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掃除・片付け
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ちょっとした小金が手に入ったので、相方に「なんか美味いもんでも喰いに行こうか」と水を向ける。俺の予想では、寿司か焼肉、しゃぶしゃぶ辺りを選択するだろうと思っていた。 相方は「ホテルのランチ・ビュッフェに行きたい」と言う。お、思ったよりも安上がりで済みそうだ。俺は思う。ランチ・ビュッフェなら、1人辺り2,500円~3,000円くらいだろう。 相方から、LINEのメッセージが来る。「川崎のホテルのランチ・ビュッフェ、1人6,000円だけど、どうかな?」 え? 何かの間違いか。ランチ・ビュッフェで、6,000円て何の冗談だ。ディナーじゃねえんだぞ、ランチだぞ! 「ランチなのに、6,000円もするのか。俺、3,000円くらいで喰えるのかと思ってたよ」帰宅してから相方に言う。 「昭和で(時が)止まってんの? 今時、ホテルのランチ・ビュッフェは6,000円が普通だよー」相方に馬鹿にされる。令和のランチ
タイトルだけ読んで、何やら艶っぽい話でもあるのかと想像した人はいないだろう。そんな話がある筈もない。 では、5番目とは何か。楽器の話である。 中学生の時にギターを弾き始めた。同じクラスの横山君というオタク少年にギターを教えて貰い、俺はコードを覚え、ギターの弾き方を学んだ。当時、中島みゆきのファンであったので、彼女の歌をギターで弾きたいなと思ったのが、ギターを始めた切っ掛け。 同級生の由利ちゃんが「ギター弾ける人って格好良いよね!」と呟いたことは、俺のギター歴に一切影響を与えていない。本当だぞ。由利ちゃんは、身長163センチで足が長かった。放課後、教室でブルマ姿(昭和の遺物だ)の由利ちゃんとお喋りをしながら、彼女の長い足が綺麗だったのを今でも昨日のように覚えている。由利ちゃん、元気かなあ…話が逸れまくった。由利ちゃんをデートに誘って断られたのも、今でもよく覚え…だから、しつこいよ。本題に戻れ
土曜の朝、10時頃に起きる。相方に「今日は午後からピアノ教室だから、1時ちょっと過ぎに出るよ」と告げる。相方は、夕方から元同僚のF妻と食事に出掛けるとの事。となると、晩御飯は俺1人だ、サッポロ一番で決まりである。味噌にするか塩にするかは後で決めよう。 ピアノ教室に出掛け、小芝風花似の優香先生のレッスン。この人は20代半ばなのだが、俺と会話する時も完全タメ口である。それが優香先生のキャラなので気にならない。今、レッスンでやっている練習曲は「イパネマの娘」である。Aメロがタイの連発、そしてBメロは二拍三連が続くという、俺の苦手なリズムパターンのみで構成される曲だ。二拍三連は以前レッスンでやった「ALL OF ME」でもあった。だが、その時はきちんと二拍三連を自分の物に出来ないまま終えてしまった。今回は優香先生からも「今度こそ、二拍三連をモノにしましょう!」と言われているのだ。さすがに前回出来な
古い友人であるShellyからメッセージが届いた。「私の娘のAdrienneが日本に行くのだけれど、時間取って彼女と会ってくれるかしら?」 Shellyはアメリカ在住の白人女性だ。 Shellyと俺との関わり合いは、過去に書いた。こちらを参照のこと。 25歳に戻れた夜~ブライアン・アダムスのライブを見て来た - Some Were Born To Sing The Blues Adrienneは、東京と京都を訪問するのだと言う。そこで俺は東京のお薦め観光スポットとして、浅草寺、東京スカイツリーの観光案内サイトのリンクを送り、英語の説明文を付けた。 また、どうせ食事をするのなら、居酒屋が良いと居酒屋紹介サイト(ここは最初から英語で説明があった)のリンクをメッセンジャーで送る。 日本に来て、ピザやハンバーガーを喰っても仕方あるまい。どうせなら、日本でしか喰えないものを経験させてやりたい。 火曜
