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掃除・片付け
note.com/akiko_saito
映画「ファインディング・ドリー」を見た。冒頭で、赤ちゃん魚のドリーが、両親に「初めての人に会ったらこう挨拶しなさい」と教えられた言葉を繰り返していた。 "Hi I am Dory, I suffer from short term memory loss." こんにちは、わたしはドリー。わたしには短期記憶障害の病気があるの。 ドリーには生まれつき、ものを覚えていられない障害があった。だから両親はそんなドリーが世の中でちゃんと生きていけるように、ハンディキャップを宣言することを教えた。ドリーが足りないところを、誰かに助けてもらえるように。ドリーは赤ちゃんなので、自分が何を言っているかはわかっていない。でも両親がそれを教えてあげたおかげで、ドリーは世界を生きぬくための知恵を身につけたのである。 大きくなったドリーは、相変わらずものを覚える事ができなかった。両親といつの間にかはぐれ、遠いところで
これが悲しかった。まちが一番幸せに包まれる花火大会の夜、ここに悪意を持つ人など誰もいないと思っていた。まちのみんなが楽しみにしていて、ちょっとおしゃれをしたり、おまつりのためのとくべつな料理をお店が用意したり、まちの外から遊びに来るひともたくさんいて、こどももおばあちゃんもワクワクしながらお出かけをしていただろうに、なんて悲しいことが起こるのだろうか。犠牲者の方にご冥福をお祈りいたします。その周りの方の苦しみにも。 まあなんかそんな感じでいろいろある世界で、ある日ふと「死にたいな〜」と思ったとしても、自分で死ぬのは結構大変だ。だいたい痛そうなやつは怖くて無理。電車に飛び込むのは痛そうな上に莫大な費用を払わなくてはいけないし、ビルとか崖とか高いところから飛び降りるのも怖すぎて絶対無理。切腹も痛そうすぎるので絶対嫌。包丁で指を切っただけでも死ぬほど痛いのに無理すぎる。首を吊るとかも痛そうすぎて
恋愛は誤作動だと思う。人間は「その人を好きになるのが正しい」という理由で恋愛をすることがない。 「この人を好きになってもなんにもいいことないし、誰も喜ばないし、誰も幸せにならない」と理屈ではわかっていても、それでもどうしようもない重力に引っ張られるように、坂を転げ落ちるように、頼んでもないのに、どんどん勝手にエスカレートしていく。 いろいろ考えてみても、どうしてその人だけが特別に見えるのか、はっきりとした理由がわからない。ものすごい美人だとか?年収一億円とか?IQ300とか?とくにそういうこともないんだけど、どうしてスイッチが入ってしまったんだろう。 その人はどう考えても、「好きなタイプは?」と聞かれたときに、自分が答える条件にひとつもあてはまってない。相手が自分を好きだ好きだと言っているわけでもない。自分がその人を好きになる意味がわからない。これはどう考えても誤作動だ。 やっかいなのは、
今日、25歳女子に「昨日ズートピア見に行ったんだよ」と言ったら「誰とですか?!あれってデートムービーですよね!」と言われて驚愕した。世間ではズートピアはデートムービーということになっているそうだ。どうりでTwitterで「ズートピア」と検索したら、カップルの自撮りとプリクラ&「ズートピアかわいかった☆笑った〜そのあとハンバーガー食って帰ったおいしかったピース」みたいなツイートしか出てこないはずである。てっきり「人種のるつぼ・アメリカで描かれた、差別をテーマにした真摯な社会的寓話」な映画だと思っていたのに、いつのまにか世間はそんなことになっていたのか... そういえは六本木ヒルズの映画館もやはりカップルでぎっしり満員だった。 ※以下ネタバレ含む この世界では綿密なリサーチにもとづいて、動物たちが社会生活を営み、リアルな大きさで登場する。映画の着想は、「地球上の動物は90%の被食者と10%の捕
