サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
GPT-4o
kawango.hatenadiary.org
最近、ひさしぶりにPC Building SImulaterとかいうクソゲーに嵌まった影響で、Windowsマシンを使い始めるようになった。いままでも一応、定期的に買い換えてはいたのだが、日常はほとんどMacBookで事足りていて、Windowsマシンの起動なんて、そろそろ最新ハードに買い換えたいという時に比較用に起動するぐらいだった。 ひさびさに使うとWindowsマシンも悪くない。アプリケーションが安定して動作するんだよね。まったく固まらない。そうそう。Macは昔から不安定だったし、ずいぶんMacも安定して動くようになったけど、まだまだ、Windowsのほうが安定なんだ。と感動した。 だいぶ使用頻度もあがって、ふとストレージがSSD1TBしかないことの気づいて、最近でた4TBのSSDを増設しようと思いついた。PCのパーツを買って拡張するなんて久しぶりだが、まあ、ケーブル2本つなぐだけだ
ぼくについて言及されているブログをみつけた。 かわん(id:kawango)さんと、川上量生さんのこと そういや、かわん、だった。 というわけで、かわんごの名前の由来を書いてみようと思う。 あまりにどうでもいい内容なので、最近、まったくつかってない古いはてなブログを使うことにする。 かわんごとは、もともと、かわんご、でもなく、カワンゴでもなく、kawangoだった。 つまり半角アルファベット7文字である。 idとか、パスワードとか、自己紹介とか、そういうのはどうでもいいと昔から思っていて、いちいち考える時間がもったいなかった。 とはいえ、サービスごとに適当な違う名前をつけていると管理がしにくいので統一はしたい。 ネット人口の少ないパソコン通信時代でも、kawakamiだと既に取られていることが多かった。 なのでぼくがよく使っていたidはkawakawaだった。でも、インターネット時代に入り
ぼくみたいな人間がこれまでの人生でわりとうまくやってこれた究極の原因はなんだろうと考えていてある結論にたどりついた。 それは部屋の中にひきこもりながら体を動かしていたことに違いない。 あ、最初にいっておくが、これは駄文である。駄記事である。ブロマガ、はてなブログとひさびさの記事を上げてみて、この一番古いはてダにもなにか書いてみたくなっただけの話である。 2年ぐらい結婚生活を送っていて、当然、嫁との間に深刻な生活習慣の違いというのがいくつか出てきているのだが、ぼくが我慢していることのひとつに本当はベッドルームを暗くして寝たいということがある。 ぼくは真っ暗な部屋でさらにふとんをかぶって丸まって寝たいのである。 そしてなによりカーテンは完全に閉めてほしいし、カーテンがなぜ遮光カーテンじゃないのかということについても納得がいかない。部屋の窓を遮光カーテンで締め切って、朝日が昇ろうが、部屋の中はま
寝起きにぼんやり考えた。 みんな好き、とか、ふと思ったんだけど、これってなんだろう。 ちなみに、ぼくの場合、1日に3回ぐらいは、みんな好き、とかって感情がわきおこる。これってどういう現象なんだろう。 自分が幸せなときって他人へ優しくなれるとかっていうってひとはよく見る。 ぼくの場合もじゃあいま幸せなだけかというと、それもなんか違う気がする。 ぼくがすごく不幸に思っていたときも、結構、頻繁に、みんな好き、とか思う。むしろ頻度多い気がするし、すごく切実に、みんな好き、とか思っている気がする。 なにが違うかというと、不幸なときは優しくされたときに、みんな好き、とか思うけど、わりに幸せなときは自発的、発作的に、みんな好き、とか思うというところかな。 ただ、不幸なときは、逆に、みんな嫌い、とか思う感情がおこることがある。でも、冷静にそのときの感情を考えると、みんな嫌い、ってたんに、自分が嫌い、という
