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中東情勢
basho100.hatenablog.jp
あきふかきとなりはなにをするひとぞ 元禄7年(1694)9月28日の作。大坂を訪れていた芭蕉は、翌29日に催される芝柏亭の句会に招かれていたため、前日に詠んだ掲句を予め送っていた。しかし、当日、芭蕉は体調不良のために欠席している。おそらく前日から何らかの症候があったのだろう。そして、そのまま病の床に就いた芭蕉は再び起き上がることはなかった。 深まり行く秋のなかで、深閑とした隣家に思いを馳せるが、その消息は分からない。別に詮索しているわけではなく、隣人も自分と同じように隠棲しているのだろうかと、むしろ、共感の思いを深めているのである。やはり、俳諧の道は孤独とは言っても、発句は、他者への挨拶であり思い遣りを第一義とすべきものである。病に臥せる身でありながら、そうした俳諧精神を忘れない芭蕉の心根がしみじみと伝わってくる。 季語 : 秋深し(秋) 出典 : 『笈日記』 Autumn deepens
このみちやゆくひとなしにあきのくれ 元禄7年(1694)9月の作か。同年9月23日付の「意專・土芳宛」書簡には、「秋暮」と前書きして「この道を行く人なしに秋の暮」とあり、これでは単なる蕭条とした秋の夕景の描写に留まる嫌いがある。 しかし、『笈日記』によれば、9月26日、大坂にて上五が「此の道や」、前書も「所思」と改められている。そして、芭蕉は、各務支考に対して、掲句とともに「人声や此の道かへる秋の暮」を提示し、その優劣を問うたところ、支考が「此の道や行く人なしに独歩したる所誰か其後に随ひ候はん」と応えて、芭蕉もこれを諒としたという。つまり、芭蕉が晩年に志向した「軽み」の至境に門人らがついてくるのが難しいことを憂えていたことを支考は察していたのかもしれない。いずれにしても「切れ」によって豊かな詩想がもたらされることになる。 もっとも、芭蕉の心底には、寒山の『寒山詩』における「寒巖深更好、無人
ひやひやとかべをふまへてひるねかな 元禄7年(1694)の作。『芭蕉翁行状記』には「粟津の庵に立ちよりしばらくやすらひ給ひ、残暑の心を」と詞書きがある。『笈日記』では、芭蕉が各務支考に「この句はどう解釈するかね」と尋ねると「残暑の句と思います。きっと蚊帳の釣手などに手を絡ませながら、物思いに耽っている人の様子でしょう」と応えている。すると芭蕉は「この謎は支考に解かれたな」と笑ったと記されている。 おそらく、寝そべったまま足を壁に凭せかけた芭蕉が足裏に冷ややかさを感じたのである。壁はおそらく土壁だったのであろう。元禄時代までは「昼寝」は夏の季題とはされていなかったので、その触感はまさに秋の訪れを感じさせる「秋冷」だったのである。もっとも、まだ残暑の候であるから、心地よい冷ややかさだったのであろう。童心に帰ったような芭蕉の無邪気さが感じられ、ここにも「軽み」の詩境が感じられる。 季語 : ひや
むぎのほをたよりにつかむわかれかな 元禄7年(1694)5月の作。前書に「五月十一日武府ヲ出て故郷に趣ク。川崎迄人々送りけるに」とある。それに先立つ5月初旬、芭蕉の送別会が催された。その際に芭蕉は「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。其所に至りて意味あり」と述べて、門人らに「軽み」を説いている。この旅にて芭蕉が客死したことを思えば、結果的に蕉風俳諧の至境を遺言としたとも言える。 5月11日、江戸を発つにあたり、見送りの門人らに掲句を残して別れを惜しんだ。離別の悲しみに加えて、体力的に衰えもあり、麦の穂を掴んでやっと身体を支えているといった哀れさが伝わってくる。また、麦からは「青人草」が連想され、俳諧の寄方はあくまでも庶民性にあることが暗示されているような気がする。 季語 : 麦の穂(夏) 出典 : 『赤冊子草稿』 An ear of wheat grasping i
