はじめに 乙女心…この言葉を聞いて何をイメージされるでしょうか?甘酸っぱさ、いじらしさ、恥ずかしさというストレートなものでしょうか?それとも複雑、面倒、わからんとネガティブなものでしょうか。乙女心は、人類の長きに渡る謎です。四大文明期のエジプトのヒエログリフにも、そのいじらしさや厄介さが描かれているとか。 いずれにせよ、乙女心を抱える当人たちにも、乙女心に疎い私のような周りの人々にも持て余すものではあるようです。 その乙女心をある意味、純粋に保存し、それゆえに拗らせてしまったのが茶々です。一般人であれば、大きな問題にはならないでしょうが、彼女は天下人の息子を産んだお袋さま(大野修理)、彼女の言動は天下を巻きこんでしまう。その顛末が、47回の軸になっています。 一方、今回は、冬の陣の和睦から夏の陣への開戦に至るまでが描かれました。何故、一旦は収めた矛を再び抜くことになるのか。そこには、古今東
第二次世界大戦の一部であり、太平洋と東南アジアを中心に主に日米の激闘が繰り広げられた、1941年から1945年にかけての戦争を「太平洋戦争」と呼ぶ人と、私は友達になりたくありません。 「アホっ!この記事の題が『太平洋戦争』じゃねえか」とおっしゃる声が聞こえてまいります(笑)が、今週は息抜き編でありますので。 スペイン語ですから お題をよく見てくださいよ、(Guerra del Pacífico)って書いてますでしょ。スッペイン語ですよスペイン語ぉ。 スペインは内戦の際にドイツに思いっきり助けて貰いながら、大戦中はずっと中立を保ってたはず…いえいえ、もっともっと前のお話なんです。 Guerra del Pacífico(儂はスペイン語なんぞ知らんけど、Guerraが戦争でPacíficoが太平洋だぞ、たぶん)は1879年に勃発したボリビア共和国+ペルー共和国連合vsチリ共和国の資源地帯を巡る
7世紀末から8世紀の日本は、中央集権的な律令国家を目指し、中国(唐)の諸制度を導入するなかで、銭貨を発行した。奈良時代(8世紀)には和同開珎をはじめとする3種、平安時代(8世紀末~)には9種の銅銭を発行したが、その後、銭貨の発行と使用は途絶えていった。 7世紀後半 発掘からわかった和同開珎以前のお金 1998年の飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)の発掘調査により、7世紀後半に富本銭(ふほんせん)がつくられていたことが明らかとなった。飛鳥池遺跡からは、富本銭とともに富本銭をつくるための鋳型やルツボ、やすりなどが出土した。 富本銭は、『日本書紀』天武12(683)年の「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ。」という詔に記された銅銭であると考えられている。 詔に書かれている銀銭は無文銀銭であると考えられている。無文銀銭はこれまで、畿内を中心とした15以上の遺跡から出土している。 8世紀
物々交換で経済が成り立っていた古代の日本では、米や塩、布などをお金の代わりとして使用していました。国内で初めてつくられた金属のお金(銭貨(せんか))は、7世紀後半、中国の銭貨を手本にした「富夲銭(ふほんせん)」とされています。 さらに和銅元年(708)には武蔵国秩父郡(むさしのくにちちぶぐん)(現・埼玉県秩父市)から国内で初めて自然銅が発見され、「和同開珎(わどうかいちん(ほう))」を鋳造しました。この「和同開珎」以降、平安時代まで2世紀半にわたり12種類の銭貨がつくられました。これら12種類は「皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)」と呼ばれています。 しかし、国内産の銅が不足したことや国家の財政難から、銭貨は新しく発行されるたびに質が落ち、民の信用を失います。結果、国内での鋳造は天徳2年(958)の「乹元大寳(けんげんたいほう)」を最後に打ち切られ、再び米や絹などがお金の代わりとして使わ
