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室町に関するamanoiwatoのブックマーク (5)

  • 100日後に死ぬ足利義教 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    もはや一昔前のような気さえしてしまうが、「100日後に死ぬワニ」という1日更新型4コマがわりと流行った。これが秀逸だったのは「100日後に死ぬ○○」にそれなりの汎用性があることで、歴史オタ界隈でも歴史上の人物を○○に入れるのがそれなりにまた流行った(多くは一発ネタだったが)。ただ、実際問題として当に死までの100日を追いかけられる人物は多くはない。まず病死の場合、死までの数日~数十日は病に苦しむので、日々にバラエティ感が出ない。そもそもの話として1日1日の動静の記録がわからない。 すなわち、「100日後に死ぬ○○」が可能なのは、1日の動静が丹念に記録に残り、なおかつ突然の死を迎えた人物に限られる。足利義教はこの両条件を満たす存在であるため、試みに100日の動静を調べてみることにした。 なお、この記事の情報はほぼほぼコピペみたいなものなので、この記事を参考に誰かが漫画化するとかSNSでbo

    100日後に死ぬ足利義教 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
    amanoiwato
    amanoiwato 2023/07/14
    “安王丸・春王丸の首級は「美麗」であり、見る人は義教も含めて落涙したという(『看聞日記』・『管見記』)。お前が殺したんやろ…。”
  • 中世人今際図巻 那須 資藤

    《戦死》 《1355年》 《3月》 《12日》 《享年不明》 那須資藤は、 下野の豪族那須氏の一族であるが、 惣領ではなく、有力な庶流ではないかとされている。 観応3年(1352)、 足利尊氏は、弟直義との対立に決着をつけたものの、 この間に、雌伏していた南朝方が息を吹き返し、 さらには、 敗れた旧直義党が、南朝方と手を組んだため、 戦争はなお収まることがなかった。 ことに、 京都をめぐる南朝方と足利方(北朝方)の争いは、激しさを増しており、 一時は、 光厳・光明・崇光三上皇と東宮直仁親王を、南朝方に拉致されるなど、 北朝は苦境に陥っている。 尊氏・義詮と南朝・旧直義党の京都争奪戦は、 苛烈をきわめたのであった。 文和3年末、 南朝方と旧直義党の軍勢が京に迫った。 尊氏とその子義詮は、 防衛に不向きな京都を去り、 それぞれ近江・播磨に移り、挟撃の態勢をとった。 翌文和4年(1355)正月、

  • 中世人今際図巻

    《病死》 《1357年》 《閏7月》 《19日》 《享年55歳》 左大臣洞院実泰の娘。 嘉元元年(1303)の生まれで、母は中務大輔藤原兼頼の娘。 異母兄に北朝の太政大臣洞院公賢、同母弟に南朝の左大臣洞院公泰がいる。 鎌倉時代末期、後醍醐天皇に仕えて、皇子女を産んだ。 そのうち皇子の玄助法親王は、のちに興福寺一乗院門主となったが、 いずれも早世したようである。 いつのころか、従二位に叙されている。 建武3年(1336)に後醍醐天皇が吉野に出奔した際の、守子の動向は定かでないが、 兄弟の公賢・公泰らと同じく、京都に留まったか。 またいつのころか、出家している。 正平6年(1351)末、同母弟公泰が南朝へ奔った際にも、守子は京都に留まっていたようで、 延文2年(1357)6月からは、 異母兄公賢の居邸の北隣に住していた。 その転居から2ヶ月後の閏7月18日の夕刻、 守子は大中風を起こして危篤と

  • 細川政元

  • 室町時代の行動倫理あれこれ

    神無月久音 @k_hisane 「喧嘩両成敗の誕生」を読んでたところ、「仲間の一人を細川頼久の家中に殺された山伏が、集団で細川家(といっても細川和泉下守護家ですが)の屋敷を取り囲んで脅迫した」という話が出てきて、「すごいや!山伏が集団で屋敷を包囲するシチュエーションは実在したんだ!」とwktkしたり。 2013-03-19 20:17:48 神無月久音 @k_hisane しかも、山伏の圧力に屈した細川頼久は賠償として120貫文と田地16町を山伏側に払ったというので、ますます隆慶世界なノリで砂。集まった山伏がやたら多くて、しまいには神輿担いで屋敷内に乗り込もうとしてたというのもあったようですけど、個人的には包囲中、読経したかどうかぜひ知りたいところ 2013-03-19 20:22:03

    室町時代の行動倫理あれこれ
    amanoiwato
    amanoiwato 2013/04/19
    こんな時代に生まれながら、現代人にも共感できる作品を残せた兼好は物凄い偉大なんだな。
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