店の不味いラーメンを喰うくらいなら、家で袋ラーメンを自分流に作るほうがよっぽど幸せになれる。 ※これは、不味いラーメン屋に不幸にして遭遇した場合の話である。 まずは、野菜とウインナーを炒める。味付けは袋ラーメンに添付されているスープの素を少々。但し、胡椒は「これでもかっ!」というくらいに振る。 そして、麺を茹でる。 お好みの硬さに茹で上がったら、ラーメン丼に移して、整える。ちなみに、このラーメン丼、大学に入学した19歳の時に、アパート近くのスーパーで買ったもの。もう30年以上の付き合い。 そして、炒めた野菜とウインナーを載せる。色味が悪いが気にするな。美味ければ良いのだ。 完成。追い胡椒をして、あとは喰らうだけ。
(このラーメンは俺が実際に食したものだが、今日の記事とは一切関係がない) 若い頃(と言っても30代の頃の話だが)は、食い物に興味がなかった。俺が興味があったのは酒だけだ。飲みに行っても、割り箸が袋に入ったままなんていうのもよくあった。お通しにすら手をつけなかったこともしばしばだった。 当時は職場の同僚に「ランチとか食べるの面倒くさいよね。錠剤3つくらい飲んだらさ、必要な栄養が全部取れて、満腹感を味わえる薬とかあればいいのにね」と言っては呆れられていた。 俺も年を喰って、その辺りはだいぶに変わった。今でも食にあまり興味はない。それでもやはり美味いものを食べれば「うん、美味しいね」と思えるし、不味いものを喰うと悲しい気持ちになる。 毎週木曜日は、相方がスペイン語のレッスンを仕事後に受けるので、晩御飯は別々に摂るという約束がある。或る日の木曜の夜のこと。残業を終え、晩御飯をどうするか考えた。 乗
今日、仕事途中に休憩で煙草を吸っていると、来生たかおの"GoodBye Day"のメロディが頭の中に流れ始めた。何故、来生たかおなのか。何故、"GoodBye Day"なのか。自分でも判らない。 俺のblogを読んでくださるような奇特な方は、俺と同世代のおっさん、おばさんだと思うので、来生たかおの説明は不要だろう。「来生たかおって誰?」というような若い方は、俺のようなおっさんのblogは読まないほうが良い。 さて、俺自身、来生たかおのファンという訳ではない。知っている曲も数曲程度だ。そして、この"GoodBye Day"に関しても特に好きな曲という訳でもなければ、何か想い出の1曲というものでもない。 多分、カラオケで1回くらいは歌ったことがあるかもしれないが、その程度である。ちなみに、ここ10年くらい、俺はカラオケボックスに行って歌を歌ったことがない。もっぱらSaxの練習に行くのみである。
12月にマンションを購入した話は既に書いた。 それでも家を買いました(購入編) - Some Were Born To Sing The Blues そして、引越しを1月20日に決めた。この日付に特に意味はない。相方が「引越し前に色々買い物をしたいから、余裕があったほうがいい」と言ったその意見を尊重したに過ぎない。 分譲/賃貸関係なく、新しい家に引越しを行うと、新たに色々と買い物をする必要が出て来る。引越し前後の部屋の間取り、広さが全く一緒であるならばともかく(そんなケースはまずない)、そうでない場合、現在使っている家具やテーブル等が使えなくなることが往々にして発生するからだ。 今まで住んでいた部屋も新しく住むところも、2LDKという間取りは同じだが、広さが微妙に違う。新しいほうが全体的に狭い。俺が使っていたクローゼットも圧倒的に小さく狭くなるため、今まで使っていた衣装ケースが使えないこと
