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ブックマーク / saladboze.hatenablog.com (18)

  • サラダ坊主の推薦図書5選(批評篇) - サラダ坊主日記

    今回の記事の趣旨は、表題の言葉に尽きている。私の個人的な推薦図書を五冊、称讃の為に羅列したいということである。少なくとも、読んで後悔することはないだろうと思われる選書の積りである。 ①坂口安吾「堕落論」(角川文庫) 堕落論 (角川文庫) 作者: 坂口安吾 出版社/メーカー: 角川書店 発売日: 2007/06/23 メディア: 文庫 購入: 2人 クリック: 10回 この商品を含むブログ (26件) を見る 坂口安吾という作家の魅力は、その自由闊達で機敏な思索の破壊力に存すると思う。あらゆる固定観念や因習を振り払い、叩き壊そうとする鋭利な舌鋒は、厭味がなく、自己の短所を棚上げすることもなく、実に爽快で明朗だ。 彼は小説家であると同時に、優れた批評家でもあった。寧ろ、小説家である以上に批評家であったと言うべきなのかも知れない。彼の眼力は常に明晰に事物の質を穿ち、しかも右へ左へ徘徊する臆病な

    サラダ坊主の推薦図書5選(批評篇) - サラダ坊主日記
    q52464
    q52464 2017/06/23
    夏休み(無いけど)の課題図書にしよう。
  • 中上健次「地の果て 至上の時」に就いて - サラダ坊主日記

    一箇月ほどの期間を要して、漸く中上健次の長篇小説『地の果て 至上の時』(新潮文庫)を読了した。 この複雑で長大で奇怪な小説を、短い言葉で簡潔に要約したり評価したりすることは殆ど不可能だが、敢えて一言に約めるならば「傑作」ということに尽きると思う。何が傑作なのか、何処が傑作なのか、それを明瞭な言葉に滑らかに置き換えることの出来ない己の未熟を恥ずかしく感じる。 小説という芸術に如何なる価値や意義を求めるか、或いはもっと端的に効用を求めるのか、それは人によって千差万別であり、その基準を敢えて一律に固定化させる必然性も特に存在しない。ただ、この小説に関する私の個人的な感想としては、ここには紛れもなく一個の痛ましく歯痒い「人生」の光景が刻まれている、それが異様な迫力と遣る瀬なさを伴って痛切に伝わってくる、そこに「地の果て 至上の時」という作品の価値は漲っている、ということが言えるだけだ。 「岬」「枯

    中上健次「地の果て 至上の時」に就いて - サラダ坊主日記
  • 「鯨」に捧げられた「聖書」のごとく ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 3 - サラダ坊主日記

    どうもこんばんは、サラダ坊主です。 先日、遂にハーマン・メルヴィルの「白鯨」(岩波文庫・八木敏雄訳)下巻を読み終えましたので、ここに感想の断片を遺しておきたいと思います。 上巻と中巻に関する感想文の記事で触れた内容と重複する部分も出て来るかも知れませんが、御了承下さい。 メルヴィルの「白鯨」には、古今東西の文献から引かれた故事や学識が無数に象嵌されています。別けても「聖書」からの引用は実に夥しく、この書物がキリスト教社会の風土で育まれた作品であることを如実に示しています。 キリスト教に関する知識も、聖書を繙いた経験も持たない私には、それらの引用の意味、或いは歌取りの面白さを直ちに把握し、理解することが出来ないのが残念です。 この小説は、キリスト教の聖典やギリシア・ローマ時代の古典から引かれた無数の故事と共に、鯨に関する様々な雑学的知識の象嵌によって構成されています。それがメルヴィルの語り

    「鯨」に捧げられた「聖書」のごとく ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 3 - サラダ坊主日記
  • 高等教育の無償化に関する個人的な懸念(或いは「妄想」) - サラダ坊主日記

