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円安とは
syounagon.hatenablog.com
「こちらへ」 と宮はお言いになって、 お居間の中の几帳を隔てた席へ若君は通された。 「あなたにはあまり逢いませんね。 なぜそんなにむきになって学問ばかりをおさせになるのだろう。 あまり学問のできすぎることは不幸を招くことだと 大臣も御体験なすったことなのだけれど、 あなたをまたそうおしつけになるのだね、 わけのあることでしょうが、 ただそんなふうに閉じ込められていて あなたがかわいそうでならない」 と内大臣は言った。 「時々は違ったこともしてごらんなさい。 笛だって古い歴史を持った音楽で、 いいものなのですよ」 内大臣はこう言いながら笛を若君へ渡した。 若々しく朗らかな音《ね》を吹き立てる笛がおもしろいために しばらく絃楽のほうはやめさせて、 大臣はぎょうさんなふうでなく拍子を取りながら、 「萩《はぎ》が花ずり」(衣がへせんや、わが衣は野原 篠原《しのはら》萩の花ずり)など歌っていた。 「
姫君がこぢんまりとした美しいふうで、 十三絃《げん》の琴を弾いている髪つき、 顔と髪の接触点の美などの艶《えん》な上品さに大臣が じっと見入っているのを姫君が知って、 恥ずかしそうにからだを少し小さくしている横顔がきれいで、 絃《いと》を押す手つきなどの美しいのも 絵に描いたように思われるのを、 大宮も非常にかわいく思召《おぼしめ》されるふうであった。 姫君はちょっと掻《か》き合わせをした程度で 弾きやめて琴を前のほうへ押し出した。 内大臣は大和琴《やまとごと》を引き寄せて、 律の調子の曲のかえって若々しい気のするものを、 名手であるこの人が、 粗弾《あらび》きに弾き出したのが非常におもしろく聞こえた。 外では木の葉がほろほろとこぼれている時、 老いた女房などは涙を落としながら あちらこちらの几帳の蔭《かげ》などに幾人かずつ集まって この音楽に聞き入っていた。 「風《かぜ》の力|蓋《けだ》
大学へ若君が寮試を受けに行く日は、 寮門に顕官の車が無数に止まった。 あらゆる廷臣が今日はここへ来ることかと思われる列席者の 派手《はで》に並んだ所へ、 人の介添えを受けながらはいって来た若君は、 大学生の仲間とは見ることもできないような 品のよい美しい顔をしていた。 例の貧乏学生の多い席末の座につかねばならないことで、 若君が迷惑そうな顔をしているのももっともに思われた。 ここでもまた叱るもの威嚇するものがあって不愉快であったが、 若君は少しも臆《おく》せずに進んで出て試験を受けた。 昔学問の盛んだった時代にも劣らず大学の栄えるころで、 上中下の各階級から学生が出ていたから、 いよいよ学問と見識の備わった人が輩出するばかりであった。 文人《もんにん》と擬生《ぎしょう》の試験も 若君は成績よく通ったため、 師も弟子《でし》もいっそう励みが出て学業を熱心にするようになった。 源氏の家でも始終
丹波少将|成経《なりつね》は、 その夜、院の御所の宿直で、まだ家には帰っていなかった。 そこへ、大納言の家来が、急を知らせにかけつけてきた。 始めて、事の子細を知った少将の驚きも深かった。 それにしても、宰相《さいしょう》殿から、 何ともいってこないのは変だ、と思っていた矢先、 宰相からも使いの者がとんできた。 宰相とは、清盛の弟 教盛《のりもり》のことであるが、 教盛の娘が成経の妻になっていたから、 成経には舅《しゅうと》であった。 「何事か存じませぬが、清盛公から、 西八条へ出頭するようにというお達しが参っておりますが」 宰相の使いの言葉を聞くより早く、 少将は、その意味を察して、 法皇の側仕えの女房を呼び出すと、事の次第を物語った。 「昨晩は、何となく往来のあたりが騒然としておりまして、 私なども、又、山法師が、陳情にでも参ったものかとばかり、 うかつに考えておりましたが、 何と、こ
