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森田成也先生という先生が『マルクス主義、フェミニズム、セックスワーク論』という本を出版して、読んでみたんですが、私が見るところ問題が多いと思います。いくつか問題を指摘しておきたいと思います。 セックスワーク論と呼ばれる立場は、他の仕事と同様に売春も仕事の一種であると、売買春の自由化あるいは非犯罪化をもとめる傾向の主張です。これはOK。 森田先生によれば、この立場に立つ人々が達成したいのは(江口のまとめ)、 逮捕を恐れて悪徳警官やピンプにしたがう必要がなくなり、ワーカーが安全に仕事できるようになる不当な搾取や人身売買の被害や目撃を通報しやすくなるワーカーに対する道徳的スティグマが減少し、そのため仕事からの離脱も容易になるということだそうです。まあこれもOK。基本的にセックスワーク擁護の人々はワーカーの安全を一番の目標にしていると思います。 これに対して森田先生は、売買春自由化・非処罰化より、
実はこの2冊は同じ本が原書で、タイトルだけ違うのか中身もすこしいじってるのかわかりませんが、まあエリス先生の本はなに読んでもまったく同じこと書いてるので、どれ読んでもいっしょです。 『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには』 この本はタイトルがいいですよね。お釈迦様のお説教に、次のような話(「二の矢」の比喩)があるらしいんですが、まあ我々はそういうことはどうしても学ばないとならんのですな。 「修行者たちよ」釈尊は、次のように弟子達に尋ねた。 「まだ私の教えを知らない者にも、心楽しい時もあれば、苦しい時もある。すでに私の教えを知っている弟子たちにも、心楽しい時もあれば、苦しい時もある。では、まだ私の教えを知らない者と弟子のあいだには、どのような違いがあるだろうか」。 弟子達は謙虚に言った。「分かりません。貴い人よ、どうか教えて下さい。私たちは貴方の教えを根本とし、貴方を眼目として生
ポルノやソフトな表現での「性的モノ化」(客体化、物象化)の問題については、ごく簡単な論文もどきも書いたし、もう飽きてる感じではあるんですが、時々ツイッター検索とかをかけると、いまだに時々この概念が使われてるようですね。 何度も書いているように、ポルノとかの「モノ化」の問題の一つは、単なるモノや動物ではない価値をもっていると考えられる人(パーソン)や女性を、単なるモノ(オブジェクト)として扱うこと、勝手に鑑賞したりよしあしを品評したり本人の意思に反して操作したりする対象・客体(オジェクト)として扱うことは、他人や自分に対してもつべき尊敬・尊重の念に反するので道徳的に問題がある、というものです。特に女性は男性から性的なモノ、セックスや痴漢や盗撮という行為の対象となりやすく、それよって被害を受けたり、他人がそうされているのを知って少なくとも不快になったりする。いくないですね。(ちなみにここでのモ
こうしたなかで、アメリカ心理学会が2007年に「少女のセクシー化」が女性にもたらす悪影響についての心理学的研究の報告書を出すわけです。これはけっこうな分量(70頁ぐらい)と内容のものなんですわ。 Task Force on the Seuxalization of Girls (2007) The Sexualization of Girls APAは学術研究者に加え、臨床心理学者というかカウンセラーや精神科医なども含む巨大組織で、単に研究するだけでなく社会的な政策みたいなのにも心理学の立場からコミットするのが任務だと思ってるわけです。んで、公衆メンタル衛生みたいなもおにも積極的にとりくんで、政策提言みたいなのに近いこともしようとしている。 そこではひとのセクシー化っていうのは四つぐらいの下位区分がある。 (1). ひとの価値が、セックスアピールや性的なふるまいによって決定され、他の特質が
現代ビジネスオンライン https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68733 に載せたものをorg2blogのテストとしてこっそり転載しとこう。1年以上経過したし、転載してもかまわんだろう。(お金くれるって言われた気がするけどもらってないし) 日本赤十字社が献血を呼びかけるポスターをめぐってSNSで激しい議論が生じた。この「現代ビジネス」上でも、大阪大学教授の牟田和恵氏が論説を発表している。 赤十字社のコラボ相手となった丈(たけ)氏作『宇崎ちゃんは遊びたい!』は、累計で60万部以上を売り上げている人気マンガだ。 https://amzn.to/2OmK4sa 主人公の一人の桜井先輩は、高身長のイケメンだが奥手で堅物の男子大学生である。もう一人の主人公宇崎ちゃんは、女性的で豊満な身体つきだが、実は非常に活発で食い意地がはった「ウザくてカワイイ」女子大学生である
