那覇市にある「世界遺産」の首里城跡に復元された首里城で起きた大規模な火災では、「正殿」など主要な建物が全焼し、琉球王国時代から伝わる貴重な収蔵品の多くが焼けたものとみられています。警察などは、あす(1日)午前から現場で検証を行うなどして詳しい出火原因を調べることにしています。 31日未明から那覇市にある首里城で11時間にわたって続いた大規模な火災では、城の主要な建物の「正殿」や「北殿」、それに「南殿」などが全焼しました。
田村淳さんが文化放送の番組で「松本城のお堀の水が汚い」と発言したことを受けて、城塞考古学者の千田嘉博先生が反論したお話 千田嘉博_城郭考古学 @yoshi_nara 田村淳さん、誤解しています。湧水を水源にした松本城の水堀は透明度が高く、堀底の土が見えているのです。汚くありません。さらに石垣の基礎に胴木を用いた松本城の堀の水を安易に抜いてはいけません。「田村淳、松本城のお堀が汚すぎて『池の水ぜんぶ抜く』に企画を提案」 jtame.jp/jtame/119382/ 2023-11-26 10:09:36 田村淳 @atsushiTSK はじめまして田村淳と申します。 考古学者の千田さんからSNSを通じて名指しでのご教授痛み入ります。石垣の基礎に胴木を用いてる為、お堀の水をなかなか抜くことが難しいと…大変勉強になりました。ありがとうございます。そしてお堀の水は湧水を使用してるから綺麗であると…
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
なぜ現存する天守は12しかないのか。歴史評論家の香原斗志さんは「大きな要因は明治政府が出した廃城令にある。彼らに文化や歴史的景観を守るという発想はまったくなかった」という――。 なぜ日本の城は無配慮に破壊されたのか 仕事柄、ヨーロッパに行くことが多いが、帰国後に日本の城を訪れると、いつも残念な気持ちになる。ヨーロッパの旧市街や城は保存状態がいい場合が多いのにくらべ、日本の城がいかに破壊されてしまっているか、あらためて気づかされるからである。 たとえば、世界遺産の姫路城(兵庫県姫路市)にしても、内郭を取り巻いていた中堀は南側が埋め立てられ、外堀も南部は埋められたうえ、一部残る場所も土塁は崩されている。建造物は、内郭を除けばまったく残っておらず、内郭にしても、たとえば広大な三の丸に建ち並んでいた御殿群は、明治初期にすべて取り壊されている。 姫路城でこうなのだから、残りは酷いものである。天守が現
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
焼夷弾で焼き尽くされた「国宝」 江戸時代に存在していた天守の多くは1873(明治6)年、城を封建時代の遺物と断じた明治政府がいわゆる「廃城令」を出したのち、取り壊されるなどして姿を消した。それでも1945(昭和20)年を迎えるまでは、全国に20の天守が残っていた。 しかし、城は軍の駐屯地であったりして、米軍の空襲の標的になりやすかった。直接の標的にはならなくても、米軍は密集する市街地に焼夷弾攻撃を繰り返したので、火はあっという間に城にまで燃え広がった。 焼夷弾とは、火のついた油脂をまき散らして、あたり一面を焼き尽くすもので、米軍はこれを人口密度が高く木造家屋が密集する市街地に落とした。飛び出した油脂は90メートルも飛んだので、あっという間に火の海に囲まれてしまった。 まず5月14日に名古屋城天守が焼け落ちた。有名な金の鯱を避難させようとして組んであった足場に焼夷弾が引っかかり、そこから火が
大阪で開かれた主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)の28日の夕食会で、議長を務める安倍晋三首相が、大阪城にエレベーターを付けたのを「大きなミス」と発言したことに、波紋が広がっている。来年の東京五輪・パラリンピックを控える中で、バリアフリーの意識の欠如を憂慮する声が出ている。 「明治維新の混乱で大阪城の大半は焼失したが、天守閣は今から約90年前に16世紀のものが忠実に復元されました」。安倍首相は夕食会のあいさつの冒頭、会場近くの大阪城の歴史に触れ、こう続けた。「しかし一つだけ、大きなミスを犯してしまいました。エレベーターまでつけてしまいました」 発言の意図は不明だが、SNSでは発言への疑問の声が相次いだ。作家の乙武洋匡さんは「朝から、とっても悲しい気持ちになる」。ライターの武田砂鉄さんも「この人には、バリアフリー、共生社会といった考え・姿勢がマジで無いのかもしれない」と記した。「この
