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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (22)

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    サントリー学芸賞の岩井克人による選評(というか要約)を読むと、『記号と再帰--記号論の形式・プログラムの必然性』(田中久美子)というが面白そう。 http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/si_reki0065.html 以下、岩井克人による選評の抜粋。 《(…)記号論にはソシュールとC.S.パースという二人の創始者がおり、バビロンの混乱にある。ソシュールの記号論は、記号を指し示すもの(シニフィアン)と指し示されるもの(シニフィエ)の結合体とみなす「二元論」であり、パースの記号論は、記号とは指し示すもの(表意体)が解釈項を通して指し示されるもの(対象)に至ることであるという「三元論」になっている。》 《それ(プログラミング言語)によって明らかになるのは、「関数型」と「オブジェクト指向型」というプログラミング言語の二つのパラダイムがそれぞれ二元的と三元的

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    ijustiH 2011/05/03
    おもしろそう。すごく、すごく。
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    ●散歩から帰って撮った写真をざっと見てみると、意識しているわけではないのだが、いつもだいたい同じところで撮っていることに気づく。空とか光とか葉や植物の茂りとか動物とか何かしら珍しい物だとか、その日やその時期にだけ現れるものでなければ、自分が反応する風景(というか、地形)のだいたいの傾向というのが、自分が撮る写真を見ているとなんとなくあるのが分かる。そういうのを発見するのはとても楽しい。 でも、そうなると意識がその傾向を強化してしまうという現象が起こるので、それを外すのはちょっと難しい。意識したものを、意識的に外すことは出来ないので(というか、それでは「強化」の逆に過ぎないから意味が無いので)、ぼーっとする能力、ぼんやりする能力、あるいは別のものに気をられる能力というのは、とても重要なものであるように思う。 自分の関心の精度を上げるために、意識的にそれを強化するのではなく、意識を外しつつ、意

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    ijustiH 2011/03/10
    自分の関心の精度を上げるために、意識的にそれを強化するのではなく、意識を外しつつ、意識的ではないやり方で精度を磨き、深めなくてはならなくて、それがけっこう難しいんだよなあ、と
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    (20日と19日との日付が逆になってしまった。これは20日の日記で、20日のが19日の分です。) ●絵画に詳しいということと、絵が分かるということとは違う。マティスはぼくにとって永遠の謎のように魅力的なのだが、それでも、マティスの絵にあるマティスにしかない「何か」というものがあって、それをある程度は「分かっている」という感覚はある。たとえば、作風が似ていてもマティスの絵とドランの絵を間違えることはまずないと思う。それは、個々の作品の出来不出来とか、狙いやコンセプトの違いなどより前にある「何か」で、Aさんの顔とBさんの顔が違うのが分かる、という感じ、あるいは、コバルトグリーンとビリジャンとの違いは明らかである、というくらいに明らかなものだ。 別にこれは特別の感覚ではなく、おそらく、分かる人には苦も無く分かる。だから、絵画を深く理解する、考える、というよりももっと前の段階の、そのための条件みた

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    ijustiH 2011/01/24
    分かる人には分かる、ということの、どうしようもなさ
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    ⚫︎連続講座の第一回である前回のマティスとピカソ回は、スライドが200枚ちょっとで三時間くらいだったが、今回は、桂離宮の庭園にかんするスライドだけで250枚くらいになった。 (今のところ、論文「透明性―虚と実」の解説→論文外の具体例の提示→セザンヌの作品の分析→小津安二郎と成瀬巳喜男の特定場面の空間分析と比較→桂離宮庭園回遊について、という流れで――これらすべてに関連がある――スライドが約400枚になっているが、これでも、やろうと考えていることのまだ半分くらい。) とはいえ、桂離宮については、(柄沢さんへの恩返しという意味でも)ちゃんと考えないといけないとずっと思っていたので、この講座を機会にして、その第一歩に手をつけることができた感じ。 (追記。桂離宮は、庭園だけでなく、書院群の建築の外観も超絶的に美しくて、おそらく内部空間も面白いに違いないと思うのだが、一般の人=ぼくでは、中には入れて

