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ラジャ・ハルワニさんの『愛・セックス・結婚の哲学』っていうのをみんなで翻訳して、なんとか出版(予定)までこぎつけました。けっこうがんばって訳したので、できれば買ってほしいのですが、ちょっとお高い値段がついてしまって(ページ数が多いのでしょうがない)、ぜひ買いなさいとも言えないのでせめて利用している図書館にリクエスト出して入れてもらってください。おねがいします。高いし訳者の印税なんてのはほとんどないので(翻訳とはそうしたもの)献本もあんまりできません。すみません。 愛・セックス・結婚の哲学 この本に関連しそうな国内の本を紹介しておきたいと思います。 愛とラブソングの哲学 (光文社新書 1277) 源河亨さんの『愛とラブソングの哲学』。第1章「愛は感情なのか」、第2章「愛に理由はあるか」、第5章「愛に本質はあるか」あたりがハルワニ本の第1章〜第4章あたりと似たテーマを扱っています。源河先生は非
京都女子大学現代社会学部が発行している基礎演習用のテキスト『京女で学ぶ現代社会』の1章です(一部省略しています)。PDFはResearchmapにあげています。 → https://researchmap.jp/eguchi_satoshi/misc/46018319 剽窃・盗用 剽窃してはいけません 時おり、新聞やテレビニュースで大学研究者(教員)の「研究不正」が話題になります。大学などでの研究者が、研究データを捏造(ねつぞう)1したり改竄(かいざん)したりすると大きなニュースになりますが、より頻繁におこなわれているのは「盗用」(剽窃(ひょうせつ))です。盗用・剽窃(plagiarism プレイジャリズム)はアカデミックな世界では非常に重大な犯罪です2。大学学生の授業レポートや卒論でも場合によっては単位の不認定、取り消しなどにつながることがあります3 多くの大学新入生は、中高生のときに「
スタンフォード哲学事典の「人権」の項(James Nickel)のゲリラ訳です。訴えられたら責任は江口聡 eguchi.satoshi@gmail.com にあります。おねがいです、訴えないでください…… PDF → https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/03/sep-human-rights.pdf ソースは https://docs.google.com/document/d/1FnFc58iibtEXT5X_mHtmI9M_QP-_sH-1M1bFXTYPEMU/edit?usp=sharing にありますので、タイポ・誤訳その他自由に修正してください。適当に修正したもらったら適当に反映させます。 LaTeXソース \RequirePackage{plautopatch} \documentclass[uplatex,
James Brownファンクのリズム的側面の次は、コード進行について考えてみましょう。 JB先生の一番有名な曲 Sex Machine です。 この曲はたった二つのコードでできてます。Ab7とEb7。 最初のダッダッダッダッダッダッダッダッの8発がAb7で、そのあと延々Eb7が続き、「ブリッジに行っていいか?いいか?ブリッジ行っていいのか?いいのか?いいのか?ほんとにいくぞ?いくぞ?」ってやったあとにAb7に行って猛烈な解放感がある。もう延々なんか我慢してたものを放出する感じっすわね。これはAb7に対してEb7がドミナントという関係にあるからなんですが、コード進行の詳しい話はまたあとでやります。 ふつうの曲は最低3つはコードを使います。トニック(主和音)=I(1度)、ドミナント(属和音)=V(5度)、サブドミナント(副属和音)=IV(4度)かIIm(2度)。ブルースのような単純な形式でも
Keith Burgess-Jackson, “Anscombe”, Alan Soble (ed.) Sex from Plato to Paglia, Grennwood, 2006. \url{https://amzn.to/2QZoQ26} の非合法訳です。吉田廉・江口聡訳。 https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/02/tr-anscombe.pdf LaTeXソース Anscombe, G. E. M. (1919-2001). ガートルード・エリザベス・マーガレット・アンスコムはアイルランドのリムリック生まれであり、二十世紀の英国系米国人哲学者を先導した一人である。1937年、彼女がまだ十代の頃、二つの重大な出来事が起きた。それは、オックスフォード大学のセント・ヒューズ・カレッジに入学したこと、そしてローマ・カト
