准尉は、軍人らしからぬ人でした。 理想の上司、誠実な夫。 しかし、今から78年前の8月18日、終戦3日後のこと。 妻と生後間もないわが子とともに、命を絶ちました。 「我れにその力すでになし」 遺書には、悲劇の理由が記されていました。 (長野局記者 長山尚史) 目次 ある一家の死 “理想の上司” 遊佐准尉は殴らない
8/7茨城キャンプキャビンの朝日、元気の活力となる。 そこから空が不安定に目まぐるしく変わる。 雷⚡️が鳴り響く。テントに雨が刺さる。ハル🐈は怖いんだろう。私だって倒壊するのか😩と思ったくらいだ。 夜、ハル🐈がテントの中で何かをじっと見つめていた。 最初は何を見ているのかわからなかった。 夜中、トイレにいく時、タープにカブトムシが1匹、わさわさしていた。ハル🐈が見ていたのはこれだったんだ。 横浜に戻り日常生活を送っている。お盆初日はお刺身だった。中日はこれ、半額の1,500円⭕A4和牛ざぶとんとあった。高いが半額😍もちろんこれは買いだ! 子供2人に初めてざぶとんを食べさせた。 ざぶとんは私も食べたことがないかもしれない。 1人2枚とし、フライパンで半生に仕上げクレージーソルトとわさび醤油で出した。 これはやはり美味い😋 おかずにはならない味見レベルの量だが、一同驚愕🫨脂も多い
通常のナイター試合ならば、2時45分に開くが、この日は30分遅れでの開放。容易に予想はついた。 主力3人の放出で“終戦”を迎えたエンゼルス 今夏のトレード期限が午後3時に迫り、エンゼルスは、ギリギリの交渉を続けていた。ジェットコースターの冒頭のように頂上から一気に転落したようなシーズンで、トレードの市場は無念の「売り手」に回った。 駆け込みでブランドン・マーシュ、ノア・シンダーガード、ライセル・イグレシアスと、主力3人を放出した。イグレシアスはリリーフ陣とともに練習に顔を出したが、急きょ、切り上げてクラブハウスに戻った。 3時15分。私服姿でリュックを背負ったマーシュ、続いてタンクトップ姿のシンダーガードがクラブハウスの前の通路で会見。そして、クラブハウスの中に入ると、トレードが成立したばかりのイグレシアスが段ボールに荷物をまとめていた。 すぐにメディアに囲まれた守護神は、何とか言葉をつな
さて、今日の終戦の日。 そして、私の大事な年間行事の一つの靖国参拝の日。 そんなことで靖国神社へ。 11時頃に到着して、玉串料を収めて本殿で参拝。 正午に黙祷するのが毎年の恒例。 先の大戦を、日本の「侵略戦争」と言う人もいるけれど「自衛戦争」だと私は思ってます。 ま、そんなことは別として、 国のために尊い命を犠牲にした英霊に尊崇の念を示すことは当然のこと! 私が毎年靖国に行く理由はこれだけ。 今年、内閣で靖国参拝したのは、西村大臣、高市大臣、秋葉大臣、萩生田政調会長のみ。 岸田さんダメだ....中国、韓国の顔色伺い過ぎ... 中国、韓国も靖国参拝をすぐに問題にするけど内政干渉だろ! しかも中国は先日、我が国の排他的経済水域にミサイル打ち込んでるのに何を言ってんだか... 岸田さんじゃ日本守れないな... 今日のオマケ。少し古いけど伝説の靖国スピーチ
「終戦の日」の15日、菅内閣の3人の閣僚が靖国神社に参拝しました。閣僚の参拝は2年連続で、13日参拝した閣僚も含めて、5人が参拝しました。一方、菅総理大臣は参拝せず、「自民党総裁・菅義偉」として、私費で玉串料を納めたということです。 「終戦の日」の15日、東京・九段の靖国神社には、萩生田文部科学大臣と、小泉環境大臣、井上万博担当大臣の3人の閣僚が参拝しました。 萩生田大臣と小泉大臣の2人は安倍内閣の閣僚だった去年の「終戦の日」にも、靖国神社に参拝しています。 参拝を終えたあと、萩生田大臣は、記者団に対し「先の大戦で尊い犠牲となられた先人の御霊(みたま)に、謹んで哀悼の誠をささげ、改めて恒久平和への誓いをしてきた」と述べました。 また、記者団が「現職閣僚の参拝に、中国や韓国が反発を強めているが」と質問したのに対し、萩生田大臣は「自国のために尊い犠牲となられた先人の皆さんに、尊崇の念を持ってお