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    ●油絵の具には、物質としての扱いづらさだけでなく、長い歴史によって編み込まれた無数のコノテーションもあり、気むずかしくて面倒だ。値段が高いというのも、扱いづらさの一因であろう。 抽象表現主義は、アクリル絵の具やアルミニウム系の塗料によって、そのような新しい、歴史の重さから切り離された絵の具によって可能になった、という側面もある。印象派が、チューブ入り絵の具によって可能になった、というような。しかし、そのようなテクノロジーの問題ではない。それは、たまたま使える条件が何だったかということでしかない。 マティスは、彼以前には考えられなかった領域にまで、油絵の具の可能性を広げている。しかし、マティスにとって問題は、「油絵の具の可能性の拡大」なんかではない。たんに「よい絵」を描くということだけが問題で、その時、彼に与えられていたのが油絵の具だったから、それを使う。 とはいえ、マティスと油絵の具との結

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    ijustiH 2010/02/21
    人は、偶然に出会ったもののなかに自分を見つけ、そこに自分をつくりあげる場を見出す。あり得たかもしれない無数の可能性は、出会ってしまったとたんに運命へと変化して人を限定する。
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    ●『東のエデン』を観ている時、「これはきっと『攻殻機動隊』の「個別の11人」の話を意識的に書き直したものなんだろう」と思ったので、改めて『攻殻機動隊 S.A.C 2nd GIG Individual Eleven』のDVDを借りてきて観た。改めて観ても、これはすごい面白い。日のアニメーションのエンターテイメントとしての質の高さは驚くべきものがあり、例えばもしこの話を、同等の規模で、同等の視覚的充実をもたせてハリウッドでSFXによって映画化したら、莫大な予算がかかり、よって、誰にでも分かるように物語を大幅に単純化せざるを得なくなってしまうだろう。そのような点からも、現在のアニメがオタクたちのためだけの占有物となるような方向に進んでしまっていることを残念に思うのだが。 「個別の11人」を観ると、明らかに『東のエデン』はその書き直しだと確信するのだが(例えば革命家であり英雄であり「不確定要素」

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    ●お知らせ。「群像」2月号に、「わたしは知りたかった/柴崎友香『ドリーマーズ』論」を書きました。『人はある日とつぜん小説家になる』に収録されている柴崎友香論のつづきでもあります。『ドリーマーズ』(特に表題昨の「ドリーマーズ」)という作品で、柴崎友香という作家は、もはや元には戻れないような別の地点にまで突き抜けてしまったように、ぼくは思います。 ●昨日読んだ『海辺へ行く道 夏』があまりに良かったので、もう一冊出ている三好銀の『いるのにいない日曜日』を買ってきて、読んだ。こちらもすばらしかった。この作品は、91年から94年に描かれたそうなのだが、その頃ぼくは二十代前半の学生で、リアルタイムで読んでいたら、ぼくにはこの作品の良さが理解出来なかったかもしれないなあ、と思った。はてなキーワードによれば三好銀は55年生まれだそうだから、これを描いていたのは三十代後半ということになる。なんというか、気

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    ijustiH 2010/01/11
    人は、ある年齢になると、いきなり何かに目覚めてしまって、(ry)焦ったり、自らの重さを(別に体重ということではないが)、ふいに感じて(ry)、そのような罠への、静かで強い拒絶の姿勢だと思う/むむむー!
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    横浜のSTスポットで、神村恵カンパニー「配置と森」。朝、佐々木敦さんのブログをみて、なんとなく気まぐれでぶらっと行ってみたのだけど、観に行って当によかった。とにかく面白かった。ぼくがいままで観たダンスの公演で、一番強く、深い刺激を受けた。(「配置と森」というタイトル自体も、それだけで面白いと思う。) はじまってからしばらくは、何をやろうとしているのかよく分からなかったし、面白いとも思えなかった。途中で、二人のダンサーが組んで、レスリングみたいな絡みをするようになったところで、ちょっと、「おっ」と思い、その後、多数の立方体のオブジェを、ダンサーたちが舞台上で様々に配置し、配置し直し、しかし同時に、そのオブジェを配置するダンサーの身体や動きもまた、別のダンサーによって配置し直される(それをお互いにし合う)、というような展開になった時、この公演でやられていることの感じを掴めたように思われ、そ

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    ijustiH 2009/12/25
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    ●六木super deluxeで神村恵カンパニー『配置と森』。去年、横浜のSTスポットで観た初演があまりに圧倒的だったので、それに比べるとちょっともやっとした感じ。「もやっとした感じ」というのは、いいとか悪いとかではなく、掴みづらいということなのだが。それは、「この人たち、こんなことつづけたらきっと死んじゃうよ」みたいな、単純にフィジカルな次元での「すげえ」っていう感じが後退したことと、去年観た印象では、細部のひとつひとつがもっとくっきりと粒だって見えていたのが、今回のは、むしろそのクリアーな粒だちを意図的に外している感じに見えた、ということなのだろうか。 空間のなかで配置される人。あるいは、配置される身振りや動き。しかしその人は同時に、自ら能動的に動き、物や人や自分自身を空間のなかに再配置しようとする。配置される者が配置し、配置する者が配置される。そこに多中心的な、身体、身振り、物の、

