エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
久留倍官衙なぜ東向き 明和で「斎宮と壬申の乱」シンポ 書紀記述に着目し議論
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
久留倍官衙なぜ東向き 明和で「斎宮と壬申の乱」シンポ 書紀記述に着目し議論
明和町の斎宮(さいくう)跡(国史跡)と四日市市の久留倍官衙(くるべかんが)遺跡(同)の両古代遺跡... 明和町の斎宮(さいくう)跡(国史跡)と四日市市の久留倍官衙(くるべかんが)遺跡(同)の両古代遺跡の関係をテーマにしたシンポジウム「斎宮と壬申の乱」が3日、明和町のさいくう平安の杜・西脇殿で開催された。古代の役所のほとんどが南を向くなか、久留倍官衙の建物群が東を向く謎について、踏み込んだ議論がなされた。 久留倍官衙遺跡は四日市市大矢知町の伊勢湾を望む丘陵上にあり、奈良時代を中心とする多数の掘立柱建物跡が発見されている。古代伊勢国の役所「朝明(あさけ)郡衙説」や東海道に面する施設「朝明駅家(うまや)説」がある。 シンポジウムでは四日市市教委社会教育課の堀越光信氏が、大海人(おおあま)皇子と(天武天皇)と大友皇子が皇位継承をめぐって争った壬申(じんしん)の乱(672年)で、大海人皇子が朝明郡で太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を望拝したことが日本書紀に記されていることに着目。役所が東を向く