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syngman-rheeに関するnabinnoのブックマーク (7)

  • 四捨五入改憲 - Wikipedia

    四捨五入改憲(ししゃごにゅうかいけん、朝鮮語: 사사오입개헌)とは、1954年11月に行われた大韓民国憲法の第2次憲法改正の名称である。賛成票が1票足りず、来なら否決されるはずの憲法改正案を、数学上の「四捨五入」の論理を援用して強引に可決したと宣言したことで名付けられたもので、1952年の釜山政治波動[1]に次ぐ政治事件となった。 解説[編集] 1954年当時の大韓民国憲法では、大統領の任期は1期4年で再任は1回のみ容認されていた。そのため、1952年の大統領選挙で再任された李承晩大統領は任期が満了する1956年には大統領の座を退かなければならなかった。しかし終身大統領となることを目論んでいた李承晩は、憲法を改正して再任制限を撤廃することを目指した。 憲法改正に先立つ5月20日に行われた第3代国会議員総選挙において大統領与党である自由党は改憲に必要な3分の2議席を確保するため、警察組織

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  • 李起鵬 - Wikipedia

    李 起鵬(イ・ギブン、이기붕、1896年12月20日 - 1960年4月28日)は、大韓民国の政治家。貫は全州李氏。号は「晩松」(マンソン、만송)。 来歴[編集] 漢城出身。延喜専門学校(現:延世大学校)を中退して、宣教師の通訳になって渡米し、アメリカアイオワ州のデイバー大学(現・アイオワ大学)を卒業。卒業後、ニューヨークで許政などと共に『三一新報』の発刊に参加した[2]。 1934年に帰国して、1945年に米軍政庁軍政裁判長の通訳を務め、後に初代大韓民国大統領になる李承晩の秘書として政界入りし、1948年には大統領秘書室長、1949年にはソウル特別市長に就任した。1951年の国民防衛軍事件で申性模国防部長官が解任されると、国防部長官になった。同年に自由党を創党して、1954年には四捨五入改憲を主導する程権力を握る様になり、この頃から彼の邸宅は「西大門景武台」とまで揶揄される様になった[

  • 麗水・順天事件 - Wikipedia

    全羅南道 麗水・順天事件(れいすい・じゅんてんじけん)は、1948年10月19日、韓国全羅南道麗水郡(現在の麗水市)で起こった軍隊叛乱と全羅南道麗水郡、慶尚北道盈徳郡、京畿道金浦郡(現在の金浦市)で起きた民間人殺害事件[1]。 概要[編集] 1948年8月15日の大韓民国建国直後、共産主義政党の南朝鮮労働党(南労党)は各地の大韓民国国軍部隊に工作員を浸透させ、反乱や騒擾の機会を窺っていた。10月19日、済州島で起きた済州島四・三事件鎮圧のため出動命令が下った全羅南道麗水郡駐屯の国防警備隊第14連隊で、隊内の南労党員が反乱を扇動、これに隊員が呼応し部隊ぐるみの反乱となった。 反乱は麗水郡から隣の順天郡(現在の順天市)にも及んだが、李承晩大統領は直ちに鎮圧部隊を投入し、1週間後の10月27日に反乱部隊は鎮圧された。残兵はその後北部の山中へ逃げ込み、長くゲリラ抵抗が続いた。事件処理で韓国政府の左

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  • 進歩党事件 - Wikipedia

    進歩党事件(しんぽとうじけん)は、第一共和国時代の大韓民国における進歩主義政党である進歩党の委員長・曺奉岩を初めとする幹部が、「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のスパイと接触して、北朝鮮が主張している南北の平和統一を主張した」という嫌疑で逮捕・起訴され、曺奉岩が処刑された事件。1956年5月の大統領選挙で支持を大きく伸ばした曺奉岩に脅威をおぼえた李承晩大統領と与党・自由党が仕組んだとされている。2011年に大法院によって冤罪事件であったことが証明され、処刑された曺奉岩の名誉は回復された。 背景[編集] 1956年5月に行われた第三代大統領選挙に出馬した曺奉岩は、(政府与党の意を受けた)官憲によるあらゆる弾圧と不正選挙にもかかわらず、前回立候補(第二代大統領選挙)した時の3倍近くにあたる216万票余を獲得、民主党の大統領候補者であった申翼熙の逝去後、李承晩の政敵として頭角を現し始めた。 選挙

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  • 李承晩 - Wikipedia

    李 承晩(り しょうばん、イ・スンマン、1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。貫は全州李氏。号は「雩南」(ウナム、우남)。字は「承龍」(スンニョン、승룡)。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「リ・スンマン(리승만)」と呼ばれるが、これは韓国では語頭子音ㄹの脱落が起こるためである(朝鮮語の南北間差異参照。)。韓国でも1950年代以前には「리승만(リ・スンマン)」と綴られていた(英文での人の署名も“Syngman Rhee”となっている)。 略年表[編集] 1875年3月26日 - 京畿道開城市近郊の黄海道平山郡馬山面大慶里(現・黄海南道峰泉郡)にて生誕。 桃洞書堂で漢学を学ぶ。 1896年 - アメリカ人のキリスト教宣教師アペンセラーが設立した培材学堂で学び始める。 1896年 - 徐載弼(ソ・

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  • 李承晩ライン - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "李承晩ライン" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年3月) 大韓民国 初代大統領 李承晩 李承晩ラインの地図 李承晩ライン(りしょうばんライン[注釈 1]、イスンマンライン)は、1952年(昭和27年)1月18日に韓国初代大統領・李承晩が大統領令(国務院告示第14号)「隣接海洋に対する主権宣言」[1]を公表して設定した「韓国と周辺国との間の水域区分と資源と主権の保護のため」と主張する海洋境界線である。 戦前の朝鮮総督府時代、朝鮮半島の周囲に機船トロール禁止区域線および機船底曳漁業禁止区域線が設けられ、これによって日

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  • 新潟日赤センター爆破未遂事件 - Wikipedia

    新潟日赤センター爆破未遂事件を報じた朝日新聞夕刊(1959年12月5日付) 新潟日赤センター爆破未遂事件(にいがたにっせきセンターばくはみすいじけん)とは、中国地方各地における韓国工作員による密出入国と、1959年12月4日韓国代表部(領事館)の金永煥三等書記官などにより企てられた新潟県での暗殺・爆破テロ未遂事件事件の背景[編集] 朝鮮戦争が膠着状態となり、1951年7月から休戦会談が開始されると、韓国大統領・李承晩は1952年1月18日に李承晩ラインを宣言し、竹島を不法占拠するとともに対馬は韓国領であると主張して日に「返還」を要求、さらに日の漁民数千人を不当に抑留し、果ては第一大邦丸事件のように無抵抗の日人を虐殺する事件までも引き起こした[1][2][3]。後述の事件当時も日人は韓国に抑留されている状態であった[4]。韓国では休戦後も国土が荒廃したままで、経済活動は衰退し、世

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