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40年も国を保って「バカ殿」扱い。 何度も像が破壊された? 皇帝・劉禅の悲劇 ここからはじめる! 三国志入門 第100回 劉禅(りゅうぜん/207~271)。その幼名である阿斗(あと)は、中国では「阿呆」とか「無能」の代名詞とされている。父の劉備や諸葛亮が建国した蜀を滅亡させた「暗君」という理由から「英雄」とは逆の意味で有名である。 だが、昔からいわれていることでもあるが、彼を本当に暗君と決めつけていいのかという疑問に当たる。いうなれば、江戸幕府を終わらせた徳川慶喜と比べるとわかりやすいのかもしれない。 ■趙雲に命を救われた若君 劉禅は西暦207年、荊州に身を寄せていた劉備と側室・甘(かん)氏との間に生まれた。このとき劉備はすでに47歳。戦で転々としてきた彼には、養子の劉封(りゅうほう)のほか息子はいなかった。それまでの子は戦で命を落としたか、何らかの理由で殺されたのだろう。 この年も曹操
絵画史上最大の謎とされるのが、「写楽は誰か?」という命題である。2025年大河の主役・蔦屋重三郎によってプロデュースされ、スターとなった浮世絵師・写楽は、1年にも満たぬうちに忽然と姿を消した。長い間その正体は議論され、昨今はその実像が少しずつ見えてきたようである。写楽とは、いったい何者だったのだろうか? ■2025年大河ドラマの主人公・蔦屋重三郎 少し気が早いが、今回は2025年に放映される大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」にまつわるお話である。主人公は、江戸時代の敏腕プロヂューサー・蔦屋重三郎。演じるのは、横浜流星さんである。 一説によれば、彼の才能は多彩で、出版プロヂューサーとしてだけでなく、絵師としての能力にも長けていたというから、今で言うところのマルチタレントとでも言うべき存在だったことが推測される。 ただし、生まれは吉原の遊郭とあって、少年時代はおそらく、相当辛苦を舐めたに
長い日本の歴史上、もっとも有名な女性はだれでしょうか。そう聞くと、卑弥呼(ひみこ)と答える人は多そうです。そのむかし、「倭」(わ)とよばれていた日本。そのどこかにあった邪馬台国(やまたいこく)に住み、人々を指導した女王とされていますが、これほど有名なのに、彼女の正体はなぞに包まれています。いったい、なぜでしょうか?【歴史人Kids】 卑弥呼には、鬼道(きどう)で人々をしたがわせ、倭の約30国を治めていたこと、夫はもたず、人前にはあまり姿を見せず、弟が彼女の世話をしていたことなど、いくつかのわずかな記録しかありません。 ■卑弥呼が登場する倭人伝は「三国志」の一部 その記録も、じつは日本の歴史書である『古事記』(こじき)や『日本書紀』(にほんしょき)などにはなく、今から1800年も前にあたる3世紀の中国の歴史書『三国志』(さんごくし)の中にあるのです。『三国志』とは魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(
■海を隔てて存在する前方後円墳の謎 さて今回はわからないことの方が多いし、慎重にするべきお話になります。それは、歴史的に密接なつながりがないわけがない現在の大韓民国(韓国)の方と日本人の、感じ方や考え方を刺激する可能性があるからです。私は純粋に歴史学的な話しかしませんが、中には気分を害される方や短絡的に結論する方がいらっしゃるかもしれませんので、あらかじめそういうつもりは全くないということを述べておきます。 朝鮮半島の南西部に栄山江(ヨンサンガン)という大河の流域地域があります。ここに現在のところ認められる前方後円墳形の墳墓が14基前後あるそうです。一時韓国では、「前方後円墳も韓国由来の墳墓だ」と話題になりましたが、考古学的には日本列島で前方後円墳が出現した後の時代のものであることが判明して、そういう話はなくなりました。 しかしなぜ海を渡った朝鮮半島の南西部に日本固有の前方後円墳が14基前
