タグ

東日本大震災に関するma7eのブックマーク (8)

  • 【震災から10年】なすびさんと一緒に福島第一原発を見てきた - イーアイデム「ジモコロ」

    2011年に起きた東日大震災と、福島第一原子力発電所の事故から10年。ライターのヨッピーさんが、原発の内部を見学してきました。復興の状況、廃炉への道のり、汚染水(トリチウム水)の処理問題……タレントのなすびさんや、いわき市小名浜の「上野台豊商店」上野臺 優さんの話と共に、現地の様子を伝えます。 先日、福島第一原発に行った。 10年前のあの日、「会社を辞めるぞ!」と決意したこともあって、退職手続きのあれこれに追われていたことを思い出す。 何事も「面倒臭いことは全部後回しにする」というややこしい性質を持っている上、「どうせもう辞めるし」と完全に会社を舐めてかかっていたので退職にまつわる書類の提出も期限ギリギリになって大目玉をらった。 「今すぐ持って行け!」と上司に言われ、しぶしぶ東京の社ビルに出向き、経理課長から「お前はいつも提出が遅い。最後の最後まで……」などとお小言をらっている最中

    【震災から10年】なすびさんと一緒に福島第一原発を見てきた - イーアイデム「ジモコロ」
  • 東日本大震災を生き延びた小学生がJKMAXへ体験入店

  • あの日大川小学校で何が起きていたか 津波が迫る中で教師達は権力闘争

    校庭と裏山は隣接していてとても近い 引用:http://stat.ameba.jp/user_images/20110910/23/tonton3/13/4c/j/o0652040011475161467.jpg?caw=800 40分の口論 2011年の東日大震災の後で発生した津波で、石巻市大川小学校の生徒と教員ら84人が不明になり、児童の保護者らが起こした裁判の判決がありました。 2016年10月26日仙台地裁は保護者らの訴えを認めて市と県に対し、約14億円の損害賠償を命じました。 なぜ津波という自然災害が裁判で争われ、一審判決が出るまでに5年も掛かったのでしょうか。 当初は自然災害が原因と思われていたが、詳細が明らかになるにつれて、教師らが闘争を繰り広げて、津波からの避難を禁止したのが分かってきました。 地震は2011年3月11日午後2時46分に発生し、校舎の窓ガラスが割れたり備品

    あの日大川小学校で何が起きていたか 津波が迫る中で教師達は権力闘争
  • 東日本大震災で少し被災した特撮ファンがシン・ゴジラで絶頂した話

    8月2日にTOHOのレイトでシン・ゴジラを観て発狂しそうになった。凄すぎて。そこからもう寝ても覚めてもゴジラのことしか考えられなくなり、気づいたらもうすぐリピートの回数が2ケタになろうとしている。もともと特撮映画大好き人間だったけど、それにしたってこの映画は別格だ。こんなに映画に熱狂することは、向こう十年はないと思う。 とにかく全編渡って大傑作だったんだけど、特に中盤の、夜の東京でゴジラが熱線を吐き全てを破壊するシーンでは当に気が狂うかと思った。自分でも理解できない膨大な感情の波が押し寄せてきて内面をひたすら揉みくちゃにした挙句、最終的に途方もない歓喜だけが残った。もう完全に中毒になってしまって、ちょっとでも間が空けばシンゴジの熱線が見たくなって、気づけば劇場に向かってしまう。なんでこんなにこのシーンに惹かれるのか何度も観て何度も考えて、やっぱり自分の震災体験が影響しているんだと思った。

    東日本大震災で少し被災した特撮ファンがシン・ゴジラで絶頂した話
  • 震災から4ヶ月、ヤシマ作戦と個人的な話。:isidaiの考察日誌

    震災から4ヶ月、ヤシマ作戦と個人的な話。 震災からもう4ヶ月。まだ4ヶ月。 2011年も半分終わってしまいました。 不謹慎とは思いますが、エヴァのタイトルに準え、少しだけヤシマ作戦と個人的な話をしようと思います。 知らない中身 まず、ご存じない方の為に少しだけこの記事を書いている中身についてご紹介いたします。 isidaiと言います。宮城県石巻市出身、1990年4月生まれの21歳、男。石巻高校を卒業後、筑波大学に入るも現在は休学中。ゲヒルン株式会社の代表取締役を務めています。3月の震災で実家と家族が被災、多数の被害があるなか、なんとか生きています。普段はプログラマだったりセキュリティエンジニアだったり、ただの変態だったりしています。エレクトーンもやっているので石巻の商店街やジャスコなんかでも街頭ライブ、インストアライブなんかもやってたりしました。Twitterは @isidai ですが、た

    震災から4ヶ月、ヤシマ作戦と個人的な話。:isidaiの考察日誌
  • 「3.11帰宅ログ」からわかったこと

    ちょうど一週間前の2016年3月11日は震災から5年目の日。奇しくもあの日と同じ同じ金曜日だった。 思い出すなあ、あの日のこと。 あの2週間後にぼくは「首都圏帰宅ログ」という記事を書いた。東京・首都圏のみなさんがあの夜どうやって家に帰ったかをきいてまとめたもの。いわゆる帰宅難民のレポートだ。 あらためてみなさんの「帰宅ログ」を見てみると色々興味深いことが分かったので、それについてお伝えしたい。

    「3.11帰宅ログ」からわかったこと
  • 東日本大震災のときに日米間のインターネット回線が危機だった件を調べてみた。

    先日、東日大震災でTwitterが落ちなかったのは現場のエンジニアの判断だったという記事がバズってました。 2011年3月11日、なぜ「Twitter」は落ちなかったのか? 多くの人が知らない、意外な真実。 | TABI LABO しかし、そもそも日米間をつなぐインターネット回線(海底ケーブル)がほとんど断線しており、生き残った回線に経路を変更して通信をしのいでいたことは、もっと知られても良いのではと思っています。 この事実を知ったのは、NHKの番組「ITホワイトボックス」でした。 ●ITホワイトボックス「震災時 私たちはITで何ができるのか?」(2011年8月下旬の放送) 番組サイトがすでに存在していないので見た人の書き込みはこちら↓ ITホワイトボックスの東日大震災後の話 | ロウタス・ディジタル 日米間をつなぐ5の海底ケーブルのうち東日側の4が断線したため、西日経由にネッ

    東日本大震災のときに日米間のインターネット回線が危機だった件を調べてみた。
  • 首つったおやじ、無駄死にさせたくねえ 福島の農家:朝日新聞デジタル

    土と生きる豊かな暮らしは、あの日、一変した。福島県須賀川市で農業を営む樽川和也さんは、東京電力福島第一原発の事故後まもなく父親を自死により失った。田畑も放射能で汚染された。東京で20日公開のドキュメンタリー映画「大地を受け継ぐ」で苦悩を訴えている。もう取り戻せない、償うことなどできない現実を聞いた。 ――事故から5年。いまの状況を教えてください。 「放射能は、こっちの中通りにも降りました。田んぼも畑もビニールハウスも、みんなやられて、うぢらは職場を汚染されたんです。だけど、東電は資産への賠償をしたわけでもねえ、放射能を取り除いたわけでもねえ。ただ、5年の月日が流れただけ。たーだ被害かぶって苦しんで、うぢらはいったい、なあんなのって」 「精神的な慰謝料として事故の年に8万円、翌年に4万円はもらいましたよ。ただ、それだけ。12万円で、あとはもう黙ってろ、自然に放射能さがんの待ってろっつうことで

    首つったおやじ、無駄死にさせたくねえ 福島の農家:朝日新聞デジタル
  • 1