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翌くる六月一日の未明、清盛は、 検非違使安倍資成《けびいしあべのすけなり》を召し、 院の御所への使いを命じた。 資成は御所に着くと、 大膳大夫信業《だいぜんのだいふのぶなり》を呼んで清盛の伝言を、 法皇に伝えてくれるように頼んだ。 「わが君の仰有《おっしゃ》るには、 法皇側近の方々が、 平家一門を滅して天下を乱そうという計画をお持ちとききました。 こちらとしても捨てては置かれませんから、 一人一人召し捕え、いい様に処分するつもりでいますが、 その点あらかじめご了承下さって、 何卒ご妨害などしないで頂きたいのです」 信業もこの知らせにひどく、どぎまぎしながら、 「暫くお待ちを、唯今、法皇にお取次ぎいたしますから」 と言い置いてあたふたと、院の前にかけつけてきた。 「どうやら、鹿ヶ谷の一件を、清盛が嗅ぎつけたらしく」 信業の知らせに、 日頃、沈着な院も、返す言葉がない。 唯、唇をわなわな震わせ
第21帖 乙女3です🪻 故太政大臣家で生まれた源氏の若君の 元服の式を上げる用意がされていて、 源氏は二条の院で行なわせたく思うのであったが、 祖母の宮が御覧になりたく思召すのがもっともで、 そうしたことはお気の毒に思われて、 やはり今までお育てになった宮の御殿でその式をした。 右大将を始め伯父君《おじぎみ》たちが 皆りっぱな顕官になっていて勢力のある人たちであったから、 母方の親戚からの祝品その他の贈り物もおびただしかった。 かねてから京じゅうの騒ぎになるほど 華美な祝い事になったのである。 初めから四位にしようと源氏は思ってもいたことであったし、 世間もそう見ていたが、まだきわめて小さい子を、 何事も自分の意志のとおりになる時代にそんな取り計らいをするのは、 俗人のすることであるという気がしてきたので、 源氏は長男に四位を与えることはやめて、 六位の浅葱《あさぎ》の袍《ほう》を着せて
額に汗をみなぎらせ、真蒼《まっさお》な顔に息使いも荒く、 西八条の邸に入ってきた行綱に、 家来達も驚いて、早速、清盛の所に知らせた。 「何、行綱だと? めったに来もしない奴が、 又何でこんな夜中にやって来たんだ? とにかくおそいから、わしは逢わん、 盛国《もりくに》、お前が、言伝てを聞いてこい」 清盛は傍らの主馬判官《しゅめのはんがん》盛国にいった。 暫くして盛国が戻ってきて、 「何か、直《じ》きじき、お話したいとか」 「直きじきだと? 一体何だろう?」 さすがに清盛も、行綱の唯ならぬ様子に、 何事か起ったのかと、不安になってきて、 自分で渡殿《わたどの》の中門まで出てきた。 「この夜更けに、一体、何の用で、わしに逢いたいのじゃ?」 「実は、昼のうちは人目につきやすく、 中々その折もございませんで、 夜中お騒せしてまことに心苦しいのですが、 このところ、後白河院の御所で、兵具《ひょうぐ》を
山門の衆徒が、前座主《ざす》の流罪を妨害して、 山へ連れ戻した知らせは、後白河法皇をひどく怒らせた。 「山門の大衆どもは、勅命を何と心得えて、 このように言語道断のことをするのだろうか?」 側に侍《はべ》っていた西光法師も、 前座主帰山の知らせに何か手をうたなくてはと、 考えていた矢先だから、ここぞとばかり、一ひざ進めると、 「山門の奴らの横暴な振舞は今に始った事ではございませぬが、 此度は又以ての他の狼藉《ろうぜき》振り、 これは余程、厳重な処分をいたさねば、 後々までも禍恨は絶たれぬものと思います」 したり顔に申し上げた。 とにかく讒臣《ざんしん》は国を乱すということわざがあるが、 西光らもその良い例で、何かと、 自分の都合のよいように法皇の心を引き廻していたともいえる。 こんなうわさが山門にまで伝わってきて、 中には、 新大納言成親に命じて既に山攻めの仕度が始ったなどという者もあり、