大阪府堺市の百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)と一緒に世界遺産に登録されている大阪府の藤井寺市と羽曳野市にまたがる古市古墳群(ふるいちこふんぐん)について考えてみよう。同時に巨大な古墳の管理についても考えてみたい。 大阪府の東部にある古市古墳群は、西部にある堺市の百舌鳥古墳群に比べると少し注目度が低いように思えます。堺市は百舌鳥古墳群の中央に広大な市民の憩いの場である大仙公園や堺市博物館が仁徳天皇陵古墳や履中天皇陵古墳に囲まれていてアクセスしやすいのですが、古市古墳群周辺は、密集住宅街ですので巨大な古墳がそれぞれ単独で集合している感じで、訪問しにくいのが理由でしょうか? 日本最大規模の仁徳天皇陵古墳は最外提の長さが、ちょうどJRの一駅分になります。 形も航空写真でおなじみのように、三重の濠(ほり)に囲まれた典型的でスマートな前方後円墳ですし、周辺には多くの陪冢(ばいちょう)を従えています。 一
連日、話題となっているジャニー喜多川氏の性加害問題。「公然の秘密」として黙認されてきたこともこの問題の異常性とされているが、同じように闇に葬られかけた性加害があった。それが、カリスマ的な学者であった折口信夫(おりくちしのぶ)による弟子たちへのセクハラである。「布団の中に潜り込んで襲っても、セクハラが暗黙の了解となっていて誰も騒がなかった」「折口の死後、被害者が事実を語ると批判を浴びた」など、ジャニーズ問題で報道されている内容と類似点も多い折口の事件について、経緯を見ていこう。 ■立場を利用して弟子に迫った学者・折口信夫 日本中を騒がせている故・ジャニー喜多川氏による性加害問題。BBCで放送されたドキュメンタリー「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」では、かつてジャニー氏から性加害を受けながらも、今でも彼のことが大好きだという男性について、ジャーナリストが「グルーミングを受けた結果だ
1997年『算学奇人伝』で開高健賞受賞。時代小説のほか、江戸文化に関する評論も数多い。著書に『江戸の糞尿学』(作品社)、図説吉原事典(朝日新聞出版)、江戸の性語辞典(朝日新聞出版)など。
吉原は公許の遊廓である。そのため、吉原の遊女は公娼(こうしょう)だった。 江戸幕府は、吉原以外での売春、つまり私娼(ししょう)を禁じた。しかし、これはあくまで建前であり、実態は野放しに近かった。 江戸の各地には岡場所と呼ばれる私娼街がたくさんあり、公然と営業していた。町奉行所は見て見ぬふりをしていたといってよい。 ところが、天明七年(1787)に松平定信が老中に就任し、断行した政治改革――寛政の改革は、杓子定規そのものだった。私娼は厳禁され、江戸市中の岡場所はすべて取り払われた。 寛政年間の見聞を記した『梅翁随筆』(著者不詳)は、岡場所の取り払いは徹底していたと記したあと―― 夫より町に住て色を売る事あたはざるゆへ、女商人と成り提重へ菓子を入て、屋しきの部屋々々、辻番所に入来り情を商ふと成。此女を提重と異名して大に流行せしが…… と述べている。 本来、提重(さげじゅう)は提重箱の略である。
わが国の歴史には「空白の四世紀」とか「謎の四世紀」と呼ばれる、まったく記述のない時代がある。 しかしながらその空白の入口である弥生時代末期と出口の「倭の五王」の時代では、すべての面であまりにも違いが大きすぎる。この期間はなぜ空白で、いったい何があったのだろうか? ■卑弥呼から倭の五王までの時代は謎だらけ 奈良県桜井市にある「三輪明神(みわみょうじん)大神神社(おおみわじんじゃ)」の主祭神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の妻が「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」で、箸墓に埋葬されたと伝わっている。 (撮影:柏木宏之) 突然のように出現した巨大な前方後円墳が大和(やまと)から広がりを見せる3世紀後半~5世紀初頭は、具体的な記録が無いので「空白の四世紀」といわれています。 中国の史書を参考にすると、『晋書 倭人伝(しんじょ わじんでん)』にある邪馬台国の新女王台与(と