ほうらいにきかばやいせのはつだより 元禄7年(1694)正月、江戸・芭蕉庵での作。蓬莱とは、新年の飾り物で、三方の上に紙、歯朶 、昆布、 楪はを敷き、その上に米、橙 、熨斗鮑、蓬莱、橘 、 勝栗、 野老、穂俵、海老など、山海の幸が盛られた。中国の伝説における「蓬莱」は、東方海上にある、不老不死の三神山(蓬莱、方丈、瀛州)の一つに由来し、新年を縁起物とされた。ちなみに、のちに瀛州が日本と見なされたり、あるいは、日本国内にも仙境とおぼしき各地に蓬莱伝説が残っている。伊勢もまた山海の幸に恵まれた土地柄であり、天照大御神が鎮座する神域として不朽であり、まさに「蓬莱」と言っても良いかもしれない。 掲句は、江戸にありながら、蓬莱に伊勢の神々しさを思い浮かべて、そこからの初便を聞きたいものだと願ったもの。ちなみに俳諧の祖とされる荒木田守武は伊勢神宮の祠官であり、「元日や神代のことも思はるゝ」と詠んでおり
あさがほやひるはぢやうおろすもんのかき 元禄6年(1693)の作。芭蕉は7月の盆以降、およそ1ヵ月の間、芭蕉庵の門を閉じて世俗との交わりを断った。この頃の心境については「閉関の説」に詳しい。要はそこに書かれた「老若をわすれて閑にならむこそ、老の楽とは云べけれ。」という一文にある。ちょうど、この年、芭蕉は50歳となり、当時では老境の域に入った頃ということになる。孔子によれば「五十にして天命を知る」ということになるが、すでに生涯の大事であった「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉にとって天命は果たされたという思いもあったのであろう。 掲句には、朝顔が凋む昼には門を閉ざして錠を下ろし、庵に籠もって閑寂を好む生活が詠まれている。今で言えばまさに自主的ロックダウンである。もちろん、老懶の影響もあると思うが、これまで蕉風俳諧の確立のために旅から旅の漂泊の人生を重ねたことによる疲労の蓄積、あるいは「軽み」への
たかみづにほしもたびねやいはのうへ 元禄6年(1693)7月7日夜の作。『芭蕉庵小文庫』には、「吊初秋七日雨星」と題した次のような前文が記されている。 元禄六、文月七日の夜、風雲天にみち、白浪銀河の岸をひたして、烏鵲も橋杭をながし、一葉梶をふきをるけしき、二星も屋形をうしなふべし。今宵なほ只に過さむも残りおほしと、一燈かゝげ添る折ふし、遍照・小町が哥を吟ずる人あり。是によつて此二首を探て、雨星の心をなぐさめむとす つまり、七夕の夜は、あいにくの雨天で庵の側を流れる隅田川と小名木川の水嵩も増しており、当然、星も見えないが、あえて芭蕉は杉山杉風らと星祭りを行ったのである。その際、ある寺に泊まることになった小野小町が、そこに昔の恋人である僧正遍照がいることを知り、「岩の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣を我にかさなむ」と詠む。それに対して、遍照は「世を背く苔の衣は唯一重貸さねば疎しいざ二人寝む」(『
ほととぎすこゑよこたふやみづのうへ 元禄6年(1693)4月の作。水辺におけるホトトギスの題詠による句。蘇軾『前赤壁賦』の「白露横江、水光接天」という詩句が念頭にあったことや、同じく芭蕉詠の「一声の江に横ふやほとゝぎす」よりも水間沾徳や山口素堂らが掲句を良しとしたことなどが、四月廿九日付「宮崎荊口宛書簡」に記されている。 江に横たわる白露(霧あるいは靄)よりも、ホトトギスの声が横切る方がダイナミックな感興に優れ、また、「江」よりも「水の上」とした方がスケールの大きな場景となることが、掲句に落ち着いた要因であろう。もっとも、中国における「江」には、例えば、長江のように大河の趣があり、私個人としては空間的な効果の優劣はつけがたいのではないかと思う。 ただ、掲句では、眼には見えないホトトギスの声が水上を横切ると捉えることで、それがアクセントとなって、むしろ初夏の茫洋にして長閑な水郷の雰囲気をよく
