ブックマーク / ameblo.jp/philosophysells (24)

  • 『【再掲】素人による精神分析読解の問題(『フロイト全集 月報』)』

    最近、精神分析に対する自分の考えを表明してほいた方がいいかなと思うことがありました。 岩波版『フロイト全集』第19巻(2010年6月配)によせた文章をここに再掲します。 少し前の文章ですが、自分の考えは変わっていません。 素人による精神分析読解の問題 國分功一郎 フロイトは医者だった。一八八一年にウィーン大学医学部で学位を取得しており、一八八六年にはウィーンでクリニックを開業している。フロイトの名は精神分析から切り離せないが、これはフロイトが医者として患者に接するなかで自ら創始し、様々な変更を受けいれながら発展させていったものである。つまり、それは、彼がヒステリーや神経症に苦しむ患者を治療するために作り出した理論である。 すると次のような疑問が出てくるのは至極当然のことであるように思われる。たとえば筆者のような、医者でもなく、心の病の治療に携わるわけでもない人間が、フロイトの精神分析につ

    『【再掲】素人による精神分析読解の問題(『フロイト全集 月報』)』
  • 『「ヴィジュアル系」論』

    【以前、プラネッツのメルマガに掲載した「ヴィジュアル系」論です。】 稿は私が昨年2012年の秋、世界最大の書籍見市「フランクフルト・ブックフェア」を訪れた後に執筆した報告書である。報告書であるため、公表を目的には書かれていない。そのため、文では昨年同フェアを訪れた大澤真幸さんの報告書を紹介している。それを読んでいないと少しわかりにくいところもあるかもしれないが、全体を通して言いたいことは最後まで読めばお分かりいただけると思う(なお、大澤さんには、今回のこのメルマガでの拙文公表の許可をいただいている)。題材はちょっとおふざけのように思われるかもしれないが、真面目に書いたものである。このたび、プラネッツ・メルマガ編集部のご厚意により、ここに公表する。 國分功一郎 フランクフルト・ブックフェア出張報告書 ──日の人文系研究の「ヴィジュアル系」 國分功一郎 私は2012年10月10日から1

    『「ヴィジュアル系」論』
  • 『『SPA!』(2/11・2/18合併号)での浅田彰さんからの批判について』

    【1】『SPA!』で浅田彰さんが僕に批判的に言及されているというので読んでみました。いくつか説明しておかなければならないことがあると思うので、すこし連投したいと思います。 【2】まずこれです。《京大の人文研にいる〔…〕王寺賢太が、國分を呼んでスピノザ論を聞いたことがあるんです。〔…〕國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、 古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ》。 【3】最初にはっきりと述べておくと、僕はいままで一度も、「スピノザ論」を語って欲しいと依頼されて京大の人文研にお伺いしたことはありません。これをまず確認しておきます。 【4】ただ二年ほど前、一度京大にお招きいただいたことがあります。その時の論題は市田良彦さんの『革命論──マルチチュードの政治哲学序説』(平凡社新書)で、合評会をやるからこのを論じて欲し

    『『SPA!』(2/11・2/18合併号)での浅田彰さんからの批判について』
  • 『【再掲】「インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード」(『ユリイカ』B級グルメ特集号)』

    【再掲】「インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード」(『ユリイカ』B級グルメ特集号) | Philosophy Sells...But Who's Buying? 『ユリイカ』の「B級グルメ特集」(2011年9月)に寄せた文章です。 インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード 國分功一郎 B級グルメと言われる時の「B級」とは何を意味しているのだろうか。それは「A級ではない」という意味でしかあり得ない。ではA級グルメとは何だろうか。 「グルメ」とはフランス語でgourmet、「通」や「美家」を意味する。日語ではすこしその意味を変えて、通や美家が愛する「うまいもの」という意味でこの「グルメ」という語を用いている。ということはつまり、A級グルメもB級グルメもうまいものであるという点では変わらないことになる。 ならばA級グルメとB級グルメの違いはうまさにはない。どちらもうま

    『【再掲】「インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード」(『ユリイカ』B級グルメ特集号)』
  • 『【再掲】「東浩紀『一般意志2.0』書評」(『文學界』2012年2月号掲載)』

