この項では、「師団」を中心として日本陸軍の部隊編制の概略と、部隊にはどのようなものがあったのか、また軍隊では欠かせない階級を見ていきます。 戦時と平時で異なる編制 戦時には「総軍」「方面軍」「軍」などが設置されましたが、平時から常備されていた部隊編制の最大の単位として、「師団」(しだん)がありました。 1915年頃の第8師団司令部(青森県弘前市)(出典:青森県編『青森写真帖』/撮影:1915年) 部隊編制は時代と共に変わっていったので、本項では主に日中戦争~太平洋戦争の頃の部隊編制について言及します。 師団とは 「師団」(しだん)は、平時では最大の戦略単位です。どんな戦況にも対応できるよう、様々な種類の部隊がその中に含まれています。 師団は師団長(中将)によって指揮されます。どの師団にもまったく同じ種類の部隊があったというわけではありませんが、どの師団も同じような編制になっていたのが歩兵部
朝鮮人殺しには甘く、警察への反抗には厳しかった検挙方針 「ご褒美」を求めて警察に出頭した加害者たち 冗談と笑いが飛び交う法廷 町村ぐるみの減刑運動、そして恩赦 朝鮮人殺しには甘く、警察への反抗には厳しかった検挙方針 震災からある程度の時間が経過し、朝鮮人による暴動というのが根も葉もない流言に過ぎなかったことが明白になると、何の罪もない朝鮮人たちを官民一体となって虐殺しまくったという事実に向き合わざるを得なくなる。こうした不都合な現実に直面したとき日本政府がやることは昔も今も変わらない。事実の歪曲と隠蔽である。 これだけの虐殺事件が起きた以上、法治国家のふりをするには加害者を裁判にかけて処罰せざるを得ない。しかし、やり過ぎると、官憲自身が流言を流して民衆を扇動したことや、軍隊や警察が自ら虐殺に手を染めたことを暴露されて政府が窮地に陥る結果にもなりかねない。 そこで、臨時震災救護事務局警備部司
二・二八事件(ににはちじけん, 台湾語白話字: Jī-jī-pat Sū-kiāⁿ)とは、1947年(民国36年)2月28日に台湾省台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、中華民国政府による長期的な白色テロ、すなわち民衆への弾圧・虐殺の引き金となった事件[1]。 1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。台湾人は多くの地域で一時実権を掌握したが、中華民国国民政府は中国本土から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。 背景[編集] 中国国民政府軍と官員を出迎える台湾の学生たち(1945年) 1945年に日本が敗戦した後の台湾では、カイロ宣言に基づき、連合国軍の委託を受けて
【せきぜんいん ひとくいじぞう】 かつて東山丸太町一帯は“聖護院の森”と呼ばれる大きな森であった。今ではその“聖護院”の名だけが残るだけで、森どころかまとまった雑木林すら周囲には見当たらない。この一角には、修験道の一大本拠地である聖護院門跡がある。そしてその広大な敷地の東端にあるのが、積善院準提堂である。 この境内の奥に、他の名もない地蔵と共に安置されているのが【人喰い地蔵】である。この地蔵であるが、もとよりこの積善院に安置されていたものではなく、聖護院の森の中に野ざらしの状態であり(場所は現在の京大病院の付近であると言われている)、明治になってから積善院に安置されて現在に至っている。 無病息災の効験があるとされており、「人喰い」の名前とは裏腹な非常に柔和な地蔵である。それもそのはずで、“人喰い地蔵”とは通り名であり、実際には正式な名前が付いているのである。 保元元年(1156年)に起きた
著者:速水 融出版社:藤原書店装丁:単行本(474ページ)発売日:2006-02-25 ISBN-10:4894345021 ISBN-13:978-4894345027 内容紹介: 関東大震災の5倍近くの死者をもたらしながら、「スペイン風邪」と称され、被害の実態も十分把握されないまま忘却された、90年前の史上最悪の「新型インフルエンザ」について、各種資料を駆使し、その詳細を明かす。 日本を襲ったスペイン風邪×月×日新型コロナ・ウイルスのパンデミックで思い出すのは横浜南郊で酒屋をやっていた祖父が一九一八年(大正七年)の秋にスペイン風邪に感染して死にかけたという我が家の言い伝えである。店番中に人事不省に陥り、数日間、生死の境をさ迷ったという。村全体で多数の死者が出たことは墓の没年を見れば一目瞭然だと古老が語っていたことを覚えている。 というわけで急にスペイン風邪が気になり書庫から故・速水融氏