めくってみているDavid C. Geary (2021) Male, Female: The Evolution of Human Sex Difference, 3rd ed.っていうのにトランスジェンダーの人々についての基礎知識があったので、Emacsのorg2blogってのでwordpressを書くテストをかねてメモあげてみます。 ジェンダーアイデンティティ = 自分のジェンダーについての当人の心理的感覚。99%以上は誕生時の性別に一致。トランスジェンダーの人は生まれつきの性別がジェンダーアイデンティティと合ってない人。(ただし男女以外の場合もある。ノンバイナリー、ジェンダー流動的、ジェンダークィアなど)。さまざまな文化で性別に典型的でないふるまいをする人々を記述する言葉がある。ジェンダー違和(gender dysphoria 性別違和)、異性として見られ受けいれられたいという強い
Dropbox Businessは非常に危険です Dropboxは馬鹿が使うと非常に危険なことを検証しました の続き。 私の馬鹿みが呼びよせたDropboxの事故の対策はまだ続いています。担当してくれているDropbox社のサポートの方々はとても優秀で親切で誠実で、すばらしい対応をしてもらっています。技術力も高いのがわかる。Paperも返ってくるかもしれません。それなら私が馬鹿なのがおもな原因なのだから、それ以上要求することはありません。 しかし、私の馬鹿み以外の原因についても問題を考えているのですが、(私が見ていない)管理者画面を確かめてくれている方がいました(ことりちゅんさん)。ありがたい。 その画像をお借りすると、こうなっていたようです。 なるほど、こうなっていたのか。私(ともう一人)は、自分のアカウントがチームに飲みこまれたことを察知して、管理者A氏に「削除してくれ」と頼んでしまい
いくらなんでもあれなので、もう一個アカウントを作って、自分がどういう行動をしたのかたしかてみました。(新しいPlusのアカウントを作りました) 招待のメールはリンクだけがある簡単なもので、そのリンクを踏んだわけです。するとこうなったはず。 (このスクショはEvernoteでクリップしたので現物とはちょっとちがう) これを「承諾」(ワンクリック)で次の画面になります。 「アカウントを統合」がメインの選択肢。しかしよく見ると、「あなたと管理者だけがアクセスできる」って表現されていて、管理者も読めることはたしかに明記されてますね。ただ、私がこれまでもっているデータまで見えるようになるとは思ってなかった。せいぜい、これから作るファイルは管理者と共有するぐらいだと思ってました。 なるほど、ではおそらくプロフェッショナルの場合も当然、「Professional版は自動的にキャンセルされる」と出たのでし
(この記事は、Dropbox社に対してフェアじゃないものになっています。続きの「Dropbox Businessは馬鹿が使うと非常に危険なことを検証しました」も読んでください) 最近、非常に重大な事故を起こしてしまったので報告します。実際の被害は、最高が7だとすると3か4ぐらい、しかし潜在的な危険度からいうと7段階で7、ってくらい重大。Dropboxでファイルを大量に失なってしまったばかりか、個人情報流出の危険をおかしてしまいました。(実際には流出といえるものはありませんでしたが) Dropbox Businessチームに招待され参加して「アカウントを統合」すると、自分では抜けられない状態になる それだけでなく、それまで自分がもっていたファイルもすべてチームのものになる 個人用の契約が勝手に解除されてしまう 私のアカウントを削除すると、管理者は私のファイルを自分のものにすることができる 管
堀あきこ先生のインタビュー記事についてツイッタでいろいろ失礼なことを書いてしまって、反省して論文も読んでみました。学者のインタビューだけ読んで論文読まないほど失礼なことはないですからね。 堀あきこ (2019) 「メディアの女性表現とネット炎上:討論の場としてのSNSに注目して」,『ジェンダーと法』,No. 16 この論文「メディアの女性表現とネット炎上」は、ここしばらくずっと論じられてるのに対する堀先生からの答えという感じでとても勉強になったので、ぜひ紹介しておきたいですね。この論文はとてもまじめなもので、最近の広告表現とかについてのネット議論について、目下のフェミニスト主流的立場をわかりやすく書いてくれているので、みな読むといいと思う。入手しにくいのよねえ。学会雑誌はこれからはオープンアクセスを目指してほしいと思う。 女性を使った表現については、(1) 固定的な性役割、(2) 性別役割