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    ijustiH 2009/12/25
    古谷さんがマチネを見たのかソワレを見たのかはわからないけれど、あれよりもすごかった初演って、本当にすごかったんだね。
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    ●たんたんと用事を進める。あと一息。用事をいったん中断して、夕方から、ブックファースト新宿店での、青山七恵×磯崎憲一郎のトークイベントへ。会場でぼくのを売ってくれるというのと、磯崎さんにちょっと個人的な用事があったので。 トークで印象に残ったのは、青山さんのスイスでの話。 スイスを旅行中、体調を崩して気持ちが悪かった。友人と電車に乗っていて、友人がサンドウィッチをつくってきてくれていて、気持ちが悪くてべたくなかったのだが、せっかく作ってくれたので無理してべた。窓から見えたスイスの山がとてもきれいだった。 その時、見えている風景がすごくきれいだという気持ちと、サンドウィッチがおいしいという気持ちと、気持ちが悪いという気持ちの三つが、どれも混じり合わず純粋なまま、三つ同時に、同じくらいいの強さで自分のなかにあった。それが今年で一番印象的な出来事だった。 普通、気持ちが悪いという(内側から

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    ijustiH 2009/12/20
    すこし大げさな言い方するなら、三つの感覚が分離したまま同居することによって、世界のなかにわたしがいることと、わたしのなかに世界があることとが、同時に成立しているというか
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    ●お知らせ。「新潮」2010年1月号に、ガルシア=マルケスの自伝『生きて、語り伝える』の書評(「デコボコなエピソードの間を移動する」)を書いています。 ●一方に利部志穂がいて、もう一方に、最近はじめて観た郷正助がいる。利部志穂の作品が、誰にも似ていない「利部志穂というジャンル」であるようにみえるのと対照的に、郷正助の作品は、ケレンのまったくない、きわめてオーソドックスな、生真面目な「良い絵画」である。そして、二人とも八十年代生まれの二十代であることを考えると、それだけで、今後十年くらいの美術に対して、とても明るい希望がもてるように思えるのだ。とはいえ、美術をめぐる「状況」(主に経済的なもの)については暗い話ししか聞こえてこないし、現代美術の評価のトレンドが、ぼくが好ましいと思うような方向へとシフトしてゆくことはまず考えられないのだけど。しかし、はるかに年下の作家の作品に、「完全に負けてるじ

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    ijustiH 2009/12/10
    すべての人に共有され得る(共有することが強いられる)「問題」は存在しない/鑑賞-制作の度に、それを行う一人一人によってその都度発見される(発見-創造される)、過去からの水脈-系譜としてのみ顕在化する
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    ●東京都現代美術館へ。 常設展は、岡崎乾二郎すげーっ、という言葉しかない。とはいえ、ペインティング(ペインティングと言っていいのかわからないけど)の仕事は、ほとんどの作品が既に観ているものなので、すごいけど、すごいのはわかってるよ、という感じでもあるのだが、驚いたのは、ゲント現代美術館のインスタレーションを再現した部屋。これはまさに、ぼくはこういう作品をつくりたいんだ、というような作品なのだった。これから、いろいろがんばってなんとかこんな作品を実現したい、というような作品が、既に二十年前に、しかもこんなに高度なものとして達成されていたのだとすると、今後いったい、ぼくはなにを目指せばいいとのいうのか。画家としてのぼくに、まだなにかが出来る余地が残っているのだろうか。この部屋に入ったとたんに、いきなりボコボコに殴られて、立ち上がれなくなってしまった感じなのだった。これは大げさに言っているのでは

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    ijustiH 2009/11/24
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    ●ここ、二週間くらい、テレビをまったく観ていないことに、今日、きまぐれにテレビをつけてみた時に気づいた。午前中、ぼんやりするか、ちょっと制作するかして、午後からはずっと閉店時間まで喫茶店にいて、を読んだり、書き物をしたりして、夜中に帰って、事したらすぐ寝るという生活がずっとつづいていて、テレビを観る時間がない(DVDは二くらい観た)。だから、イギリス人講師殺害事件の容疑者が捕まったことも、山の中に女性の死体がバラバラに放置されていた事件のことも、関係した男が何故か次々不審死しているという女性の存在も、今日までまったく知らなかった。日記を更新する時にネットはみているから、レヴィ・ストロースや森繁が亡くなったことや、松井がワールドシリーズでMVPを獲得したことは知っていたけど。アパートの部屋から喫茶店までの道のりと、帰りに寄る午前零時までやっているスーパーが、最近のぼくにとっての外界のほ