2023年最後の夜は、熱海で過ごすことになっていた。 ここ数年、年末年始は温泉宿に泊まって、ゆっくりと過ごすのが定例となっている。そもそもの切っ掛けは、2020年に海外旅行に行けなかったことに端を発している。 2020年、俺は東京のボロアパートで単身赴任状態。相方は札幌で独り暮らし。2020年の10月にそれぞれ東京、札幌から神奈川へ引越。2つの拠点から1つの場所への引越を行う必要があった。とても海外旅行などをしている金銭的、時間的余裕はない。尤も、この年はコロナの影響もあって、引越がなくても海外旅行は無理だった。 相方が色々な意味で精神的にストレスを溜め込んでいたのは判っていた。たった1人、札幌で1年暮らしていたのだ。海外旅行の代替という意味で「年末に温泉旅行でもしようか」と水を向けると相方は乗って来た。前々から「お正月に料理作るの、嫌だなー」と相方は愚痴っていた。その程度の女房孝行はして
19歳の時、大学進学を機に上京した。初めての独り暮らしは4畳半一間の学生専用ボロアパート。トイレ、風呂共同。家賃が1万5千円だった。部屋の窓を開けると大家の家の壁が見えた。というか、壁しか見えなかった。 それから36年、多少は部屋のランク(広さと家賃)は上がったが、ずっと賃貸物件暮らし。別に「俺は一生賃貸で構わない」というポリシーがあったわけじゃない。ただ単純に家を買うという選択肢が俺の人生で発生しなかっただけのこと。 20代で結婚し、30歳前後に35年ローンでマンションを買う。そういった世間に存在する王道のライフプランとは無縁だった。これは俺が若い頃に1度失敗してバツがついていることも影響している(詳細は書かない)。 相方と知り合った時、俺は38歳だった。相方は2つ歳下。それから2年交際して一緒になった。ちなみにプロポーズは相方からだ。これも詳細は書かない(書けない)。 俺も相方も40代
(タコライスと野菜スープ。本日の晩御飯なり。食べたのは夜中の23時半だけれども) 人様のblogを読んでいると「50代になって、40代の頃よりもずっと楽になった」とか「30歳を迎えてもう若くないなぁと思ったけれども、20代よりも肩の力を抜いて生きられるようになった」などと、歳を取ることを非常にポジティブに捉えている人が多いことに気付いた。 この傾向は女性のほうが多いような気がする。単なるイメージだけの問題かもしれないが。 無論、歳を喰って「身体中がガタガタです。もうポンコツです」と身も蓋もないことを書いている人もやはり多い。 では翻って俺はどうか。 正直に言おう。俺は歳を喰って良かったと思ったことが一度もない。因みに参考までに書いておくと、俺は今日現在55歳だ。あ、もうあと数年で赤いちゃんちゃんこじゃねーかよ。泣きたくなってきた。いや別に泣きはしないけれど。 歳を喰って一番辛いのが、俺の場
目が醒めると、そこは見知らぬベッドの中。そして、隣には見知らぬ男… 「あっ」 私は慌ててベッドから起き上がり、膝を抱えた。何故か、男物の大きなTシャツを着ている。私は昨日の自分の服装を思い出そうとする。Tシャツなんか着ていなかった。でも、今自分が身に付けているのはTシャツ、それも男物の。 私は観念しながら、Tシャツの襟を引っ張り、自分の胸を覗き見る。ああ、やっぱり。ブラジャーは当然の如く着けていない。でも、パンティはちゃんと穿いてる。 それが何の慰めにもならないのは、自分が一番よく判っている。もしかして、この横に寝てる人と… 横に寝ていた男が目を醒ます。 「お。おはよう。えらく早起きだな。まだ、寝てればいいのに。今日は休みなんだろ」 「おはよう。うーん。なんか目醒めちゃったから」 「客人が起きたのなら、しょうがない。俺も起きるとするか」 彼が起き上がる。上半身裸で、下はトランクス一丁だ。