大学の公開講座で、「生涯学習」としていろんな年代層の人にお前らが勉強していることをわかりやすくしゃべって、教養や楽しみにしてもらえ、という業務があり、私も参加しています。んじゃまあ哲学・思想や人生なんかについて考えてもらいたいなあ、みたいなので学生様相手にやってる「愛と性」の年長者バージョンみたいな感じで。去年はやはりオリジナル哲学者たちへの敬意から、プラトンとアリストテレス。エロースやらフィリアやら。今年は近代がいいだろうってんで、18〜19世紀でルソー、ヒューム、ウルストンクラフト、カント、ショーペンハウアー、J. S. ミルみたいな感じ。キェルケゴールも予告してたんだけど時間の都合で結局できなかった。無念です。 予告には、「本年度は、18世紀から19世紀の有名哲学者を中心にとりあげる予定です。彼らの以外な一面を知ることができるでしょう」とか書いたけど、実際の受講生の方々には、「男性中
性差の科学編集委員会 (2011) 『性差の科学の最前線』、京都大学大学院文学研究科社会学教室、っていう報告集があるみたいなんです。google bookにひっかかってきて発見しました。 まだ入手できてなくてよくわからないのですが、そのなかの伊藤公雄先生の文章がとてもひっかかりました。こんな感じです。 まあミードの『サモアの思春期』はデレク・フリーマンの『マーガレット・ミードとサモア』でかなり厳しく批判されて、それがフェミニズム/ジェンダー論に対するバックラッシュに利用されたよ、でもミードのサモアの話と、(前のエントリで紹介した)伊藤公雄先生たちが使ってるSex and Temperamentのニューギニアの話は違うよ、ってな話ですね……。そうか……。……。 デレク・フリーマン先生の『マーガレット・ミードのサモア』は有名なのですが、パプアニューギニアの方の研究についてもデボラ・ゲワーツ先生
あんまり幸福じゃないのでで、友原章典先生という先生の『実践幸福学:科学はいかに「幸せ」を証明するか』っていう本よんでたら(良い本なので読みましょう)、年寄になったら昔話をすると幸せになるって書いてたのでやりましょう。 まあ加藤の論文をきっかけに、2000年代のことを思い出してたんですが、やはり印象強いのは、フェミニズムとかジェンダー論とかってものが、学問的におかしいんじゃないかと思いはじめたころのきっかけですね。2000年代にはいって今働いている会社に就職して、事情から「ジェンダー論」みたいなものを担当しなければならなくなり、それなりに勉強したんですよ。そしたら、どれ読んでもなんかへんな感じがするわけです。何読んでも出典がはっきりしなかったり、怪しげなことが書いてあったり、今では(2000年当時としても)おかしげなことが大手振るって説明されているわけです。そのなかで出会ったのが「ミードの表
年末、このブログでも何回か取り上げている加藤秀一先生の「ジェンダー論と生物学」という文章を読む機会がありました。(社会構築主義を中心にした)フェミニズム/ジェンダー論と、生物学の間の葛藤と、その調停の試みの思想と歴史という感じの論説なのですが、なんかいろいろ違和感があってしょうがないので、メモだけ残しておきます。論文は下のに収録されています。 まずそもそもこのネタで論文や論説書くときに、当然あがってくるべきだと思う文献が出てこないのでおどろきました。ピンカーの『人間の本性を考える』はさすがに文献としてとりあげられていますが、社会生物学/進化心理学側の人々の言い分を十分に展開したものが言及されていない。特に、オルコックの『社会生物学の勝利』やセーゲルストローレの『社会生物学論争史』はそのまんまなのでなぜまったく出てこないのか理解しがたいです。ソーンヒルとパーマーの『人はなぜレイプするのか』、
というわけで、もう疲れたのでおしまい。ちょっとだけ書き残したことを。 「性的」これあんまり小宮先生の文章とは関係ないのですが、宇崎ちゃんその他の表現に関するネットでの騒動では「性的だ」「たいして性的でない」とかそういうやりとりがあったようですが、「性的」自体が曖昧なので「性的に魅力的」とか「性的に露骨」とかそういう表現をつかった方がまだましな気がします。女性や男性を描いたら、そりゃ一つの意味では性的ですからね。そして、魅力的とか露骨とか書けば、それが感受性とかと関係していることがわかりやすくなると思う。 小宮論説全体について小宮先生の2本の論説には、いろんな混乱があると思うんですが(そしておもしろい指摘や、なんか哲学的な思考を刺激してくれる論点もある)、もう面倒なので細かいところをつっこむのはやめます。最後に、思ったことだけ簡単に。 先生が言おうとしている規範的主張自体は非常に弱いものだと
