたのだ。 兵士だけでなく、曲芸師や高名な役人、その他の動物の像の存在も明らかになった。これが、世界の度肝を抜いた始皇帝の霊廟に副葬された兵馬俑(へいばよう)である。 これほど大規模な霊廟にもかかわらず、始皇帝自身の墓は、いまだ手つかずのままだ。その理由を探っていこう。
ローマ(CNN) 紀元1世紀のローマ皇帝ネロが所有していた私設劇場がイタリアの首都ローマで発掘され、専門家から「類いまれな」発見と呼ぶ声が上がっている。発見場所はバチカン市国からわずか数メートルの場所だった。 ローマ市の特別監督官であるダニエラ・ポッロ氏が発表した。ここはネロが詩や音楽の試演を行っていた場所で、現在のサンピエトロ大聖堂の近くに位置する。 劇場の存在については大プリニウスによって書かれたローマ時代の文献で言及されているが、これまで場所が確認されておらず、歴史家を困惑させていた。 ネロは第5代ローマ皇帝として紀元54年から68年まで統治した人物。指導者としては不人気であり、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)と放蕩(ほうとう)で有名になった。 遺跡には大理石の柱や金箔(きんぱく)による装飾、ネロの演劇で使われた衣装や舞台背景の遺物を収めた保管部屋などが残されている。 今回の発掘は、コン
1983年に立ち上がった埋蔵文化財調査室で、約40年にわたって学内の発掘調査を担当してきました。江戸時代に加賀藩の江戸屋敷が置かれていた本郷キャンパス。建物の改修や建設の度に学内各所で行われてきた発掘調査によって、その広壮な加賀藩邸の姿が明らかになってきました。 2013~14年に総合図書館前広場(アカデミックコモンズ地点)の工事に伴い行った発掘調査では、井戸、排水溝、便所の遺構が発掘されました。1827年に第11代将軍徳川家斉の二十一女・溶姫が、前田家13代斉泰に嫁いだ時に建てられた溶姫御殿の最奥部にあたる場所です。 御殿の正門である赤門から奥に広がる約5,200坪の広大な御殿でした。特に長局ながつぼねは、大奥と同じレイアウトで、その「三ノ側長局」、「三ノ側続長局」という女中が居住していたエリアから5基の便所が出土しました。土を掘り、その中に木桶を埋める構造でした。便槽は2基が対になって
東京都千代田区一番町の英国大使館跡地から弥生時代の集落跡が見つかったことが千代田区への取材で分かった。見つかったのは三菱地所レジデンス(東京都)などが再開発を進めている土地で、縄文時代のものも含めこれまでに竪穴住居跡が28棟確認された。ただ、遺跡として現地に残すことは難しい見込みで、調査後に埋め戻されてマンション建設が始まる予定。現地説明会も開かれない。都心における遺跡活用の難しさを改めて浮き彫りにした。 千代田区などによると、10月下旬までにこの土地で見つかった弥生時代後期前半(1~2世紀)の竪穴住居跡は21棟。縄文時代のものも3棟あり、そのうち1棟には貝が残っていた。時期が不明の竪穴住居跡も4棟あった。弥生土器や縄文土器も出土し、近世の上水木樋(もくひ)や井戸、地下室なども確認された。 調査は2024年3月まで行われる。調査対象となった約7700平方メートルのうち、まだ約3700平方メ
翡翠(ヒスイ)のモザイクでできた小さな仮面。目と歯にはウミギクガイの殻が使われ、嵐の神を表している。紀元350年ごろにチョチキタムに埋葬された王の胸の上に置かれていた。(PHOTOGRAPH BY RUBÉN SALGADO ESCUDERO) チョチキタム遺跡は、中米グアテマラのヤシの木が茂る熱帯雨林の中、落ち葉と石の塊に埋もれた場所にある。これまでほとんど知られていなかったこの遺跡は、考古学的な大発見が起こるような場所にはとても見えないかもしれない。ましてや、長い間、研究者たちを悩ませてきた闇の時代の手がかりが見つかるとは、誰も考えなかったはずだ。 しかし、それが現実になった。この場所で、翡翠(ヒスイ)を組み合わせて作ったミステリアスな仮面が発見されたのだ。これまで知られていなかったマヤの王のものだと考えられている。(参考記事:2024年3月号特集「ベールを脱ぐ古代マヤ」) 調査を率い
