Kiki's Delivery Service/1989/JP 『魔女の宅急便』について書きたいと、かれこれ3年くらい思い続けていました。宮崎駿の監督作の中でも屈指の人気作だから、特別な思い入れを持つ人も多いとおもう。私なんかよりもずっと多くの回数を繰り返し見ている人だっているだろう。私がこの作品について深く考える直接のきっかけとなったのは宗教学者、島田裕巳の『映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方』を読んだことだ。『ローマの休日』や『スタンド・バイ・ミー』などの名作を「通過儀礼」という視点から分析することで、テーマやメッセージをつまびらかにする論評集で、映画(特にアメリカ映画)を読み解く格好のテキストになっている。その本のなかに『魔女の宅急便』を扱った章がある。タイトルは「『魔女の宅急便』のジジはなぜ言葉を失ったままなのか?」。ここで島田は『魔女の宅急便』、ひいてはジブリ作品全般に
宮崎駿『風立ちぬ』が描く「飛行機」の表象は、美しい夢想と醜い現実の二律背反に置かれている。たとえば、カプローニとカストルプの対比を見てみよう。カプローニは世界的に著名な飛行機製作者のイタリア人であり、しばしば堀越二郎の夢のなかに現れる。そこで彼が語るのは、飛行機がもたらす美しい飛翔の夢想である。他方のカストルプは軽井沢に滞在するドイツ人であり、たまたま同宿の堀越二郎と里見菜穂子が交際するにあたって立会人となった。軽井沢で彼が語るのは、その飛行機がもたらすだろう醜い戦争の現実である。本作における飛行機というモチーフは、カプローニ的夢想(美しい飛翔)とカストルプ的現実(醜い戦争)に引き裂かれているのだ。 この分裂を引き受けるのが、本作の主人公・堀越二郎である。子供の頃から飛行機に憧れていた彼は、大学で航空工学を学びドイツへ留学したのち、航空技術者として数々の戦闘機を設計することとなる。説明的な
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