めいげつやかどにさしくるしほがしら 元禄5年(1692)8月15日の作。江戸深川・芭蕉庵で月見を催した際の句。同年5月から、芭蕉は旧庵の近くに新築された芭蕉庵で過ごし、そこで仲秋の名月を眺めた。旧庵と同じく、新庵も隅田川に小名木川が合流する北の角地にあり江戸湾にも近い。ちょうど仲秋の頃は大潮で海面が高くなっており、川へ面した芭蕉庵の門へも波が打ち寄せるほどであったのだろう。しかも、水面に映る名月の光が帯のように波に揺られながら庵の門口まで迫ってくる。その光の帯は名月と芭蕉庵を結ぶ一本の道のようでもあり、あたかも、波を越えて月からの使者がやって来るような幻想的な光景が想像される。まさに「天人合一」を思わせる詩境である。 季語 : 名月(秋) 出典 : 『名月集』 The harvest moon — crests of waves are just coming closer to the
うぐひすやもちにふんするえんのさき 元禄5年(1692)正月頃の作か。鴬と言えば、古来、春告鳥とも呼ばれ、めでたく雅なものとして詠まれては来た。ところが、掲句では、その糞が餅に落ちるという卑俗な場景を詠んで、雅俗という二項対立の超克に詩的昇華を求めている。これまで固定観念化されてきた鴬のイメージを打破すること、つまり、鴬という言葉によって隠蔽されてきた「鴬」の本性に迫ることが可能になり、俳諧的な新しい詩性が開かれたと言ってようだろう。当然と言えばそうかもしれないが、それだけ和歌が長らく伝統的な固定観念に囚われて鴬が詠まれてきたということだろう。 鴬も我々人間も同じく糞をする動物に変わりはない。人間は糞をすることを隠すが、むしろ、雅な鴬はところ構わず糞をするが、鴬に何の罪もない。ただ、人間が食べる餅の上だから、人間が迷惑するだけである。その迷惑だって人間の勝手な言い分である。勝手に雅なものと
あらうみやさどによこたふあまのがは 元禄2年(1689)7月4日、越後・出雲崎での作か。芭蕉は午後3時過ぎに出雲崎に到着した。しかし、『おくのほそ道』には、越後路の段に掲句が記されているが、当地のことが一切触れられていない。おそらく、前段に「病おこりて事を記さず」とあることから、体調不良によるものと思われる。そこで、のちに当時の詳細を芭蕉が別に記した『本朝文選』の「銀河の序」を以下に示す。 北陸道に行脚して、越後の国出雲崎といふ所に泊る。彼佐渡が島は、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に横折り伏したり。峰の嶮難谷の隈々まで、さすがに手にとるばかりあざやかに見わたさる。むべ此島は、黄金多く出て、あまねく世の宝となれば、限りなき目出度島にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるゝによりて、たゞ恐ろしき名の聞えあるも、本意なき事に思ひて、窓押し開きて、暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海
くものみねいくつくづれてつきのやま 元禄2年(1689)6月6日、芭蕉は、朝、羽黒山を発って、約32キロの行程で月山に登った。途中にある幾つもの難所を越えて、午後3時過ぎには頂上に到着して月山権現を参詣している。掲句からは、ゆっくりと流れる「雲の峯」がやがて月山にぶつかっては壊れる雄大な景色が目に浮かぶ。そして、気がつけばもう夕月が空に浮かんでいる。その日、芭蕉は角兵衛小屋という山小屋に泊まり、翌朝、湯殿山へ向かうことになる。 「雲の峯」は「入道雲」でもあり、そこにおける自然現象の人格化に鑑みれば、その崩壊は「死」を連想される。しかし、「崩(れ)て月の山」は「崩れて築きの山」の意味が掛けられていると佐佐木幸綱が指摘したように、諸道において「生死」を超克してしか辿り着けない至境が「月の山」に象徴されているのだと思う。 さて、月山にある弥陀ヶ原を真如の月が照らす。まさに阿弥陀如来の無量光や無量