カジュアルセックス. カジュアルセックスは、たとえば生殖のためというよりも、性的快楽それ自体のためのセックスとして特徴づけられることが多い。 また、愛情表現や恋愛という文脈の行為と対照される。カジュアルセックスは、性的欲求と愛の両方ではなく、性的欲求のみを含んでいるとされる。男性は、一般に女性──女性セックスワーカーを除き──よりもカジュアルセックスをすることが多い、あるいは結びたいと望むということになっている。(この差異の進化的説明についてはバスを参照)。ゲイの男性がカジュアルセックスを結ぶときには、彼らは相手が誰だかわからないまま(impersonal)にしておくことが多い。特に、(非単婚であれ)交際関係を維持しているときはそうする(ブルーメンシュタインおよびシュバルツ, 295-97)。カジュアルセックスのさまざななタイプには、ワンナイト、酔っ払っての「ノってる」セックス、バスハウス
古いけどこういうのが1980年代には議論されてたわけです。これに対抗する論文も近いうちに出します。こういう議論の結果現在の世界がある、っていうのは学ばないとならない。 Michael Levin, ‘Why Homosexuality is Abnormal,’ The Monist 67. 2(1984) \& in Hugh LaFollette(ed.), Ethics in Practice: An Anthology (Oxford: Blackewell, 1997), pp.233-241, https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/02/tr-levin-abnormal.pdf \section{序} 同性愛は異常であるから、望ましくない。それは、同性愛が不道徳だからでも、社会を弱体化させるからでもなく、純粋に
プロのジャズピアニストだし、かっちりしたジャズ教育とかしてる教育者でもあるのでたいへんおもしろい。曲の制作経緯や有名エピソード、それにディスクガイド・批評もすらしい。ジャズ好きはかならず手元に置いておくべき。お金ない人はKindleにしなさい(それでも高い)。
(このエントリ、編集ファイルのバージョン混乱してしまっておかしくなってるかもしれません) 最近、私のツイッターやブログでの発言についてまたある方(Aさん)[1] … Continue readingという方からいろいろ御批判を受けているらしいです。まあいろいろいい加減なことを言っているので御批判を受けてしまうのはしょうがないのですが、なかでちょっと印象的なことがありました。 Aさんは、私の(そして他の人々の)発言の一貫性のようなものに関心があるらしく(もちろん私の憶測です)、これは正当なことだと思います。ただちょっと私にはAさんが何を指摘しているのかわかりにくいことが多い。これは私の理解力が不足しているのが主な原因ですが、会話や討論みたいなのをする際の相性みたいなのもあるんですよね。またちょっと好意的でない解釈をされているように感じることも多い。だからAさんには「私の発言についてブログのコ
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1217488667 ふうむ。まあ質問者は本気じゃないっていうかツリなんだろうけど。 こういうのに「法律で決まってるから」とかってのはあんまりよい答じゃないような気がするな。私だったらどう答えるかな。 まずレポートとかの課題を出す方としては、そういう課題を出すのはよくよく文献調べたり考えたりして、問題を理解し、なるべく真理に近い答えを探してほしいわけなんで、コピペなんかされちゃうと意味がなくなっちゃうわね。とくに哲学まわりは答よりはその答に辿りつく過程っていうか論証なり思考なりが重要なんで、答だけ出されてもこまっちゃう。そもそもいろいろ文献調べたりするのが課題なんでね。コピペするだけでOKみたいな課題だったら、そもそもコピペなんかせずにURLだけ提出させりゃいいわけだ。「おまえ