まだ、飲み足りない。もう少し飲みたい。今夜は一人でいたくない。化粧は剥げ欠け、慣れないヒールで指の先が痛む。気分は最悪。あいつなんか死ねばいいのに。 そして私は見知らぬ店の前にいる。 勇気を出して閉店間近の店に入ってみると、客は一人しかいなかった。髪の長い男性だった。私と同世代くらいかな。少し歳上かも。カウンターにだらしなく上半身を投げ出しながら、ロックグラスで透明なアルコールを飲んでいた。彼の横には、半分程空になったボトルがある。あれは、テキーラかしら? そしてカウンターに置かれた灰皿には、彼が吸っているとおぼしき煙草から煙が立ち昇っている。 私は、その男性から二つ程離れた席のスツールに腰を下ろした。初めての店なので、何をオーダーすればいいのかよく判らない。無難にラフロイグのロックにしようかな。 ちらりとその男性客のほうを見ると、彼と目が合った。長い前髪の間から憂いを帯びた瞳がある。どき
11/3にデフ・レパード、モトリー・クルーのジョイントライブを見て来た。デフ・レパードは、10代の頃に偶然テレビで演奏を見掛けた。最初はピンとこなかったのだが、繰り返し聞いているうちにファンになった。 テレビ出演での演奏というのは、いわゆる「当てぶり」という奴で、裏で音源を流して演奏しているように見せかけるもの。10代の頃の俺はそんなことも知らなかった。「生演奏でどうやってフェイドアウトさせてるんだろう」とずっと不思議に思っていた。馬鹿だね。 デフ・レパードの音楽性や演奏について熱く語っても、知らない人には「ふーん」で終わる。それに俺も熱く語れる程の情報を持ち合わせていない。だが、このバンドの歴史について、ちょっと語らせて貰おう。 このバンドは、ボーカル、ギター×2、ベース、ドラムの5人編成。ロックバンドとしては割とよくある形ではある。 初代ギタリストにしてバンドの発起人のピートは、酒癖の
11月12日の日曜日、横浜アリーナまで浜田省吾のライブを観に行ってきた。(上の画像は浜田省吾のlive画像ではない) 俺が浜田省吾を初めて聴いたのは15歳の時だ。あれから実に40年の月日が流れたことになる。そして、今回のライブが俺にとって初の「浜田省吾のライブ」である。初めて彼の歌声を聴いてから随分と時間が過ぎたものだ。 15歳の頃の俺は、いわゆるハードロックキッズだった。激しく歪んだギターが大音量で演奏され、ドラムが低音で地を這い、ボーカルが血管切れるんじゃないかというくらいに絶叫する、そういった音楽を好んで聴いていた。10代の頃というのは、間違いなく兄や姉の音楽の影響を受けると思う。だが俺は長兄だったから、そういった意味で俺に刺激を与えてくれる人がいなかった。家のすぐ近くに従兄妹が住んでいた。彼らのお陰で中島みゆきとダウンタウンブギウギバンドの音楽を仕入れることは出来たが、他の音楽はほ
10/22に、俺が通っているSax教室の発表会があった。そこで俺はPe’zの「夢ノエンアレ」という曲を演奏した。結果は無残の一言に尽きる。 いやあ、酷い演奏だった。ここ1ヶ月程、週末はカラオケボックスに行って、ひたすらその曲だけを練習していた。そして本番がここ1ヶ月の演奏で一番酷かった。無論、練習と本番で同じ精度の演奏が出来る訳がない。練習は1人、カラオケボックスで吹くだけ。だから、プレッシャーとも無縁だし、失敗しても気にならないというリラックスした状態で吹ける。本番よりも出来が良いのは当たり前とも言える。 それにしても、である。 演奏が終わって「どうしてこんなにグダグダだったのかなぁ…」と省みた。すると「本番で失敗して当然じゃん」といういくつかの要素が見つかった。 本番の演奏の酷さの言い訳を探しているだけという気もするが、せっかくなので、ここに記す。 バンドマン、或いは楽器を演奏する方な