    どうもこんばんは、サラダ坊主です。 今日、仕事を終えて家に帰り着き、遅い夕を取りながらテレビの電源を入れて「報道ステーション」を眺めていると、安倍内閣が2020年の憲法改正実現を宣言したというニュースが偶々眼に留まりました。 その報道の中で、懸案の憲法第九条に関する問題と併せて、高等教育の無償化が改憲の草案に織り込まれているという話が出ていました。 此処に来て急に、聊か唐突な印象と共に「高等教育の無償化」の問題が改憲草案の中に浮上してきた理由に就いては、維新の会との協調姿勢を明確にして改憲に必要な議席を確保する為など、幾つかの推測が取り沙汰されていました。或いは、苦い薬を糖衣で包んで幼い子供に何とか呑み込ませようとするときのように、議論百出の九条改正を、高等教育無償化という甘ったるい理想と抱き合わせて、国民の賛成を(或いは妥協と譲歩を)引き出そうという策謀なのかも知れません。改憲そのもの

    高等教育の無償化に関する個人的な懸念(或いは「妄想」) - サラダ坊主日記
  • 「畸形」としての物語 ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 2 - サラダ坊主日記

    どうもこんばんは、サラダ坊主です。 メルヴィルの「白鯨」(岩波文庫・八木敏雄訳)の中巻を読み終えたので、覚書を認めて読者諸賢の御高覧を賜りたいと思います。 改めて思い知ったことですが、この「白鯨」という小説において、作者のハーマン・メルヴィルは「筋書き」というものに殆ど誠実な関心を懐いていません。恐らく物語の骨格だけを取り出して、過不足のない文章表現だけを塗して作品を仕上げれば、岩波文庫で全三冊もの分厚い分量に達することも、あれだけ夥しい数の訳注を附与することも、要らぬ手間だったに違いありません。しかし、そうやって合理的なブラッシュアップを施してしまえば、この「白鯨」という異様な小説の内奥に漲る独自の生命力が涸渇してしまうであろうことも、一つの重要な事実として認めざるを得ません。 或る一連の出来事を簡潔に、分かり易く物語るという技術が、小説の芸術的価値を左右する唯一の規矩として信奉されてい

    「畸形」としての物語 ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 2 - サラダ坊主日記
  • 異様な饒舌と「逸脱」への熱量 ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 1 - サラダ坊主日記

    どうもこんばんは、サラダ坊主です。 アメリカの作家ハーマン・メルヴィルの有名な長篇小説「白鯨」(岩波文庫・八木敏雄訳)の上巻を読み終えたので、感想の断片を書き遺しておきたいと思います。実は昨年の春にも、この「白鯨」という難攻不落の叙事詩に挑戦して無惨にも挫折したという経緯があり、今回はエイハブ船長と同じく「復讐」ということになります。 この小説は、モービィ・ディックという渾名で呼ばれる獰猛な白鯨と、その白鯨に片脚を咬み砕かれて義足の身となった執念深いエイハブ船長との対決を、語り手であるイシュメールの見聞を通じて描き出すという体裁に覆われています。しかし、一読すれば明らかなように、作者のメルヴィルは決して物語の単線的な構成や描写に、職人的な精巧な手腕を発揮しようとは考えていません。彼は白鯨とエイハブの死闘の物語を成る可く簡明に、活き活きと描写して、丁寧に包装された贈り物のように読者の手許へ届

    異様な饒舌と「逸脱」への熱量 ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 1 - サラダ坊主日記
  • 境界線の彼方へ 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編) - サラダ坊主日記

    村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編)を読了した。 この錯綜した筋書きを持つ長大な物語の概要を、何かしらの理論的な構図の中に縮約して織り込めるという自信は、少なくとも現在の私の持ち物ではない。敢えて私見を述べるならば「未整理の作品」という形容が相応しいように感じられる、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説においては、総ての伏線や謎めいた要素が充分に回収されたり解決されたりしているとは言い難い。だが、それらの整理されない細部と細部の整合性を確保する為に強引に理路を切り拓こうとすれば、この小説小説として構築された意義が失われてしまうようにも思える。 「ねじまき鳥クロニクル」の主要な筋書きが、失踪したクミコとの平穏な生活の「奪還」に存することは確かである。だが、その主要な筋書きに限ってさえ、それが具体的にどのような構造的真実を指し示しているのか、明瞭に把握することは困難で

