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hituzinosanpo.hatenablog.com
親知らずを抜歯するために入院する(5泊6日)。全身麻酔の手術になる。歯ぐきを切開するし、縫合もするらしい。となりの歯も抜歯しないといけないらしい。いやだ。 手術の準備として麻酔科の説明をうけたりしたのだけど、体や病歴などについて ききとりをされるなかで、アトピー体質であること、介護職であることをつたえた。すると皮膚科でラテックスアレルギーの検査をしましょうということになった。血液検査は すでにしてあったのだけど、つい先日皮膚科でプリックテストと装着テストをうけた。プリックテストは腕の皮膚 4箇所に針をさして反応をみるテスト。ヒスタミン、10分の1のラテックス、1倍のラテックス、なにもなしの4種類を比較する。あおむけになっていたので みていないけど、ヒスタミンやラテックスを一滴たらして、そこに針をさしたのだろう。30分くらい しずかに あおむけになっていた。途中と最後に写真をとっていた。皮膚
2020年の12月に野菜の再生栽培をはじめた。再生栽培とは、スーパーで かってきた小松菜やミツバ、ネギなどを水や土で再生させて もう一度(あるいは、しばらく)たべたりすることをいいます。豆苗が有名ですね。 根っこが あたらしく はえてくる野菜が いいです。ホウレンソウやパクチーなどはダメです。再生できません。アブラナ科の野菜は うまいこと いきます。 さて、2020年12月というと ちょうど3年まえです。再生栽培についてユーチューブの動画やウェブの記事をみていました。そのなかで、アクアポニックスという農法について しりました。アクアポニックスの方法は いろいろですが、たとえば魚を飼育して、その水をポンプで くみあげて、ハイドロボールをしきつめたプランターに水をながして野菜を栽培することをいいます。ハイドロボールに微生物が すみつき、水だけでなく、栄養分をたくわえます。ポンプで くみあげられ
「アイドル」とか『愛の不時着』とかではない韓国コンテンツについて。もちろん「中年層」でなくても たのしめるものばかりを ご紹介。 ドラマ むかしから韓国ドラマが すきでなかった(映画は すきでしたよ)。感情表現が過剰なセリフまわしが苦手だった。2014年の『ミセン』というドラマを 数年前に みた。すばらしい力作で おどろいた。内容は新入社員と先輩たちの奮闘ドラマ。「間接広告」というものに気づいたのも、そのころ。ドラマの作中に広告を 「さりげなく」 さしこむというもの。マキシムのコーヒーとか。高麗人参エキスとか。ファーストフードのサブウェイとか。ダイソンのドライヤーとか。韓国ではテレビドラマの途中にCMが さしこまれることがない。むかしから そうだ。そんなこともあり、最近は間接広告というのが一般的になっている。ちょっと目ざわりだったりもする。 『ミセン』のようなドラマは韓国では「人生ドラマ」
2015年に、『ことばのバリアフリー 情報保障とコミュニケーションの障害学』という本を かきました。 hituzinosanpo.hatenablog.com hituzinosanpo.sakura.ne.jp その内容と相通じる活動が、新型コロナウイルスの治療に とりくむ中国の医療現場でも みられるようです。リンク集として、まとめておきます。 まず、ツイッターで みかけたもの。 湖北省当地の患者と他地域から来た医療支援者とのコミュニケーションギャップを解消するための湖北方言理解ツールが開発されているとのこと(日本方言研究会メール情報第333号による) 中国商務印書館HPhttps://t.co/jXrmckLVLL— Akio Nasu (@Nasu_Akio) 2020年2月19日 →「快讯︱“战疫语言服务团”助力湖北抗击疫情 - 商务印书馆」 病房手语、方言手册、护患沟通本——细数
新型コロナウイルス(新型冠状病毒)がニュースを さわがすようになって、つまりは「人から人への感染(人传人)」が指摘されるようになって、中国の情報を あれこれ みてきました。わたしは中国で生活したことはないし、Weibo(微博)のアカウントもありません。Wechat(微信)のアカウントは ありますが、ともだちが いません。なので、基本的には ユーチューブを みてきました。とくに、武漢(Wuhan=ウーハン)が封鎖されるというニュースが ながれてから。漢語(いわゆる中国語)は、そんなに できるわけじゃないし、日常会話は けっこうできるよというレベル。長文を よむ気力も語学力もない。だったら動画だ、というわけです。 中国ではWeiboで情報発信することが一般的のようです。けれども、あえてユーチューブで情報発信している人もいます。中国ではツイッター、フェイスブック、ユーチューブ、インスタグラムなど