すずしさやほのみかづきのはぐろさん 元禄2年(1689)6月5日、羽黒権現(現・出羽三山神社)に参詣した際の作。陽暦では7月21日にあたり、江戸では夏の暑さも本格的になり始める頃であるが、奥州では夜の涼しさが心地よい時季であったろう。空に浮かぶ三日月の陰の部分が羽黒山の「黒」とも共鳴し、この聖地で仰ぐ三日月の仄かな影に妙なる心地が掲句から覗える。中七と下五のh子音による頭韻も快い。 ちょうど、この日の月齢は11日にあたり、やがて上弦の月を経て満月へと向かう三日月を芭蕉は眺めていたことになる。出羽三山神社の御由緒によれば、羽黒山では現世利益を、月山で死後の体験をして、湯殿山で新しい生命(いのち)をいただいて生まれ変わる、という類いまれな「三関三度(さんかんさんど)の霊山」として出羽三山が篤く信仰され、「羽黒派古修験道」の根本道場として「凝死体験・蘇り」をはたす山であることが特筆されている。折
ありがたやゆきをかをらすみなみだに 元禄2年(1689)6月4日、羽黒山での作。芭蕉は、前日の3日に修験道羽黒派の本山を訪れている。その南谷の別院に逗留し、翌4日に本坊にて別当代会覚阿闍梨に謁し、そこで厚遇を受ける。羽黒山は神仏習合の地で、仏教関連の建物や旧跡は、羽黒山神社のある所より低い谷間に多い。平将門の創建と伝わる国宝・羽黒山五重塔、御本坊跡、南谷別院跡も例外ではなく、周囲には古木が林立しており、初夏でも根雪が残る地勢をなしている。 掲句には、会覚阿闍梨に対する恩義は当然のことながら、素晴らしい環境に恵まれた有り難さが素直に表現されている。また、雪に漂う清気と芳しい青葉の風が醸し出す羽黒山ならではの景趣も彷彿される。さらには、「南薫」を連想させる「南谷」という地名によって絶妙な句境がもたらされたと言えよう。 季語 : 風薫る(夏) 出典 : 『おくのほそ道』 How grateful
よのひとのみつけぬはなやのきのくり 元禄2年(1689)4月24日の作。須賀川の相楽等躬の邸内に矢内弥三郎(可伸)という僧が草庵(可伸庵)を結んで寄寓していた。そこに大きな栗の木があり、ちょうど花を咲かせていた。その静かな佇まいに芭蕉は「山深み岩にしただる水とめんかつがつ落つる橡拾ふほど」 と西行が詠んだ深山を思い出したと『おくのほそ道』に記している。また、掲句の前書には「栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用ゐ給ふとかや 。」とある。 可伸は俳人でもあり、栗斎と号しており、可伸庵で歌仙が巻かれ際に芭蕉が詠んだ初案(発句)は「かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗」であり、栗斎の脇句として「まれに蛍のとまる露艸」と付けた。まだまだ煩悩を滅しきれない道心を吐露する可伸の木訥さと無常観に裏打ちされた風雅の心が覗われる。 ところで、推敲された掲句では「世の人の見
たいちまいうゑてたちさるやなぎかな 元禄2年(1689)4月20日、那須蘆野での作。芭蕉が訪れた頃の蘆野領主は、三千余石の交代寄合旗本・蘆野民部資俊であり、神田の江戸屋敷に住んでいた際に芭蕉の門人となり、「桃酔」と号していた。芭蕉は桃酔から故郷にある「遊行柳」のことを度々聞かされていたらしい。 この柳には古くから「遊行柳伝説」があり、一説には、室町時代に遊行十四代太空上人が当地を通りかかった際、柳の精が女人として現れて救いを求めたため、太空が念仏を唱えて済度したという。もともとこの柳は平安時代から、幾度か枯れては植え直されてきたらしく、観世信光の謡曲『遊行柳』では、ここで西行法師が詠んだとされる「道の辺に清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ 」を朽ちた柳の精である翁が遊行上人に語り聞かせる。いずれにしても、生生流転のうちに仮の世のあわれを伝え受け継ぐものとして、和歌や謡曲に取り入れら