    境界線の彼方へ 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編) - サラダ坊主日記
  • 経験的現実の解体 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第2部 予言する鳥編) - サラダ坊主日記

    村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』(新潮文庫)を読み終えた。 読後の印象としては、長い物語が漸く具体的に、格的に動き出したという感じである。一巻を通じて緻密に、慎重に、丁寧に整えられていった物語の基盤が、語り手のであるクミコの失踪という不吉な事件によって、強制的な転調を迫られ、いよいよ受動的な立場から脱け出さねばならなくなった、というのが私の個人的な要約である。 「第一部 泥棒かささぎ編」の感想文でも述べた通り、村上春樹の作り出す主人公は概ね受動的な姿勢を示し、積極的な意図や計画に基づいて主体的な行動に踏み切るということが稀である。どちらかと言えば一歩現実から引き下がり、個人的で私的な領域の平和を何よりも優先する構えを維持し、物語の流れに対して批評的で客観的な関係を保とうと試みるのが、村上春樹的な主体の持つ典型的なメンタリティである。 だが、少なくともこの物語にお

    経験的現実の解体 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第2部 予言する鳥編) - サラダ坊主日記
  • 日常性を蝕むもの 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第1部 泥棒かささぎ編) - サラダ坊主日記

    村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」という長篇小説の第一巻「泥棒かささぎ編」を読了したので、感想の断片を書き留めておく。 尤も、この「泥棒かささぎ編」を通読したのは、今回が初めてではない。遡ること十数年前、私が未だ中学三年生だった頃の、高校進学直前の春休みに、誰もいない家で炬燵に浸かりながら、夢中になって貪るように読み終えたのが最初の邂逅であった。松戸駅前の良文堂書店で、分厚いハードカバーの「泥棒かささぎ編」に何故か心を惹かれ、大枚を叩いて購入したのである。いや、或いは中学二年生の終わり、大阪府枚方市から千葉県松戸市へ引っ越して来たばかりの、束の間の平穏な早春の日であったろうか。どちらでも構わないが、兎に角、それが村上春樹の作品との、最初の格的な接触であったのだ。 夢中になって読み終えたくせに、私は続きの二冊を読まないまま、今日まで過ごしてきた。奇妙と言えば奇妙だが、別に続きを読まねばなら

    日常性を蝕むもの 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第1部 泥棒かささぎ編) - サラダ坊主日記
  • 多様性と画一性 - サラダ坊主日記

    ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」(光文社古典新訳文庫)を漸く読了した。 この書物は「自由」という哲学的な観念を理論的に位置付ける為に書かれたものではなく、著者の視線は極めて実践的な次元に立脚しているように感じられる。体系的な論文であると言うよりも、著者が「自由」という主題に就いて自在に考え、言葉を書き記した批評的なエッセイの風格が全篇に行き渡っている。 ミルは、抽象的で哲学的な概念としての「自由」には、然して関心を懐いていない。彼が考究するのは専ら社会と個人の関係性における「自由」の具体的な要件であり、その適用の範囲に就いて妥当な基準を如何にして定めるべきか、実践的な立場から、具体的な事例を踏まえつつ思索を積み重ねることが、彼の意であり、眼目なのだろうと思う。 ミルの提示する見解は何れも断片的で、個別の事例との関係性や文脈をその都度、考慮に入れなければ、彼の丁寧な省察が具体的な有用

    多様性と画一性 - サラダ坊主日記
  • 人間本来無一物 - サラダ坊主日記

    車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」は、今まで読んだ中では屈指の精神的衝撃を、私の心に齎した異様な小説であった。作者の数奇な人生遍歴が彼方此方に投影されているらしいが、彼が「私小説」という文学的理念に強烈な執着を示すことで知られた作家だからと言って、事実と虚構の境目を厳密に確定しようなどと試みるのは無益な企みであるだろう。 この小説の全篇を貫く「苦界」の感触は、物語の世界に異様な迫力を附与する根源的な活力となっているが、一見すると「地獄巡り」のように感じられる「私」の彷徨が、単なるゴシップめいた興味を掻き立てるだけならば、「赤目四十八瀧心中未遂」は畢生の傑作にまでは昇華し得なかっただろう。車谷には「贋世捨人」という作品もあったように記憶するが(生憎、私は未読である)、これは彼の文業を支配する中心的な観念に与えられるべき名称としては最適のものである。彼は「無一物」の境涯に異様な憧憬を懐きながら