昨日、会社の玄関に嵐のメンバーが出ている巨大ポスターが貼ってあった。 「へー。」 と思いながら横目で眺め通りすぎようとしたところで、 ふと気がついた。 いままでの人生、ずっと嵐は6人組だと思って生きて来たけど5人組だった ということだ。 うわ!!!!!!!!!!!!!!!ほんとだ!!!!!何回数えても!!!!!5人しかいない!!!!!! すさまじいカルチャーショックだった。 嵐の存在はもちろん知っていた。デビュー当時?とかから知っていると思う。名前も言おうと思ったら多分全員言える。嵐の相場くんがインタビューで「アホなひとが好き」っていっててアホの定義を聞かれ「力の配分に損得がないこと」と答えていてあまりの的確さに感動をおぼえたってこととか、大野さん?がアートコレクターってこととか、松潤さんがデジタルクリエイティブに精通しているすごい人ということも知っているし、嵐がどこかでコンサートをすると
やわらかな心を石に変えて とキリストは言っていたが、それは2000年前の話であって、この資本主義の弱肉強食の時代に隣人を愛していると自分がやられる。やられるまえにこちらがやらないとおしまいになってしまう。こんな世界に誰がした。 「いい人」でありたいとずっと思ってきた。困っている人がいたら手を差し伸べ自分のちからが及ぶ範囲で手助けをする。それが当たり前のことだと思っていた。 しかし前述の通り、厳しい競争社会においては「いい人」であることは許されない。他人のために時間を使う「いい人」は淘汰されてしまう
スタバでたまにアメリカ発の「フレンドリーな接客」をがんばって取り入れようとしている子に会うことがある。「今日は寒いですね〜」「お仕事ですか?」「あっわたしもそれ好きなんです〜」みたいに話しかけてくれるやつだ。だいたいいつも、「君絶対そんなの興味ないしマニュアルに書いてあるから言ってるんでしょ...」みたいな感じでお客さんとの間になんとも微妙な空気が流れるのを感じる。わたしはそれを「エセ・フレンドリー」と呼びたい。 知らない人に気軽に話しかける文化がない日本でそれをやるのは大変なことだと思う。なんだか頑張りすぎてしまって、ウェットになってしまうのだ。コーヒーを売ってくれる人と買う人の関係なのに、これは、、、キャバクラかな?みたいな距離感を発動してしまうこともある。 なぜなら日本の接客業は「お客様は神様」みたいな感じで、カウンターの中と外では別世界の人間で話をすることも叶わないみたいな空気があ
母親が仕事関係のイベントで上京してくると連絡があった。「忙しいだろうから時間があったら会いましょう」という携帯メールだった。それを見てなんだかすごく申し訳ない気分になって傷ついた気持ちがした。 つまり私がいつも別の用事にかまけて家族のために時間を取っていないということを、その何十年にもわたる怠慢を、目の前に突き付けられた気がしたのだ。たしかに物心ついてから勝手なことばかりして、全然家族のほうに向いてない。あれに行くからこれに行くから時間がないとひたすら回避するだけで、家族のために時間を作ることをしてこなかった。いった母親に会うための時間もとれないくらいの「忙しい」とはどんなものなのか。世界を終焉から救う巨大な使命をわたしが背負っているわけでもないのに。もし仮に世界を終焉から救う巨大な使命を背負っているとしても、母親に会いたいなら会いにいけばいいんだし。 「忙しい」とはなんだろう。心を亡くす
5歳の姪がいる。彼女が好きなものは、ピンク色のもの、キラキラしているもの、キティちゃん、そして甘いもの。以前iPadのめっちゃしょうもないアメリカ産のフリーのゲーム「クッキーファクトリー」みたいなやつで嬉々としてお菓子を作っていたので、実際にやってみようということでクレープを作ることにした。 クレープは他のお菓子に比べてあまり手間はかからないが、それでもいくつかの工程がある。姪はどこまで関与したいのかと思い聞いてみると「簡単なとこだけでお願いしたい」とのことだったので工程のうちやりたいところをやってもらうようにする。 それじゃあクレープを作ろう。小麦粉を測って、砂糖を入れて混ぜる。小麦粉に、牛乳と、といた卵、最後に溶かしたバターをそこに入れてぐるぐるかき混ぜたら、ざるで漉して冷蔵庫で寝かせる。そのあいだに、クレープに入れるものを準備する。ホイップは既に泡立ててあるものを買ってある。果物は、