街を歩いて相手をへぇへぇ言わせる、『ストへぇ』という動画シリーズを撮っている。舞台が東急沿線なので歴史の話題になると世田谷の土地を治めていた吉良氏の名前が出てくる。 一度この吉良氏を専門にする人を呼んで一緒に歩いてみたい…吉良氏の研究で検索してメールを出してみたところOKが出た。 今回は日本中世史が専門の研究者、谷口雄太さんと上町の近くに住むデイリーポータルZライターのべつやくれいさんと歩く。本気の日本史研究者と街を歩くとどれだけへぇへぇ言わされるのだろうか? ※元となった動画はこの記事の最後に。記事で大事なところを紹介するのでネタバレしたくない方は先に見てください。 左から審判の林雄司さん、日本中世史の研究者谷口雄太さん、上町の近くに住むべつやくれいさん。谷口さんは大学講師としてもご活躍中の本気の方 吉良家のお膝元上町駅を歩く 東急世田谷線上町駅からスタート。日本史の先生と歩く!とはいえ
「中世ヨーロッパの城のトイレがどこにあるか知ってる?」→こんな構造だったとは… 中世ヨーロッパのお城に憧れる人は多いですが、現代人が生活するとなると、特に衛生面が厳しいと言われています。 多くのお城に備わっているトイレの構造をご覧ください。 Toilets in a Medieval Castle : Reddit Toilets in a Medieval castle. pic.twitter.com/aG4NsCXC04— Ben Hattie (@Ben_Hattie) December 17, 2022 外壁に出っ張っりがあり、その下の穴から城壁の外に垂れ流し。中世ヨーロッパの多くの城に備え付けられているそうです。 クールなお城ですが、当時の外壁には近寄りたくないかも……。 現代とは大違いですが、これでも城の外に出すだけ衛生面では優秀だったとのこと。 こちらはイングランド、ダービ
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
先日、Yahoo!ニュースにこんな記事が掲載され、話題を集めていました。 「江戸城の防御力は世界最高レベル」 授業では習わなかった「お城のスゴいところ」を専門家に聞いてきた 配信はITmediaの軽めの話題を扱う『ねとらぼ』。自転車系ブロガーの著者が「大学院で考古学を学び、発掘調査をしていた経験を持つ元考古学者のSさん」に、江戸城についてインタビューしたという形で記述されています。ただ、専門家といいつつも、その素性や経歴は一切謎で、どういう専門家なのかも不明です。 そして、その内容に各方面から疑問の声が出ています。Twitter上でもっともシェアされた疑問は、志学社代表取締役・星海社フェローで、『戦国北条五代』『戦国大名武田氏の戦争と内政』『上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩』(いずれも星海社新書)などを手がけた、編集者の平林緑萌氏のツイートです。以下に引用してみましょう。 平林氏の言うよ
杉山城の馬出し曲輪/緻密な縄張りで「芸術品」にもたとえられる杉山城だが、実は誰がいつ築城したのか、諸説あって明らかになっていない謎の城だ。 一見、「天守や櫓がなく、土と山だけ」と思われがちな山城。しかし開発にさらされがちな平城等に比して保存状態が良く、ほぼ往時の姿をとどめている山城も多い。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』では、「戦国の山城の歩き方」を特集。3人の専門家に「オススメの山城」を推薦してもらった。今回の推薦者は、城郭考古学者で山城ファンの千田嘉博さん。選定のテーマは「絶対に城攻めしたくない山城」だ。 【千田さんが選ぶ「攻めたくない山城ベスト10」詳細と写真はこちら!】 * * * ――山城にもさまざまな楽しみ方があると思います。当時の武将の視点で、「絶対攻めたくない城」をご紹介ください。 城はとても美しく壮大で、鑑賞するのはとても楽しいです。しかしそもそも城は戦いのため