驚いたのは、明雲大僧正である。 元々、道理一点ばりの人だからここに及んでも、 喜ぶより先に、この事件の行末を気にかけていた。 「私は、法皇の勅勘を受けて流される罪人なのですから、 少しも早く、都の内を追い出されて、 先を急がねばならぬ身です。 お志は有難いが、貴方方に迷惑はかけたくない、 早くお引き取り下さい」 と言う。 しかし、このくらいで引き下る衆徒ではない。 何が何でも山に戻って貰わねば、 山の名誉にもかかわるとばかり、座主の決意を促した。 「家を出て山門に入ってからというもの、 専ら、国家の平和を祈り、 衆徒の皆さんをも大切にしてきたつもりですし、 我が身にあやまちがあろうとは思われず、 この度の事でも、 私は、人をも神仏をも誰一人お恨み申してはおりません。 それにしても、 ここまで追いかけてきて下さった衆徒の皆さんの志を思うと、 何とお礼を申し上げてよいものやら」 後は唯涙をぬぐ
この明雲大僧正は、 久我大納言顕通《こがのだいなごんあきみち》の子で、 仁安《にんあん》元年座主となり、 当時天下第一と言われる程の智識と高徳を備えた人で、 上からも下からも、尊敬されていた人だったが、 ある時、陰陽師《おんようし》の安倍泰親《あべのやすちか》が、 「これ程、智識のある人にしては不思議だが、 明雲の名は、上に日月、下に雲と、 行末の思いやられるお名前だ」 といったことがあったが、今になってみると、 その言葉もある程度うなずけるものがある。 二十一日は、座主の京都追放の日であった。 執行役人に追い立てられながら、 座主は泣くなく京をあとにして、 一先ず、一切経谷にある草庵に入った。 二十三日がいよいよ、東国伊豆に向って出発する日である。 さすがに日頃住みなれた都を離れ、 恐らくは二度と、 帰れぬであろう関東への旅に立つ大僧正の心の内には、 様々の想念が渦巻いていた。 一行は、
「源氏の君というと、いつも美しい少年が思われるのだけれど、 こんなに大人らしい親切を見せてくださる。 顔がきれいな上に心までも並みの人に違ってでき上がっているのだね」 とおほめになるのを、若い女房らは笑っていた。 西の女王とお逢いになる時には、 「源氏の大臣から熱心に結婚が申し込まれていらっしゃるのだったら、 いいじゃありませんかね、今はじめての話ではなし、 ずっと以前からのことなのですからね、 お亡くなりになった宮様もあなたが斎院におなりになった時に、 結婚がせられなくなったことで失望をなすってね、 以前宮様がそれを実行しようとなすった時に、 あなたの気の進まなかったことで、 話をそのままにしておいたのを 御後悔してお話しになることがよくありましたよ。 けれどもね、 宮様がそうお思い立ちになったころは 左大臣家の奥さんがいられたのですからね、 そうしては三の宮がお気の毒だと思召して 第二
月はいよいよ澄んで美しい。夫人が、 氷とぢ 岩間の水は 行き悩み 空澄む月の 影ぞ流るる と言いながら、外を見るために少し傾けた顔が美しかった。 髪の性質《たち》、顔だちが恋しい故人の宮にそっくりな気がして、 源氏はうれしかった。 少し外に分けられていた心も取り返されるものと思われた。 鴛鴦《おしどり》の鳴いているのを聞いて、 源氏は、 かきつめて 昔恋しき 雪もよに 哀れを添ふる 鴛鴦《をし》のうきねか と言っていた。 寝室にはいってからも 源氏は中宮の御事を恋しく思いながら眠りについたのであったが、 夢のようにでもなくほのかに宮の面影が見えた。 非常にお恨めしいふうで、 「あんなに秘密を守るとお言いになりましたけれど、 私たちのした過失《あやまち》はもう知れてしまって、 私は恥ずかしい思いと苦しい思いとをしています。 あなたが恨めしく思われます」 とお言いになった。 返辞を申し上げるつ