ネットで東浩紀氏の文庫本に中森明夫氏が書いたあとがきが面白いという書き込みがあったので読んでみた。そこでは東氏の先輩として柄谷行人さんが紹介されていて、要するに東浩紀は柄谷行人の歩んだ道をなぞっているという指摘がされていて確かに面白かったのだが、じゃあ、柄谷行人とはどういうひとなのかと興味を持ち、わりあいに氏の最近の本である世界史の構造という本を序文だけ読んでみた。 その本で柄谷氏が試みているのはどうやらこういうことらしい。マルクスは資本主義下での商品交換を元にした経済的下部構造の上に国家や民族のような上部構造が成立すると主張したが、商品交換以外にも贈与や略取のような交換様式も考慮にいれて経済的下部構造を考えることによって、上部構造である国家のみかけの自立性を仮定しなくても、世界が説明できるはずだという主張だ。 氏の主張が正しいかどうかを判断するのは、ぼくなんかの素人の手に余るのだが、この
ここ数年のオリコンランキングを見ると、上位はAKBとジャニーズばっかりだ。この現状について音楽好きのひとたちが嘆いていたり非難するひとたちの記事は定期的に見る。 また、ライトノベルや深夜アニメなどのサブカルチャーの程度が低すぎるみたいな話もよく聞く。 問題と指摘されている点をまとめるとだいたい次のようなかんじではないか。 ・ 商業主義がいけない。ユーザの欲望に安易に媚びた結果、似たようなもの、質の低いコンテンツばっかりになる。 ・ 本当にコンテンツを愛するファンが欲しい作品が登場しない。売れない。 ・ これは世界の中でも日本だけの特徴であって恥ずかしい。 この現状認識についてはいろいろ各人によって賛同、異論があるようだが、ちょっと違った角度で現在のコンテンツを巡る状況を考えてみたい。 そもそも質の高いコンテンツとはなんだろうか。一般に対比される芸術性と大衆性という切り口で考えると、商業主義
現代は野蛮だから、子供は平等に財産を相続する。昔のひとは賢かったから、長男だけが相続し、せっかく集めた財産が散逸しない仕組みをつくった。 現代は野蛮だから、戦争では本気で人間を殺し合う。昔のひとは賢かったから、戦争してもときの声をあげて威嚇しあったりして人間ができるだけ死なないように戦う。代表者だけ戦う一騎打ちなんて大変に知的な発明もした。 現代は野蛮だから組織のリーダーは実力で決めようとして争いが絶えない。昔のひとは賢かったから、リーダーは世襲で決めることにして後継者を巡る組織の混乱を防いだ。 現代は野蛮だから、世襲する自分の後継者は自分の血を受け継いだ子供を選ぶ。昔のひとは賢かったから、世襲する自分の後継者はまったく血がつながってなくても、できるだけ優秀な子供を捜してきて養子にした。 現代は野蛮だから、自分たちのリーダーも同じ人間だからと尊敬しないし、厳しく欠点を指摘して引きずりおろす
先週、札幌のIVSというイベントでベンチャー企業が自分のサービスをプレゼンするLaunch Padというのがあったのだが、これが予想以上にレベルが高くて素晴らしかった。日本のベンチャーもなかなか捨てたもんじゃないし、これから可能性がまだまだあるかもと認識を改めた。 というわけで彼らのプレゼンをみていて思ったことを書いてみる。 ベンチャー企業にとって、いい企画とはなにか?価値のある企画とはどう定義すればいいのか。とか、いうことを考えてみたのだ。 結論を先に書いちゃうと、今回、こういう場での企画の善し悪しの判断は、斬新さ、リアリティ、プレゼンの3つの要素だなと思った。そしてこの3つはお互いに依存関係にあり、どれかひとつあるいはふたつだけあればいいというものでもないということだ。 そして、この3つの中でもっとも難しいのがリアリティである。Launch Padのレベルが高いとぼくが思ったのは、この