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
日本全国に三万以上もあるといわれる城。その大部分は中世に築かれた山城であり、険しい地形を利用して土を掘ったり盛ったりして造成されている。 それらの中でもシラス台地が広がる九州南部の中世城郭は一味違う。垂直に切られた空堀がまるで迷路のように入り組んでおり、他地域の城には見られない独特の迫力を醸しているのだ。 1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー) 前の記事:日焼けの色はぶなしめじ! > 個人サイト 閑古鳥旅行社 Twitter 空掘を巡らせて敵を阻む土の城 一般的に城というと堅牢な石垣や荘厳な天守がそびえる姿を思い浮かべるかもし
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
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日本には実に数多くの城が存在する。それら多種多様な城の中でも、特にユニークなのが「能島(のしま)城」だ。 瀬戸内海中央西寄りの芸予諸島に浮かぶ小島を丸ごと利用した海城であり、日本城郭協会の「続日本100名城」(以下、続100名城)にも選ばれている。 2018年の西日本豪雨で被害を受けたことから長らく立入禁止となっていたものの、幸いにも2020年の6月に解除されたので、上陸ツアーに参加してきた。 1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー) 前の記事:神奈川県央部の“サバ神社”を巡る「七サバ参り」で健康祈願! > 個人サイト 閑古鳥旅
1984年大阪生まれ。2011~2019年までベトナムでダチョウに乗ったりドリアンを装備してました。今は沖永良部島という島にひきこもってます。(動画インタビュー) 前の記事:俺が決めたぜ"世界三大鶏飯"を > 個人サイト AbebeTV おきのえらぶ島移住録 べとまる 大阪城が"巨石の聖地"になったワケ 最初に歴史的な背景をざっくり説明。 有名巨石(後述)の前で写真を撮る外国人観光客 時は1620年、関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家は、西へ追いやった豊臣方の外様大名たちにある命令を下した。「豊臣がつくった大阪城完全にぶっ壊してもっかい城築くからジャンジャカ石持ってきてね」。首の皮一枚状態の彼らにとってそれを断る選択肢もなければ、むしろ今ここで忠誠を示さないとヤバイ!お家が潰される。 瀬戸内海沿いは石の産地でもあり、また船による運搬に向いていた。 西の大名たちの財力を削る目的ともされた天下普
1984年大阪生まれ。2011~2019年までベトナムでダチョウに乗ったりドリアンを装備してました。今は沖永良部島という島にひきこもってます。(動画インタビュー) 前の記事:似て非なる海外版マックスコーヒー > 個人サイト AbebeTV おきのえらぶ島移住録 べとまる 大阪城は西日本「石」大会会場 きっかけは一年前に行った大阪城の石垣の取材。 「大阪城は400年前の全国巨石石見本市」より 石垣オブ石垣、大阪城内上位11位の巨石を紹介した。 大阪城の石垣が、デカすぎてすごかったのだ。記事公開後に韓国人の友人に聞いた話で、お父さんと大阪観光してるとき石垣にえらく反応していたらしい。お仕事は土木建築関係。プロの目から見て「400年も前にこんな巨石を積み上げて」というところに驚いた、とのこと。 大阪城=豊臣秀吉のイメージが強いかもしれないが、いや大阪人じゃなければ意外とそれも知られてないかもしれ