「尚侍《ないしのかみ》は 貴婦人の資格を十分に備えておいでになる、 軽佻《けいちょう》な気などは 少しもお見えにならないような方だのに、 あんなことのあったのが、私は不思議でならない」 「そうですよ。艶《えん》な美しい女の例には、 今でもむろん引かねばならない人ですよ。 そんなことを思うと自分のしたことで 人をそこなった後悔が起こってきてならない。 まして多情な生活をしては年が行ったあとで どんなに後悔することが多いだろう。 人ほど軽率なことはしないでいる男だと思っていた 私でさえこうだから」 源氏は尚侍の話をする時にも涙を少しこぼした。 「あなたが眼中にも置かないように軽蔑している山荘の女は、 身分以上に貴婦人の資格というものを皆そろえて持った人ですがね、 思い上がってますますよく見えるのも人によることですから、 私はその点をその人によけいなもののようにも見ておりますがね。 私はまだずっ
藤原氏の専横を抑え、院政の始りを開いた程の、 豪気な帝であった故白河院が、 「賀茂川の水、双六《すごろく》の骰《さい》、 比叡の山法師、これだけは、いかな私でも手に負えない」 といって嘆いたという話がある。 山門の横暴振りは他にも伝わっている。 鳥羽院の時、白山平泉寺《はくさんへいせんじ》を比叡山が、 しきりに欲しがったことがあった。 余り無理な願いであったから、あわや、却下と思われたが、 大江匡房《おおえのまさふさ》が、 法皇を諫《いさ》めて、 「お断りになってもようございますが、 もしも、山門の僧兵共が、神輿《みこし》を先頭に攻めてきたら、 いかがなさいますか、面倒な事になるかも知れません、 それならいっそ、聞き入れてやった方が」 と、山門に刃向う、ばからしさを説いたので、 法皇も気が変り、 「全く、山門が相手では、どうしようもない」 といって許したのである。 山門の威力に就ては、こん
「昔 中宮がお庭に雪の山をお作らせになったことがある。 だれもすることだけれど、 その場合に非常にしっくりと合ったことをなさる方だった。 どんな時にもあの方がおいでになったらと、 残念に思われることが多い。 私などに対して法《のり》を越えた御待遇はなさらなかったから、 細かなことは拝見する機会もなかったが、 さすがに尊敬している私を信用はしていてくだすった。 私は何かのことがあると歌などを差し上げたが、 文学的に見て優秀なお返事でないが、 見識があるというよさはおありになって、 お言いになることが皆深みのあるものだった。 あれほど完全な貴女《きじょ》がほかにもあるとは思われない。 柔らかに弱々しくいらっしゃって、 気高い品のよさがあの方のものだったのですからね。 しかしあなただけは血縁の近い女性だけあってあの方によく似ている。 少しあなたは嫉妬《しっと》をする点だけが悪いかもしれないね。
ところで、成親と、動機こそ違え、志を同じくする者は、 まだ幾人かあった。 彼らがいつも好んで寄り集りの場所にしたのは、鹿ヶ谷にある、 これも同志の一人 俊寛《しゅんかん》の山荘である。 ここは、東山のふもとにあり、 後は三井寺に続いた、要害堅固なところで、 こういった陰謀を企むには、まさにもってこいの場所だったのである。 ある晩、後白河院が、お忍びでここにお出でになり、 話がいつか、平家に対する不満から次第に、 平家を葬る具体的な話になりそうになってきた。 後白河院のお供で席に連っていた浄憲法印《じょうけんほういん》は 思慮深い男であったから、 「まだこの種の話し合いはすべきではない。 それに、こう人数が多くては、どんな事でもれるかわからない。 とにかく、事は慎重にはかるべきだ」 と一座を眺め廻していった。 おたがいが、まだ腹のさぐり合いをしている最中だから、 浄憲の言葉は、尤《もっと》も