    『文學界』2012年2月号に掲載された 東浩紀著『一般意志2.0——ルソー、フロイト、グーグル』 の書評です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ このには三つの苦しさが刻まれている 東浩紀『一般意志2.0——ルソー、フロイト、グーグル』(講談社)書評 評者:國分功一郎 書は東浩紀が雑誌連載した論考をまとめたものである。その着想は次のように要約できる。 グーグルなどのウェブサービスは、全世界の人々のネット上の行動履歴を巨大なデータベースとして蓄積している。これは人々の行動履歴である限りにおいて、その欲望を探るための手がかりになる。ところでフロイトは、人間の行動は無意識の欲望によって規定されているが、その欲望は精神分析家の分析を通じてはじめて明らかにされるものだと主張した。ならば、情報技術によって記録された人々の行動履歴を適切な仕方で分析できれば、社会そのものの欲望を明らかにできるだろ

    『【再掲】「東浩紀『一般意志2.0』書評」(『文學界』2012年2月号掲載)』
  • 『【再掲】「思想はあった首相から思想もない首相へ」(『文藝春秋』2012年8月号掲載)』

    『文藝春秋』2012年8月号 〈政権交代は何をもたらしたのか——民主解体「失敗の質」〉 に寄せた文章です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 思想はあった首相から思想もない首相へ 國分功一郎(高崎経済大学准教授、哲学) 三年前の政権交代は歴史的な必然であった。少し遡って説明する。 自民党は経済成長の果実を公共投資で国民に再配分して支持を得てきた。この政策モデルは経済成長が前提のため、経済が失速すると効果がない。日は56年から73年までの高度経済成長期には経済成長率が九%ほどあったが、74年から90年ごろには四%ほどに落ちている。 政権交代時、民主党の中枢にいたのは90年代前半の政治改革の際に自民党を離脱した政治家たちである。彼らは経済成長を前提にした自民党の政策モデルの無効を直感していた。この直感は正しかった。自民党もまたその後、小泉政権下で政策モデルを転換し、構造改革による成長戦

    『【再掲】「思想はあった首相から思想もない首相へ」(『文藝春秋』2012年8月号掲載)』
  • 『【再掲】「「民主主義について考えるのを中断する」(『一冊の本』2012年5月号掲載)』

    朝日新聞出版のPR誌『一冊の』2012年5月号に掲載されたエッセイの再掲です。 同じようなことをここでも書いてます(【UTCP Juventus Afterward】)。 ・・・・・・・・・・・・・ 「民主主義」について考えるのを中断する 國分功一郎 政治哲学では伝統的に政体を三つに分けてきました。一人が統治する君主制、少数人が統治する貴族制、全員が統治する民主制。現在の日の「議会制民主主義」と呼ばれるものは、少数人の国会議員が統治しているわけですから、政体としては貴族制です。しかも、二世、三世の議員が増えていますから、当に〝貴族〟制ですね……。 大学で哲学を講じる際、政体が話題になるといつもこの話をする。学生は割と驚く。そして実は私自身も驚いている。我々は「民主主義」という言葉を平気で日常的に使っているが、それが何なのかははっきり言って今もよく分かっていないからである。 読者はすぐ

    『【再掲】「「民主主義について考えるのを中断する」(『一冊の本』2012年5月号掲載)』
  • 『【再掲】「パリのデモから考える」(スタジオジブリ小冊子『熱風』2012年2号「デモ」特集号掲載)』

    【再掲】「パリのデモから考える」(スタジオジブリ小冊子『熱風』2012年2号「デモ」特集号掲載) | Philosophy Sells...But Who's Buying? 昨日、日比谷公園であったピースオンアースというイベントに行ってきました。 デモにも少し参加しました。 そこでいろいろ考えることがあって、 それをツイートしました。 たとえば… これとか、これとか、これとか、これとか、これとか、これとか…。 ツイートしながら、 この前ジブリの『熱風』二月号に掲載していただいた拙文のことを思い出し、 またそこで書いていたことの妥当性を再確認しました。 既に三月号が発行されていますので、 その文章を再掲します。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スタジオジブリ小冊子『熱風』2012年2号「デモ」特集号掲載 デモについて 國分功一郎 私は学者の端くれであって社会運動家ではないし