お城といえば、壮麗な天守閣やかっこいい櫓といった建物ばかり注目してしまいがちだが、その建物を支える石垣に注目して見るとどうだろうか? しかし、わたしたち素人がなんの予備知識もなくふらっと石垣を見に行ったとしても、なにがなにやらわからないことは必定。そこで、石垣に詳しい人と一緒に江戸城に行ってみたい。 江戸城とは? 江戸城は、現在、天皇の住まいとなっているため、皇居とも呼ばれるが、江戸時代までは徳川家の居城であり、江戸幕府の本拠地だった。 ふつう、テレビなどのメディアで紹介されるばあい、皇居前広場から伏見櫓をのぞむ下の写真のような風景をさして「江戸城(皇居)二重橋前」とされることが多い。 江戸城(皇居)のイメージ、これですよね しかし、上の写真にうつっている手前の橋は、厳密にいうと『二重橋』ではない。ただしくは『正門石橋』と呼ばれる橋であり、真の『二重橋』はこの位置からだと正門石橋の奥に隠れ
名古屋城の木造復元事業を巡り、名古屋市は7日の市議会2月定例会の本会議で、バリアフリー対策の一環で検討している小型昇降機の設置について、石垣レベルから天守閣(5階建て)の1階部分まで導入する方針を示した。市は2022年度末までに取りまとめる整備基本計画に今回の方針を盛り込み、23年度の早い時期に文化庁に提出する。 渡辺義郎市議(自民)の質問に市側が明らかにした。天守閣の1階までは、公募で選定した小型の垂直昇降機(4人乗り)の技術を採用する。松雄俊憲副市長は、史実に忠実な木造復元に最大限配慮する意向を示し、「1階への昇降は確保したい」と説明。その上で「どうしたらより上層階へのバリアフリー対応が可能か、今後の昇降技術開発の動向を踏まえて、引き続きしっかりと検討していく」と述べた。 一方、障害者団体や日弁連などは大型エレベーターを最上階まで設置することを求めている。市によると、エレベーターのスペ
「日本100名城」というものが存在する。全国に数多く存在する城のうち、2006年に財団法人日本城郭協会が定めた100の名城だ。 各城にはスタンプが置かれており、スタンプラリーが可能である。私は2008年から10年かけて全てを周り、その道のりを記事にした。→「日本100名城を全制覇したので自慢させてください」 コンプリート間際の2017年、日本100名城に続く「続日本100名城」なるものが定められた。それに伴い新たなスタンプラリーが開始されたのだが、正直言って私はあまり乗り気ではなかった。 しかし、最近になってついに続100名城にも手を出すことになったのだが、そうしたら私の中で新たな城の扉が開かれたのだ。 1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30
* 第1章 城下は本当に迷路か? * 第2章 概要、用語の定義、調査手順の説明 (イマココ) (2)https://note.com/mitimasu/n/nc0c3134c67b5 * 第3章 地図調査――浮かび上がる、言うほど迷路じゃない城下町 * 3.1. 地図の出典 * 3.2. 交差点種別の定義について (3)https://note.com/mitimasu/n/n1b9c8ce647d2 * 3.3. 第一印象 * 3.4. 地点別調査結果 * 3.4.1. 東北編 (4)https://note.com/mitimasu/n/n67a97a0d2417 * 3.4.2. 関東編 (5)https://note.com/mitimasu/n/nd83e639adcd0 * 3.4.3. 中部編 (6)https://note.com/mitimasu/n/nae0f
ポカポカ陽気の明るい陽射しに誘われて PENTAX片手に訪れたのは早春の姫路城。 この日は朝から夜まで たっぷり時間をかけて姫路城の撮影を楽しんでみた。 JR姫路駅を出ると 50m道路の先に見える姫路城。 もうこのときからワクワクが始まっているのだ。 お堀をはさんで動物園の赤い橋の向こうに望む姫路城。 ここはお気に入りの撮影ポイント。とくに桜の季節にはホント!最高の絵が撮れる。 三の丸広場から望む姫路城。 ここで撮影できるのは真正面から見たお城。 少し斜め…西側の角度から。 こちらは東側からのお城。 そして北側に回って城山公園から見えるお城の姿。 どこ角度から見上げても、本当に美しいお城だなぁと思う。 お堀端を歩くのも楽しい。 姫路城のお堀の総延長は、おおよそ13kmにもなるそうだ。 お城といえばこの石垣。 いろんな積み方があるらしいけれど この曲線の美しさにはいつも魅せられてしまう。 青