なにか事件や問題が おきているとき、これは特殊なことではなくて、あのひとたちだけの問題ではなくて、この社会が、この国の政策が ひきおこしたのだ、と論じることがある。背景にあるものを よみとくということは大事だと おもう。じっさい、背景というのは あると おもう。社会のなかに、ものごとは ある。それは そうだ。 だけれども、なんでも かんでも、そして、ただたんに、「この社会が うみだした」とだけ いっていれば いいのだろうか。 津久井やまゆり園の事件。あれは、この社会が うみだしたのか。そうかもしれない。でも、そうだとばかり いっていては いけないと おもう。だって、そういう「論評」というのは、要するに、「これからも こういうことは おきる。覚悟しておけ」というような、「おどし」になってしまう。あんなこと、これからも おきてしまっては いけないのだ。もちろん、テロを 何度も経験している地域は
「日本人」にしても、なんにしても 人間を 集団で くくるとき、そのカテゴリーというのは ひじょうに あいまいなものである。明確に 線を ひけるものではない。けれども、なにか必要や目的があって、人間を 集団で くくることがある。たとえば、多数派と少数派という線びき。多数派であるとか、少数派であるとか、そういったカテゴリーは見いだすものであって、それぞれに 本質的な要因があるわけではない。あくまで「見立て(みたて)」である。 日本社会のなかで、「○○的」多数派であるとか、「○○的」少数派というものを 見いだすことはできる。しかし、なんのために。どのような必要があって。 どうだろうか。 たとえば、異性愛者と同性愛者という構図を たてる。なんのために。その線びきから こぼれおちるものも あるはずなのに。 どうせ見いだすなら、異性愛中心主義という見立ては どうだろうか。こういう とらえかたは、いくら
だれもが 自分を 基準にして ものごとを かんがえる。だれかのことを 自分の基準で 評価する。 なにか社会問題について議論するとき、「あの人は体制に迎合的だ」「同化している」というふうに発言することがある。自分は そうではない、ほかの ひとたちは そうではないというふうに比較して、だれかの ありようを 否定的に 評価することがある。よくあることだ。 ある程度は、そういうことも あっても いいのかもしれない。どこかで 線を ひいて、これだけは ゆずってはいけないはずだと主張することも あるだろう。けれども、冷静に かんがえてみると、支配的な 文化に 迎合的であるとか、同化しているとか、そういうことは だれしも あるわけだ。基準を ずらしてみれば、自分も そうだということになる。 日常の生活のなかで、いろいろな選択肢があるなかで、なにかを えらぶ。なにかを することは、ほかの なにかを しない
単著が でました。税込みで 2160円です。 あべ・やすし『ことばのバリアフリー 情報保障とコミュニケーションの障害学』生活書院 これまで かいてきた論文4本や、このブログで かいてきたことなどを 整理して まとめました。くわしい もくじは うえのページを みてください。 かどや ひでのり/あべ やすし編『識字の社会言語学』生活書院の続編でも あります。 ジョディ・フォスター主演の『ネル』という映画が あります。今回、本を まとめながら、おもいだしていたのが あの映画です。ぜひ みてみてください。いい映画です。 「あれが できない」「これが できない」といって だれかを 非人間化してしまうことが あります。そういうことは やめたいし、やめるべきだと おもうのです。 あたりまえって なんだろう。なにが どうあることが、あたりまえなんだろうか。そういうことを といなおす本です。ことばは、大事な