    『【再掲】「パリのデモから考える」(スタジオジブリ小冊子『熱風』2012年2号「デモ」特集号掲載)』
    hasetaq
    hasetaq 2012/03/12
    パリ清掃軍団すげぇ!
  • 『〈原子力の時代〉の哲学(1)』

    いま発売している『atプラス』という雑誌で、中沢新一さんと対談しています。 「〈原子力の時代〉から先史の哲学へ」ってタイトルなんですけど、 この〈原子力の時代〉ってのはハイデッガーの言葉なんですね。 ハイデッガーは彼が生きた時代をそういう時代だって思ってた。 atプラス 11/中沢 新一 ¥1,365 Amazon.co.jp 福島第一原発の事故以来、 ずっと原子力について考えてきました。 哲学に携わる者に何ができるかって視点から 考えてきました。 その成果の一つが上の中沢さんとの対談です。 で、 あの後もいろいろ読んだりして 考えるところがあって 追加したいと思ってることがあるんで ここに書きたいと思います。 何回かにわけて連載します。 まず原子力発電は「原子力の平和利用」という言葉とともに現れるんですけど、 この言葉の起源はおそらく アイゼンハウアーが1953年に国連で行った「Atom

    『〈原子力の時代〉の哲学(1)』
  • 『民主主義を眺めるミネルヴァの梟(エッセイ再掲)』

    この前、8月12日 朝日新聞に 民主主義について俺が思うところを述べたインタビューが載りました。 その時の考察の出発点になっているのが、 次のエッセイです。 去年の夏に『文學界』に掲載していただいたものです。 インタビューではマイルドにするために 民主主義そのものへの疑問は述べませんでした。 「民主主義」と言うならこれぐらいのことはしないとダメだ という口調で書きました。 このエッセイでは そもそも民主主義でいいのか という疑問を提示しています。 よかったらお読みください。 民主主義を眺めるミネルヴァの梟(『文學界』2010年9月号掲載) 國分功一郎 ミネルヴァの梟は夕暮れ時に飛び立つ。 ミネルヴァの梟が飛び立てば、夕暮れ時が訪れる。 ミネルヴァの梟は飛び立った。夕暮れ時は既に訪れている。 最近、出色のレーニン論『「物質」の蜂起をめざして』(作品社)を出版した白井聡氏と対談する機会を得た。

    『民主主義を眺めるミネルヴァの梟(エッセイ再掲)』
  • 『ニコ生 津田大介氏の番組、DNA、癌のメカニズム』

    ニコ生 津田大介氏の番組、DNA、癌のメカニズム | Philosophy Sells...But Who's Buying? 昨晩ニコ生で、津田大介氏による中川恵一氏のインタビュー を見た。 考えたことをすこし書く。 津田氏も番組の最初からその点に言及していたけれど、 中川氏はネット上で大変バッシングを受けているらしい。 で、 俺はツイッターでこの番組について少し書いた。 このまま何も書かないでいれば、 國分が中川氏について何か言っていたってことは 忘れられて それで終わりだろうが、 やっぱり考えたことを書いておきたい。 この放送は大変勉強になった。 なぜかって言うと、 なぜ我々がこれほど「放射能」 ——この言葉は放射線を出す能力のことだそうだが、恐怖の対象になっているのはこの語でありこの語がもつイメージなので、ここではこの語を使う—— が怖いのかがよく分かったからだ。 そして 脱原発の

    『ニコ生 津田大介氏の番組、DNA、癌のメカニズム』
  • 『知性の最高の状態——内田樹『最終講義』(技術評論社)』

    知性の最高の状態——内田樹『最終講義』(技術評論社) | Philosophy Sells...But Who's Buying? 昨日は久しぶりにブログを更新した。 原発に関するもの。 原発についてはもう考えざるを得ないし、 毎日考えているし、いろいろ調べてもいる。 けれど、 それについて意見するのは 当にイヤになる。 なぜかというと、 あらかじめ反論を見込んだ上で 反論に答えられるということを第一に考えて議論を組み立てなければならないからである。 つまり、 何か真理を目指すというよりも、 議論で「勝つ」ことを目指さなければならないからである。 議論で「勝つ」というのはくだらないことである。 そして 「勝つ」ために知識を蓄え、議論を組み立てていくのも くだらないことである。 学問というのは真理の探究であると 俺は堅く信じている。 真理の探究は「勝つ」ためになされるのではない。 「勝つ」