姫路城で過ごした一日の終わりは いよいよ夜のお城の撮影。 日没。 闇が迫る夜空に浮かび上がる姫路城。 真っ白に浮かび上がるその姿に どこか妖艶な雰囲気さえも感じてしまう。 午前中の撮影と同じ三の丸広場にて。 お昼間と同じ構図で撮っているのに、お城のイメージはそれとは全く別のもの。 午前中に撮影したお城。 ほぼ同じ構図で撮影した夜のお城。 ライトアップ効果もあるけれど 同じ建物でもかなりイメージが違ってくるのが面白いなぁ。 朝から夜までたっぷり楽しめたこの日の撮影旅行。 撮影の相棒はK-3ⅡとSIGMA17-50mmズーム。 ちょっと重たい組み合わせだけど 夜の撮影にはこの大口径の明るいレンズが強い味方に。 今年は姫路城の桜を撮りに行くことができたらいいなぁ。 コロナがどうぞおさまっていますように…。
(CNN) 愛媛県大洲(おおず)市の大洲城に新ホテルがオープンし、観光客にかつてない体験を提供している。本物の天守で大名さながらの生活を味わえるという趣向だ。 観光客が宿泊できる天守は日本初にして唯一。日本に残る数少ない木造建築の城のひとつでもある。 大洲城をホテルに生まれ変わらせたこと自体、大変な偉業だが、実はこれは大きな構想の一部に過ぎない。目標は縮小しつつある地方都市を再生させることにある。 小京都 大洲は「伊予の小京都」とも呼ばれ、風光明媚な肱(ひじ)川や歴史的建造物、そして4階建ての優美な大洲城で知られる。 江戸時代に政治的な拠点となった後、明治・大正時代には蝋(ろう)や絹の生産および交易で栄えた。 しかし、日本にある他の多くの地方都市と同様、ここ数十年は斜陽が著しい。 1950年代以降、大洲は大幅な人口減に見舞われ、1955年に7万9000人を数えた住民は2020年には約4万2
JRA京都競馬場淀寮の増築工事に伴い、京都市埋蔵文化研究所が調査したところ、淀城跡の家老屋敷が発掘された。18世紀後半に水害対策としてかさ上げ工事が行われていた事実や、1868年の鳥羽伏見の戦いでの火災跡も確認された。当時の防災のあり方や、鳥羽伏見の戦いの状況を知ることができる非常に貴重な史料だ。 見つかったのは、18世紀中頃から後半に、地下1メートル40センチのところで使われた家老屋敷の跡。その後、同じ場所の70センチ高いところに再び屋敷を建てており、軟弱地盤に対応するために生まれた石柱を立てる蝋燭(ろうそく)基礎という工法でかさ上げ工事を行われていた事実も確認された。 今回検出された工法は、当時、関西にはなく、江戸周辺や下総国に多くみられたもの。江戸時代中期に稲葉家が淀藩の藩主となる前、下総国佐倉藩の藩主であったことが関係していると考えられている。淀城は桂川、宇治川、木津川の合流点に接
愛知県の国宝 犬山城の天守は、秀吉と家康が争った小牧長久手の戦いの直後に建てられたとみられ、これまで考えられていたより50年ほど新しいものの、現存する最も古い天守であることが裏付けられたことが名古屋工業大学大学院などが行った建築材の調査で分かりました。 愛知県犬山市にある犬山城の天守は、昭和36年から行われた大規模な修理に伴う調査の結果、2階までの下層階は1537年ごろに織田信長の叔父の信康が建築し、3、4階はそのおよそ60年後に増築されたという説が有力でした。 犬山市の依頼を受けた名古屋工業大学大学院の麓和善教授らが、おととしから初めて年輪年代法という手法で分析したところ、柱やはり、床板など天守の主な建築材は、いずれも西暦1585年からの3年間に伐採されていて、1階から4階まで一気に建設されたとみられることが分かったということです。 この時期は、豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦い