今日はE3の初日ということで、午前中にノキアシアターで行われた任天堂の発表会を見てきました。前日、前々日とおこなわれたマイクロソフトとソニーの発表会と比較して、日本でネットから見ていた視聴者の評価は圧倒的にトップで、とりあえず任天堂ファンとしては一安心しました。 しかし、任天堂のE3でのプレゼンテーションのうまさというのは伝統があって、Nintendo 64やGamecubeの時代。一時期、完全にサードパーティーが見放していた冬の時代にも任天堂はE3での展示自体は毎回、大成功。ユーザーの評価も高く、我が道をいくというかんじで、ソニーやマイクロソフトの人たちは不気味さを感じながらながらも任天堂は眼中にないというポーズをとってお互い競争しているといった雰囲気が印象的でした。 いつまでたっても売れ続ける任天堂ソフトのじわ売れとクリスマス商戦の圧倒的な強さ、E3でのユーザへの評判の良さ、業界の覇者
先週の月曜日の午前中、なんとなくネットサーフィンしていたら、なんと会社では入社式をやっていることがわかった。なるほど。去年までは入社式の予定がいつのまにか入れられていて、めんどくせーと、毎年、無視して行かなかったのだが、とうとう今年は連絡も案内も来なくなったらしい。いつのまにかやっていたのだ。 さて、というわけで4月は新社会人がたくさん誕生するシーズンである。新卒信仰を批判するひとは多いが、会社にとってやっぱり新卒者とはとてもいいものだ。社会人生活なんて、たいていはろくなもんじゃないから、数年たつとどんなにフレッシュでやる気のある人間でもだんだんとすれてくる。中途採用でもある程度年齢が上になるともう新しいことに挑戦できるひとはなかなか採用できない。その点、新卒はなにしろ世間を知らないので、面倒くさいことあんまりいわないし、とりあえず挑戦しようというやる気があることが多いので、やっぱり会社に
時に人間というのは、苦しかったり、しんどかったり、めんどくさかったりするような選択をわざわざしたがる生き物だ。 ようするに一時の気の迷いというやつである。一時の迷いのはずが一生モノになったりすることもある。 まあ、だいたいは若い時代にそういう心が揺れ動く経験をするものだが、人間は年をくってもそれほど進歩はしないので大人でも気の迷いはある。大人のハシカとおなじく大人の気の迷いもタチが悪い。 ぼくの母が四国のお遍路参りをはじめたのは5年も前だろうか。当初は父と二人でまわっていたが、阿波国(徳島県)、土佐国(高知県)と半分過ぎたところで父が亡くなり、3年前からぼくが父の代わりについていくことになった。とはいっても、途中、母親の骨折とかがあり、40番札所の観自在寺からはじまるぼくと母親の巡礼の旅は3年前からほとんど進んでいない。現在、寺の数で云うと3つあとの明石寺だ。正直、このまま母が忘れてくれる
昔、ひとづてにある経営者がこう評したという話を聞いた。老人ホームや介護ビジネスは仕組みとしては牧畜業だ、と。 誤解を避けるために断っておくが、これは老人を馬鹿にしているわけでも、老人ホームの経営はこう考えろというビジネス指南でもなく、ただ、ビジネスの構造が牧畜業とまったく同じであるという指摘である。 牧畜業とは一定期間、家畜を飼育したコストを、最終的に市場で売却した価格を引いた金額が利益になるという構造である。そして市場価格はそのときの相場であって、だいたい一定であるとみなせるから、どれだけ利益がでるかは、飼育するコストをいかに抑えるかで決まることになる。 老人ホームや介護の場合も顧客満足度をいくらあげようがもらえる報酬が変わるわけではないのでいかに低コストで世話を出来るかで利益がきまる。牧畜業との違いは、飼育期間が決まってないことだ。だから、出来るだけ長生きしてもらうほうがいいというのが