前橋市総社町の「総社村東03遺跡」の発掘調査で、紀元前の中国初の統一通貨「半両銭」や、7世紀から13世紀にかけて造られた渡来銭など10万枚を超す大量の埋蔵銭が見つかった。 藁紐(わらひも)で約100枚ごとにまとめた「緡(さし)」の状態だった。藁の袋に入れられており、中世期の戦乱などで急きょ地中に埋められたと見られるという。 事業者の工場建設を機に発掘調査が行われた。市によると、埋蔵されていた範囲は、縦約60センチ、横1メートルで、約100枚単位の緡が1060見つかった。10緡にまとめた1貫文(約1千枚分)にして納められた痕跡も確認された。稲わらのむしろが残っており、この中に入った状態で埋められたとみている。 遺跡の所在地は、総社町総社大字大屋敷で、字名から、大きな屋敷があった可能性も考えられるという。 埋蔵銭のうち334枚を調査したところ、中国の前漢時代から、南宋時代までの通貨44種類が確
ヨルダンの砂漠にあるきわめて保存状態のよい古代ローマの砦、カスル・バシル。機密解除されたスパイ衛星写真を活用した新たな研究により、シリアやイラクの砂漠から、これまで知られていなかった古代ローマの砦跡と思われる遺跡が400カ所近く見つかった。(PHOTOGRAPH BY ROBERT CLARK, NAT GEO IMAGE COLLECTION) 機密解除された米国のスパイ衛星コロナとヘキサゴンの写真から、シリアやイラクの砂漠にある古代ローマ時代の砦(とりで)が約400カ所特定され、10月26日付けで学術誌「Antiquity」に発表された。その配置パターンから考えると、砦の目的は定説となっている防衛ではなく、キャラバンによる交易、軍隊の移動、地域の情報伝達など、交流を円滑に進めるためだったという説を論文の著者らは主張している。(参考記事:「CIAが歴史的な「機密地図」の数々を公開」) こ
弥生時代の大規模な環ごう集落の跡が残る佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、弥生時代後期のものとみられる墓の一部が出土し、専門家は「かなり身分が高い人の墓の可能性が高く、さらに調べれば歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。 吉野ヶ里遺跡では、歴代の王の墓とされる「北墳丘墓」のすぐ西側にあり、貴重な発見があるのではと注目されながら手付かずだった「謎のエリア」と呼ばれる場所で去年から、10年ぶりとなる大規模な発掘調査が行われています。 この調査で先月、4枚の平らな石が並んだ状態で見つかりました。 4枚を合わせると全長は2メートルほどになり、調査を行っている佐賀県によりますと、墓の「ふた」だということです。 弥生時代後期、1世紀から3世紀ごろの有力者の墓のふたとみられ、表面には「×」のように見える線が交差した記号のようなものが無数に刻まれていて、埋葬した際に何かしらの意図を持ってつけ
【4月17日 CGTN Japanese】中国国家文物局は16日、中国中部・安徽省にある武王墩墓の遺跡で重要な考古学的進展があったと発表しました。現段階では、武王墩墓は今から2000年以上前の戦国末期に楚の国が寿春城に遷都した後の楚の「王級墓葬」と推定されています。 武王墩墓は安徽省淮南市に位置し、主墓(1号墓)、墓園、車馬坑、副葬墓、祭祀坑など重要な遺跡が現存しています。 現在、主墓(1号墓)の発掘が行われており、これは考古学的に発掘された楚の国で最もレベルの高いクラスの墓でもあり、暫定的に、戦国時代(紀元前475-221年)末期の楚国が寿春城に遷都した後の王クラスの墓である可能性が推定されており、既に青銅製の礼器、生活用器、木製の人形、楽器などが出土しています。 武王墩1号墓、つまり現在発掘中の主墓を中心として、周囲には副葬墓、副葬坑、祭祀坑などの重要な遺跡が分布しており、主墓に近い西