    『知性の最高の状態——内田樹『最終講義』(技術評論社)』
  • 『原発止めて国家破綻?』

    意味不明のコメントがあったので、エントリーで書いておきます。 以下の記述、今のところ俺が知っていることですが、 間違いや勘違いがあったら 是非とも教えてください。 よろしくお願いします。 ・・・・・・・・・・ はっきりとした見通しのないままに始めたのが原子力発電。 原子力発電という目標が国策として掲げられたのが1950年代。 戦後の復興を原子力の平和利用で、ということだったが、 結局原発が使われ始めたのは1970年代ごろ。 つまり戦後復興には全然役立たなかった。 しかし、1950年代当時は甘い見通しのもと 原子力発電がすぐに可能であると思われていた。 1950年代、世界中のどこでも原子力発電の見通しはたっていなかったのに。 核廃棄物の処理方法もそのうち見つかるだろうと思われていた。 見つかってない。 見つかりそうにない。 全く非科学的な態度。 なし崩し。 電気代がここまで高くなってしまった

    『原発止めて国家破綻?』
  • 『恋愛から自然へ(論文再録)』

    恋愛から自然へ(論文再録) | Philosophy Sells...But Who's Buying? 昔書いた論文です。 よかったらお読みください。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 恋愛から自然へ シャルル・フーリエ『愛の新世界』(福島知己訳)についての書評論文 (『思想』、岩波書店、第一〇〇八号、2008年4月、44~53ページ。) 國分功一郎 我々は恋愛をするが、恋愛について知らない。ニーチェは、身体こそは意識よりもはるかに驚嘆すべきものなのだと語り、スピノザを創造的に読みかえたドゥルーズは、『エチカ』から、人は身体が何を為し得るのかを知らないというテーゼを取り出した。彼らに倣って言うなら、フーリエの『愛の新世界』は、次のように語る書物であるだろう――恋愛こそは驚嘆すべきものであり、ひとは恋愛が何を為し得るのか知らない。 一九世紀のユートピア

    『恋愛から自然へ(論文再録)』
  • 『歓待の原理——クロソウスキーからフーリエへ(論文再録)』

    歓待の原理——クロソウスキーからフーリエへ(論文再録) | Philosophy Sells...But Who's Buying? 昔書いた、「歓待」についての論文です。 よかったらお読みください。 歓待の原理 クロソウスキーからフーリエへ 國分功一郎 歓待(hospitalité)を巡る議論は、或る対立の中に閉じ込められているように思われる。一方には、異邦人を受け入れる義務を唱える者がいる。他方には、それによる秩序の壊乱を危惧し、受け入れを拒否する者がいる。歓待の概念は、亡命者や移民など、共同体へと不意に来る訪問者への対応が論じられるなかで急浮上してきた。しかし、上のような対立を土台にする限り、歓待という概念の可能性を問うことは困難であるといわねばならない。そこでは、「異邦人を受け入れよ」という命令と、それに対する拒否が平行線をたどるだけである。そして、歓待とは何であるのかが不問に付さ

    『歓待の原理——クロソウスキーからフーリエへ(論文再録)』
  • 『〈計画停電の時代〉を生きるための制度を創造すること』

    前回、 「計画停電の時代」 という記事を書いた。 その後もいろいろ考えるところがあったので、記したい。 この前の日曜日、2011年3月27日付け東京新聞朝刊に 「哲学者」内山節氏の「システム依存からの脱却」 というエッセイが載っていた(「時代を読む」の欄)。 内山氏によれば、 わたしたちは「さまざまなシステムに依存して暮らしている」。 ところがその「システム」は何らかの想定の範囲内で維持可能なように設計されている。 原子力発電もそのひとつで、「これ以上の地震は発生しないという想定にたってシステムは設計されていた」。 だがここ数年に世界で起こっていることは、 市場システムにせよ、 年金・社会保障システムにせよ、 そうした想定が人間の思い込みに過ぎなかったということである。 これが内山氏の議論の骨子である。 ここから彼は次のように結論する。 想定に基づいたシステムは、想定外の事態が起こると崩壊