【保存版】シリーズは、筆者であるツベルクリンが色々なジャンルのネタを好き勝手に書いていくシリーズ記事です。今回は、「終戦記念日に観たい映画7選」をご紹介していきます。 私ツベルクリンは、普段ほとんど映画を観ません。よく巷では、「年間300本映画を観る映画マニアが選ぶ〜」みたいな記事があったりしますが、それとは逆な視点の「映画ほとんど見ない奴が選ぶ〜」みたいな記事もあっていいと思うのです。『映画興味ないやつでも惹かれる映画」みたいなスタンスです。 そういう記事無いかなぁ〜って思ってたらありましたわ(๑・̑◡・̑๑) www.tuberculin.net さて、そんな映画観ない私が今回は8月15日の終戦記念日に観たい映画をご紹介していきます。映画興味ないけど、それでも印象に残る映画をリストアップしてみました。ご家族揃ってぜひご覧ください。 <目次> 硫黄島からの手紙 シンドラーのリスト 月光の
(2021年8月15日 アルツハイマー型認知症の診断から約14年6ヶ月) harienikki.hatenablog.com *今日、8月15日は終戦の日です。 78年前のこの時期、ジジは17歳、おママは11歳でした。 それぞれの戦争体験はあったと思うのですが,施設に入ったおママは認知症末期、ジジも最近は時系列が30年〜50年近くズレることもあり、彼らから聞ける話もなくなってきました。 戦争体験者が減少していく中で、私達はどのように悲惨な歴史を継承したら良いのでしょう。 知ろうと思えば、戦争の惨禍を学ぶ事はできると思います。多くの国民が巻き込まれた戦争の時代を、私なりにこれからも手繰っていきたいと思います。 (↓)昨年2022年7月の記事です。おママの戦争体験を書いておいて良かったと思います。 harienikki.hatenablog.com (↓)毎年3月に東京大空手特集を書いておりま
北大西洋条約機構(NATO)のストルテンベルグ事務総長/Stian Lysberg Solum/AFP/Getty Images (CNN) 北大西洋条約機構(NATO)のストルテンベルグ事務総長は4日までに、ウクライナでの戦争が終結してもロシアが再び侵攻を企てる歴史の繰り返しを阻むため、NATOはウクライナへの支援を続けるとの見解を示した。 ノルウェーの首都オスロで開かれたNATOの非公式外相会合後の記者会見で表明した。事務総長は「我々全員は戦争の最中にウクライナをNATOの正規の加盟国にすることは出来ないことで意見が一致している」と説明。 その上で、「戦争が終えた時に起き得る事態への準備をする必要がある」とし、「歴史が繰り返されないことを確保する必要があるからだ」と主張。この歴史については、ロシア軍が再編成を進め、再び攻撃に踏み切るようなものだと述べた。 NATOは終戦後、ウクライナの
「家のことはしんぱいされづ 一日もはやく にくきヤンキーを撃めつしてください」 昭和19年、当時13歳の少年が書いた「わが家の新聞」です。 離れて暮らす父親に宛てて、日々の出来事や家族の様子が記されています。 戦争末期から終戦直後にかけての克明な日記も残されていて、そこには終戦の日の率直な思いも。 少年の目には戦争はどのように映っていたのか。 そしてどう日常を取り戻していったのか。 日記や新聞を手掛かりに足跡をたどりました。 (大阪拠点放送局 記者 加藤拓巳) 8月15日 水曜 晴れ少し曇り 「昼から天皇陛下おん自らのご放送と言われるので何かいいことかと思っていたら/無条件降伏とか話しているし、寺でも話しているし、4時ごろ新聞も来たのに必勝を信じ切っていたので、デマとばかり思っていたのに/何とも言えぬ悲しみ心では泣けてきた」 昭和20年8月15日。 日本人が敗戦を知った、あの日の日記です。