母親の親友論には長い間だまされた。 ぼくは、正直、マザコンの気があって、母親の言葉にかなり影響されて育った。10代のときにいわれたいくつかの言葉はかなり長い間にわたって心の中の金科玉条となってぼくの人生を支配した。ぼくが独立したのは30代半ばのころだ。どうもおかしいと気づきだして母親に確認したらいったこと自体を忘れていて愕然としたことを覚えている。ぼくの人生を返して欲しい。 ぼくが心の拠り所にしていた母親の言葉を思いつくまま紹介してみよう。 (1) 親友とは大学時代までにしかできない。社会人になって以降の友達は利害関係の付き合いだから、親友にはならない。 (2) 商売するとき必要なものだからと全部の必要なものにお金をつかっていたら、すぐに商売が成り立たなくなる。本当に必要なのかを吟味しなさい。 (3) 本当に大事な人間関係とは相手が困ったときに自分の身を切ってでも助けるかどうかで決まる。普
ネットでわんこ☆そば氏なるひとのブログに面白い記事がのった。 ドワンゴ川上会長「中国のようにネット言論は国で規制すべし」 - SKiCCO JOURNAL そこだけ読むと、多くのひとがこのひとは無茶苦茶いっているなと反感を持つような見出しである。ネットではこういうように自分が都合がいいように情報を切り出して加工して、架空の敵をつくって攻撃をするということがよく行われる。 ちなみに面白いことに、このブログをさらに引用したニュース記事があって、タイトルはこんな風になる。 『ネットの意見は国が封殺すべし!』ドワンゴ川上会長の驚き発言 - 楽天ソーシャルニュース 要するに読者を刺激する、できるだけ読者が怒り出すようなタイトルをがんばってつけようとしているのだ。そしてネット民はそういう情報を取捨選択かつ判断する賢さはあまりもっていないひとが多いから、そういう作られたイメージでどんどん空想の議論を発展
ファンタジーとはなにか?現代のファンタジーの大きな源流はトールキンの指輪物語など一世紀ほど過去のイギリスの児童文学に遡ることができるだろう。それ以前はお伽噺や童話の世界になる。 つまり、もともとはファンタジーは子供に聞かせる話として誕生したものである。 お伽噺や童話そしてファンタジーに人々はどんな思いを託してつくってきたのか。 ぼくの母親から聞いた話だが、昔、母親の子供時代、日本が貧しかった頃、狸に化かされたという話は学校 に弁当をもってこなかった子の冗談めいた定番の言い訳のひとつだったそうだ。つまり家が貧乏だから、弁当を持ってこないのではなく、狸に化かされて盗られただけだというわけだ。 人々は現実がこうあってほしいなという夢を物語に託したりする。シンデレラという話は貧しく冴えない少女が、魔法で身なりを整えたら実は美女で王子様に求婚されるというはなしだ。シンデレラと類似の民話、伝説の類は世
お金持ちになりたい人が知っておくべき考え方21選という、明らかな工作によって、はてなブックマークで人気になっているブログ記事がある。 はっきりいって中身は役には立ちそうにないと個人的には思ったのだが、似たような人生の知恵みたいな文章に見せかけながら、実はモノポリーの説明をしているだけというようなエントリが書けるんじゃないかとつまらないことを考えて、昨日、試してみた。書いているときは自分では面白かったのだが、2人ぐらいに読んでもらったら、モノポリー自体をよく知らないらしくぽかーんとされた。ということで、最初からタイトルで表記することにする。 以下、冒頭の”人生をゲームに例えてみた”ではなく、”ゲームを人生に例えてみた”というのがポイントだ。 −−−−−−−−−−−−−−− ぼくがゲーマーだからというわけじゃないが、ゲームを人生で例えてみる。 人生とはお金持ちになるだけじゃなく、勝たなければ意
もう発売されて2ヶ月になるが任天堂3DSソフトの「スーパーマリオ3Dランド」が素晴らしい。 巷ではソーシャルゲームやスマートフォンが流行っている昨今ですが、そんな時期に任天堂が古き良きテレビゲームのひとつの究極的な進化形であるといっていいゲームを出したわけだ。 およそ理想のテレビゲームとはなんだろう? ひとつの理想は間違いなく万人が楽しめるゲームであるということだ。年齢趣味趣向を問わないだけでなく、ゲーマーとしての腕前の巧拙にかかわらずにだれでも楽しいゲームというのが究極の目標であるはずだ。 これはもちろんゲーム会社として特に任天堂のようなトップ企業にとっては最大限の顧客をターゲットにするためにはとても大切なテーマになるのは当然だが、ゲーマーにとっても重要なテーマになる。なぜならゲームなんてひとりでやっても楽しくないからだ。まわりの友達や家族といっしょに遊べてこそ、本当に楽しいゲームとなる