ドラゴンボートから下船したのが2時ちょっと過ぎ。旅行会社の迎えは4時だ。「時間余ったねー」となり、カフェに入って涼むことにした。もう後は帰国するだけなので、俺もアイスコーヒーを注文。氷も平気だ。 せっかくなので、カフェの様子もご案内しよう。 10年以上前、カンボジアに旅行した時、相方と全く同じ料理、飲み物を頼んだのに、俺だけ翌日腹痛になったことがある。相方からは「貴方の胃は繊細だから海外に向かないんだよ」と訳の判らん慰めを貰ったこともある。今回はかなり氷の入った飲み物を頼んだが、腹痛に悩まされることはなかった。単に運が良かっただけかもしれない。 ベトナムドン(VND)の残金が約5,000円程度。このまま残しておいても仕方ない。日本ではVNDは両替出来ないのだ。 俺はふと思いつく。これは我ながら名案だった。 「なあ、どうせだからマッサージ受けようよ。時間と残金潰すのにちょうどいい」 「この辺
フエ2日目にして、ベトナム旅行最終日。旅行は本当にあっという間に過ぎる。いつもそれを実感している。 本日の相方の計画は、ドラゴンボートに乗って、ティエン・ムー寺を見に行くこと。この寺は陸路からも行けるのだが、ドラゴンボートに乗らないと意味がないらしい。 まずは朝食である。今日の予定は上記1つだけなので、朝食もギリギリの9時近くにレストランに行く。客は俺達以外、誰もいなかった。と思ったら、派手なスパッツを穿いた中年女性が1人でやってきて、ホテルスタッフと談笑している。アパホテルの女社長を思い出して貰いたい。相方と「あの人、ホテルの関係者かな、それとも単に馴れ馴れしい常連客かな」と言い合う。無論、答えは闇の中。 12時チェックアウトまでまたホテルのベッドに寝転がってスマホ三昧。今回の旅行は観光の予定をほぼ入れていなかったので、時間に物凄く余裕があった。余った時間に何をやっていたかというとスマホ
本日でホイアンを離れてフエに移動となる。そして明日は日本に帰国。旅行というのは、旅行に限らずだが、楽しみ事はそれが始まる前が一番楽しく、そしていざ始まるとあっという間に終わってしまう。 ホイアン最後の朝食。と言ってもビュッフェスタイルなので昨日と変わらないのではあるが。ただ、オムレツ、フォーそしてバインミーをシェフに作って貰った。さすがに喰い過ぎな気がしないでもないが、俺達は朝食を摂るとランチは食べないので(一日二食である)、このくらい食べても問題ない。何が問題ないのかよく判らんが。 チェックアウトは12時。お昼まで部屋でのんびりしていられる。そして12時半に旅行会社のドライバーが俺達をピックアップしてフエまで送ってくれる予定となっている。 食事を終えると、あとは12時まで何もやることがない。もう旧市街は充分に堪能したし、お昼近くに歩き回ると冗談抜きに死ぬ。 部屋の入り口のテラス席でくつろ
旅行3日目。昨日、ホイアンの旧市街は歩き回った。土産もある程度買えた。明日はフエへ移動である。今日一日はもう、のんびり過ごそうと相方と決めた。 起きて、まずは朝食。食事は昨日となんら変わらないのではあるが、玉子料理を頼めることが判ったので、スクランブルエッグを調理して貰う。フォーも作って貰ったのだが、サービスでかぼちゃを入れてくれた。正直要らなかったのではあるが、好意を無碍にしてはいけない。 食事を終えて、せっかくなのでホテルのプールサイドで金持ち気分を味わおうということになった。ラスベガスに行った時(15年以上前の話だが)、ホテルのプールサイドで寝そべって小説を読んで過ごしている白人の金持ち達を見て以来、いつか自分もやってみたかったのである。 相方は水着を持って来ていたが「陽に焼けるのが嫌だ」と着替えぬまま。俺は水着になって、時々プールで泳いだり。とか言っているが、俺はカナヅチなのである
