たとえば江戸時代。誰かが殺されたら、奉行所が動いて犯人を捕まえようとします。でも、平安時代には、一般の殺人事件を解決して、犯人に処罰を与えようという考えがなかった。 当時も検非違使(けびいし)という警察のような役人がいましたが、たとえ検非違使の目の前で殺人が行われても、検非違使は犯人を逮捕しようとはしません。殺された人の家族などが、お金を払って「犯人をどうか捕まえてください」とお願いしてやっと検非違使は動きます。 日本の中心だった京都の町でもそうですから、地方などはまさに無法の地。誰も自分のことは守ってくれない、自分のことは自分で守るという「自力救済」の世の中だったのです。 鎌倉時代の初頭の日本の人口は約800万人。それから約400年後の関ヶ原の戦いのころは約1,000万人。つまり、400年かけて日本の人口は200万人しか増えていないことになります。しかしながら、農業生産力は2・3倍。多