正月三が日も終わった。 年末年始に書きかけのブログを完成させようと何度かこころみたが、数えてみたら22本も途中で投げ出しているエントリがあった。どれもこれもそのとき書いていたら、面白かっただろうなと手前味噌ながらも思うのだが、なにしろ、今の自分と過去の自分は、ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、と鴨長明も指摘するとおりに別人だ。 やっぱ、思い立ったときにブログは完成させないとだめだねえ。なまものだねえ。 というわけで、今朝、ベッドの中で考えていたことを書き留めることにする。 悟りとはいったいなんだろうかということだ。 信頼性の低いwikipediaの記述によると釈迦が悟りを開いたのは35歳だという。 人間なんて大差ないというのがぼくの信念である。当時の釈迦よりも年長組の僕は、すでに悟りを開いているはずだ。いったい、ぼくがこれまでにした経験のどれが悟りに相当するのだろう? ひとつ
アップル社のスティーブといえば、いまだとジョブズだが、30年以上前、アップル社の最初のヒット作品であるAPPLE IIの時代には、もうひとりいた。スティーブ・ウォズニアックだ。APPLE IIを設計した天才エンジニアであるウォズニアックはウォズの魔法使いとか呼ばれて、パソコンマニアの中では、もっとも尊敬される人物のひとりだった。だから、当時のアップルファンにはスティーブといえば、ジョブズが好きか、ウォズニアックが好きかという定番の話題があったのだ。 もちろん、ウォズニアック派がほとんどだった。ジョブズは天才エンジニアのウォズニアックをうまくつかまえて大儲けをしたビジネスのひとだと思われていたから人気がなかった。 第一次パソコンブームの当時、日本でもそういう天才プログラマをうまくつかって大ヒットソフトをつくって大儲けするビジネスマンや大人たちといった構図はあちこちで見られたから、まあ、ジョブ
ネット時代にコンテンツ業界がどう対応するかは、映画、アニメ、ゲーム、音楽、書籍、マンガなど、いずれのコンテンツの世界であっても課題になっている。 課題というのはおもにどうやってネット時代に収益をあげるかをみんな悩んでいるわけだが、そもそもネット時代にはコンテンツのフォーマットそのものも見直す必要があるのではないか、こんなあたりまえのことをあたりまえにいってくれたのが大塚英志(敬称略)だ。 技術者であってもネットサービスの開発に携わるのであればマーケティング的な能力は問われるから、人文書を読むべきだと最近主張している僕だが、とりわけ大塚英志はおすすめの批評家だ。 批評家の書く本がビジネスに役に立つとして、その効用はふたつある。ひとつは世の中に起きている現象をどうやって理解すればいいかを整理できること。もうひとつは世の中で起きている現象をどうやってコントロールすればいいかのヒントをくれることで
前回の続きだ。最後に書いたようにぼくが宇野常寛氏(以下敬称略)の新作「リトルピープルの時代」での疑問点は3つある。 (1) グローバル資本主義というシステムと小さなビッグブラザーである個人が一体になって新しい”壁”をつくっていると主張しているように本書は読み取れるが、その両者を区別せずにリトルピープルという言葉で扱うのは、本書の議論上では妥当とは思えない。 (2) (1)による混乱からの帰結として、拡張現実が新しい”壁”への対抗法という結論になってしまっているとぼくは考える。これはシステムが生み出す現実からの逃避をたんにいいかえているだけではないか? (3) 本筋ではないと思うが、村上春樹への批判は想像力の欠如ではなく、倫理的にやってほしいという、これはぼくの個人的な希望である。 (1)についてだが、宇野常寛はだれしもが小さなビッグブラザー=リトルピープルとなるのが現代だといいつつ、しばし
