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ブックマーク / vergil.hateblo.jp (1)

  • 朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 - 読む・考える・書く

    敗戦前まではいなかった内地日人の餓死者 1946年の糧危機 朕はたらふくっていた 敗戦前まではいなかった内地日人の餓死者 意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1] 日内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。 しかし敗戦までに日内地で、餓死した日国民は一人もいない。日人の主は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日による

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