森田成也先生の『マルクス主義、フェミニズム、セックスワーク論』での「売買春とセックスワーク論」の続き。 (4)で「性の人格性」とかって話が出てくるけどあとで議論するって書いたんですが、それは「『季刊セクシュアリティ』問題とセックスワーク論」という論文で詳しく書いたからそっちを見ろ、って先生言ってたので論文取りよせたりしてました。でもこの文章、先生がacademia.eduにアップロードしてくれてましたね。 https://bit.ly/2Pp6wUL 2010年に、『季刊セクシュアリティ』という性教育関係者用の雑誌で売買春の特集をしたけど、いわゆる「セックスワーク論」やセックス産業関係者に好意的だってんで、森田先生や中里見博先生ら、「ポルノ・売買春問題研究会」(APP研)を中心にした反セックス産業論者たちが雑誌に抗議を申し入れたという事情があったようです。知らなかった。これに対する『季刊セ
まあ、言いたいことはわかるけど根拠がどういうものなのかはっきりしないので飽きてきたので残り簡単に。 合法化されればセックスワーカーへのスティグマが払拭される「払拭される」みたいなのはどう考えても言いすぎですよね。でも非合法であることはスティグマの理由の一つかもしれない。この部分では「性の人格性」とかそういう私には魅力的なキーワードが出てくるのですが、いま発注している先生の別の論文見てから書きたい。私が以前「セックスと人格」みたいなのについて書いたのはこれ。 「性・人格・自己決定:セックスワークは性的自由の放棄か」 http://hdl.handle.net/11173/445 売買春廃止論はセックスワーカーへの差別だ売春合法化論者の方こそ、買春被害者の被害に無関心で差別的だ、ということです。でも当事者たちが被害減らすためにそうしたい、って言ってるんじゃないのかなあ。スウェーデンモデルもワー
まあ自発性とか同意の問題は難しいですね。 あんまり難しすぎるから、いろんなことがらについて、とりあえず成人(あるいは18才以上)、正常な判断力をもっていて、ある程度の情報をもっているひとが選択したのであればそれは尊重しましょう、ぐらいになってるんだと思います。セックスワークとかAV出演とかセックスまわりは、セックスという人間の生活でも特別に重視される面にかかわるし、また若い女性がワーカーとして好まれる傾向がありますが、若い人は年配の人より判断力が若干劣るかもしれないので、セックスワークまわりはもっと厳しい自発性の基準で考えるべきだ、みたいな考えかたはあるだろうと思います。 ただ、森田先生は業者(「ピンプ」やスカウトマン)が狙うのはいろんな事情で「自己決定権を行使できない立場にいるか行使する能力に乏しい女性である」と言うんですが、これはうなづける点はあるにしてもちょっと極端な見方でもあると思
いや統治じゃなかった。 「少人数なら学生様にショートスピーチしてもらう」でも書いたように、ゼミでは最初に30秒とか1分とかのスピーチしてもらうのやってますが、1,2回生で15人ぐらいいると、それだけでも学生様にとってはけっこうな負担みたいですね。やってりゃ慣れるんですが、最初は抵抗あるっぽい。 この春先に試してみているのは、スピーチのネタ(たとえば「自分の長所をアピールしてください」)を提示したあとに、そのネタについてなにを話すか、どういうエピソードを出すか、ってのを、3〜4人で相談してください、時間残ってれば時間測って練習してフィードバックをもらってください、のような形です。 15人の前で話すっていうのは学生様にとっては少人数ではないんですわ。よく考えると、大学教員だって20人とかを越えるとかしこまった話し方になって何を言ってるかものすごくわかりにくくなる人がいますよね。学生様も、3,4
Kathleen Stock (2018) “Changing the concept of “woman” will cause unintended harms” のゲリラ訳。著作権的には黒なのですが、おめこぼしを願う感じです。 https://www.economist.com/open-future/2018/07/06/changing-the-concept-of-woman-will-cause-unintended-harms すでにhatenademianさんという方の翻訳があるのですが、 https://note.com/hatenademian/n/nf73e538912ce 数カ所ちょっとだけ微妙なとところがあるので訳しなおしました(江口) 概念というものはなんのためにあるのでしょうか?最小限として、それは物事を有用なグループにカテゴリー分け〔分類〕するためにありま
