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村上春樹に関するq52464のブックマーク (4)

  • 村上春樹の系譜と構造 (内田樹の研究室)

    最初にお断りしておきますけれど、僕は村上春樹の研究者ではありません。批評家でもない。一読者です。僕の関心事はもっぱら「村上春樹の作品からいかに多くの快楽を引き出すか」にあります。ですから、僕が村上春樹の作品を解釈し、あれこれと仮説を立てるのは、そうした方が読んでいてより愉しいからです。どういうふうに解釈すると「もっと愉しくなるか」を基準に僕の仮説は立てられています。ですから、そこに学術的厳密性のようなものをあまり期待されても困ります。とはいえ、学術的厳密性がまったくない「でたらめ」ですと、それはそれで解釈のもたらす愉悦は減じる。このあたりのさじ加減が難しいです。どの程度の厳密性が読解のもたらす愉悦を最大化するか。ふつうの研究者はそんなことに頭を使いませんけれど、僕の場合は、そこが力の入れどころです。 いずれにせよ、僕が仮説を提示するのは、みなさんからの「真偽」や「正否」の判断を求めてではあ

  • 境界線の彼方へ 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編) - サラダ坊主日記

    村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編)を読了した。 この錯綜した筋書きを持つ長大な物語の概要を、何かしらの理論的な構図の中に縮約して織り込めるという自信は、少なくとも現在の私の持ち物ではない。敢えて私見を述べるならば「未整理の作品」という形容が相応しいように感じられる、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説においては、総ての伏線や謎めいた要素が充分に回収されたり解決されたりしているとは言い難い。だが、それらの整理されない細部と細部の整合性を確保する為に強引に理路を切り拓こうとすれば、この小説小説として構築された意義が失われてしまうようにも思える。 「ねじまき鳥クロニクル」の主要な筋書きが、失踪したクミコとの平穏な生活の「奪還」に存することは確かである。だが、その主要な筋書きに限ってさえ、それが具体的にどのような構造的真実を指し示しているのか、明瞭に把握することは困難で

    境界線の彼方へ 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編) - サラダ坊主日記
  • 経験的現実の解体 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第2部 予言する鳥編) - サラダ坊主日記

    村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』(新潮文庫)を読み終えた。 読後の印象としては、長い物語が漸く具体的に、格的に動き出したという感じである。一巻を通じて緻密に、慎重に、丁寧に整えられていった物語の基盤が、語り手のであるクミコの失踪という不吉な事件によって、強制的な転調を迫られ、いよいよ受動的な立場から脱け出さねばならなくなった、というのが私の個人的な要約である。 「第一部 泥棒かささぎ編」の感想文でも述べた通り、村上春樹の作り出す主人公は概ね受動的な姿勢を示し、積極的な意図や計画に基づいて主体的な行動に踏み切るということが稀である。どちらかと言えば一歩現実から引き下がり、個人的で私的な領域の平和を何よりも優先する構えを維持し、物語の流れに対して批評的で客観的な関係を保とうと試みるのが、村上春樹的な主体の持つ典型的なメンタリティである。 だが、少なくともこの物語にお

    経験的現実の解体 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第2部 予言する鳥編) - サラダ坊主日記
  • 日常性を蝕むもの 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第1部 泥棒かささぎ編) - サラダ坊主日記

    村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」という長篇小説の第一巻「泥棒かささぎ編」を読了したので、感想の断片を書き留めておく。 尤も、この「泥棒かささぎ編」を通読したのは、今回が初めてではない。遡ること十数年前、私が未だ中学三年生だった頃の、高校進学直前の春休みに、誰もいない家で炬燵に浸かりながら、夢中になって貪るように読み終えたのが最初の邂逅であった。松戸駅前の良文堂書店で、分厚いハードカバーの「泥棒かささぎ編」に何故か心を惹かれ、大枚を叩いて購入したのである。いや、或いは中学二年生の終わり、大阪府枚方市から千葉県松戸市へ引っ越して来たばかりの、束の間の平穏な早春の日であったろうか。どちらでも構わないが、兎に角、それが村上春樹の作品との、最初の格的な接触であったのだ。 夢中になって読み終えたくせに、私は続きの二冊を読まないまま、今日まで過ごしてきた。奇妙と言えば奇妙だが、別に続きを読まねばなら

    日常性を蝕むもの 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第1部 泥棒かささぎ編) - サラダ坊主日記
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