最近、理系も人文系の本を読もう運動を提唱している僕ですが、とはいっても自分自身もここ数年で大塚英志氏と東浩紀氏の本の何冊かをちょっと読んだというぐらいだから、語る資格は本来ない。 とはいえ似た境遇にある理系的な人間の人文書アレルギーを多少は解消する助けになることは書けるかもしれないと思い、最近、話題になっているらしい宇野常寛氏(以下敬称略)の新刊「リトル・ピープルの時代」の感想などを理系人間的に試みてみたい。 最初に断っておくが、この本は数年前の僕だと読めなかった類のものだ。しかし、慣れたのか、いまはなんとなく内容が理解できる気がする。実はこの本は献本されたらしく、ある朝、ひさしぶりに会社に来たら机の上に置いてあった。筆者なのか出版社なのかわからないが、僕なんかに読ませてどうしようというのか。だいたい、貰わなくても自分で買うつもりだったから売上げを一冊減らしていることになる。申し訳ないから
人間とは悲しいもので自分こそが人生で困難な状況に置かれているひとほど親身に他人の世話をしたりするものだ。遠く日本を離れた異国の地で自分の婚活をどうしようと思い悩みながらネットサーフィンしていたら、自分の悩みより就活どうしようと苦悩する日本の若者の人生に横から口を挟んで茶々いれることのほうが重要な気がしてきた。崇高な自己犠牲の精神がふつふつと沸き起こってきたのだ。 というわけで、自分がいま就活をしている、あるいは数年後就活をしなければならないとしたら、どうするかというのを考えてみた。しかし、いまの就活はぼくの頃よりもずいぶんと難しい。なにを基準に考えていいかがはっきりしないのだ。大企業にいってもつぶれそうな気がするし、ベンチャーはベンチャーで信用ならないし、唯一の安全パイに見える公務員すら、国も地方も財政破綻目前なのだから、どうなるかまったく安心ならない。ようするに日本全体がいまやばいかんじ
今回は事務的でつまらなそうなタイトルにしてみた。 前々回のエントリで紹介した潜在限界会員数についての補足である。補足なのでとくに一貫性のないいくつかの説明の羅列でしかない。 なので潜在限界会員数を月間入会者数と当月退会率と継月退会率で求めるという手法に興味あるひと以外は面白くないエントリなので関係ないひとはいますぐまわれ右をすることをお薦めする。 □ 潜在限界会員数の典型的な動きについて 会員数はいずれ潜在限界会員数に収束していくという話をしたが、実は潜在限界会員数は結構変化する。とくにサイトをつくってしばらくの間は次第に増加していく傾向がある。これは継月退会率は変化しないという前提が実はちょっと正しくないためだ。ひとつは最初の月の退会率がだんとうに多いのは間違いないのだが、2ヶ月目の退会率も1ヶ月目よりも低いが、3ヶ月目よりは高くなるからだ。また3ヶ月目以降の退化率も非アクティブ会員がど
ここ数年、会う人にテレビの将来とか、ネットメディアはどうなるかについてよく聞かれる。 正直、そういう話題には、ぼくは本当に興味がなくて、そのたびになぜ興味がないのか、ぼくは本当はなにがしたいのか、力説するのだが、なかなか信じてもらえないし、理解もされないのだ。 しかし、何度も他人に尋ねられるうちに、さすがに多少テレビの将来とかを考えるようになった。だからといって別に回答はなく、むしろ逆にどうなるのか僕がいろいろ知りたいことがある。あまりまとまっていないが、思いつくことを適当に書き記してみる。 最初の疑問。双方向性はどれぐらい必要とされているのか。 まず、テレビにyoutubeとかustreamとかの動画や生放送サービスがとって変わるかという、よくある質問についてだ。両者は違うものなので、youtubeやustreamがテレビの役割をごく一部は担えても置き換えることはありえないと思っていると