    『〈計画停電の時代〉を生きるための制度を創造すること』
  • 『立花隆に耳を傾けずに立花隆著『サル学の現在』を読む』

    立花隆に耳を傾けずに立花隆著『サル学の現在』を読む | Philosophy Sells...But Who's Buying? まずタイトルについて説明。 俺は立花隆のは結構好きです。 特に 『日共産党の研究』とか 『中核対革マル』などは 政治政治学、政治哲学に関心あるひとは 是非読むべきだと思っています。 日共産党の研究(一) (講談社文庫)/立花 隆 ¥730 Amazon.co.jp 中核VS革マル(上) (講談社文庫)/立花 隆 ¥520 Amazon.co.jp タイトルで書いたことは嘘ではありませんが、 タイトルをキャッチーにするために多少演出している ということもご理解ください。 とはいえ、 今回紹介する『サル学の現在』というは 著者に耳を傾けずに読む必要があるであり、 名著です。 もう結構古いなんですけど なんでこれを今回書くことにしたかというと、 いま俺は

    『立花隆に耳を傾けずに立花隆著『サル学の現在』を読む』
  • 『非線形のエチカ』

    前に安冨歩先生の著書を紹介しました。(ここ ) その安冨先生が昨年末に『経済学の船出』というを出版されました。 経済学の船出 ―創発の海へ/安冨 歩 ¥2,520 Amazon.co.jp これを読んで以来、 どうこのを紹介すべきか ずっと悩んでいたのですが、 今回書くことにします。 というのも、 このは後半がスピノザ論になっており、 しかもそれが 俺にとって実に強烈というか、 自分の関心にぴたりときたというか、 まさしく目を開かせてくれたというか、 当に驚くべき内容であったからです。 俺は高崎からの帰宅途中でこのを読み始めましたが、 途中で最寄り駅を乗り過ごすところでした。 に熱中して乗りすごしそうになったのは 久しぶりのことでした。 また、 我田引水のつもりはありませんが、 このは俺が『スピノザの方法』で論じた デカルトとスピノザの違いを より大きなパースペクティヴにつな

    『非線形のエチカ』
  • 『旧テキスト——佐々木中『きりとれ』書評』

    『文學界』の1月号に いま話題の 佐々木中のについての書評を 掲載しました。 もう雑誌も書店においていないので ここで公開します。 なぜこの口調が必要か? 佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』書評 國分功一郎 書は『夜戦と永遠』で注目を集めた佐々木中の第二作である。その中心テーマは〈読む〉ことである。読むことがどれほど爆発的な力をもっているか。たとえばルターは聖書を読むことで、この世界の秩序の無根拠を知った。ルターの起こした〈革命〉(=宗教改革)はそこからこそ説明されうる。かくして佐々木は、文学こそが「革命の体」であり、「革命は文学からしか起こらない」と断言するに至る(八〇ページ)。この断言を、ルターはもちろんのこと、ムハンマド、更には佐々木がルジャンドルに依拠しつつ注目する中世解釈者革命を通じて確認していくのが、書の大筋である。その中途では、諸領域をまたがる溢れんばかりの知識が惜し

    『旧テキスト——佐々木中『きりとれ』書評』
  • 『映画が思考できるのはなぜか?——スピノザ平行論とゴダール』

    土曜日はジュンク堂新宿店にて、 平倉圭『ゴダール的方法』の出版記念イベントとして 平倉くん、千葉雅也くんと話をしてきました。 お越しくださったみなさんありがとうございました。 俺は 平倉くんが扱った「正しさ」の問題に関心がありましたので、 そこについて質問。 ゴダールの映画は「なし崩し」的に複数の映像が「類似」を通じて結合される。 ではその結合はいかなる意味で「正しい」のか? ——平倉くんはそれを問う。 「正しいjuste」という言葉はゴダール自身の言葉です。 平倉くんは『ゴダールのリア王』の中に現れるプラギー教授の「実例教育」をヒントにこの問いに向き合っていきます。 さて、 議論が進む中でこんな話になっていきました。 世界そのものがもしかしたらゴダール的なのではないか? 「類似」によって「なし崩し」的に「結合」した断片からなる世界。 ということは容易にバラバラになる世界。 結合とバラバラ

    『映画が思考できるのはなぜか?——スピノザ平行論とゴダール』