    人間本来無一物 - サラダ坊主日記
  • 「自由主義」という見果てぬ夢 - サラダ坊主日記

    ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」(光文社古典新訳文庫)を少しずつ読んでいる。マルクスの「共産主義者宣言」(平凡社ライブラリー)と一緒にAmazonへ注文したのに、他のを読むことに時日を費やして、居間へ店晒しにしていたのを漸く繙き始めた次第である。 流石に古典新訳文庫と言うべきか、訳文は非常に平明で驚くほど読み易い。古典的な文献に付き纏う学術的な権威の臭気が感じられず、身近な人間から直に講義を受けているような寛いだ雰囲気が行間に滲んでいる。 自由という言葉、或いは観念に関する精確な理解に達することは、恐らく誰にとっても困難な作業であるに違いない。しかし、世界的に吹き荒れつつある反動的な保守化の潮流が、殆ど無視し難い脅威として私たちの暮らす社会に押し寄せ、殺到しつつある現況を鑑みるならば、単なる抽象的な観念として箪笥の抽斗へ仕舞い込む訳にもいくまい。私たちは自由という言葉を当たり前のよ

    「自由主義」という見果てぬ夢 - サラダ坊主日記
  • 「出生」と社会的合意 - サラダ坊主日記

    典拠が何だったか、具体的に思い出せないまま書くが、先日、2016年の日における嬰児の出生数が遂に百万人を割り込んだという報道に接した。 少子高齢化が、成熟した、古びた国家である日の「宿命」だという論調は長い間、私たちの社会における共通の認識として、通奏低音の如く殷々と鳴り響き続けている。その背景には無論、様々な与件が関わっており、例えば若年層の経済的困窮が引鉄となって、未婚率の上昇と晩婚化の亢進、出生数の抑制といった現象が強化されつつあるという見解は、少しも目新しい推論ではなくなっていると言える。確かに金銭的な窮乏が、そして低所得の生活が将来的に改善される見込みが年々乏しくなり、裕福な栄達への希望が着実に痩せ衰えつつある時代の悲観的な風潮が、若年層の婚姻や育児に対する消極的な方針を強めていることは事実であろう。 だが、経済的な理由だけで総てを説明しようとすることは、偏狭な見方であること

    「出生」と社会的合意 - サラダ坊主日記
  • ファンタジーという言葉 2 - サラダ坊主日記

    或る意味では、どんな種類の文学作品もファンタジーの眷属なのだと強弁することは充分に可能である。どんな文学作品も、それが私たちの住まう外在的な現実の単なる引き写しに過ぎないということは有り得ないし、仮に有り得たとすれば、それは文学「作品」であるというよりも、単なる叙事的な作文に過ぎない。 作品というのは曲がりなりにも一定の自立した輪郭を備えていなければ、作品として認められない筈であり、現実の単純な転写が、つまり私たちの日常的な価値観を通じて模写されただけの退屈な現実の写し絵が、作品の名に値する強度と自立性を獲得することは原理的に有り得ないだろう。だから、現実の単なる模写ということは、少なくとも文学作品の領域においては存在することが出来ない訳で、従ってあらゆる文学作品は現実を異化するような性質、或いは機能を孕んでいるということになる。つまり、総ての文学作品は、私たちの慣れ親しんだ日常的な現実の

    ファンタジーという言葉 2 - サラダ坊主日記
  • 淡々とした空想紀行文の余韻 筒井康隆「旅のラゴス」 - サラダ坊主日記

    吉田健一の「金沢」を繙くことに飽きて、新たに筒井康隆の「旅のラゴス」という小説を読み出した。文頭から文末まで縦横に視点が入れ代わり、文意が宙吊りにされ続ける吉田健一の酩酊したような文章と比べると、随分簡潔で読み易いように感じられる。いっそ無愛想なほどに過剰な文学的修飾を排除した文体である。だが、決して無味乾燥という訳ではないし、極限まで切り詰められ、彫琢された文章で綴られた物語でもない。大雑把と言えば大雑把、冗長な情景描写などには然して関心も示さずに、要点を抑えてサクサクと語り続ける。ごわごわとした麻布のような手触りで、様々な架空の街での体験が淡々と綴られていくのである。しかも、そこには巨大な物語の劇的な「うねり」のようなものは必ずしも存在しないばかりか、敢えて意図的に取り除かれているようにも感じられる。 しかし、この小説は面白い。ダイナミックな物語、リアリティ濫れる描写、そういった所謂「