はつあきやうみもあをたのひとみどり 貞享5年(1688)初秋の作。前書に「鳴海眺望」とある。鳴海は東海道五十三次四〇番目の宿場であったが、現在では埋め立てにより、歌枕の鳴海潟は消失し、海を見ることはできない。掲句は、当時、そこにあった児玉重辰亭で詠まれた発句であり、おそらくその席上から見える青田の先に海が見渡せたのであろう。遠く青田と海の接するあたりでは両者の色合いも近く、あたかも、海が青田の一部として同化しているように捉えたのが「一みどり」という措辞に表れている。 ちなみに、「みどりの黒髪」「みどり児」などの言葉があるように、本来、「みどり」とは、「緑」や「青」という色彩ではなく「瑞々しさ」を示すものであった。つまり、瑞穂や海鮮にも通じる「瑞々しさ」も掲句の「一みどり」に込められているように感じられる。また、「鳴海」は「成る身」と掛詞にもなることから、「海」も「青田」の「みどり」に包摂さ
さまざまのことおもひだすさくらかな 貞享5年(1688)3月の作。『笈日記』には「同じ年の春にや侍らむ、故主君蟬吟公の庭前にて」と前文があり、伊賀上野へ帰郷した際に藤堂良忠(蟬吟)の嫡男・良長(探丸)に招かれて、その別邸(下屋敷)で詠まれた句である。ちなみに、頴原退藏は次のように述べている。「芭蕉は脱藩の罪を犯した身だから、正式に藤堂家に出入りすることは許されなかった。『笈の小文』の本文に、芭蕉がこの句について何も語っていないのも、やはり憚った為であると思われる」(『芭蕉俳句新講』)と。しかし、芭蕉は、良忠の死後、その弟に仕えることを潔しとせず、脱藩したのだから、すでに二十余年を経て、五千石の侍大将となっていた良長にとって芭蕉を疎むことはなく、むしろ、自らも俳人となって探丸と号していた良長は芭蕉を厚く遇したのである。おそらく、その別邸は芭蕉もかつて蟬吟と訪れていたと思われ、その庭に立つ桜も
たかひとつみつけてうれしいらごさき 貞享4年(1687)11月の作。『笈の小文』の旅で、芭蕉は、越智越人(尾張蕉門の重鎮)を伴って、三河渥美郡の保美村に隠棲していた門弟の坪井杜国を訪ねた。杜国は名古屋で米穀商を営む名家に生まれて家業に携わるが、貞享2年(1685)、当時、禁止されていた空米売買の咎で死罪となるも、尾張藩二代藩主・徳川光友の恩赦によって、渥美郡畠村へ流謫となり、のちに保美村に遷っていた。『鵲尾冠(しやくびくわん)』(越人撰)には「杜国が不幸を伊良古崎にたづねて、鷹のこゑを折ふし聞て」と記されており、掲句は、芭蕉、越人、杜国の三人が、保美村から渥美半島の突端である伊良湖岬へ遊覧した際に詠まれた句である。 東日本(太平洋側)の鷹の多くは、群れをなして一斉に伊良湖崎から初めて海を渡って対岸の志摩半島へ向い、その後は、四国、九州を経て南西諸島や台湾などで避寒する。掲句では、その群れか
めいげつやいけをめぐりてよもすがら 貞享3年(1686)の作。宝井其角の『雑談集』に「芭蕉庵の月みんとて舟催して参りたれば」と前文があり、其角など門人たちが水路を経て深川の芭蕉庵を訪ね来て、月見をした際の句と思われる。第二次芭蕉庵に「古池や」の句にも詠まれた池があったと考えられ、その周りを門人たちと歩きながら名月を賞したのであろう。隅田川の向こうには江戸の街明かりも広がり、まさに現在でいうウォーターフロントであった当時の深川は絶好のお月見ポイントだったに違いない。 侘び住まいとはいえ、門人たちと名月を賞することは芭蕉にとって、楽しい一時であり、思わず夜を明かすまで月見に興じた場景が彷彿される。月の光に魅了され、時を忘れて池の周りを回遊する姿からは、あたかも月へと昇る心地さへも想像される。 ちなみに、中国では、かつて仙女だったが嫦娥が地上に降りたがために不死でなくなったことから、夫の后羿が西
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