天皇陛下の祖父、昭和天皇の実像に迫る第一級の資料です。NHKは初代宮内庁長官が5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を入手しました。その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対で、その一節が削られていたことがわかりました。分析にあたった専門家は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と話しています。 「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。 田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、昭和天皇との具体的なや
大町釈迦堂口遺跡 おおまちしゃかどうぐちいせき かつての大寺院跡か? 昔は北条時政邸跡といわれました。宅地造成等により貴重な史跡が失われることも多い鎌倉にあって、ほぼ自然に残っている貴重な遺跡です。 大町釈迦堂口遺跡にある切通し。永い年月と風雨が造った縞模様が見事です。 エリア大町・小町 住 所鎌倉市大町6丁目 アクセス衣張山登山道、山頂平場の石塔脇を入る 関連HPhttps://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/maibun13.pdf 北条時政山荘跡ではなかった 大町にある釈迦堂口切通し周辺には数多く鎌倉時代の遺跡があり、昔は北条時政山荘跡(名越邸跡)といわれました。鎌倉で育った筆者もそのように教えられていました。 しかし、鎌倉市教育委員会による「平成20年度大町釈迦堂口遺跡発掘調査」により新たな事実が判明し、平成22年3
新元号「令和(れいわ)」の由来となった万葉集の「梅花(ばいか)の宴」。奈良時代の天平2(730)年に高官らを自邸に招いて宴を開いた太宰府の帥(そち、長官)、大伴旅人(たびと)が詠んだ歌が気になる。 〈我が園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも〉 不思議なのは、満ち足りた正月の祝宴なのに季節外れの「落梅」が詠まれ、はかなさが漂っていることだ。 ■落梅は心情風景 万葉集は、梅花の宴で詠まれた「梅花の歌」32首をのせる。「令和」の元号はその序文に記された〈時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ…〉という満ち足りた情景から採られた。 宴が催されたのは「正月13日」。現在の暦だと2月初旬にあたる。梅の見頃を伝える「咲く梅」の歌が続くが、7番目の旅人の歌で唐突に「落梅」が詠まれる。 〈我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも〉 8番目の大監(太宰府役人)は、旅人
首里城の正門「歓会門」前に並ぶ明治政府軍の兵士。熊本県から派遣され「熊本鎮台兵」と呼ばれていた(日本カメラ博物館所蔵) 1879年に琉球王国が滅亡してから、27日で140年。松田道之琉球処分官が、熊本鎮台兵(日本軍)や武装警官ら約600人を連れて首里城へ入り、琉球国王・尚泰に廃藩置県の通達を突き付けた。日本政府の武力を背景にした琉球併合(琉球処分)で首里城は明け渡され、沖縄県が設置された。沖縄の自己決定権や米軍基地問題について発信している人々は「辺野古新基地建設に通じる」「日本の植民地主義は140年前から続いている」などと訴えている。 基地問題を独自の動画で全国に発信しているユーチューバーの多嘉山侑三さん(34)は「政府の都合で沖縄を利用し、人々をないがしろにしている点で現在の辺野古新基地建設と通じている」と指摘する。 国会で照屋寛徳衆院議員が併合以前の琉球の政治的地位を質問した際、政府が
世界史の常識が覆るかもしれない発見です。紀元前に鉄器を用いたとされるヒッタイト帝国の遺跡で日本の調査団が人工的に作られた鉄の塊を発見しました。 アナトリア考古学研究所・大村幸弘所長:「鉄というのは3200年前から3300年前にあるというのが一般的だった。それから1000年古い層から鉄が見つかりだしてきて、それが人工のものだというので、これは今までの歴史とは違うなというのが出てきた。そういう意味ですごく価値がある」 トルコ中部にある遺跡でおととし、日本の調査団が紀元前2200年から2300年の地層から世界でも最も古い部類に入る人工の鉄の塊を発掘しました。これまで定説では、紀元前1200年から1300年にこの地域で栄えたヒッタイト帝国が鉄の製造を始めて技術を独占し、周囲を征服したとされています。しかし、今回、見つかった鉄の塊はそれよりも約1000年前のもので、成分もこの地域の鉄鉱石とは違うこと
宮本武蔵《枯木鳴鵙図》江戸時代初期, 紙本墨画, 一幅, 125.5×54.3cm, 重要文化財, 和泉市久保惣記念美術館蔵 無許可転載・転用を禁止 剣豪の水墨画 細い枯れ枝の先端に一羽の野鳥が止まっている水墨画がある。小さいながらも鋭いカギ状の嘴(くちばし)をもち、捕食を狙う集中した視線が張り詰めた気魄を感じさせる。権力を誇示するような鷲や鷹などの大きな猛禽ではなく、鵙(もず)、そして枝振りの立派な松ではなく枯れ木。しかし、余白の広い画面にわびしさはなく、緊張感の漂う小宇宙が掛軸となっている。作者は絵師ではない。二刀流の剣客で武道書『五輪書(ごりんのしょ)』を記したあの宮本武蔵である。 武士の余技では納まらない、剣の達人の研ぎ澄まされた水墨画が《枯木鳴鵙図》(こぼくめいげきず)(和泉市久保惣記念美術館蔵)なのだ。「一芸に秀でる者は多芸に通ず」と言われるが、武蔵にとって水墨画はどのような意