雪のたくさん積もった上になお雪が降っていて、 松と竹がおもしろく変わった個性を見せている夕暮れ時で、 人の美貌《びぼう》もことさら光るように思われた。 「春がよくなったり、秋がよくなったり、 始終人の好みの変わる中で、 私は冬の澄んだ月が雪の上にさした無色の風景が 身に沁《し》んで好きに思われる。 そんな時にはこの世界のほかの大世界までが想像されて これが人間の感じる極致の境だという気もするのに、 すさまじいものに冬の月を言ったりする人の浅薄さが思われる」 源氏はこんなことを言いながら御簾《みす》を巻き上げさせた。 月光が明るく地に落ちてすべての世界が白く見える中に、 植え込みの灌木類の押しつけられた形だけが哀れに見え、 流れの音も咽《むせ》び声になっている。 池の氷のきらきら光るのもすごかった。 源氏は童女を庭へおろして雪まろげをさせた。 美しい姿、頭つきなどが月の光にいっそうよく見えて
「女院がお崩《かく》れになってから、 陛下が寂しそうにばかりしておいでになるのが心苦しいことだし、 太政大臣が現在では欠けているのだから、 政務は皆私が見なければならなくて、 多忙なために家《うち》へ帰らない時の多いのを、 あなたから言えば例のなかったことで、 寂しく思うのももっともだけれど、 ほんとうはもうあなたの不安がることは何もありませんよ。 安心しておいでなさい。 大人になったけれどまだ少女のように思いやりもできず、 私を信じることもできない、可憐なばかりのあなたなのだろう」 などと言いながら、 優しく妻の髪を直したりして源氏はいるのであったが、 夫人はいよいよ顔を向こうへやってしまって何も言わない。 「若々しい我儘《わがまま》をあなたがするのも私のつけた癖なのだ」 歎息《たんそく》をして、 短い人生に愛する人からこんなにまで恨まれているのも 苦しいことであると源氏は思った。 「斎
源氏はあながちにあせって結婚がしたいのではなかったが、 恋人の冷淡なのに負けてしまうのが残念でならなかった。 今日の源氏は最上の運に恵まれてはいるが、 昔よりはいろいろなことに経験を積んできていて、 今さら恋愛に没頭することの不可なことも、 世間から受ける批難も知っていながらしていることで、 これが成功しなければいよいよ不名誉であると信じて、 二条の院に寝ない夜も多くなったのを夫人は恨めしがっていた。 悲しみをおさえる力も尽きることがあるわけである。 源氏の前で涙のこぼれることもあった。 「なぜ機嫌《きげん》を悪くしているのですか、 理由《わけ》がわからない」 と言いながら、額髪《ひたいがみ》を手で払ってやり、 憐んだ表情で夫人の顔を源氏がながめている様子などは、 絵に描《か》きたいほど美しい夫婦と見えた。 🌺🎼#雨の窓 written by#キュス 🪻少納言のホームページ 源氏物語
永万《えいまん》元年の春頃から、 病みつき勝ちだった天皇の容態が急変し、 六月には、 大蔵大輔伊岐兼盛《おおくらのたいふいきのかねもり》の娘に生ませた 第一皇子に位を譲られた。 間もなく七月、二十三歳という若さで世を去った。 時に新天皇は二歳という幼な児であった。 天皇の葬儀の夜、一寸《ちょっと》した争い事が起った。 元々、天皇崩御の儀式として、奈良、京都の僧侶がお供をして、 墓所の廻りに額《がく》を打つ習慣があった。 それも順序が決っていて、 第一が、奈良東大寺《ならとうだいじ》、次が興福寺《こうふくじ》、 延暦寺《えんりゃくじ》という順で、代々守られてきたのである。 ところがこの日、何を思ったか、 延暦寺の坊主が東大寺の次に延暦寺の額を打ちつけたのである。 すると、 おさまらないのは興福寺である。あれこれと文句をいっているところへ、 興福寺では、 荒くれ者で聞える坊主が二人、鎧《よろい