新しい企画を立ち上げるときに必要な投資を会社からひっぱりだすのは大変だ。上司はOKしても管理部門がいい顔をしないといろいろとめんどくさい。 そういうときに要求されるのがビジネスプランだ。バラ色の予想を書き殴った事業計画書を作文するとお金をかなりの確率で出してくれることに世の中ではなっている。 えっ?いくら事業計画をだしても通らない?あー、それは君の政治力が不足しているからだ。君の事業計画の中身もきっとクソだとは思うけど、それは企画が通らないこととはあまり関係ない。 世の中で通る企画とはどれだけ政治力のある人間が賛成するかで決まる。政治力とは社内的な立場の強さだったり、声の大きさだったり、ねちっこさだったり、だれと仲がいいかなんかで決まるパラメーターだ。企画の中身はどうせだれも判断できない。 とはいえ、だれも本当の一番大事なところは判断できない事業計画であっても形式的な審査はある。ようするに
メカAG氏のブログ記事が面白かった。 メカAG氏の指摘を誤読し、ソースを元に組み立てない議論なんてなんの意味があるのかみたいなコメントも多くあったが、そのとおり、確かに根拠をきちんと明示して論理的な議論を組み立てるためであれば、むしろソースはとても大事なのだが、ソースをコピペだけして、はい、論破。みたいなのは極端にしても、ソースと自分の主張と現実との因果関係をまともに説明できないのに議論しているつもりになっているひとばかりがネットに溢れている。 ネットでよく見る非論理的な論客を昔、twitterでこう評したことがある。 ・ ゾンビ型論客 ・・・ 議論でいくら斬られても痛みを感じず、気づきもしない。 ・ スケルトン型論客 ・・・ 議論で斬られたはずの論点が、時間がたつと再生する。 ・ スライム型論客 ・・・ 斬ると議論が分裂する。 彼らは論理的な思考力がそもそも備わっていないので他人の理屈を
前回のエントリでネット原住民というものが存在するという話をした。ネット原住民とはリアルの世界ではなくネットの世界を中心に住むことを決めたひとたちにぼくが勝手につけた呼び名だ。 ネット原住民というものはどういう性質をもっているか、今後、どうなっていくとぼくが予想しているかについて今回は書いてみたい。 ネット原住民とは基本的にはリアル社会から疎外されているひとたちである。リアル社会からネット社会にうつる理由はさまざまでリアルに居場所がないからというひともいれば、ネットのほうが純粋に楽しいからというひともいる。だが、やはりいまの日本はそれでもリアル社会の吸引力は強いから、主流は前者だろう。そういう意味でネット社会はある種のリアルで生きづらい人間のふきだまり的に集まったという側面をもっていて、ある種の連帯感は強いものの個別にはそれほど強固な人間関係で結ばれているわけではない。敵にまわすと恐ろしいが
いま米国の4chanという人気サイトの管理人であるmootが日本にきている。一般のメディアではとりあげられないだろうが、これはネット社会にとっては大事件だ。 4chanとは、なんだか、日本の2ちゃんねると似た名前であるが、実際に4chanは日本の2ちゃんねると同じ匿名掲示板だ。システム的には日本にある別の匿名掲示板ふたばちゃんねるを元にしており、文字だけしか書き込めない2ちゃんねるとは違って画像も貼れるのが4chanの特徴だ。 一般には2ちゃんねるに代表されるネットの匿名文化は日本に特有のものだとされている。日本のネットコミュニティについて、これからは日本も匿名から実名へ主流が移行すると唱える人間は定期的にあらわれるのはご存じのとおりだ。それに対して日本は匿名のネットコミュニティしか流行らないという反論も必ず起こるのも見慣れた光景だ。 ところがネットの本場米国でも4chanのような匿名のネ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『kawangoの日記 はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く