中国アジアITライター 山谷 剛史 1976年生まれ、東京都出身。2002年より中国やアジア地域のITトレンドについて執筆。中国IT業界記事、中国流行記事、中国製品レビュー記事を主に執筆。著書に『中国のITは新型コロナウイルスにどのように反撃したのか?』(星海社新書)『中国のインターネット史 ワールドワイドウェブからの独立』(星海社新書)『新しい中国人 ネットで団結する若者たち』(ソフトバンククリエイティブ)など。 中国甘粛(カンシュク)省、シルクロードの観光地として知られる敦煌は、仏教壁画が描かれた492の洞窟からなる莫高窟と、砂漠の鳴沙山・月牙泉が有名だ。毎年5月から10月が観光の最盛期で、莫高窟はこの期間ほぼ毎日入場制限がかかるほど人気だ。 莫高窟の文化財の保護と研究のために設立された敦煌研究院では、英国国立図書館とも提携し、これまで30年以上かけてデジタル化が行われ、そのデータ量は
MASA(航空宇宙・軍事) @masa_0083 すごい……。ドイツのネルトリンゲンで発掘された3000年前の青銅の剣だそうです。こんなに完全な状態で出土するとは……。 twitter.com/historyinmemes… 2023-10-15 16:31:20 Historic Vids @historyinmemes 3,000-year-old bronze sword discovered in the southern Bavarian town of Nördlingen in Germany. pic.twitter.com/a6gU6HHonw 2023-10-15 03:10:42
子どもたちの好奇心が、歴史に残る大発見につながりました。三重県津市に住む兄弟が、近所の山で「お宝」を見つけました。 【動画で見る】「これヤバいやつちゃうんか…」12歳と9歳の兄弟が近所の山で歴史的大発見 平安後期-鎌倉にかけての墓か 兄・瑚太郎君: 「こんな近くにこういうものがあるんやっていう驚きと、見つけられたっていう『やったー』っていう喜びがありました」 弟・展梧君: 「『うわーすげえ!』みたいな感じで驚いて。なんだこれっていう感じに思いました」 興奮した様子で振り返るのは、津市に住む伊藤瑚太郎君(12)と弟の展梧君(9)。2022年1月、空手道場の先生と3人で近所の山で遊んでいたところ、歴史に残る大発見をしました。
翡翠(ヒスイ)のモザイクでできた小さな仮面。目と歯にはウミギクガイの殻が使われ、嵐の神を表している。紀元350年ごろにチョチキタムに埋葬された王の胸の上に置かれていた。(PHOTOGRAPH BY RUBÉN SALGADO ESCUDERO) チョチキタム遺跡は、中米グアテマラのヤシの木が茂る熱帯雨林の中、落ち葉と石の塊に埋もれた場所にある。これまでほとんど知られていなかったこの遺跡は、考古学的な大発見が起こるような場所にはとても見えないかもしれない。ましてや、長い間、研究者たちを悩ませてきた闇の時代の手がかりが見つかるとは、誰も考えなかったはずだ。 【関連写真】ギャラリー:見事なヒスイの石仮面をマヤの王墓で発見 写真13点 しかし、それが現実になった。この場所で、翡翠(ヒスイ)を組み合わせて作ったミステリアスな仮面が発見されたのだ。これまで知られていなかったマヤの王のものだと考えられて
東京大学の研究グループは火山の噴火による堆積物に埋もれたイタリア南部の遺跡から、およそ2000年前のローマ時代の建物を発見したと発表しました。建物が使われていた年代や、個人用の浴場があったと考えられることなどから、研究グループはこの建物はローマ帝国の初代皇帝、アウグストゥスの別荘の可能性があるとしています。 東京大学の研究グループは、イタリア南部のカンパーニャ州にある活火山、ベスビオ山の北側にあるローマ時代の遺跡「ソンマ・ヴェスヴィアーナ」で2002年から発掘調査を続けていて、去年、西暦79年の噴火による堆積物の下から新たに大規模な建物の一部とみられる遺構を見つけました。 見つかったのは浴場に送る湯を沸かすための窯があったと見られる部屋です。 この部屋から採取した当時の木炭などから年代測定を行ったところ、西暦1世紀前半に集中していて、そのあとの時代のものはなかったことから、西暦1世紀前半以
