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ブックマーク / note.com/novalisnova (4)

  • 堀江敏幸「既知を恐れる」(『坂を見あげて』)|KAZE

    ☆mediopos3395  2024.3.4 ふと再読した堀江敏幸のエッセイ 「既知を恐れる」(『坂を見あげて』所収)は ヴァレリーの 「知性を欠いた直観はひとつの事故である」 「私は未知のもの以上に既知のものを恐れる」 といった言葉からの随想である 知性を信頼するためにこそ 知性を既知の外へと導く必然的偶然へと みずからを導かなければならない ということでもあるだろうか 知性を信じるということは つねにみずからの知性が 「既知の枠からはみ出す瞬間を、 不意打ちを待っている」 ということにほかならない つまり知性はつねに 現在のみずからの知の外へ 「未知へ」と向かおうとすることによって はじめて知性であり得る アリストテレスが 哲学の出発点に置いた 「驚き」ということでもある 知性がみずからを守ろうとするとき 言葉を換えていえば 知性は未知への衝動を失い既知へと閉じてしまうとき 知性はす

    堀江敏幸「既知を恐れる」(『坂を見あげて』)|KAZE
    noitseuQ
    noitseuQ 2024/03/05
    その意味においては、「未知は外部にあるのではなく、内部にある」。未知への衝動は、「驚き」によってもたらされるからだ。「驚き」は「外部」にあるのではない。知性には「内部」にある「感性」が不可欠なのだ。
  • 森田 真生『僕たちはどう生きるか/言葉と思考のエコロジカルな転回』|KAZE

    ☆mediopos-2576  2021.12.5 ティモシー・モートンのいう 「エコロジカルな自覚」とは 「A=A」という「自同律」を 自明のものにしないことだという インドの伝統的な思考に Aでも 非Aでも Aかつ非Aでもなく Aと非Aのどちらでもない といいうテトラレンマというのがあるが モートンのエコロジカルという エコのロジックは 一見言葉の遊びのようにさえ思える そんなテトラレンマのようなロジックで 「言葉と思考」を転回させようとしている それを「自覚」に導く主体は 「強い主体」ではない 主体はむしろ弱くされることで 「遊び」へと向かうことができる 主体を弱くすることで むしろ自覚は深められ 自在で柔軟な主体となり 「環境」と響き合えるようになる 「正しさ」「正義」「真理」などは 強い主体でしか主張しえないことだが そうすることでわたしたちは みずからを「環境」から遠ざけてしま

    森田 真生『僕たちはどう生きるか/言葉と思考のエコロジカルな転回』|KAZE
    noitseuQ
    noitseuQ 2024/02/03
    純粋に、清潔に、首尾一貫した「自己」という発想自体が、すでに現実味を失っている。自己と非自己、人間とそれ以外と、ものごとを図と地にきれいに分けられると信じられるのか。他者が自分に浸みこんでいるッのに?
  • 成田正人「遊びのメタフィジックス~子どもは二度バケツに砂を入れる~」 第二回 遊びの理由・遊びのメタフィジックス・第三回 遊びでしかない遊び|KAZE

    成田正人「遊びのメタフィジックス~子どもは二度バケツに砂を入れる~」 第二回 遊びの理由・遊びのメタフィジックス・第三回 遊びでしかない遊び ☆mediopos3349  2024.1.18 朝日出版社ウェブマガジン 「あさひてらす」で連載されている 成田正人「遊びのメタフィジックス」の 第一回「子どもの遊び」(2023.11.29)については mediopos3302(2023.12.2)でとりあげているが 今回はその続き 前回は遊びには理由や原因がないのかもしれず 遊びを自由な行為であるとするとすれば 遊びの原因を求めるべきではないかもしれない ということが示唆されているのをうけて 大人になってからでも 原因を求めることなく遊び続けることが 自由な人間であり続けるための 必要条件だともいえるかもしれない そうとらえてみた 今回はその第二回目 「遊びの理由・遊びのメタフィジックス」と 第

    成田正人「遊びのメタフィジックス~子どもは二度バケツに砂を入れる~」 第二回 遊びの理由・遊びのメタフィジックス・第三回 遊びでしかない遊び|KAZE
    noitseuQ
    noitseuQ 2024/01/19
    大人の遊びは、遊びでもあるが、それとは別の目的をもつ。というのも、大人は自らの行為の結果を見据えてしまうからである。大人の目には物事は互いに因果的につながって見えてしまうのである。
  • 渡辺一夫「曲説フランス文学」(松岡 正剛『千夜千冊エディション 読書の裏側』/渡辺一夫『曲説フランス文学』・『ガルガンチュワ物語 パンタグリュエル物語』|KAZE

    渡辺一夫「曲説フランス文学」(松岡 正剛『千夜千冊エディション 読書の裏側』/渡辺一夫『曲説フランス文学』・『ガルガンチュワ物語 パンタグリュエル物語』 ☆mediopos2814  2022.8.1 先日来ユマニスムについて あれこれ考えるようになった 「日のユマニストの象徴のように崇敬されてきた人物」は いうまでもなく渡辺一夫である ユマニスムとヒューマニズムはおなじではない 松岡正剛の言うごとく 「ヒューマニズムという言葉はぼくには身につかない」 「できれば使いたくないし、 ヒューマニズムと言いさえすればいいと信じている 連中を見ると虫唾が走る」 モンテーニュがかつて語ったように 「人間性のなかには悪も残虐も狂気も宿っている」が ヒューマニズムはそれらが まるで存在しないかのような顔をしているからだ 渡辺一夫の語るユマニスムには 「嘲笑」も「揶揄」もある 「ようするにつねにおかしな

    渡辺一夫「曲説フランス文学」(松岡 正剛『千夜千冊エディション 読書の裏側』/渡辺一夫『曲説フランス文学』・『ガルガンチュワ物語 パンタグリュエル物語』|KAZE
    noitseuQ
    noitseuQ 2023/04/21
    やはりぶっとんだ「ユマニスム」である。甘ったるい偽善のヒューマニズムではない。昨今のきわめて偽善的な香りたっぷりの管理社会的な世の中にいちばん欠けているのが、そうした「ユマニスム」の視点なのではないか
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