NHKの朝ドラで神木隆之介演じる「槙野万太郎」のモデルとなった植物学者・牧野富太郎(まきの・とみたろう)。「植物こそが愛人」と公言していた彼は、25歳のとき、高知の御曹司であることを匂わせて14歳の少女に求愛。既婚でありながら子どもを産ませるが、その後は放ったらかしにし、音楽活動などに明け暮れていた。もちろん時代が違うため現代の価値観では判断しえない部分もあるのだが、どういった経緯だったかを現代なりの視点でみていこう。 NHK朝の連続テレビ小説『らんまん』の主人公のモデルに抜擢され、再注目を浴びている天才植物学者・牧野富太郎。長年、現在の東大で研究生活に勤しんだ彼ですが、本人の回想録によると「私が(大学の)学位を貰ったのは昭和二年(1927年)四月」で、彼が65歳のときでした。それまで、牧野の最終学歴はなんと尋常小学校中退だったのです。 しかも、この時、牧野は「何の奇も何の興趣(きょうしゅ
太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国(こうこく)の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第12回は、一新聞社が国を挙げた記念行事のために計画し、陸軍の後押しを受けて開発。わずか2機が造られた超長距離機キ77(A-26)である。 1940年、日本は皇紀2600年を迎える。これを記念する行事として、朝日新聞社は、東京~ニューヨーク間の超長距離親善飛行を発案した。当時、太平洋横断飛行は大変な難事とされており、同社はそれを行なえる機体の開発を、東大航空研究所に依頼したのだった。 ところが日本とアメリカの関係は悪化の一途を辿り、ついに1941年12月8日、日本はアメリカに参戦した。このような国際情勢もあって、キ77(通称A-26)の開発は、当然ながら開戦
三国志の入門書として、今なお愛読者を増やし続けている不朽(ふきゅう)の名作、横山光輝(よこやまみつてる)『三国志』。作中でも不動の人気を誇る諸葛亮(孔明/しょかつりょうこうめい)のエピソードや、官渡(かんと)の戦いが省略された理由を探る。 ■3分の1が終わって登場する「主人公」 「やっぱり諸葛孔明が主人公だと思って読み始めた人も多いみたいで、一体いつ主役の孔明が出てくるんですか? と読者の方にはよく言われました」 漫画家・横山光輝(1934~2004)は生前のインタビューで、こう話していた。諸葛亮の知名度や人気がよくわかるが、彼の登場はコミックス全60巻のうち、実に1/3が終わった21巻から。当時の読者がいかに首を長くして待ったか、また「三国志」がいかに長大な物語であったかも思い知らされる。 「子どもの頃に吉川英治さんの小説を読んで印象深かったのは諸葛亮で、すごく好きだった。誰もいない城で
生涯にもうけた子どもの数が50人以上という11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)。その子どもの半数以上が成人しなかったのは、大奥ならではの育児事情に原因があった。 春日局が穿いている緋袴は、宮廷の女性たちが着用していたもの。つまり春日局には宮廷(御所)に上がる資格があったことを表している。(春日局像[摸本]/東京国立博物館蔵、出典:国立文化財機構所蔵品総合検索システム) 11代将軍徳川家斉は、なんと生涯で53人(一説には55人)の子どもをもうけた。そのうち、成人したのが、わずか26人。半分以下である。そのほとんどが、5歳までに亡くなっている。江戸時代には7歳までは神のうちといわれて、乳幼児死亡率が2割とも3割ともされているとはいえ突出している。 どうして、将軍の子どもは、成人しないのか? これは、大奥ならではの子育てに理由があった。 今では、母親が子どもを育てることが当たり前だが、かつて
戦国時代、幾多の武将たちが争った。その基地となったのは、もちろん城であり、全国は多くの城が存在。今はその形跡を残すものもあれば、わずかな痕跡しか辿れない城もある。今回は知られざる愛知の名城「西尾城」の現在と歴史に迫る! ■戦国乱世を耐え抜き、六万石の城下町の威容を今に伝える城跡 西尾城は、愛知県西尾市に位置しており、矢作川と矢作古川に挟まれた碧海台地の先端に築かれているため、平山城に分類される。かつては、城下町を堀と土塁で囲む惣構(そうがまえ)が設けられており、広大な城域を誇っていた。しかし、近代化のなかで市街地化しており、現在は、本丸・二の丸を中心とした一部分が、西尾市立歴史公園として整備されている。 西尾城の歴史は古く、鎌倉時代の初期に三河守護となった足利義氏(あしかがよしうじ)が築いた西条城に始まるともいう。ただし、この西条城は、現在の西尾城とは別な場所であるという見解もあり、西尾城