もう疲れてきたので途中でおわってしまいたいのですが、まあはじめてしまったものはしょうがない。「意味づけ」です。小宮先生のこの言葉の典型的な使いかたはこんな感じ。もちろんこれまで同様「意味づける」ということがどういうことかはほとんど説明がなく、手掛かりもありません。 「表象の中で女性がどのように意味づけられているのか」 「女性ヌード画を成立させているのは、女性(の身体)に対して特定の文化的・社会的記号を用いて「意味づけをする」制作行為なのである。」 「「表象を作る」ことが「女性に対する意味づけ」と関わっている」 「「鑑賞の対象としての女性(の身体)」という意味づけ」 「女性に対する抑圧的な意味づけ」 「女性のみを一方的に性的客体として意味づける」 「「女性」というカテゴリーを性的客体として意味づける」 「相手の身体や経験に勝手にエロティックな意味づけをする」 「意味」も曖昧だけど「意味「づけ
まず「理解」から。小宮先生の典型的な表現を抽出してみるとこんな感じです。 「表象に対する理解の齟齬」 「「悪さ」の理解」 「表象の理解」 「表象はその抑圧の経験との繋がりの中で理解される」 「女性差別の歴史と現状に照らしてその表象が理解される可能性が出てくる」 「女性の描き方の中で「女性は性的な客体……である」という女性観が当然の前提とされていると理解できるかどうかだ」 「具体的にどのような描き方をするとそうした理解が生じるのでしょうか」 「「性的客体としての女性」という考えが前提にされているという理解を生みやすい表現」 表象つまり表現物・作品を「理解する」っていうのはどういうことなのか、「ある絵画がどういうメッセージを伝えているかを解釈する」ぐらいだと、まあ絵画がメッセージを伝達するものとして解釈を必要とする、というのはわかります。でもこれも難しいですよね。 ふつうに「理解する」とはまず
小宮先生の岩波『世界』の方の論説では「コード」が出てきます。これもわたしわからん。 ここからゴフマンは、写真にうつる人物の性別が男女どちらであるか、職業が何であるか、何をしているのか、他者に対してどんな役割を負っているのかといったことを、私たちが瞬時に理解するために用いられるある種のふるまいのコードを読み取っている。 この文章はとても読みにくい。「私たちは、写真にうつる人物の性別が男女どちらであるか、職業が何であるか、何をしているのか、他者に対してどんな役割を負っているのかといったことを瞬時に読みとる。ゴフマンはそのために用いられるある種のふるまいのコードをここから読みとっている」かな?悪文です。 まあそれはおいといて、この「コード」わかりにくいと思うんです。わかりにくくないですか?「コード」はふつうは(1) 規則、慣例、法典、(2) 記号・暗号、(3) 符号体系の三つぐらいの意味があると
まあ「理解」を理解するのはむずかしい。私もよくわかっていない。 でもぜったいに許せない表現があるわけです。「理解を生む」これは許せない![1] … Continue reading 「こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えますが、同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いているという理解も生むでしょう」 理解を生む、って誰が生むのよ。主語は「こうした技法」ですか?「こうした技法」が「理解も生む」の?どこに生むの?とりあえず主語はなんなの? 「こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いているわけですが、あからさまではないがゆえに、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているという理解を生むでしょう。」