むかしZくんという男の子に会った。Zくんは4歳のアメリカ人。お父さんが研究者/アーティストで、お父さんが東京で講演をするのに着いてきたのだ。 Zくんに初めて会ったのは新宿にある、繭のかたちをした真新しいビルの控室だった。窓の外には新宿のまちが広がっている。Zくんは突然私に話しかけてきた。それは「今日の朝の地震さ、地震ってあんなくらいしか揺れないの?全然大したこと無いね」ということだった。つんとして強がっているのがかわいかった。 彼は繊細で、賢く、人懐っこい子だった。「彼にしかできない役割」をいくつか持っていた。そのひとつがエレベーターのボタンを押すこと。エレベーターで移動をしたい場合、そのボタンを押すのはZくんだ。他の人が押すと「どうしてそんなことをするんだ」と泣いた。 アメリカと日本の時差はけっこうひどい。Zくんは五時に置きて18時には寝るという完全なルーチンができていた。お父さんはZく
セッションという映画を見た。友人が「町山さんの映画評が嫌いだ」と言っていて驚いた。わたしは昔から町山さんの映画評が大好きで、だいたいあれを嫌いになりようがないじゃない、と思っていたからだ。でもその友人が言うには、 「町山さんの映画評は"正しい"。正しいが故に、他の解釈を許さない。いま日本の映画評は、町山さんの以外の見解が存在しないようになっている。それは映画にとってもすごく良くないし、あまりにも気詰まりだ。菊地さんはその状況の突破口を開いたんだと思う」 ということだった。なるほどなあ。 菊地さんとのやりとりで、町山さんがマジョリティだと言われているのが全然ピンと来なかった。「映画秘宝」節というのは永遠にマイノリティだと思っていたから。だが、町山さんの意見はいつのまにかメインストリームになっていたのだ。全然気が付かなかった。 従来の「映画評論家」の文章と比べて、宝島社から「映画秘宝」を経てア
意外なところで人に会うことがある。 昨日の昼、半蔵門のラジオ局で取材の仕事があって、その直前に打ち合わせをやっておこうということになった。打ち合わせの場所は、その場に来ない人(東京で一番働く女ことまゆみ嬢)からメールで指定された。ラジオ局の隣にあるホテルのラウンジ。身内の打ち合わせだし、駅のほうにドトールとかもあるからそっちでもいいんじゃないかなと思ったけど、わざわざ予定を変えるのも出来なくはないけどなんかあれだし、まあいっかと思って待ち合わせ場所に向かった。 大手町とか半蔵門のあたりってすごく建物が立派で、道が広くて、ワシントンとかブラジリアみたい(想像)な感じ。開けていて、人がいなくて、日本っぽくなくてすごく気持ちいいところ。私はそんな道を歩きながら 「そういえば寸さんが会社行くときにこの辺で降りて歩くんだって言ってたな〜。寸さん元気かな。この前焼き肉食べたけど。萩原くんとインターネッ
この前、一人で道路標識に登って遊んでる男子小学生がいた。ポールはつるつるしていて滑り落ちるのに、何度も何度も繰り返しチャレンジしている。これをもし大人がやってたら完全にキチ◯イだ。他の日には一人で階段でボールを上段に投げては落ちてくるのを繰り返す永久機関を楽しむ小学生を見た。いつもなら「小学生ってバカだな〜」と思って通り過ぎるところだが、ひたむきな彼らの姿はなんだか胸を打つものがあった。なぜならちょっと知恵がついてくると、こういう「生産性ゼロ」な遊びをしなくなるものだからだ。メディアで情報を得たり、コンテンツを消費すること、性欲・食欲・名誉欲などに「価値」を見いだすようになっていく。しかし、自らの能力を研鑽していくうちにだんだん無条件な幸せを味わうことが減るというのも良くある話しだ。 とすると、もしやこの生産性ゼロ遊びが幸せに至る鍵なのではないか?もはや記憶の彼方にある非生産的遊びをするこ
中目黒の古書店DESSINで行われた展覧会「ハロー風景」を見た。詩人、寸の俳句と大原大次郎のデザインによる句集「ハロー風景」の世界を、モビールと絵画により空間に再構成したもの。 句集「ハロー風景」は「うるおい」がテーマ。お風呂など、うるおいのある風景をテーマにした寸さんの俳句とその解説、大原さんの絵で構成されている。絵だけでなく、句集自体のデザインも大原さんによるものだ。 寸さんの俳句は、身近な「うるおい」のある風景を、いろんな角度からとらえたもの。俳句の舞台は、東京と京都を行き来する寸さんの身の回りのこと。それに合わせて、俳句が書かれた背景の解説が、等身大の、リズミカルで独特な言語感覚で書かれている。 寸さんが選び抜いた、みずみずしい言葉で書かれた俳句は、文字面だけでキラキラしている。 初音湯や天使走りて風光る なんて。初音湯は京都にある、よい銭湯なんだそう。そもそも、お風呂とは良いもの
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