老舗模型メーカーの童友社が、「接着剤不要」「塗装済み」のプラモデルに積極的だ。彩色済みキットとしては「東京スカイツリー」「東京タワー」を発売していたが、それらの製品よりパーツ数を抑え、1,980円という低価格で買いやすくした「かんたんプラモデル」シリーズをリリース。 そして、6月に発売となった「かんたんプラモデル 大阪城」は、このシリーズのために金型を新規に起こした、意欲的な製品だ。童友社といえば、何十年も前からお城のプラモデルで知られている。いわば、得意ジャンルで「接着剤不要」「塗装済み」プラモデルを開発したわけだが、その裏にはどんな経緯があったのだろう? 童友社・代表取締役社長の内田宗宏さんに、お話をうかがった。 お城のプラモデルは、結局、誰が買っているのか!? ── 童友社さんは昔から、お城のプラモデル(日本の名城シリーズ)をたくさん発売していますよね。 内田 弊社のプラモデルは、漫
日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は福井市の一乗谷朝倉氏遺跡です。戦国大名・朝倉氏の栄枯盛衰や戦国時代の城下町の姿を伝える、広大な国の特別史跡でもあります。 (トップ写真は朝倉氏5代の本拠地、一乗谷朝倉氏遺跡) 【動画】一乗谷朝倉氏遺跡を訪ねて 明智光秀が頼った朝倉義景 美濃を追われた明智光秀は、朝倉義景を頼って越前に逃れたとされている。称念寺(福井県坂井市)の門前で、10年ほど浪人として過ごしたようだ。朝倉氏が美濃守護の土岐氏と親しい間柄であったことから、土岐一族出身の光秀は朝倉義景を頼ることができたという。 光秀の前半生は謎が多く、越前での動きも定かではない。一説には、鉄砲の腕を買われて義景への仕官がかなったという。文献上で光秀の名が確認されるのは、1567〜68(永禄10
日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は東京都調布市の深大寺(じんだいじ)城です。「深大寺そば」で有名な地に、意外にも貴重なお城があったのです。 将軍家光が称賛とも伝わる、深大寺そば 江戸幕府の3代将軍・徳川家光が称賛したとも伝わる、深大寺そば。江戸時代中期に出版された地誌「続江戸砂子」には、江戸の名産として記載されている。古刹(こさつ)・深大寺の門前には現在、20ほどのそば店が軒を連ね、深大寺を訪れるレジャー客が立ち寄る名所となっている。 深大寺。門前にはそば店が並ぶ深大寺の門前がそば処となった理由のひとつは、湧水(ゆうすい)にある。この地域は、武蔵野台地の南縁が開析されてできた舌状台地の突端付近にある。台地の東側は、支谷内からの湧水で湿地になっていた。深大寺の南側にある神代(じ
現在の大阪城の地下に眠る豊臣秀吉が築いた当初の「大坂城」の詳しい構造が大阪市立大学のグループの最新の地下調査で明らかになりました。これまで絵図などでしか確認されていなかった築城当初の大坂城の姿が大規模に確認されたのは初めてです。 豊臣秀吉によって築城された当初の大坂城は大坂の陣に勝利した徳川幕府によって埋め立てられ、現在の大阪城はその上に築かれています。 しかし、大阪城一帯は国の特別史跡に指定されているため、発掘調査が難しく、当時の詳しい構造は図面や絵図で確認するしかありませんでした。 このためグループでは細い金属の棒を地中に差し込んで、その際の抵抗から地中の構造を推定する調査方法を使い、4年間かけて大阪城本丸のおよそ300地点を調べました。 その結果、天守がある本丸の3段構造の石垣の一部や、生活の場だった奥御殿と公務を行う表御殿をつなぐ橋とみられる跡などが確認できたということです。 こう
香川元太郎が描いた歴史考証イラスト(城など)を、簡単な解説を添えてご紹介します。 イラストのナンバーは元太郎が保管する原画の整理番号です。 イラストについてのご質問は、番号と合わせてMAILでお問い合わせください。 2000番以降のイラストは、団体または個人が原画を所有しているものです。 管理人 さちたろう 地域別索引 索引 お知らせ 著書のご紹介 お問い合わせ
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