社会のなかで流通している情報というものは、そのままでは わかりにくいことが あります。ことばづかい、内容そのものが むずかしい。あるいは、文脈や背景の知識がないと わかりにくい。そういうことが あります。そこで、情報を みんなに とどけるために、かみくだいて説明する 必要が でてきます。 たとえば、あたらしい法律が できたとき。その法律を わかりやすく説明するパンフレットを つくる。 ひとつ 例を あげます。2016年 4月1日に、障害者差別解消法が施行されます。内閣府のページを みてください。 内閣府「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」 うえのページを みると、法律の本文や概要などは「るびつき」PDF、「るびなし」PDF、テキストファイルの 3種類が 用意されています。ふりがなが あれば よみやすい人、ふりがなは ないほうが いい人、PDFファイルではなく テキストファイルが
坂口安吾(さかぐち・あんご)のエッセイに「日本文化私観」というのがある。 伝統と生活と。ブルーノ・タウトは、日本を 訪問し、日本の あれやこれやが うつくしいと いった。その あれやこれやは、いわゆる伝統というやつだ。安吾は、生活が大事だと いった。 然しながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距(へだた)りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本
4年まえに、言語学習のユニバーサルデザインを! - hituziのブログじゃがーという記事を かきました。これを みてくださったのだと おもいますが、『日本語学』という雑誌の編集部から原稿依頼を いただきました。「福祉の言語学」特集むけに、「言語学習のユニバーサルデザイン」というテーマで。 ありがたいことに、問題なく かきあげることができまして、雑誌の現物が とどきました。 『日本語学』2014年 9月号。特集「福祉の言語学」。 「言語学習のユニバーサルデザイン」の もくじを 紹介すると、 1 はじめに 2 言語をやりとりするチャンネル―聴覚、視覚、触覚 [1] からだの多様性からみた言語 [2] ステレオタイプの問題 3 情報のユニバーサルデザイン [1] 映像メディアの場合 [2] 印刷メディアの場合 4 言語教材のユニバーサルデザイン 5 学習環境のユニバーサルデザイン 6 おわりに
佐々木倫子(ささき・みちこ)編『マイノリティの社会参加―障害者と多様なリテラシー』くろしお出版 という本が でました。わたしも かいています。 「情報のユニバーサルデザイン」 編者の佐々木倫子さんは、この本が どのような視点から つくられたものなのかを、つぎのように説明しています。 本書は研究者の論文集ではない。書き手には研究者もいるが、教育者やジャーナリストもいる。障害の当事者も非当事者もいる。日本人もいれば、米国人、オーストラリア人もいる。異なる文化的背景を持つ人間がそれぞれの声を挙げており、それがゆるやかな、ひとつのメッセージとなって読み手の心に残ることを願った。 本書の編集を思い立った背景には、2012年に出版した1冊の本がある。手話を切り口に多文化共生を考えた本で、ろう者と聴者、半々の書き手で編成し、ろう者自身に届くことを願って編集した。しかし、ああいう論文集のような本はエリート
社会参加は、社会的排除の反対語。そういう とらえかたで、ほんとうに いいんだろうか。 マイノリティの社会参加を すすめるというのと、社会的排除を やめる、あらためる、あるいは 社会的排除を 批判するというのとでは、やっぱり意味あいが ちがってくると おもう。 不公正、不公平が まずあって、それに対して、対策を たてる。改善する。なくす。たとえば、バリアフリーというのは そういう概念。 たとえば、障害者の社会参加というような表現は、それは すばらしい ことば、大事な理念であるようでいて、じつは、そこには ある種の いやらしさが あるように感じる。排除してきた これまでの歴史があって、それを 改善する、やめるということであるはずなのに、「仲間に いれてあげる」というようなパターナリズムが そこには あるんじゃないか。ふくんでしまってるんじゃないか。それって、ぬすっとたけだけしいことなんじゃない
わたしは、学校教育じゃなくて、学習支援で いいじゃんと主張することがある。いつでも、どこにいても、何才でも、だれもが学習できる。それが大事なんだと。 こどもを 学校に いかせるというのは、親にとっては託児所に こどもを あずけるという意味もある。親だって、こどもとばかり 顔を あわせていたくない。こどもだって、そうだろう。そういう意味で、学校という居場所には社会的な意味があるんだと感じる ひとも いるだろう。ただし、「学級」という空間の是非についていえば、わたしは完全に否定的だ。学級というシステムが人間を ダメにしている。くるしめている。わたしは そのように かんがえている。 学級という空間の だめっぷりを 批判し、介入していくうえで、学習支援という視点は重要な意味があると おもっている。 わたしは訪問語学講座を ほそぼそとやっている。あるときには ひとりの学習者に ふたりで訪問するという