始めまして、こんにちは。私、石田三成(「石田氏系図」参照)と申します。 はい、そうです。いわゆる関ヶ原の戦において、徳川家康(「徳川氏系図」参照)に無謀な戦いを挑んで滅び去った、あの武将のことです。 もちろん、私はあの戦いを無謀だとは思っていませんでした。頭数だけなら、十分家康に対抗できるだけのものを集めたつもりでした。けれども、心が集まりませんでした。口惜しい限りです。できることなら生まれ変わって、もう一度家康と戦ってみたいものです。 関ヶ原の戦についてお話したいことは山とありますが、またいつかお話しすることにして(「変節味」参照)、今回は、太閤(たいこう)秀吉様(「豊臣氏系図」参照)の今わの際の御豪遊「醍醐の花見」について、お話ししたいと思います。
慶長三年(1598)三月十五日、豊臣秀吉(史料1)は醍醐寺において花見を行いました。その様子について醍醐寺三宝院門跡義演准后(史料2)は日記に次のように記しています(「義演准后日記」以下「義」、同日条)。 今日太閤秀吉が(醍醐寺に)お渡りになられた。(淀公や北政所を始めとする)「女中」らもおのおのお成りになり、終日桜を御覧になられた。路次や茶屋などの贅を尽くしたあり様は、言葉では言い尽くしがたいほどである。何の問題もなく、無事に(太閤たちは)お帰りになられた。 そして義演はこの花見を「一寺の大慶」「一身の満足」であったと述べています。この時に秀吉や秀頼、前田利家らが詠んだ和歌の短冊が今も醍醐寺に残されています(史料3「醍醐花見短籍」)。 「醍醐の花見」に先立つ前年三月、秀吉は俄に醍醐寺を訪れ、桜を観賞しています(「義」慶長二年三月八日条)。その時の美しさが忘れられなかったのか、翌年二月、秀
ソウルのユースホステルには「立ち入り禁止」の地下がある。独裁政権時代にスパイ機関KCIAの拷問部屋として使われた場所だからだ。しかし、いまここに宿泊する観光客はその恐ろしい歴史を知らない。 韓国の過去と現在を象徴 ソウル中心部にあるこのホステルには、魅力がたくさんある。 客室はこぎれいで、予算に限りのあるK-POPファンや、休暇を過ごす家族連れにも手頃な料金で、広さも充分だ。風光明媚で緑豊かな南山(ナムサン)の麓に建ち、屋上からは街のパノラマを一望できる。 ただ、建物の地下に行くのはお勧めしない──。 春には桜が咲き誇り、登山道が整備された南山は、ソウルの観光客に最も人気のある場所として親しまれてきた。だが少し前までは、「南山に行く」と言えば、別の不吉な意味があった。 戦後の独裁政権時代、その言い回しは、民主化運動の参加者を韓国中央情報部(KCIA)に連行し、尋問することを意味していた。拷
記事:平凡社 歓談するバーブル(右)とその長男フマーユーン(左)。『フマーユーン・ナーマ』(平凡社東洋文庫)より転載 書籍情報はこちら 2023年1月25日刊、平凡社東洋文庫『フマーユーン・ナーマ ムガル朝皇帝バーブルとフマーユーンに関する回想録』(グルバダン・ベギム著・間野英二訳注) 『フマーユーン・ナーマ』の特徴と価値 『フマーユーン・ナーマ』は、ムガル朝の帝室に属したイスラーム教徒の女性が著した父バーブルと兄フマーユーンに関する回想録として稀有の価値を持つ。 当時の美辞・麗句を連ねた難解なペルシア語の文章に比べると、『フマーユーン・ナーマ』は極めて簡明なペルシア語で書かれている。これは父バーブルの簡明な文章に対する好みを受け継いだものといえる。バーブルは息子のフマーユーンに宛てた手紙の中で、「お前は文章に凝りたいといっていますが、そのために文意が不明瞭になっているのです。今後は凝らず
もはや一昔前のような気さえしてしまうが、「100日後に死ぬワニ」という1日更新型4コマがわりと流行った。これが秀逸だったのは「100日後に死ぬ○○」にそれなりの汎用性があることで、歴史オタ界隈でも歴史上の人物を○○に入れるのがそれなりにまた流行った(多くは一発ネタだったが)。ただ、実際問題として本当に死までの100日を追いかけられる人物は多くはない。まず病死の場合、死までの数日~数十日は病に苦しむので、日々にバラエティ感が出ない。そもそもの話として1日1日の動静の記録がわからない。 すなわち、「100日後に死ぬ○○」が可能なのは、1日の動静が丹念に記録に残り、なおかつ突然の死を迎えた人物に限られる。足利義教はこの両条件を満たす存在であるため、試みに100日の動静を調べてみることにした。 なお、この記事の情報はほぼほぼコピペみたいなものなので、この記事を参考に誰かが漫画化するとかSNSでbo
