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主役は森喜朗とバッハ、“五輪反対派”の描き方に大きな疑問…河瀬直美『東京2020オリンピック』が映さなかったもの | 文春オンライン
いつになったらここに「私」が登場するのだろう? 河瀬直美監督『東京2020オリンピック SIDE:B』を観な... いつになったらここに「私」が登場するのだろう? 河瀬直美監督『東京2020オリンピック SIDE:B』を観ながら、筆者の頭のなかには、いつしかそんな問いが浮かんでいた。 おもに出場選手たちにキャメラを向けた『東京2020オリンピック SIDE:A』について、筆者は、「ここには決定的な他者の存在が欠落してはいないだろうか?」と書いた(「海外で賞賛、日本で批判…河瀨直美の評価はなぜ国内外でズレているのだろうか」)。選手たちをとらえるキャメラの視線にはっきりと作り手=「私」の存在が刻印されているのとは対照的に、五輪反対を叫ぶ市民たちはどこまでも彼岸の群衆としかとらえられない、つまりそこに「私(たち)」が存在しないこと——この点が、筆者が『SIDE:A』に抱いた最大の違和感だったが、だとすれば選手を取り巻くひとびと(もちろんそこには五輪反対を訴える市民も入るはずだ)にキャメラを向けたという『SID
2022/06/27 リンク