日本で生活している外国籍の人が日本から出国するとき、「再入国許可」を とらないと、それまでの在留資格をうしなってしまうという問題があります。そして、その再入国許可というのは、お金をはらって、地元の地方入管(住居地を管轄する地方入国管理官署)で申請をとる必要があるという問題がありました(参考:法務省:再入国許可申請)。 2012年の改訂入管法で法務省は「みなし再入国」制度をはじめました。法務省は「便利になりました!」とアピールしていました。 法務省は、朝鮮籍の人は法務省が「有効」とみなすパスポートを もっていないといって、この みなし再入国制度を 利用させていません。この問題は、よく しられています。 今回 紹介するのは、みなし再入国制度の もうひとつの問題です。いまになって紹介するのは、わたしの不勉強によるものです。反省します。 金朋央(きむ・ぷんあん)「特別永住者にとっての新在留管理制度
やねごんさんが「いわゆる「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対するパブリックコメント」という記事を かいています。ていねいですね。わたしもパブリックコメントを かきました。 朝鮮学校を高校無償化政策から排除することに反対します。以下、その理由をのべます。 敗戦後の日本は、民族問題を棚上げにしてきました。「ないこと」にしてきました。「帰国させる」か、「同化させればいい」という方針でした。しかし、そうはいきません。だからこそ、日本政府は2008年にアイヌ民族を先住民と認定したのです。もはや、民族問題を無視することはできないのです。 日本の民族問題を解決するためには、第一に、敗戦後の日本に定着させてしまった「単一民族」という幻想をすてる必要があります。第二に、日本政府は単一文化主義、単一言語主義をあきらめるべきです。第三に、日本政府は入国管理政策ではなく、国際人権の精神にもとづく移民政策/難民政
去年、たくさんの ひとたちと共同論文を かいた。まだ査読まちなので、論文として掲載されるかどうか きまっていない。なので、共同で原稿を かいたというのが正確。そのとき、障害の表記を「障がい」にしたいという意見が複数でた。それについて反対意見もでた。わたしは、どっちでも いいと おもったし、そのように発言したけれど、「なぜ「障がい」にするのか、納得のいく説明をしてほしい、そうでなければ「障害」で」ということを あとで つけくわえた。 「障がい」にするなら するとして、気になることがある。たとえば、わたしは この数年、「図書館利用に障害のある人々へのサービス」というものを 紹介しつづけている。これは、障害者に対するサービスに限定されるものではない。図書館の利用に なんらかの困難がある場合、それは、図書館側が もうけてしまっている障害であり、それを解消する責任が 図書館には あるという視点に た
まえに、「おそろしい施設―学校(熱中症について)。」という記事を かきました。 これから夏になることだし、だいじなことを かきます。 『Jin - 仁』というドラマ、けっこう人気だったので、ご覧になった ひとも たくさん いらっしゃるでしょう。あのドラマで、コレラ(コロリ)に くるしむ江戸末期の ひとびとを すくったのがORSという液体でした(現代の医者がタイムスリップしたという設定)。 ORSは、日本語で経口補水液と いいます。 かぜを ひいているとき、下痢を しているとき、はげしい運動のあと、あるいは夏場には、水分補給が必要です。けれども、ただ 水を のんだら いいというものではない。塩分を おぎなう必要があります。そうしないと、血液中のナトリウムの濃度が さがりすぎてしまいます。そして、場合によっては「低ナトリウム血症」を おこしてしまいます。 このまえ、かぜを ひいたんです。熱が3