今日の荒川の土手。むちゃくちゃ暑いです~人も少なめですね(当たり前か…) 今日は、朝からいい天気ですね。 暑いーー!と言っても、いつまでも続くわけでもないし、 そろそろ「この暑さも、もう終わってしまうのかな?」と、 少し寂しく感じてきています。 セミの声もいいですね♪ 今日はアブラゼミが多いです。 この照り返しのなか、河川敷では少年野球の子供たちが試合をしていました(すごいわぁ~水分きちんと取ってね!) 今朝は10時前に起きて、高校野球の交流試合を見ていました。 第一試合は、履正社対星稜。 今回の交流試合、屈指の好カードです! 試合は予想外の、1・2回の履正社の猛攻で8ー0となって、 さすがに逆転の星稜も勝負あった!という感じでした。 星稜の2番手ピッチャーの野口投手は、なかなかテンポが良くて、よかったですね。 勢いを増していた履正社の攻撃陣を見事に封じていました。 野口投手は2年生ですか
今日は終戦記念日。 私が子供の頃は、終戦記念日の数日前から、 ニュースや昼のワイドショウでも戦争の事を取り上げていたように思う。 夏休みだから、目にする機会も多かった。 戦争のドラマや映画も必ず放送されていた。 広島の原爆投下も長崎の原爆投下も、今より特集を組んで放送されていた。 今日も、テレビ欄に終戦を特集した番組はないように思う。 娘ともその話をしてた。 娘が子どもの頃は、まだ戦争を題材にしたドラマや映画を放送してた事を娘は覚えてた。 いつから、こんなに減ってしまったのだろう・・・。 風化させてはいけないことだと思う。 戦争の悲惨や理不尽さを伝え続けていく必要があると思う。 思い出すことで、辛くなることや悲しみが増強することもあるだろう。 悔しさや憎しみも伴うかもしれない。 そういった全てが戦争なんだと、伝えるべきだと思う。 憎しみや恨みだけを声高に叫ぶのではなく、 戦争は全ての人が国
日本では毎年8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、一般的にはこの日を「終戦記念日」「終戦の日」と呼んでいます。 1939年から勃発した人類史上二度目の世界大戦である「第二次世界大戦」は、1945年8月6日にアメリカ軍が日本の広島県広島市に、そして8月9日に長崎県長崎市に原子爆弾を投下してから約一週間後の8月14日、日本政府が世界に対して降伏宣言。翌日8月15日に昭和天皇による玉音放送によってポツダム宣言受託を国民に向けて表明したことで、約6年に渡って続いた戦争は終結を迎えました。 1945年8月6日と9日に行われた原爆投下による被災者および死者の数は延べ60万人以上。 また、第二次世界大戦中の軍人・民間人での被害者数は世界で約8千万人ともいわれ、当時の世界においての人口の約2.5%が戦争という行為により命を絶たれることとなりました。 科学技術=テクノロジーの側面から見れば、
菊池俊輔さんが(89歳没)4月24日、小林亜星さんが5月30日(88歳没)と、1960年代からテレビアニメの音楽を支えてきた作曲家があいついで亡くなられた。非常に寂しさを覚えながら、代表曲をベスト盤で聴き直している日々である。 さて今回はこれを契機に、ずっと気にしてきた話をする。アニメ文化の基礎を築いた方々には共通点がある。生まれ年が昭和6~7年(西暦1931~1932年)あたりに集中しているのである。3月15日に亡くなったアニメーターの大塚康生さんも89歳没である。 私事で恐縮だが、テレビアニメ第一世代と呼ばれる筆者の実父もまた昭和7年生まれである。そしてこの20年近くの取材対象者に同年代が集中していて、気になり始めた。「宇宙戦艦ヤマト」(74)の効果音を担当した柏原満さん、よみうりテレビ側プロデューサーの佐野寿七さん(たぶん昭和7年生まれにちなんだ命名)、「ウルトラマン」(66)でバル