ロンドン(CNN) 歴史的な土壌サンプルから初めてマイクロプラスチックが発見されたことが、新たな研究で明らかになった。考古学的遺物の保存方法が一変する可能性もある。 英ヨーク大学主導の研究チームの22日の声明によると、1~2世紀に堆積(たいせき)し、1980年代に発掘された地下7メートルあまりの土壌堆積物で研究者がマイクロプラスチックを発見した。 現代の土壌サンプルや保存された過去のサンプルから、計16種類のマイクロプラスチックポリマーが見つかったという。 マイクロプラスチックは5ミリ以下(ごま粒ほどの大きさ)の微少なプラスチックで、より大きなプラスチックが化学的に分解したり、物理的な摩耗によって小さな破片になることで発生する。 研究者によると、マイクロプラスチックは2020年ごろまでは一部の美容品でも普通に使用されていた。ただ、近年はマイクロプラスチックの拡散をめぐる議論が高まっている。
by Suzanne 紀元前800年ごろから紀元前146年まで存在した古代カルタゴは、アフリカ北部で栄えたフェニキア人の国家で、一時はローマ帝国と覇を競い合うほど優れた文化と巨万の富を誇った大国でした。洗練された国家だったカルタゴですが、人々の間には子どもを生贄(いけにえ)として神にささげる風習があったとされています。 Cemetery or sacrifice? Infant burials at the Carthage Tophet | Antiquity | Cambridge Core https://www.cambridge.org/core/journals/antiquity/article/abs/cemetery-or-sacrifice-infant-burials-at-the-carthage-tophet/DAC7C386CD20F5C280C9DB41E51
マヤ文明のものと思われるジャングルに埋もれた古代都市が、ユカタン半島のバラムク生態系保護区で発見されました。研究チームは遺跡に点在する多数の円筒形の石柱にちなみ、この都市をマヤ語・ユカテコ語で石柱を意味する「Ocomtún(オコムトゥン)」と名付けました。 Descubren antigua ciudad maya en Campeche; la nombran Ocomtún, “columna de piedra” https://www.inah.gob.mx/boletines/descubren-antigua-ciudad-maya-campeche-la-nombran-ocomtun-columna-de-piedra This Ancient Maya City Was Hidden in the Jungle for More Than 1,000 Years | Sm
橿原市で飛鳥時代の都の「藤原京」を貫いていた幹線道路の側溝とみられる2本の溝の跡が見つかり、当時の道幅は23メートル余りに及ぶと推定されています。 県立橿原考古学研究所が、藤原京の周辺部にあたる橿原市曽我町で令和元年から2年間発掘調査を行ったところ、東西方向に▼幅2.5メートルから3.4メートルと、▼幅2メートル余りの2本の溝の跡が見つかりました。 溝は並行していて、すぐ上の地層から平安時代の土器が見つかっていることなどから、古代の道路の側溝だった可能性が高いということです。 2本の溝の間隔から、当時の道幅は、現在建設中の4車線の京奈和自動車道にも匹敵する23メートル余りに及ぶと推定され、およそ1300年前の飛鳥時代に藤原京を東西に貫いていた古代の幹線道路「横大路」ではないかとみられています。 その広さを体感してもらおうと、調査結果が展示されている研究所のロビーには、道幅分の白いテープが貼