真昼間の旧市街の散策を終えて、俺達はホテルに戻った。旧市街からホテルまで徒歩10分足らずという立地が有難い。 ただ、一つ言えるのは、9月のベトナムを真昼間に歩き回るのは馬鹿のやることだ。そうだ、俺達は馬鹿者である。これは10年以上前にカンボジアに行った時もそうだったが、東南アジアの昼間の暑さは洒落にならない。午前中(朝早く)に観光し、午後はホテルで休憩。そして陽が落ちてからまた街に出掛けるのが正しいスタイルだ。 ホテルに戻った時、Tシャツは冗談抜きで汗でビショビショだった。パンツ(トランクスのことね)も汗だくである。部屋に戻り、水シャワーを浴びる。俺は身長177センチ、体重69キロなので、典型的な中肉中背なのだが、若い頃から汗かきだった。よく太っている人は汗かきと言うが、俺のような太っていない人でも汗かきはいるのだ。何故なのだろう。 20代の頃、真夏に夏用スーツを着ていたのだが、汗をかいて
目覚ましは特にセットしていなかったが、8時くらいに目が覚めた。起きてまずは、部屋の外に出て、テラス席で一服する。このリゾートホテル感満載の景色を見ながらの一服は、非常に心が癒される。 相方が朝の化粧を始める。これが長いんだよなあ。とは言え、いつもは1時間くらい掛かるのだが、ベトナム旅行の間はわりと短くて、30分くらいで済んだ。何が違うのだろうか。化粧せずに下地だけとかなのかな?(化粧のことは判らない) 相方の準備が出来たので、朝食を出してくれるレストランへ行く。レストランもオープンカフェ状態で、川が近くに見えて景色は非常に良い。とは言え、蚊や虫が結構飛んでいて、見た目ほど優雅ではないのだけれども。 朝食はビュッフェスタイルなので、特段変わったものはない。但し、ベトナムなので「フォー」と「バインミー」をコックさんに頼むと別途作ってくれる。取り合えずフォーを作って貰い、他にも適当に好きな物を取
空港を出ると、俺と相方の名前をローマ字で記載したA4の紙を持っている女性を発見。旅行代理店の現地社員だ。 送迎の車に乗り込む。空港からホイアンの俺達の滞在するホテルまでは約50分程度。空港に降り立った時のあまりの暑さに眩暈すら覚えたが、車の中はエアコンが効いていて快適だ。 12年前にホーチミンに来た時はあまりの原付バイクの多さに衝撃を受けたが、ここホイアンは田舎のせいか、原付バイクの数は少ない。とは言っても、日本と比べると圧倒的に多い。地元民にとって、バイクが完全に足になっているのだ。ベトナムは電車が整備されていないから、バイクの使用が多くなるのは必然である。50分程走ると、汚い大きな川が見えて来た。 これが、トゥボン川らしい。俺達の泊まるホテルはこの川沿いにあった。ランタンが俺達をお出迎えである。 ホテルに到着し、ウエルカムドリンクでオレンジジュースを貰う。東南アジアの基本なのだが、オレ
9月の19日から24日まで、ベトナムへ旅行してきた。ベトナムは12年前に、カンボジアとの抱き合わせで旅行して以来である。 相方が海外旅行の計画を立てた時、本当に行きたかったのはスペインだった。どれだけスペインが好きなんだよという話ではある。俺達は過去に3回スペインに行き、主要な都市はほぼ巡った。この場合の主要都市というのは、「相方が行きたい街」という意味である。サグラダファミリアはやはり素晴らしかったし、バルセロナなら毎年でも行きたいくらいだ。相方は「残すは、マドリードだけだな」と息巻いていた。 だが、その計画はあっさりと頓挫した。「燃油サーチャージがスペインだと片道1人5万円だよ!」相方はぼやいた。 つまり、2人で往復20万円。何もしなくても20万円が最初から加算されるのである。これはいくらなんでも無理だ。 そして代替案として相方が選んだのがベトナムである。何故ベトナムなのかはよく判らな
今日からベトナムに来ています。 ベトナムは暑い。 現地からは以上です。