岸田文雄首相が掲げる「異次元の少子化対策」の3本柱の一つが、保育をはじめとする子育て家庭向けサービスの充実だ。これまでは待機児童解消のため、保育施設の「量の拡大」が喫緊の課題だったが、保育の「質の向上」を図るため保育士の配置基準を引き上げようという機運が、保育団体の間で高まっている。終戦直後に定められた基準の改善はかなうのか。 丁寧に見る余裕なく 「『待って待って』『だめだめ』と常に子どもに言っていた。表情や言葉を丁寧に見たり聞いたりする余裕はなかった」。神奈川県内で働く保育士の女性(57)は、数年前まで勤務していた保育所での激務を振り返る。 定員100人規模の保育所に勤務し、2歳児15人を3人で担当していた。国の配置基準では1~2歳の園児6人に対して保育士1人。基準は満たしていたが、ぎりぎりだった。子どもをトイレに連れて行く余裕もなく、おむつを卒業するトイレトレーニング中の子どもに、やむ
図書館へ行く途中で一枚パシャリ♪ 今日も一日雨でした… 今日も東京は朝から雨… しとしと降ったり、時々雨が強くなったり…まるで梅雨空のようでした。 気温も23度までしか上がらず…少し肌寒い一日となりました。 (9月の終わり頃のような天気でしたね…) 晩御飯の仕込みも兼ねて、お散歩へ。雨が降っているからでしょうか…いつもの緑道には人はいませんでした 今日はベンチの列車はお休みかな??(天気が悪くてお客さんいませんわ~ですって!) 午前中、雨が少し弱くなったので、予約した本を取りに図書館へ行きました。 図書館は意外と人が多かったです。 東京は緊急事態宣言が出ていますが、以前と違って、机とイスも並べられています。 のんびり座って、本を読む人や勉強する学生さんもちらほら…。 以前宣言が出されていた時は、机やイスは撤去され、館内の書架での閲覧も不可、 貸出はネットでの予約だけ…という時期もありました
不戦の誓い、令和に継ぐ=陛下「深い反省」踏襲-終戦74年、全国戦没者追悼式 2019年08月15日16時30分 全国戦没者追悼式に臨まれる天皇、皇后両陛下=15日午前、東京都千代田区の日本武道館 終戦から74年を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が、東京都千代田区の日本武道館で開かれた。令和最初の追悼式には、天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相、全国の遺族ら6497人が参列し、先の大戦の戦没者約310万人の冥福を祈った。初めての参列となった天皇陛下はお言葉で、上皇さまが使った「深い反省」との表現を踏襲し、平和を思う気持ちを示された。 <関連ニュース>2019年終戦記念日 式典は午前11時50分すぎに開始。会場に入った両陛下は壇上に上り、「全国戦没者之霊」と書かれた標柱に深々と一礼した後、向きを変えて遺族らにも深々と頭を下げた。正午に参列者全員で黙とうを1分間ささげた後、天皇陛下が「戦後の長