西のほうはもう格子が下《お》ろしてあったが、 迷惑がるように思われてはと斟酌《しんしゃく》して 一間二間はそのままにしてあった。 月が出て淡い雪の光といっしょになった夜の色が美しかった。 今夜は真剣なふうに恋を訴える源氏であった。 「ただ一言、 それは私を憎むということでも御自身のお口から聞かせてください。 私はそれだけをしていただいただけで満足してあきらめようと思います」 熱情を見せてこう言うが、 女王《にょおう》は、自分も源氏もまだ若かった日、 源氏が今日のような複雑な係累もなくて、 どんなことも若さの咎《とが》で済む時代にも、 父宮などの希望された源氏との結婚問題を、 自分はその気になれずに否《いな》んでしまった。 ましてこんなに年が行って衰えた今になっては、 一言でも直接にものを言ったりすることは 恥ずかしくてできないとお思いになって、 だれが勧めてもそうしようとされないのを、 源
源氏はまず宮のお居間のほうで例のように話していたが、 昔話の取りとめもないようなのが長く続いて 源氏は眠くなるばかりであった。 宮もあくびをあそばして、 「私は宵惑《よいまど》いなものですから、 お話がもうできないのですよ」 とお言いになったかと思うと、 鼾《いびき》という源氏に馴染《なじみ》の少ない音が聞こえだしてきた。 源氏は内心に喜びながら宮のお居間を辞して出ようとすると、 また一人の老人らしい咳をしながら御簾《みす》ぎわに寄って来る人があった。 「もったいないことですが、 ご存じのはずと思っておりますものの私の存在を とっくにお忘れになっていらっしゃるようでございますから、 私のほうから、出てまいりました。 院の陛下がお祖母《ばあ》さんとお言いになりました者でございますよ」 と言うので源氏は思い出した。 源典侍《げんてんじ》といわれていた人は尼になって 女五の宮のお弟子《でし》分で
桃園のお邸《やしき》は北側にある普通の人の出入りする門をはいるのは 自重の足りないことに見られると思って、 西の大門から人をやって案内を申し入れた。 こんな天気になったから、 先触れはあっても源氏は出かけて来ないであろうと 宮は思っておいでになったのであるから、 驚いて大門をおあけさせになるのであった。 出て来た門番の侍が寒そうな姿で、 背中がぞっとするというふうをして、 門の扉をかたかたといわせているが、 これ以外の侍はいないらしい。 「ひどく錠が錆《さ》びていてあきません」 とこぼすのを、源氏は身に沁《し》んで聞いていた。 宮のお若いころ、 自身の生まれたころを源氏が考えてみるとそれはもう三十年の昔になる、 物の錆びたことによって人間の古くなったことも思われる。 それを知りながら仮の世の執着が離れず、 人に心の惹かれることのやむ時がない自分であると源氏は恥じた。 いつのまに 蓬《よもぎ
当時、京都には、妓王、妓女《ぎじょ》と呼ばれる、 白拍子《しらびょうし》の、ひときわ衆に抜きん出た姉妹があった。 その母も刀自《とじ》と呼ばれ、昔、白拍子であった。 清盛が目をつけたのは、姉の妓王で、片時も傍を離さずに寵愛していた。 おかげで、母親も妹も、家を建てて貰ったり人にちやほやされて、 結構な暮しをしていた。 白拍子というのは、鳥羽天皇の時代に、男装の麗人が、水干《すいかん》、 立烏帽子《たてえぼし》で舞を舞ったのが始りとされているが、 それがいつか、 水干だけをつけて踊る舞姫たちを白拍子と呼ぶようになったのである。 京の白拍子たちは、玉の輿にのった同性の幸福を羨やんだり、ねたんだり、 中には、せめてその幸せにあやかりたいものと、妓王の妓をとって、 妓一、妓二などと名前を変える者まで出るほどの評判であった。 その間にも、月日はいつか過ぎて、三年ばかり経った頃、 加賀国《かがのくに》