思ひつくまま書き記す 磯城島の大和の國は言靈の 助くる國そ眞幸くありこそ(柿本人麻呂) 日々の自分の心の動きや考へてゐることを書き著してゆきます。 そのコトバの數々が人の心に届けばとても嬉しいと思つてゐます。 時には、自分の書き貯めて居た著作物も載せたいと思ひます。 本稿は8月13日の續きです。 http://ameblo.jp/kotodama-1606/entry-11591633099.html 愛國百人一首教則本 編著 小 林 隆 【參考文獻】 ・『愛國百人一首評釋』 川田 順著・朝日新聞社刊 ・「愛國百人一首通釋」 坂口利夫著・五車書房刊 ・日本古典文学大系『萬葉集』第一巻~第四巻 岩波書店 ・『萬葉集評釋』 山路光顯著 ・『人麿と其歌』 樋口功著 ・『柿本人麻呂』 武田祐吉著 ・『萬葉集古義』 鹿持雅澄著 ・『吉野朝悲歌
<ユダヤ問題特集 第1章> はじめに (最初に読んでね) ●「ユダヤ問題」という言葉を耳にして、皆さんは真っ先に何をイメージするでしょうか? 「ゴルゴタの丘」でしょうか? 「ヴェニスの商人」でしょうか? 「アウシュヴィッツ」でしょうか? 「パレスチナ紛争」でしょうか? ●いずれにせよ多くの方が「ユダヤ問題」を口にすることも考えることも、忌み嫌っているような気がします。ユダヤ問題は、あたかも触れるとヤケドするかのような様相を帯びているかのように受け止められているようです。そのため、ユダヤ問題を考えるとき、議論が当たり触りのない常識論派と、極端な感情論派(陰謀主義系)に二極化される傾向にあるといえます。 ●常にニュースに流れる中東問題は、ユダヤ問題の根幹を探っていかないと、正しく理解できないと思います。単なる民族争いだと思ってしまっては、賢明な解決策を打ち出せないでしょう。ユダヤ問題の根幹には
一体、「南京」で何があったのか。 本来は笠原氏なり秦氏なりの新書を一冊読めば大体のところはわかるのですが、ネットではその手間すらかけずに、ネット情報のみでいい加減な発言をしている方を見かけることが珍しくありません。 例えば、よく見かける「南京大虐殺はなかった」という表現にしても、発言者はどこまで意味をわかって発言しているのか。 「中国側のいう30万人規模の大虐殺はなかった」ということでしたら、この点は日本側研究者のほぼ合意ですので、理解できないことはありません。しかし「南京における(少なくとも数万の)大規模な虐殺」の存在まで否定してしまうというのは、ちょっと無理な議論でしょう。 *掲示板では「なかった派」という奇妙な自称を行う方を多くみかけます。そしてそのような自称を行う方は、一体何が「なかった」と言いたいのか、自分でもはっきりとわかっていないことが多いようです。「大規模な虐殺」の存在さえ
はじめに 2018年11月30日。コンビニエンスストア・サークルKサンクスが全店舗を閉店しました。一時は6000店を超えた大チェーンが、完全にファミリーマートへと姿を変えることとになったのです。 サンクス新座駅南店。15時で完全閉店となった コンビニはさまざまなチェーン店が乱立した後、大手3社へ急速に統合されていっています。現在のコンビニ店舗数のランキングを見ても、大手3社が圧倒的です。 3位と4位との差が衝撃(「まいばすけっと」は小型スーパー) 思えば子どものころはもっといろいろなコンビニたちがありました。ちょっと遠出をすれば、見たこともないようなローカルコンビニがいっぱい。 あの懐かしのコンビニたちは、どのようにしてなくなっていってしまったのでしょうか。大手3社に吸収されたチェーン店を中心に、コンビニ統廃合の歴史をたどっていきましょう。 主なものだけでも、これほどのコンビニが統廃合され
兵庫県の内陸部にある篠山市に、江戸時代にこつぜんと地図から姿を消した村がある。近隣住民は今も村民の墓を大切に守り、毎年、秋分の日に手厚くまつっているが、墓参りのおこりは、「祟りを恐れて」のことだった。消え去った村「夙(しゅく)」に迫る。 夙村があったのは、現在の味間南(約160戸)の中。村のあった場所は、現在、植林されたスギやヒノキが林立する森になっているが、その山中には屋敷跡とみられる台地が点在し、1カ所に集められた墓石や石仏など約30基が鎮座している。 夙村の研究をしている住職、酒井勝彦さん(74)=同市古市=によると、1687年(貞享4)の日付がある「篠山領地誌」に夙の記述が登場する。大辞泉によると、夙とは、「江戸時代、畿内多く居住し、賤民(せんみん)視された人々」とある。 「夙村の人々は、通婚の差別は受けていたようだが、疎外されていたわけではなく、味間南とはゆるやかな交流があった」
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く