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    ijustiH 2009/11/17
    時間がない、あるいは心に余裕がないというのが大きな原因なのだった。ふらっとどこかへ出かけるということが出来てない。
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    ●私は「私」という素材しか持っていない。作品に触れる時、その貧しさが露呈する。作品は、その貧しさのなかにしか現れない何かだ。私と誰かが同じ作品を並んで観ていたとしても、隣にいる誰かの頭のなかに結像している作品の姿を、私は見ることが出来ない。私が見ている作品は、私が見ている夢と同じくらいあやふやだ。私に見えている作品の像を他人に伝えるのは、私の見ている夢を他人に伝えるのと同じくらいむつかしい。目の前の風景やものを、「あれ」と指さすように、私の見ている夢を「これ」と言って指さすことはできない。ある作品を「これ」と指さすようには、その作品から私が「見たもの」を「これ」と指さすことはできない。作品の経験は夢のように孤独なものとしてある。 ここで重要なのは「私」ではなく、作品から私を通して結像された「何か」であり、私が作品を通過することで見た「何か」の方である。ここで「私」がついてまわるのは。私が私

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    ijustiH 2009/10/29
    私は「私」という素材しか持っていない。作品に触れる時、その貧しさが露呈する。作品は、その貧しさのなかにしか現れない何かだ。
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    ●作品を経験する時、とりあえずいったんは、その作品のすべてを受け入れなければならないと思う。好きなところも嫌いなところも。すごいと思うところも疑問を感じるところも。受け入れるというのは、それがそのような形になったことのすべてに必然性があるという前提で、それに対するということだ。あらゆる細部は、それがそうであるべき必然性によって、そのような形としてできあがった。必然性があるということは、完璧で改善の余地がないということとは違う。そのようになったそれなりの理由があるということだ。それはその作品の成立の事情とも、作者の意図とも関係なく、そうである、と、仮定する。勿論それは仮定としてしか成り立たないが、その仮定からはじめる必要があるように思う。作品に接して違和感や拒否感を感じたとしたら、そこにこそ、その作品の積極的な意味とつながっている何かがあると、とりあえずは考えるべきだろう。たとえ、その作品に

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    ijustiH 2009/10/28
    作品を経験する時、とりあえずいったんは、その作品のすべてを受け入れなければならない/受け入れるというのは、それがそのような形になったことのすべてに必然性があるという前提で、それに対するということ
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    ●30日の阿佐ヶ谷美術専門学校でのレクチャーの内容を具体的に詰める。今週末は、出かけたいところが何カ所かあるので、今日中に見通しくらいはたてておかないとまずいのだが、まあ、あと月曜に一日かけてがっつりやれば、なんとかなるだろうという感じにはなった。とは言え、人前で話すことにはどうしても慣れないし(別に人前じゃなくても、普通に話すことにも慣れないのだが)、特に一人で喋るのだから、詰まってしまったら誰も助けてくれないという恐怖が強くある。だいたい、上手く喋れるくらいだったら、わざわざ毎日、こんなに文章を書いているわけがないのだ。 ぼくは、自分から積極的に手を挙げて発言するような子供ではなかったし、冗談を言ってみんなを笑わせるような子供では尚更なかった。空気も読まずに我が道を行く、というほど強くもない。教室の隅っこの方で、誰も見ていないことをいいことに、勝手に好きなことをやって、一人で勝手に喜ん