『トランスジェンダー入門』での「性別」は(我々の古い呼びかたでは)「セックス」ではなく「ジェンダー」の方です。それじゃ、「ジェンダーアイデンティティ」とはどのようなものだろう? 前の方のエントリでも書いたように、『入門』での「トランスジェンダー」は「出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たち」であり、ジェンダーアイデンティティ=性自認=性同一性は「自分自身が認識している自分の性別、自分がどのような性別なのかについての自己理解」です。 しかしここで重要な限定がついている。それは「帰属意識」です。ジェンダーアイデンティを定義しているところをもっと広く引用してみます。 これは自分自身が認識している自分の性別、自分がどの性別なのかについての自己理解のことを意味します。ただし、この場合の自己認識は、自分がどの性別集団に属しているかについての帰属意識とも関わっていますから、
まあ前エントリのようなことを考えながら「定義」に関する論争を眺めていたのですが、最近出版された周司あきら・高井ゆと里先生たちによる『トランスジェンダー入門』はよい本でした。いろいろ発見があった。 『入門』での定義はシンプルにこうです。 「出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たち」(p.14) そして「ジェンダーアイデンティティ」は学術会議と同様に「性自認」や「性同一性」と同一の語であり、ジェンダーアイデンティティは次のように定義されます。 自分自身が認識している自分の性別、自分がどのような性別なのかについての自己理解 (p.16) ただし「帰属意識が関係する」と制限されています。また、「自己意識」とも言われることがあります(p.17)。 『入門』の美点は、著者たちが、 なぜ 上のような言葉づかいをするのか、そしてそれが従来の「セックス」や「ジェンダー」の理解と
まあ定義と結論としての規範的判断をつなぐ前提となる規範的判断・原則が私の興味あるものなのですが、とにかくもうすこし定義について考えたい。 最近出た周司あきら・高井ゆと里先生たちによる『トランスジェンダー入門』はそこらへんの定義の問題を一章まるまる使って論じてくれていて、かつ、いろいろ誤解しやすいところを丁寧に説明してくれていてたいへんグッドな本でした。 でもその前にまず、学術会議の「定義」にちょっとだけコメント。 学術会議の「出生時に割り当てられた性別とは異なる性別の性自認・ジェンダー表現のもとで生きている人々の総称」という定義には、ふつうの読者・一般人にはいくつかわかりにくいところがある。 ここでの「性別」とはなにか「出生時に割り当てられた」性別という変わった表現が使われるのはなにか「性自認」=ジェンダーアイデンティティ=性同一性とはなにか「ジェンダー表現」とは何か 定義は簡潔なものが好
解説の齋藤さんは「無責任な射精」irresponsible ejaculation の定義を心配しているんですが、これそんなに複雑な概念かなあ。 著者が無責任な射精という表現を用いて批判しているのは、妊娠が女性の身体にもたらすダメージへの男性の無理解・無頓着さであろう。だとすれば、妊娠が女性の身体にもたらすダメージについて、よく理解をし、配慮をしていれば、それだけで責任ある射精をしたことになるのだろうか。 うーん、まあ条件は理解と配慮以外にもあるかもしれないけど、「無責任」が無理解・無頓着っていうのはそれでいいんじゃないでしょうか。 これね、英語の問題もちょっとあるんですが、無責任 irresponsible っていうのは (of a person) not thinking enough about the effects of what they do; not showing a f
というわけで、『トランスジェンダー入門』には「なるほどな」と思わされることが多くて勉強になります。ちょっとだけコメントをいくつか書いておきたいと思います。 「身体の性」vs「心の性」という分け方はよろしくない、ということを論じている部分にこういう一節があります。 私たちは、相手の身体のなかから「性的な特徴」とされるものを漠然と選びだし、髪が長いから女性だろうとか、背が高いから男性だろうとか、声が高いから女性だろうとか、そういった仕方で「身体の性」を捉えているのです。だからこそ、そうして推測された 性別 が当人の 実態 とは異なることもあります。(p.30、強調は江口) 問題は、引用で強調した「性別」と「実態」が何を指すかです。ここらへんもトランスジェンダー論だけでなく、ジェンダー論で一般読者にはわかりにくいところだと思うんですよね。 私の内的な感覚では、たしかに私たちはいろんな特徴から人間