あふれるニュースや情報の中から、ゆっくりと思考を深めるヒントがほしい。そんな方のため、スローニュースの瀬尾傑と熊田安伸が、選りすぐりの調査報道や、深く取材したコンテンツをおすすめしています。 きょうのおすすめはこちら。 密航のち洗濯 ときどき作家徹底的に「個」を追いかけながら、そこから「国」や「国籍」が浮かび上がってくる骨太ノンフィクションでした。 『密航のち洗濯 ときどき作家』(著/宋 恵媛、望月 優大 柏書房刊)です。 赤川次郎のような軽やかなタイトル、明るいイラストの表紙の印象で気軽に本を開いたのですが、いきなりガツンとやられました。1957年、目黒区の外れに「徳永ランドリー」が開店した冒頭から、いきなり46年の密入国船で緊張する山口県の日本海側に舞台が移る展開に引き込まれていきます。 戦前から戦後にかけての日本で、貧しい生活を送りながら作家として生きようとした朝鮮人の父親とその家
こんにちはscene(シーン)です✋ 今日は74回目の終戦記念日です。 色々思いはあれど、一番に悔やまれるのは、戦争体験者の祖父が存命のうちに詳しい話を聞けなかった事です。 召集され、満州へ出征して、祖国や家族の為に戦い、捕虜となり、シベリアへ抑留されそうになったけど、運良く解放され、帰還兵となった祖父の生々しい体験談をもっと詳しく聞いておくべきだった。 さわりだけですが、シベリアへ護送される際、貨物列車の中で、まわりの戦友が次々と飢えや疫病で死んでいくのを目の当たりにして、気が変になりそうだったそうです。 それでも、シベリアへ抑留された方々から比べたら、自分は愛する祖国へ帰還できただけマシだと言っていました。 戦友達は命尽きる間際まで、祖国や家族の事を思いながら亡くなっていったそうです。 誰もが我が日本国を愛して戦っていたのです。 その事を決して忘れてはいけません!! 祖国や家族を守る為
きや@SDGs東京 @kiya__na 最終的にはコロナが蔓延していようがみんな普通に暮らしていくようになるので、公衆衛生という道徳を振り回していた層が「戦時中は勇ましかったのに、終戦したらあっさり手のひらを返して私は最初から戦争に反対だったとか言い出す人」になるわけですね。 2022-01-05 11:20:20 島本 @pannacottaso_v2 みんながコロナにビビっていた2020年の年明けから春にかけて、今と同じことを言い続けてたみんなは自分の中でズッ友。 その時ビビっていて、いま手のひら返した人のことは名指ししないけど死ぬまで覚えてる。 twitter.com/kiya__na/statu… 2022-01-05 12:40:44
日本政府がポツダム宣言受諾を連合国に通達し、戦争終結に向かっていた8月14日の正午近く、満州国(現・中国東北部)の平原では、凄まじい殺戮(さつりく)が行われた。葛根廟(かっこんびょう)と呼ばれるラマ教寺院に向け、8月11日から逃避行を続けていた約1200人の人々が、満州国とソビエト連邦との国境近くの草原でソ連軍の戦車隊に襲われたのだ。翌年帰国できたのは、たったの百数十人。正確な犠牲者数は今もって分からない。これを「葛根廟事件」という。 約1200人の人々が、満州国とソビエト連邦との国境近くの草原でソ連軍の戦車隊に襲われた(赤星月人「葛根廟事件邦人遭難の図」天恩山 五百羅漢寺所蔵) 大島満吉氏。昭和10年生まれの87歳。78年前、「葛根廟事件」の現場にいた9歳の大島は、母と5歳の弟、2歳の妹と3人で天然の壕(平原の大きなくぼ地、溝)に逃げ込み、難を逃れた。しかしそこで集団自決が始まり、母が2
明治から終戦までの歌舞伎座の劇場プログラム「筋書(すじがき)」など約1180冊が、所蔵元の演劇・映画の専門図書館、松竹大谷図書館(東京・築地)のデジタルアーカイブで公開され、貴重な公演記録がネットで検索・閲覧できるようになった。図書館の司書、武藤祥子(さちこ)さんは「見て読んで楽しんで当時の観劇気分を味わってほしい」と話す。筋書が映す世相とは—。(服部聡子) 司書の武藤祥子さん㊨が手にするのは、パラシュートが描かれた1891(明治24)年1月の歌舞伎座筋書(右面)。同じく司書の佐々木絵理さんが手にするのは、(右から)ミツワ石鹸の広告が印刷された1931(昭和6)年6月の筋書と、歌舞伎座の座紋「鳳凰(ほうおう)丸」があしらわれた37年7月の筋書=東京都中央区の松竹大谷図書館で