はじめに 日本の人口は2017年10月1日時点で1億2670万人ほど。都道府県の人口1位はもちろん東京都で、1372.4万人。最下位となる47位は鳥取県で、56.5万人。その差は約24倍にもなります。 現在ではあまりにも当たり前の東京の人口1位。しかし、かつては東京が人口1位ではなかった時代が続いたことは、あまり知られていません。 現在は東京が1372万人、ぶっちぎり 逆に人口ワーストは山陰と四国、北陸の県。 元来日本はここまで東京一極集中ではなく、その地方に応じた産業が活発で、今より地方が元気な時代がありました。 人口の統計がはじまった1872年から見てみると、実は東京ではなく、意外な都道府県がトップに立っていることが分かります。そんな思わぬ再発見の多い「歴代人口ランキング」(※)を見ていきましょう。 ※:採用する人口データは、1872~83年までは本籍人口。1884~1907年までは乙
日本の国民的洋食ハンバーグは、アメリカにその起源があります。アメリカにおいてもかつては、国民食といえるほどにハンバーグ・ステーキが愛されていたのです。 カメラマンの名取洋之助は、1936年にフォーチュン誌の企画でアメリカ横断撮影旅行に挑みます。その道中の食事は“普段はだいたいハンバーグ・ステーキかホットドッグ”というものでした(『アサヒカメラ』1950年9月号所収「アメリカ撮影旅行の思い出」名取洋之助)。 雑誌『主婦と生活』1950年9月号には、ハンバーグ・ステーキを頻繁に食べていたころのニューヨーク食事情がレポートされています。 “ニューヨークの人達は、今とてもハンバーグがお好き。例の挽肉のおだんごを、ジュッと燒いたもの” 「ほんとにアメリカ不思議なお国(その六)」 外交官の妻としてアメリカ滞在経験のある料理研究家・飯田深雪は、1960年の『世界の家庭料理 5』において、当時アメリカで人
HOMEコラム一覧第18回 California Dreamin’(1965, 全米No.4)/ ママス&パパス(1965-68, 1971-72) 歴史を彩った洋楽ナンバー ~キーワードから読み解く歌物語~ 第18回 California Dreamin’(1965, 全米No.4)/ ママス&パパス(1965-68, 1971-72) ●歌詞はこちら //lyrics.wikia.com/The_Mamas_%26_The_Papas:California_Dreamin%27 //artists.letssingit.com/the-mamas-and-the-papas-lyrics-california-dreamin-vrp23xd 曲のエピソード ニューヨークを活動の拠点としていたママス&パパスであるが、中心メンバーのジョン・フィリップスの妻だったミシェル(メンバーのひとり)
「1923年の関東大震災の直後、南行徳村にあった汽船の発着所(江戸川沿い、深川区高橋へ向かう)で、自警団によって日本人三人が殺害されています。この発着所のあった場所を教えて下さい。」との質問を受けております。 当館の資料では、9月4日の夜、川崎で罹災し南行徳村に辿り着いた連合紙器株式会社の従業員3人が源心寺境内で虐殺される事件が起こり、後に源心寺境内に供養塔が建てられた旨の資料は見つかりましたが、それ以上の詳細な内容の資料は見つかりませんでした。 国会図書館に『関東大震災・虐殺事件 : 「秋田・三重・沖縄三県人虐殺」〈検見川事件〉の真相 : 附〈埼玉県妻沼事件〉〈千葉県南行徳村事件〉 』(東京本館:図書カウンター書庫1201601431307)という資料はあるようです。この資料に、殺害場所や汽船の発着所に関わる記載がありますでしょうか。 ご照会の次の資料の「千葉県南行徳村事件」の箇所を確認
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