ある ひとが、「言語障害は、外国語と おなじだ」と いっていた。だから、「どんどん しゃべらないといけない」と。 そのひとは、脳性まひで、言語障害がある。 言語治療というのがある。くわしく しらない。たいへんそうだ。けど、いいことも あるんだろう。とはいえ、なんでもかんでも「治療」できるものじゃない。 コミュニケーションは、おたがいさま。 だったら? どうしよう? 「言語障害は外国語のようなもの。どんどん きかないとけない」。そういうものだ。 わたしは、そのひとの ことばを ききとるのが まあまあ得意だ。たぶん、それは いろいろ語学を やってみた経験が あるからだ。もちろん、最初は なかなか わからなかった。だから、たくさん きいた。そうしたら、わかりやすくなった。 そうなのだ。「言語障害は、外国語と おなじだ」。 ちがうけどね。 関連リンク 情報保障の論点整理―「いのちをまもる」という視
反原発運動の なかでの「優生思想」の問題が、以前から指摘されてきました。たとえば、2011年2月には つぎのような記事が問題になりました。 上関原発、強行工事!! - ゆいわのきほくのわ この記事には、たとえば つぎのような文章があります。 日本の原発は、たくさん放射能が漏れています。ごまかして隠してますが、原発地帯の子供達は奇形児や白血病が多いのです。 みなさんの子どもが、原発地域で育った女の子と結婚したいと言ったらどうしますか? 年頃の女の子は、奇形児を産む可能性が高いから結婚できないのです。 このひとは、結婚差別を 批判することなく、むしろ利用し、そして「奇形」を さけるべきものと規定しています。上関(かみのせき)に原発をつくるなと主張するために、このような論理は必要なのでしょうか。むしろ、反原発運動に差別を とりこむことによって、運動を 分断することになるのでは ないでしょうか。
最近、あれこれ マンガを よんでいます。このブログでは感情労働やケアについての本やマンガを とりあげてきたので、『看護助手のナナちゃん』小学館を ご紹介。 このマンガは 2ページか1ページで ひとつの おはなしが おわります。いろんな「患者さん」が登場します。同僚さんたちも でてきます。舞台は病院ですが、患者さんは老人が ほとんどです。なので「介護の風景」のようなところがあります。 主人公のナナちゃんは、ものすごく やさしい ひとです。心配してしまうほどです。そこは おこるべき!と感じることもあります。「さわるな、くそじじい!」という場面が みたいと感じてしまいます。けれども、ナナちゃんは患者さんには おこらない。同僚に たいして注意することがあるくらい。 ナナちゃんは すてきです。みていて、ほんのりします。だけど、やさしすぎる…。それが やっぱり気になります。だって、やさしいだけじゃない
シンポジウムの案内です。 第26回 国際障害者年 連続シンポジウム「障害者と原発問題―福島原発事故以後をどう生きるか」 PDFのチラシ 基調講演「震災、原発、そして障害を持つ人達」 鈴木絹江さん(福島県田村市在住・NPO法人「ケアステーションゆうとぴあ」理事長) シンポジスト 堤愛子さん(NPO法人町田ヒューマンネットワーク副理事長) 槌田劭さん(使い捨て時代を考える会) 橋本尚樹さん(JCIL介助者) 企画趣旨 この「国際障害者年」連続シンポジウムは、「完全参加と平等」をかかげた国際障害者年の理念をふまえ、国連決議の「企画の段階から決定まで、あらゆることについて心身障害者の参加が重要である」という視点に立ち、様々な社会問題について障害者の立場から問題提起するものです。今回のテーマは「障害者と原発問題」です。 2011年の東日本大震災は、地震と津波により多大な被害をもたらしました。さらに福
さっき つくったスパゲティが おいしかったので報告します。 フライパンで ししとう、にんじん、じゃがいもを いためます。にんじんと じゃがいもは うすくスライスしました。わたしはアルミのフライパンを つかっているので、しばらく いためていると野菜がフライパンに くっついてきます。で、こげるまえに水。そして無印良品の「かぼちゃチップ」を いれます。あと、乾燥の大根葉も いれました。ハーブのタイムをすこし。塩味を適量。しばらく ゆでます。 で、ゆであがったスパゲティと ゆで汁 すこしを フライパンに。フライパンを しばらく あおって完成。 写真:https://twitter.com/#!/hituzinosanpo/status/171792588586749952/photo/1 じゃがいもが ほくほくした食感で おいしかった。無印良品の かぼちゃチップは ちょっと えぐみがあって、おもし