小宮先生の文章(『世界』のと『現代ビジネス』のの両方)では、「表象の「悪さ」」とかそういう表現が頻繁に出てくるのですが、この「悪さ」っていう表現にも私はひっかかってしまう。これはかなり面倒な事情があって、ちょっとここでは簡単には説明できないのですが、いくつか私の「困り」を説明しておきたいと思います。 どういう種類の「悪さ」か:それは「道徳的な悪さ」か?「表象の悪さ」っていわれたときに、ある表象(つらいので、以後表現とか表現物とか書くことにします)が悪いことがある、ってことを言ってるのはもちろんわかる。問題は、その悪さというのはどういう種類の悪さかということです。人を殴るのは悪い。これは道徳的に悪い。道徳的に悪いというのがどういうことかというのもこれまたむずかしいのですが、人を殴るのは悪いので、殴るのをやめるべきだというのは当然として、さらに、人を殴るのは避けるべきだ、人を殴った人は罰される
正直小宮先生の書くものはある種の魅力があって、それが多くの人を惹きつけるんだと思うんですわ。私の文章とかぜんぜんだめよね。なんか華がないというか、もってまわってわかりにくいし。あはは。 さて、私はそもそも「表象」がよくわかりません。いきなりタイトルで「性的な女性表象」ってガツーンとやられて、「あ、難しい文章だ!」って思って身構えてしまう。だって「表象」なんて私らめったに使わないじゃないですか。ショーペンハウアー先生に『意志と表象としての世界』Die Welt als Wille und Vorstellung っていう有名な本があるんだけど、あれの「表象」っていったいなんだか私いまだにわかってないです。あの本の前半はとてもむずかしい。カントわかってないと読めないんすよね。(ちなみになかば以降は楽しい) 「表象」Vorstellungとか英語でrepresentationとかっていうのは、哲
前の「宇崎ちゃん」に関するエントリ書いたあと、すぐに続きを書くつもりだったのですが、当の『現代ビジネス』からそれについての原稿書いてみないかというお誘い受けてしまって、考えてることを書いたりして、時間がたってしまいました。ちなみにタイトルとか見出しとかは編集者の方につけてもらい、細かい表現なんかも草稿見てもらった数人の先生と編集者先生に直してもらいました。名前は出しませんが感謝感謝あめあられ。 前のエントリについて言い訳を追加しておくと、牟田先生のあの文章が詭弁だとか誤謬推理だとかっていうことを書こうとしてのではなかったのです。むしろ、他人の文章を読んでそれが詭弁だとか誤謬推理だとか判断するのがとても難しい、ってことを書きたかった。省略三段論法みたいなやつは日常生活では非常に頻繁につかわれる論証の形で、三段論法みたいに前提を明示した論証なんてめったに見ることがない。そして、どういう前提が隠
ちなみにここで小宮先生にはあんまり責任がない「客体化」もむずかしいって話もしとかないとならんかな。 牟田先生が「客体化」って使ってんのに私は「モノ化」にして、小宮先生も「客体化」にしてて、まあどうせ専門用語だからobjectificationっていう英語に対応する訳語だってわかってりゃそれでいいでんですが、私「モノ化じゃなくて客体化だろ!」「モノ化という訳語はだめではないか」って言われちゃってるので、ちょっとだけいいわけ。 これ実際カタカナ使っていいんだったらオブジェクト化でもよかったし、あるいはさらにさかのぼって「物象化」「物件化」とかそういう訳語も可能だったかもしれないわけです。十数年前に論文モドキ書いたときはかなり悩んだ末に「モノ化」にしたんですが、今思えばもう「モノ扱い」でもよかったくらいだと思ってます。その方がわかりやすいでしょ。日常的だし。 あの論文ではとにかくヌスバウム先生の
『宇崎ちゃんは遊びたい』とコラボした献血ポスターについて、フェミニストの牟田和恵先生が、各自治体のガイドラインを示して、ポスターはガイドラインに反した性差別であると主張しています。それに対してはすでによい論評がいくつか出ているので [1]「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」 私が書くべきことはほとんどないのですが、一つ、大学での教育的な点から書いておきたいことがあります。これは続きものになるかもしれない。 ゲンダイの文章は改ページが多くて見通しが悪いので、冒頭から、途中の、ガイドラインに反しているのは明らかだと主張しているところまで引用しましょう。 日本赤十字社が献血を呼びかけるためにweb漫画とコラボで作成したポスターがネット上で論議を呼んだ。今回使われたのは写真の通り、幼い表情で、巨大といってもいいような乳房