終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! 日本軍関与、強制連行…歴史修正主義者たちはこの証拠を見よ 74年目の終戦記念日を迎えた今日、やはり、取り上げておくべきは日本軍「慰安婦」問題だろう。第二次安倍政権の誕生とともに、右派政治家やネット右翼による歴史修正主義は一気に勢いづき、「反日バッシング」の大号令のもとで大日本帝国賛美への傾きを増している。その象徴が、戦中の日本軍による「慰安婦」問題だからだ。 「平和の少女像」が展示された「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」は、脅迫や政治家の圧力によって中止に追い込まれたが、ネトウヨだけでなく、いまや政治家たちもが剥き出しの歴史修正発言を平然と繰り出しており、かたや、それを批判・検証する動きは鈍い。 「慰安婦問題は完全なデマなんだから。軍が関与した強制連行はなかったわけだから。それは一報を報じた朝日新聞自体
こんばんは FujiFilm XP60 残念ながら しぶとく蛞蝓は生きてます 久々に休みが出来て 稲刈り準備の合間に嫁に会いに行ってきました FujiFilm XP60 棘棘してた気分を癒してもらいました さてさて 明日の稲刈り最終戦 助っ人共は例年通り 前夜祭を催し べろんべろんで騒いでます これを書いてる横でね 音楽箱なにがいいかな? ○○ちゃんがカラオケで歌う曲はどう? 音痴なわたしが歌う歌ねぇ、、、 まぁ それでいいか と言う訳で 今回は誰の得にもならない音楽箱になります www.youtube.com 沖縄には何時か行きたいです 挨拶したい方々が大勢いますからね 沖縄の皆様は 自称沖縄人の腐れ外道を滅殺し 美しい文化と歴史と景色を守っていきましょう 音痴は心より応援しております www.youtube.com トライセラトップスは 地声で普通に歌えるから未だに歌ってます 音痴です
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兵庫県小野市の元養護教諭、治居(はるい)冨美さん(95)は太平洋戦争中、従軍看護婦として中国・上海に派遣され、約2年間、傷病兵の世話に明け暮れた。そして、戦況を何も知らされないまま、敗戦。敵地にいる彼女たちにとって、この日こそが最も恐ろしい一日になった。75年前の8月14、15日を再現する。 【写真】「オバケじゃ」皮膚がずるむけた真っ黒な人影がぞろぞろと…路面電車運転10代の女学生 8月14日 深夜。日本赤十字社北海道支部の救護班として上海の陸軍病院宿舎にいた治居=当時(20)=は、婦長の震えた声で跳び起きた。 「声を出すな。5分で自分の荷物をまとめ、全員、病院へ移動する。音を立てるな。慌てるな」 いつもは冷静な婦長の顔が青い。「ただ事ではない」と直感した。 戦況の悪化に伴い、治居たちは少数の患者を連れて上海の中にあるフランス租界(外国人居留地)に逃れ、租界内の病院で看護を続けていた。 本