2009年に「言語という障害―知的障害者を排除するもの」という論文を かいた。もくじは つぎのとおり。 はじめに 1. 言語権という理念 1.1. ひとつの言語とはなにか 1.2. 言語権のひろがり 2. 知的障害と「言語」 3. 言語学の倫理―ジーニーを実験台にさせたもの 4. 共生の条件とされる「ことば」 5. 知的障害者をとりまく社会環境―言語という障害と能力主義 5.1. 言語と世界観 5.2. 知的障害の判定テストと言語 5.3. 能力の個人モデルから「能力の共同性」へ 6. 言語主義からの自由、そして言語権のユニバーサルデザインにむけて おわりに 参考文献 こうした問題に関連して、最近 気になっていることがある。それは「言語能力」によって刑罰の軽重が左右されてしまうということだ。 浜井浩一(はまい・こういち)は『2円で刑務所、5億で執行猶予』光文社新書で、つぎのように のべてい
3月の原発事故のあと、「原発がとまれば弱者が死ぬ」という主張があり、それは「ためにする議論」だと批判する議論がありました。じっさいには「弱者」のことなんか かんがえていないのに、原発を維持するためだけに もちだした論理だと。 わたしは、とつぜんの停電は死活問題であり、さけるべきだということ、そして、原発は不安定な電力供給源であるということ、だから安定的な発電方法をえらぶ必要があると かんがえます。 だから、「原発がとまれば弱者が死ぬ」という主張は、わたしも問題だと おもいます。しかし、「原発止めたら弱者ガー」と ばかにするのは、あきらかに不当だと おもいます。 さきほど まとまった文章を みつけましたので、ご紹介しておきます。 http://www.bakubaku.org/bousai-kaigohoken-joho-genkou.html 一部を引用します。できれば全文をよんでください
言語政策学会のシンポジウムで李洙任(り・すーいむ)さんの報告を きいた。李さんには『グローバル時代の日本社会と国籍』という田中宏(たなか・ひろし)との共著がある。 李さんの報告の題は「移民コミュニティの移民言語教育―オールドカマーを中心に」であり、「国民」と「外国人」という規定の問題を指摘していた。 おなじような内容を 最近、サイトに のせたので、紹介しておきたい。 「国籍ってなんだろう―日本の入国管理政策の問題」 - あべ・やすし さて、李さんの報告にたいして、フロアから つぎのような発言があった。要約する。 わたしも法律の国民という表現について問題だと感じていた。だが、あるとき法律の専門家に「文言説」と「性質説」のちがいをおしえてもらった。つまり、法律の文言では「国民」とあっても、じっさいの運用では その「国民」には「外国人」が ふくまれるのだと。それをきいて、国民という語について問題
『家政婦のミタ』というドラマ。おもしろい。すきだ。 おもしろい点は いくつかある。ひとつは、責任を 実感するプロセス。 このドラマにでてくる家族は、最初「家政婦」に やたらと あまえる。「家政婦なんだから、ちょっと」と、勝手な「家政婦」イメージで 愛想を とってもらおうとする。ご意見してもらおうとする。 ミタさんは、きめるのは あなたたちだ、わたし(家政婦)は 家族ではないということを つたえる。そして、ミタさんは いわれたこと(業務命令)は どんなに無茶なことでも やってしまう。 そこで、ミタさんに 依頼を するひとは 責任を 感じるようになる。 「どうして そんなことするんだよ!」と おこってみても、依頼したのは 自分だからだ。ミタさんは「おてつだい」は してくれても、なにかを 自分のかわりに きめてくれるわけではないからだ。 もうひとつは、ミタさんはロボットではないということだ。ドラ
N700系の新幹線の11号車に、車いす対応トイレがある。まるい部屋に なっていて、ひろさを 確保している。ただ、ベンチレーターのひとは それでも せまくて 使用できないかもしれない。とはいえ、このトイレができたことで新幹線が利用しやすくなった ひとは たくさん いるのだろう。ひろさの確保という点では、限界があるにせよ、かなり配慮してあると おもう。 気になったのは、ちがう点だ。このトイレは、なぜか、自動的に便座があがるようになっている。手をかざすと水をながすセンサーがある。もうひとつセンサーがあって「便座をおろす」ためのものだ。これは おかしい。 なぜ、どうして、便座をあげた状態が標準設計なのか。 男性のうち、さらに、便座式のトイレで あえて便座をあげて おしっこをするひとのためのデザインになっている。便座式のトイレで、便座に すわって おしっこをすることに、なんの問題があるのか。 不潔な
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