「つれなさを 昔に懲りぬ 心こそ 人のつらさに添へてつらけれ 『心づから』 (恋しさも心づからのものなれば置き所なくもてぞ煩ふ)苦しみます」 「あまりにお気の毒でございますから」 と言って、女房らが女王に返歌をされるように勧めた。 「改めて 何かは見えん 人の上に かかりと聞きし 心変はりを 私はそうしたふうに変わっていきません」 と女房が斎院のお言葉を伝えた。 力の抜けた気がしながらも、 言うべきことは言い残して帰って行く源氏は、 自身がみじめに思われてならなかった。 「こんなことは愚かな男の例として 噂《うわさ》にもなりそうなことですから人には言わないでください。 『いさや川』 (犬上《いぬがみ》のとこの山なるいさや川いさとこたへてわが名もらすな) などというのも恋の成り立った場合の歌で、ここへは引けませんね」 と言って源氏はなお女房たちに何事かを頼んで行った。 「もったいない気がしま
平家一族は、高位、高官の顕職を、ほしいままにし始めた。 一寸見廻しただけでも、長男 重盛《しげもり》は、 内大臣《ないだいじん》兼 左大将《さだいしょう》、 次男 宗盛《むねもり》は、中納言《ちゅうなごん》右大将、 三男|知盛《とももり》が三位《さんみの》中将、 孫の維盛《これもり》が四位《しいの》少将といった具合である。 このほかに数えあげれば、きりがないくらいで、 参議《さんぎ》、大、中納言、三位以上の公卿十六人、殿上人三十余人、 各地の地方官がざっと六十何人という盛況だった。 清盛は、息子のほかに、八人の娘を持っていたが、 これ又、揃いも揃って、権門、貴顕に縁づいている。 即ち、花山院《かざんのいん》左大臣の奥方、 建礼門院《けんれいもんいん》といわれた安徳《あんとく》天皇の生母、 六条摂政《ろくじょうのせっしょう》、 藤原基実《ふじわらもとざね》の奥方で白河殿と呼ばれた人、 普賢寺
仁平《にんぺい》三年正月、忠盛は、五十八歳で死に、 息子の清盛《きよもり》が、跡を継いだ。 清盛は、父親にもまして、才覚並々ならぬ抜目のない男だったらしい。 保元《ほげん》、平治《へいじ》の乱と、 権力者の内紛に、おちょっかいを出しながら、 自分の地歩は、着々と固めていって、 さて皆が、気がついた時分には、 従一位《じゅういちい》、太政大臣 平清盛という男が、でき上っていた。 異例のスピード出世というところである。 この時代は、成功も失敗も、一様に、神仏に結びつけたがる傾向があった。 平氏の繁昌《はんじょう》振りをみて、 これは、熊野権現《くまのごんげん》のご加護だと誰からとなくいい出した。 ところが、この噂の出どころは、実は清盛なのである。 伊勢から熊野へ渡る航海の途中、鱸が、清盛の船の中にとびこんできた。 乗り合せていた案内人は、この時とばかり、 「こりゃめでたい、熊野権現のおしるしで
戦場で鍛え上げた忠盛の目は、宮中のうす暗いところで、 かすかに人の気配のするのを敏感に感じ取った。 彼はやおら、刀を抜き放つと、 びゅん、びゅんと振り廻《まわ》したからたまらない。 大体が、臆病者揃いの公卿たちは、 闇夜《やみよ》にひらめく一閃《いっせん》のすさまじさに、 かえって生きた心地もなく、呆然と見ていただけだった。 主人が大胆な男だから、家来の方もまた粒よりだ。 左兵衛尉平家貞《さひょうえのじょうたいらのいえさだ》という男は、 狩衣《かりぎぬ》の下にご丁寧にも鎧《よろい》までつけて、 宮中の奥庭に、でんと御輿《みこし》を据えて動かない。 蔵人頭《くらんどのとう》の者が、 目ざわりだから、どいてくれと言うと、 こっちは、待ってましたとばかり、 「どうも今夜あたり、闇討があるって話ですね。 やっぱり主人の死に際は、見ておきたいからね」 と洒々《しゃあしゃあ》と答えたまま平気な顔をして
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