大和王権が確立し、国家としての体制を作り上げる4世紀から6世紀にかけて、各地で実力を蓄積していた豪族たちとは、どんな集団だったのだろうか? 紀伊の国を中心とした岩橋千塚古墳群を歩きながら、考えてみたい。 和歌山県 岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群MAP 大阪府と奈良県に接する和歌山県北部紀ノ川沿いに築かれた大古墳群。発掘調査が続けられ、公園としても整備されている。和歌山県立紀伊風土記の丘公園。紀ノ川上流に遡れば高野山、真田幸村親子が幽閉された九度山真田ミュージアム、河口方面には和歌山城がある。(展示:和歌山県立紀伊風土記の丘資料館/撮影:柏木宏之) 豪族たちの勢力範囲は現在の行政区分を外して広く考えてみよう 奈良県や大阪府には巨大な大王墓が群れをなして残されています。 そして、その王権を支えた大豪族たちの存在の痕跡は、大王墓エリアを囲むように広大な地域に残されています。 例えば、和歌山県北
WEBもSNSもない時代の情報源は「新聞」であった。さらにさかのぼれば「かわら版」になるだろうか。現在はわたしたちは「新聞」を簡単に手にすることができ、様々な情報を得ることができるが、新聞が現在の形になったのはいつなのだろうか? その歴史にせまる。 ■日本の新聞のはじまり 通勤途中、目的地までの時間を何に費やすか。現在ではスマホをいじる人が圧倒的多数派だが、30年前は紙媒体の新聞・雑誌を読む人が大半を占めていた。 駅の売店で新聞を購入する人も、宅配による定期購入者も激減したわけだが、車内でスマホを手にする人の何割かは電子版の新聞記事を見ているだろうから、まだ新聞自体が役割を終えたわけではなく、ニュースの発信源として、新聞に代わりうる媒体も育っていない。日刊で総合的なニュースを発信し続けるには、取材やファクト・チェックにそれなりの人数と時間を割く必要があるため、個人や小規模な組織にはできない
そば屋の屋台は肩に担いで移動することが可能であった。客に声を掛けられたら屋台を置き、その場で調理したそばを提供したという。『職人盡繪詞』 国立国会図書館蔵 そば屋は寛文4年(1644)に初めての店ができ、以来あれよあれよという間に増殖し、一説によると文政年間(1818~1830)には3000軒になったといわれている。江戸は俗に八百八町(はっぴゃくやちょう)といわれているので1町に1軒はあったことになる。これ以外にも屋台で商うこともあったので、ちょっと小腹がすき何か腹に入れたという時などすぐに食べることができた。また、温かいメニューは冬場に体が温まるからと注文する人もいたという。 現在でも大きな駅の構内や駅前などにもあるので、朝や移動中など時間がない時に利用する人もいるだろう。近年になってラーメン屋に抜かれるまで、江戸時代からずっと日本でもっとも多い飲食店はそば屋であったという。 もっとも
アニメ『刀剣乱舞 廻』で忠義者として描かれる【へし切長谷部】…実物の名の由来となった残虐すぎる仕打ちとは?
背中や肩、腕など自分では洗いにくい部分を丹念に磨き上げてくれた後、簡単なマッサージが付いて4文だった。湯屋に勤める者の多くは越後や越中などの出身で、お金をためて湯屋の経営者になることを夢見て真面目に働いていたという。イラスト/志水則友 裸の女性を触りまくった上にお金がもらえて感謝されることもあるという、大抵の男性が「うらやましい」と思える仕事がかつてあった。 この仕事がなぜ生まれたかということを説明するには、湯屋(ゆや)と呼ばれていた銭湯の歴史を紐とかなければならない。天正19年(1591)江戸で初めてできた銭湯は、今のように広い湯舟はなく、密閉した室内に湯気を充満させたところに客が入る。湯気で皮膚が柔らかくなり垢が浮いてきたところを搔き落とした後、ぬるま湯や水で洗い流すという今のサウナのようなものであった。 垢を搔き落とすといっても背中は自分では難しい。そこで、これを専門に行う人が現われ
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