一日の中で、多分一番リラックス出来るのは、風呂に入ってバスタブの中で湯に浸かって本を読んでいる時だと思う。 俺の入浴スタイルは烏の行水なので、湯舟に浸かっている時間は短い。風呂に長めに入るのに最も効果的なのは、入浴中に本を読むことだ。 読む本は基本的には、時代小説かミステリが多い。雑学書やライフハック的なものは読まない。こういったものは元々読む習慣がない。よく「xx代のうちにしておくべきこと」みたいなタイトルの本があるが、ああいったものは胡散臭いと思っているので、最初から選択外だ。その類の本を読む人を否定はしない。俺が読まないというだけの話。 俺が本に求めているものは、知識や生きていく上での参考となる情報などではない。純粋な「エンターテインメント」である。本を読んでいる間は、素直にその世界に没頭して憂さの多い世の中から離脱していたい。 これは俺が映画に求めるものと共通している。映画は完全に
うちの近所には良い飯屋がない。そもそも場所が悪い。電車で川崎まで10分、横浜まで8分程度で行ける街だ。つまり、すぐ近くに巨大都市があるのだから、その狭間に埋もれた住宅街に良い飲食店がある筈がない。良い店は必ず川崎か横浜のどちらかに存在しているということになる。 相方と外で飯を食おうとなった場合に、選択肢はサイゼリヤ、スシロー、日高屋、餃子の王将くらいとなる。無論、居酒屋は何軒かあるが、相方との取り決めで、相方と一緒の時、酒は禁止という鬼のルールがあるので、居酒屋は最初から対象外になる。また、相方は蕎麦が好きではないので、蕎麦屋が選択肢に上がることもない。蕎麦の味が判らない馬鹿は、箪笥の角に小指をぶつけて、泣けばいいのに。なんだそれ。 先日、相方と日高屋で夕食を摂ることにした。相方は「野菜を摂らないと死んじゃう教」の熱烈な信者なので、彼女が頼むのはいつもタンメン。タンメンは、なんで塩味なんだ
前回、札幌に行ってSaxを吹いてきた話を書いた。ふと、俺が札幌にまで出掛けてSaxを吹く、吹けるという事は、実は色々な幸運の積重ねなのではないか、と気付いた。 そこで、どうしてこの僥倖があり得たのか、ちょっと映画メメント風に、現時点から過去にこの長い道を辿ってみたい。 8月第一週に札幌に出掛けて、札幌の友人(以下、師匠。彼のニックネームだ)やバンド仲間と再会し、イベント会場でライブを行い、Saxを吹いた。 何故、そうなったか。それは去年も同じフェスに呼ばれてSaxを吹いた過去実績があったからだ。 去年、俺が呼ばれたのは、師匠がフェスの主催者であり、師匠のバンド出演することが決まったから。まず、この時点で師匠がフェスを開催するということを企画しなくては、何も始まらない。 俺も札幌にいた時はこのバンドにギター担当で所属していた。だから遊びに来いと師匠に去年言われたのだ。俺がこのバンドを離れたの
8月の第一週の週末、札幌へ行ってきた。目的は去年と同じく、昔のバンド仲間と共にSaxを演奏するためだ。 (向かって右から3番目のキャップと赤いシャツを着て、Saxを持っているのが俺) 話の前提を書いておく。 2016年12月から2019年5月まで、俺は札幌で暮らしていた。仕事は大して面白くなかったが、趣味では二つのバンドに所属し、それぞれドラムとギターを演奏していた。それに加えてSax教室とピアノ教室に通い、音楽三昧な日々だった。 2019年に仕事の関係で札幌を離れ、それから東京で単身赴任生活、その後は神奈川へと移り住んだ。よく考えてみると、色々な場所で暮らしているものだなと思う。 去年の6月に札幌時代に一緒にバンドを組んでいた友人から電話が来た。「イベントでバンドの演奏やるから、札幌に来いよ」二つ返事でOKと言うと、友人はさらに言った。「で、ギターで参加する?」 バンドには俺の後任のギタ
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