一部のフェミニスト学者先生たちが主張する「性暴力の原因は性欲ではなく支配欲」は単純すぎてあまりよくない考え方です。過去記事から一部だけ抜きだしました。 牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』女性には男性の性欲がわかりにくいのだろう男性も女性の不快さを理解していないだろうブックガイド:性暴力に関するフェミニスト文献古典「レイプ神話」での性的動機 (1) レイプ神話って何「レイプ神話」での性的動機 (2) レイプ犯は飢えてない「レイプ神話」での性的動機 (3) 原因と動機、アミル先生の行動主義「レイプ神話」での性的動機 (4) ブラウンミラー先生の支配欲説と反論「レイプ神話」での性的動機 (5) 21世紀ではどうなってるの?「レイプ神話」での性的動機 (6) レイプ神話批判の研究への影響「レイプ神話」での性的動機 (7) だらだら「レイプ神話」での性的動機 (8) 支配欲説ふたたび「レイプ神話
去年の今ごろ牟田科研費についてシリーズ書いてしまって、なぜか最近になってはてなブログなどで有名な法華狼先生からお叱りを受けているのですが、実際わたし牟田先生の論文をまったく誤読してました。ほんとにお恥かしいのでどう誤読してたのか書いて反省します。 牟田先生の論文の第3節「性暴力として買春をとらえる」の部分で台湾台北の元公娼館の文萌楼の話が出てきて、そこでなくなった元公娼の白蘭さんの話があって、もとのエントリーでそこの部分を読んだときに気分悪くなってしまっておかしなことを書いてしまった。そもそも私この部分読みまちがえてました。 法華狼先生がこのブログを紹介してくれました。 → xiaoTANYAのブログ「文萌樓 かつて公娼のいた場所」 中国語で読めませんが、オンライン新聞記事もある → 自由時報「公娼白蘭頭七追思會 恐是文萌樓最後一場活動」 牟田先生が慰安婦とか公娼とかの話をしているので、わ
あともう蛇足っていうか、文章読みなおしたりするのも面倒なんでこれ以上書きたくないのですが、発話行為の言語学的というか、会話の上での適切さの基準と、その発話行為の道徳的な善悪の基準はまったく別です。会話の上、あるいは言語の使用においてはまったく問題ないけど、道徳的に悪徳的であるような発言はたくさんある。一方、言語使用において問題だったらそれそもそも(発語)行為として適切じゃないのでその道徳的な善悪とかあんまり言う意味がない。 たとえば、ヨットの命名式があるとします。私がその船を発注したオーナーで(超富豪!)、私が名前をつける権威をもっている。よくしらないけど、船オーナーの儀礼上、ワインだかシャンパンだかを船に命名するのがそうした筋での慣習らしい。(いまでもそうなのか知りませんよ。) んでその命名式の当日、私は朝からよっぱらっており、命名式の2時にはかんぜんに酩酊状態。「では、命名式です」「某
というわけで今回はまったくなにを怒られているのかわからなかったのですが、一つだけ収穫があったんですわ。「パフォーマティブな行為」。このなにげない表現から、いろんなことがわかった。 前にも書いたけど、この「パフォーマティブ」はオースティン先生たちの意味ではない。それはありえない。んじゃ、ある行為が「パフォーマティブである」っていうのはどういうことか?一番素直なのは「パフォーマンスである」ですね。パフォーマンスとしての行為。この「パフォーマンス」はふつうは演技とか楽器の実演とか、そういうのですわね。でもそれじゃおもしろくない。 たとえば私が学会懇親会で、浪速大学教授たちが性的に活発なことを指摘したら、その「パフォーマティブな行為」の意味はなにか。ていうかそれじゃパフォーマティブじゃない行為っていうのはどういう行為なのか。 こういうのぜんぜん説明してくれないからわからんけど、北田先生みたいなルー
あとは北田先生の論文のなかで、私とはあんまり関係ないことについてちょっとだけコメントしておきたい。 どうもこの論文で、北田先生は瀬地山先生がいろいろ悪いこと(サイレンシングやトーンポリシング)をしているっていうのを立証したいように見えるんだけど、そういう道徳的な非難をするには、もっと周到な準備が必要だと思うんよね。 先に示したように、まずはサイレンシングなりトーンポリシングなり、そうした行為(その一部は発話行為かもしれない)がどのようなものであるかを明示してほしい。つまり、その記述の条件を明示する。どサイレンシングもトーンポリシングも、日常語ではなく、はっきりとした人工的な術語のはずなので、明晰化するのはさほど難しくないだろうと思う。もっとも、まあ日常的なレベルで使う語としてぼんやり定義するのでもとりあえずかまわん。さらに、それがなぜ不正だったり悪だったりするのかも可能なら説明してほしい。
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