東京都千代田区一番町の英国大使館跡地から弥生時代の集落跡が見つかったことが千代田区への取材で分かった。見つかったのは三菱地所レジデンス(東京都)などが再開発を進めている土地で、縄文時代のものも含めこれまでに竪穴住居跡が28棟確認された。ただ、遺跡として現地に残すことは難しい見込みで、調査後に埋め戻されてマンション建設が始まる予定。現地説明会も開かれない。都心における遺跡活用の難しさを改めて浮き彫りにした。 【写真まとめ】都心の一等地から出土した弥生時代の集落跡 千代田区などによると、10月下旬までにこの土地で見つかった弥生時代後期前半(1~2世紀)の竪穴住居跡は21棟。縄文時代のものも3棟あり、そのうち1棟には貝が残っていた。時期が不明の竪穴住居跡も4棟あった。弥生土器や縄文土器も出土し、近世の上水木樋(もくひ)や井戸、地下室なども確認された。 調査は2024年3月まで行われる。調査対象と
東京都千代田区の旧英国大使館の敷地から弥生時代の集落が発見された。しかし、遺跡は近く埋め戻され、報道発表や現地説明会も行われない予定だ。背景には、地価が著しく高い千代田区ならではの事情がある。 出土した弥生時代の集落跡の写真はこちらです。 【関連記事】 英大使館跡地から弥生時代の集落 説明会開かずマンション建設へ 遺跡の保存は地権者次第 百貨店が建った長屋王邸跡は「痛恨の極み」 皇居に面した好立地 遺跡の上に建つのは富裕層向け「超・億ション」 10月24日、遺跡が見つかった旧英国大使館の敷地で千代田区教育委員に対する説明会が開かれた。現地を視察した教育委員からは「このまま埋めてしまうのは惜しい。せめて子供たちに見てもらうべきだ」などの意見が出たという。 遺跡の取り扱いは地権者や開発業者の判断に委ねられているのが現状だ。 日本では財産権が重視されており、遺跡が発見された場合、遺跡をそのまま残
奈良女子大と大阪市立自然史博物館の研究チームは11日、邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、古墳時代前期(3世紀後半)の土層から、チャバネゴキブリの体の一部を検出したと発表した。チャバネゴキブリの発見例としては世界最古となる可能性があるという。世界各地に生息するゴキブリの起源を探る手がかりになりそうだ。 纒向遺跡は奈良盆地東南部に広がる3~4世紀の大規模集落遺跡で、女王・卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳など初期の前方後円墳が点在。過去の発掘調査では計画的に配置された大型建物跡が見つかり、卑弥呼の宮殿の可能性が指摘されているほか、周辺からはイノシシやタイ、サバの骨、桃の種など供物とみられる大量の食物の痕跡が確認された。
1300余年前、百済の王と臣下たちが会って挨拶し、国家儀礼を行った宮殿の朝会堂(朝堂)と推定される遺跡が出てきた。これまで実体が知られていなかった7世紀の古代日本の難波宮の原型とみられるという推定も出ており、注目を集めている。 国立扶余文化財研究所は、忠清南道扶余郡(プヨグン)の官北里(クァンブンニ)96番地の遺跡群から古代王宮の朝堂と推定される長さ60メートルを超える大きな建物跡を発見したと発表した。官北里遺跡は6~7世紀の百済王朝の泗ビ(サビ。現在の忠清南道扶余)都邑(首都)時代の最も有力な百済王宮跡とみなされてきた。1978年、商業施設建設のための基礎工事過程で百済時代の排水路と推定される遺構が確認されたことを契機に、1982年から15回の発掘調査を経て、いくつかの建物跡と道路跡などが調査されてきた。 上から見下ろした調査地域全景。1号建物跡と示された細長い建物跡が百済時代の王宮の朝
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