「トランスジェンダー」の「定義」についてSNSその他はずっとモメていて、私にはよくわからないところが多くてこれまで何も書いてなかったんですが、そろそろ勉強しないとならない感じで、前期しばらく文献めくったりしていました。考えをまとめるために下のような落書きしてたんですわ。 定義は言葉の意味をはっきりさせ、またその言葉の範囲を定めることです。なにかをうまく論じようとする場合には(それが自明でなければ)必ずおこなわねばなりません。だって、なんの話をしているかわからないままに議論を進めても、読者や聴衆にはなにが論じられているかはっきりわからないですからね。 前にこのブログで書いたように、そうした定義には下のようにいくつかの種類があります。この分類というか特徴づけは、主にその目的や機能のちがいによるものです。ただし、それらは排他的なものではありません。つまり、一つに属するものが、他のものには属さない
私、ツイッタでもこのブログでも、いろいろ人様の研究(論文・書籍)やブログ記事やSNS投稿に文句をつけることが多くて、ほんとうにもうしわけないと思っているのですが、でもそうしなきゃならないというのは本当につらいのです。おそらく多くの人が、江口はまともな業績もないのに、悪口ばっかり言ってると思っていて、私もそう思っていて恥ずかしいのですが、でもやっぱり書かないとならないことはあると思うのです。フェミニズムやジェンダー研究に関心があったので、そういう研究にコメントつけることが多くてアンチフェミニストだって思われてるかもしれないけど、そうではないのです。でもそうした研究のまわりには問題が多いと思う。これだけはわかってほしい。 この前もある先生が、『射精責任』の著者がモルモンであることを問題視していて、それに関して当の書籍を読んだりしてコメントしました。 なかでも苦しかったのが、『射精責任』の著者の
あと余計なこと。 吉良貴之先生 https://note.com/tkira26/n/na8a154ecb83c 橋迫瑞穂先生 https://note.com/famous_bear75/n/n5e35ff710b99 編集者の方 https://note.com/fujisawa_hensyu/n/n52bdfbbd12e4 著者がモルモン教徒だというのがちょっと話題になってるようですが、読んで特にモルモンっぽいところはないっていうか、まあごく普通の立場ですわね。私モルモンについてなにも知らないけど。特にそういうので気になる点はない。一般に、著者がどんな信仰をもっていようが、著作で その信仰や教義が使われていないなら 特段非難したり警戒したりする必要はないと思います。もちろん、どういう宗教信じているかを知れば解釈しやすくなることは多いけど、それと議論の質を評価するのは別であるべきだ。そ
キャッチーなタイトルのガブリエル・ブレアさんの『射精責任』ですが、内容的には「避妊しましょう、特にコンドームで避妊しましょう、妊娠を望んでいないのに避妊しないセックスは無責任です」という話で、まあごく普通の話で新しいアイディアは何も含んでいないと思います。性教育にはよいと思うので、学校やら会社やら喫茶店やら、そこらへんの人目に触れるところに置いといて読んでもらったらいいんじゃないでしょうか。 ちょっと検討してみたいのが社会学者の齋藤圭介さんによる解説で、これは著者紹介に加え、アメリカの中絶論争史と、日本の避妊・中絶の現状、そして本書の論点・争点の簡単な検討などが含まれていて、読みごたえがある立派なものです。立派だとは思うのですが、いつものように、気になる点をいくつか指摘しておきたい。 第2節[1]第2「章」になってるけどこれくらいの分量で「章」っておかしいと思うの「アメリカの中絶をめぐる歴