    淡々とした空想紀行文の余韻 筒井康隆「旅のラゴス」 - サラダ坊主日記
  • 「戦争の時代」の子供として生まれて 大江健三郎「死者の奢り」 - サラダ坊主日記

    優れた作家であればあるほど、その社会的な名声が広範囲に行き渡っていればいるほど、毀誉褒貶の振幅が劇しくなるのは作家に限らず、あらゆる分野の「著名人」に付き纏う通弊である。だが、作家の場合には、その生み出した作品がそもそも「鑑賞されるもの」であるがゆえに、そうした賛否両論の嵐は一層深刻なものとならざるを得ない。日人で二人目のノーベル文学賞作家として、或いは東大在学中に類稀な才能を発揮して易々と芥川賞を射止めて以来、長きに亘って日の文学界に多大な影響力を発揮し続けている小説家として、大江健三郎に関する評価は囂しいほどに優劣の両極へ揺れ動いている。それは彼の書くものが、その繊弱で学者的な経歴とは裏腹の「野蛮さ」を含んでいるからだろう。良くも悪くも彼は既成の価値観の枠組みに囚われることのない、特異な思想の持ち主であり、その著作物は決して社会的に、公共的に是認された思想の形式ばかりを表していると

    「戦争の時代」の子供として生まれて 大江健三郎「死者の奢り」 - サラダ坊主日記
  • 外部を持たない領域 大江健三郎「他人の足」 - サラダ坊主日記

    最近、再び読み始めたミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」について何か書こうと思ったのだが、巧く纏められないので別の書物を巡って雑文を草してみたいと思う。断章風の文章を積み重ねて織り成されるクンデラの小説は、分かり易いカタルシスや劇的なシナリオとは無縁で、作品の意図を掴むのが容易ではない。しかし、それでも読み出すと不思議にページを捲らされてしまうのが魅力と言えば魅力だろう。 「存在の耐えられない軽さ」は絶えず性愛の問題を巡って綴られているが、だからと言って性愛そのものを主題に据えたロマンティックな恋愛小説だと誤解し得るような余地はない。物語の進行、筋書きそのものの進行ではなく、小説としての構造的な進行は通り一遍の写実主義を排除していて、どんな描写にも観念的な省察や解説が絡まり、混入するのが、クンデラの文学的特徴だろう。彼は決して物語のシンフォニックな高まりを描こうとはしないし、滑らか

    外部を持たない領域 大江健三郎「他人の足」 - サラダ坊主日記
  • 中上健次の「記憶」 - サラダ坊主日記

    先日、NHKで中上健次と「路地」の記憶を巡るドキュメンタリー番組が放映されているのを、切れ切れに眺める時間を持った。 和歌山県新宮市の被差別部落に生まれ育った中上健次の文業が、自身の生まれ育った環境に対する、愛憎の入り混じった執着に染め抜かれていることは、広く知られた事実であると思う。彼は執拗なまでに、自らの個人的な記憶に由来する問題に取り組み続けたし、彼の書いた文章は小説に限らずエッセイも含めて、悉く彼自身の「生涯」或いは「生き方」と緊密に結び付いていた。彼にとって書くことは生きることと不可分であったし、それは彼が職業的な意味での「小説家」という枠組みに留まらない存在であったことと切り離せない。彼は単に、複数の選択肢から俯瞰的な検討の末に「小説家」という生業へ進むことを決意したのではない。書かなければ、どうにも収まりのつかない厄介な問題を個人的に抱え込んでいた為に、只管にペンを握り締めて

    中上健次の「記憶」 - サラダ坊主日記
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