先の大戦が終結してもなお、北方を蹂躙(じゅうりん)するソ連軍への反撃、撃滅を命じ、スターリンによる北海道占領の野望を打ち砕いた大日本帝国陸軍の第5方面軍司令官、樋口季一郎中将(1888~1970年)を顕彰する祭典が20日、大阪護国神社(大阪市住之江区)で営まれ、関係者ら約45人が功績に思いをはせた。ロシアによるウクライナ侵攻を受け、ソ連から北海道を守った樋口中将を改めて評価する見方が強まっている。 講演する樋口季一郎中将の孫、隆一氏=20日、大阪市住之江区の大阪護国神社(矢田幸己撮影)終戦から3日後の昭和20年8月18日、千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)島にソ連軍が大挙上陸、武装解除を進める日本側に攻撃を仕掛けた。札幌で方面軍の指揮を執る樋口中将は、守備部隊の第91師団長、堤不夾貴(ふさき)中将に「断乎(だんこ)反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と命じた。日本側は、停戦協定によって最後は銃
どーもです。ホオズキとビワでお届け致します。 この時期になるとふと思い出す祖母の記憶の話・・・ ・いつもの(無内容な)尺稼ぎ ・終戦記念日と祖母 ・結び ・ブコメ返信 この時期になるとふと思い出す祖母の記憶の話・・・ ・いつもの(無内容な)尺稼ぎ アカ~~~ン!ヤバタニエ~~~ン!!!!! ヤバタニエンておま古ッ!いつの流行語だと思ってんだよ、ぴえん。 ※2016年ギャル語流行語大賞7位 ぴえんもボチボチ古いわ!と言うかヤバいねん! ※2019年ギャル語流行語大賞2位 ハイハイわかったわかった・・・お読みいただきありがとうございました。 終わらすな~ッ!このパターンも何番煎じやねん! フン!ど~せ「記事が書け~ん!!!」とかそんなだろ。 なんで分かったん? やはりそうか!この流れもそれこそ何番煎じか分からんわ! 今月はな、記事数目標を立てたねん!目標10記事! あ~もうダメだわ。出来ません
「戦死」の「戦」の文字が削られたとみられる戦没者の墓石=熊本県宇城市の岡岳公園で2022年12月9日午前11時13分、中村園子撮影 熊本県宇城市の岡岳(おかだけ)公園に、1930年代後半の戦争で亡くなったとみられる14人の日本陸軍兵を弔う墓がある。その墓14基全てで、刻まれた文字の一部が削られていることに地元の元高校教諭が気付いた。痕跡は古く、最近削ったものではなさそう。消えた文字には共通点があった。誰が、何のために――。元教諭が経緯を調べると、終戦直後のうわさに行き着いた。 公園内には戦争の犠牲者を悼む慰霊碑があり、14基の墓は碑から歩いて3分ほど下った場所に並ぶ。公園は丘陵地で、墓からは街が一望できるが、周囲は草木が生い茂り、人目に付きにくい。 近くに住む宇城市の元高校教諭、上村真理子さん(69)は何度も岡岳公園を散歩したことがあったが、2021年11月、初めて墓を見つけた。墓石をよく
おはようございます。もふもふです。 終戦から今日で74年。 戦争を経験した私の祖父母たちは、みんな亡くなってしまいましたが、今日は、戦地に行った祖父のことを書こうと思います。 祖父との思い出 鹿児島に住んでいた祖父は、無口であまり多くを語る人ではありませんでした。 そうはいっても、笑い声は隣の家まで届くくらい大きかったですが・・・(^_^;) イノシシ狩りとハーモニカの演奏が得意な祖父でした。 農業を営んでおり、牛や鶏も飼っていました。 田植えや稲刈りの時期には、家族みんなで手伝いに行っていました。 田んぼで食べるおにぎり(ただの塩おにぎりです)が、すごく美味しかったのを覚えています。 夏休みに遊びにいくと、畑で取れたスイカを準備してくれていてまず、スイカ割りから始まります(*^。^*) その後にみんなで食べるスイカは格別の美味しさがありました。 祖父の体の傷跡と思うこと そんなふうに私た
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