んで、「日本の避妊・中絶をめぐる歴史と現状」なんですが、ここがちょっと気になるところがあった。 堕胎罪と母体保護法の紹介はOK。母体保護法のもとになった優生保護法の話もしてほしかったけど、まあスペースの関係で難しかったかもしれないですね。 「そもそも望まない妊娠をしないためには、男性による無責任な射精を正面から議論の遡上にのせる必要があるのだという話はついぞ聞いたことがない」(p.198)は齋藤先生が若い先生(じゃなくて中堅)だからしょうがないかと思うのですが、日本の生命倫理学者のあいだではわりと有名な論文があって、日本の生命倫理学を牽引してきた森岡正博先生やその周辺の先生たちが熱心にやってた時期があるのです。まああんまり知られてなくてもしょうがない[1]あれ、これは注19にあった。本文にしましょうよ。ていうか「ついぞ聞いたことがない」って書きながらこういう注つけてるのなんですか。。(あと
これはよい本だなあ、と思っていたのだが。 次に詳しく紹介する1994年の東京地方裁判所の判決は、強姦罪の被害者になりうるには、貞操観念が強固であることを求めているといってよい。「被害者資格」と呼んでもよい。(p.189) 判決は無罪の理由の一つに被害者の証言が信用できないことをあげている。信用できない理由の一つとして、この女性に大きな落ち度があったこと、「貞操観念」に乏しいことを指摘した。(p.190) A子のように、「淑女ぶって」いながら、実は性的に奔放で慎しやかでないと烙印を押された女性の被害はなかなか信用されないことを、この判決は示している。(p.193) こういうのを読んで、先週まで私は「90年代になっても法曹関係者はだめな人ばっかりなのだなあ」と思っていた。のだが。 でも判例時報 1562号「強姦致傷事件、東京地裁平5(合わ)167号、平成6・12・16刑八部判決、無罪(確定)」
前のエントリではちょっとミル『自由論』の話して、出典の話で終ってしまったのですが、それではあんまり失礼かもしれないので、論文の内容にも少しコメントしておきたいと思います。 私が見るところでは、五野井論文は以下のような構成になっています。 不買運動などのボイコット運動は正当な民主主義運動ですし、それはツイッターでのハッシュタグ運動などに発展しています。(前回触れたミル解釈はここで出てくる)ボイコット運動の延長としてキャンセルカルチャー=コールアウトカルチャーを説明します。ハッシュタグアクティビズム、ノープラットフォーミングなどを紹介します。その問題点は恣意的になりやすいこと、いつ「キャンセル」が終るかわからないことなどです。キャンセルされた有名事例を列挙します。トマス・ポッゲ、ピーター・シンガー、J.K.ローリング、リチャード・ドーキンス、チャールズ・マレー、スティーブン・ピンカー、V.S.
私はプリンスがプロデュースした女子が歌ってる曲が好きなんですよね。あまりに他人を歌わせるのがうまくて、おっさんでさえ歌わせることができる。とりあえず10曲。シーラEやザ・タイムあたりの有名なのは除外。 非常にヘビーなサウンド。まあ私がプリンスのプロデュースワークが好きなのはこの時代に偏ってる。ジョージクリントンさんが率いてたバンドの一つのFunkadelicに、Holly Wants to Go to Californiaって曲があって、それへのオマージュになってますわね。この曲はいい。 まあ “Holly would” → “Hollywood”っていう言葉あそびだけど。Hollyが、カポーティ/オードリ・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」のHollyをイメージしているのかどうかはわからない。「ティファニー」のホリーはニューヨークだから全然ちがうか。 これはほんとうにひどい歌ですね。
毎日新聞での「キャンセルカルチャー」擁護記事で五野井郁夫先生という方が話題になっていたので、その記事の元ネタらしき『世界』2023年6月号の五野井郁夫「キャンセルカルチャーはデモクラシーを窒息させるのか」という論文をめくってみました。『世界』とかのいわゆる論壇・総合雑誌に載ってる文章こそ「論文」だっていう感じがありますよね。重大な社会的問題を論じるのだ!って感じ。 さてこの文章いろいろ問題があると思いました。いちいち書けないのですが、奴隷商エドワード・コルストンやレオポルド二世の像なんかが「21世紀の公共空間には不要」で「芸術的価値や資料的価値をことさらに強調したいのであれば、人目につかない倉庫で保管すればよいだけの話」であり、「大っぴらに他者を傷つけたいとの願望は自身の脳内に収めて」おけ、といった文章には驚きましたが、それより次の文章ですね。 思想信条の自由とは、J・S・ミルが『自由論』
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