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    ijustiH 2009/06/27
    特に一人で喋るのだから、詰まってしまったら誰も助けてくれないという恐怖が強くある。だいたい、上手く喋れるくらいだったら、わざわざ毎日、こんなに文章を書いているわけがないのだ
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    ●42歳になった。 ●三鷹市芸術文化センター、星のホールで、サンプル『通過』(作・演出/松井周)。サンプルを観たのは『カロリーの消費』以来で2度目。この作品は、サンプルとしての第一作の再演であるそうだ。 『カロリーの消費』では、作品が戯曲・演技・演出のどのレベルでも驚くような精度で練り上げられていて、まるで精密機械のように作動するのだが、しかし、その精度が、あるいはその精度によって醸し出させる「何とも嫌な感じ」が、一体どこに向かおうとしているのか、何に奉仕しようとしているのかがよく分からなかった。よく分からないというのは悪口ではなく、その「よく分からなさ」こそが、作品の独自の感触であり、謎であり、魅力の源泉でもあるようにみえた。観客は、どの登場人物、どのエピソードに対しても思い入れすることを拒まれ、感動やカタルシスを奪われ、おそらくつくっている側もまた、自身の表現の欲求や伎倆の顕示欲を抑制

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    ijustiH 2009/05/26
    展開を、実験室のなかの実験のように冷静な態度で距離をとって眺めつつ、しかしどこか、嫌な方向へ転がって行くのを期待していて、その嫌な感じこそを見たい、それを自虐的に楽しみたいとでもいうような作家の眼差し
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    ●後頭部から背中にかけて凝りがひどくて、こういうのはだいたい風邪の前兆なんだよなあと思っていたが、昨日までの寒さが和らいだ川沿いの道を、体をほぐす感じで散歩していたら凝りは随分と楽になり、それどころかだんだん絶好調みたいな感じになってきて、調子にのっていたら夕後にガタッと体調が悪くなる。 体がだるくて、とりあえず寝ておこうと思っても、びっくりするくらい鼓動が強く打っていて、横になってもドキドキドキドキして眠れず、何だこれはと思いつつ、そういえばマラソン中に心肺停止状態になった松村邦洋はぼくと同じ年だったとか思ったりした。 それでも少しうとうとして、夜中に目が覚めたら風邪まっただなかみたいな症状になっていた。どんよりと苦しいがそれ以上は眠れず、仕方ないのでテレビをつけてぼーっと観ていた。そうしたら、たまたまやっていた、ココリコ田中と中川翔子のやっている「飛び出せ、科学くん」とかそんな感じの

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    ijustiH 2009/04/01
    研究者の伝わりにくいこだわりとかも凄くて、何でも分かり易く、伝わり易くすればいいってもんじゃないと、改めて思うのだった。
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    ●銀行へ行ってお金をおろし、昨日注文したの料金を振り込んで、次に水道局で下水道代、東京電力の窓口で電気代の、それぞれ滞納分を支払う。両方とも、19日までに払わないととめるとか言うんで。そのままツタヤへ行って、借りていたDVDを返して、また借りる。原稿のために観る必要がある三映画のうち、二はあったけど、あと一がない。また別のツタヤで探さなくてはいけない。その探している映画が、セルDVDとして1500円で売っていて、迷ったが買わなかった。銀行、水道局、東京電力、ツタヤはそれぞれ、けっこう離れているので、すべて徒歩でまわると二時間半以上かかり、ちょうどよい散歩のかわりになった。 ●午後からは喫茶店でずっと作家論のゲラの直し。赤いボールペンを忘れてきたので、青いボールペンで直す。これはきっと、面白い、はず。 ●夜は、原稿のための映画のDVDを観る。その映画のナレーションで語られた「ボクシ

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    ijustiH 2009/03/18
    多くの人がみる「夢」とは、すでに社会的に承認されたものであり、それをかなえることが他者の承認につなかることがあらかじめ約束されてしまっている。しかしそれは「夢」という言葉に値しない。
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    ●引用、メモ。『システムの科学』(ハーバート・A・サイモン)から。 《蟻が風波の跡をとどめた海岸を、苦労しながら歩いているのを見かけることがある。蟻は前進したり、小さな砂丘を登りやすいように右折したり、小石を迂回したり、仲間と情報を交換するために一瞬立ちどまったりする。このようにして縫うように進んだり停止したりしながら、自分の巣に帰るのである。人間に擬して蟻の目的を考えるわけではないが、いま紙のうえにその道筋を描いてみよう。そうすると不規則で角ばった諸部分からなる一連の図形ができあがる。といってもそれは、蟻の動きの背後に方向感覚が働いているから、単なる彷徨の跡とはいえない図形である。》 《蟻の歩いた跡を幾何学的な図形としてみると、不規則で、複雑であり、記述しにくいものである。しかしそこにみられる複雑性は、当は蟻が歩いた海岸の複雑さを示しているのであって、その蟻の複雑さを示すものではないの

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    ijustiH 2009/01/13
    引用、メモ。『システムの科学』(ハーバート・A・サイモン)から。