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日中戦争がいつ果てるともなく続いていた1941(昭和16)年7月18日の長野県の地方紙「信濃毎日新聞」の学芸欄に「村のたより 臭い話」という、長野県小県郡からの投稿が掲載されました。し尿汲み取りに精を出していた農家の話題をユーモラスに描き出しつつ、日中戦争で農家の仕事の様子や集めるし尿の中身まで変化してきた様子が伝わる貴重な記録にもなっています。また、女性が生理で使う綿も再利用されていた現実も見せてくれます。 以下に、著作権切れを利用して転載します。読みにくい漢字やかなは適宜あらためたほか、あまりにもちょっとという部分など、一部割愛しました。なかなか伝わりにくい戦時下の品不足の農村の姿の、ちょっとした記録として気楽に、ごはん時を避けて読んでいただければうれしいです。写真は戦時中に発行された「信濃の子供 上巻」より、安曇野の田植えです。 「村のたより 臭い話」東町唄 松五郎が田を買った。坪3
新型コロナウイルス感染拡大に伴って国が全住所に2枚ずつ布マスクを配布する事業に取り組み始めたところ、この布マスク配布のおかげで不織布マスクが値崩れしてきたーとの言説が流布され、首相や官房長官も発言してきました。時期的にはそんな風にも見えますが、果たして実際のところはどうでしょう。これは歴史の風説の検証にも似ています。せっかく現在を体験しているものとして、個人で入手できる範囲のマスクに関する情報を集め、整理し検討してみました。【写真は本文と関係なく、おそらく戦前に作られたであろう、軍隊マスクです】 作業は基本的に歴史を研究するのと同じで、ある事象に関する情報を集積し相互の関連を検討するという、単純な手法です。今回、末尾に示す170件以上の情報を資料としました。新聞記事と一部ネットから事実関係の記述のみを拾い出して時系列に並べ検討し、マスクの値崩れは中国の輸出緩和が一番の要因であり、布マスク配
「信州戦争資料センター 長野県から伝える戦争の姿」ブログの各種コンテンツを収蔵しています。問い合わせや情報提供は「オーナーへメッセージ」からお願いします。 2015年の初めての企画展から、信州戦争資料センターは戦争を題材としつつ、あえて「戦闘」に直接関係するモノは展示していません。それは、戦争は戦場だけのものでないこと、幅広い「戦争」と庶民の関係をお示ししていきたいからです。そんな思いで開いた初回の展示会の展示品から、個人情報の国家管理が題材の品を紹介します。 日本では、昭和12年の日中戦争開始から間もなく、「国民精神総動員」というスローガンの下、国民に戦争を協力させるための態勢づくりが急速に進みます。翌昭和13年、国が必要とするならば、人もモノもなんでも自由に使える「国家総動員法案」が成立します。そして、「人」を国が必要なところへ自由に扱うため、国による個人の管理が厳しくなります。この2
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戦争中、国民の士気を高めるためか、欧米コンプレックスの裏返しのような日本礼賛が雑誌や絵本、新聞にも載りました。長野県の地方紙信濃毎日新聞に昭和18年8月4日から6日まで連載された「日本人の体格美」(佐々喜重)を、著作権切れを受けて転載してます。根拠のないこと、比較にならないことの比較、何より、わざわざ比べて優劣をつけるようなことでもないことを頑張って優秀であると強調しているさまは、大変こっけいな感じがしますが、こうした与太話といえるようなものにでもすがりたかったのでしょうか。 (転載にあたっては、漢字や仮名遣いを現代風に置き換え、句読点を補っています。また、企画名は「日本人の体格」で始まっていますが最後は「日本人の体格美」と直してあったので、そちらに合わせました) ・日本人の体格美(上)=短い足は強い 日本人は昔から黄色人種といわれ、背の低いあまり美しくない民族のごとくに日本人自身でさえ考
この銃弾は、中国戦線で戦った兵士が足に受けた敵の銃弾です。直径7・7ミリ、重さ7グラム。5センチの長さの釘3本分が、この弾と釣り合う重さ。それが秒速770メートルで打ち出される―。 先端はちょっとつぶれ、弾丸の後端は不規則な形に変形しています。これが体に当たるとどうなるか。内部で放出されたエネルギーが肉体を内側から破壊します。体に残ったのは、かなり速度が落ちてきて、エネルギーが低下していた証拠。幸いでした。 当たり前ですが、戦場ではこれがいっぱい飛び交うのです。やだやだ。誰も傷ついてほしくない。そのためには、全力で戦闘を回避できるようにすること。そこに一番力を注ぐことを、政治家や軍人はとにかく大事にしてほしい。銃を向ける先には、必ず撃たれて苦しむ人がいる。そして撃つ側は、撃たれる側でもある。簡単に戦地への派遣や共同行動などと、口にしてほしくない。 この銃弾を見るたびに、自分もそのため力を注
戦争が起こると戦費を調達しなければいけません。戦前の日本は国債を乱発、これを軍需景気と合わせて金儲けの機会に利用したのが、証券会社や保険会社です。こちら、昭和14年4月の山一證券株式会社調査課が用意した資料です。 「支那事変国債一覧表」と「生産力拡充等時局関係社債一覧表」です。資金運用の参考資料として社内向けに用意したものでしょう。生産力拡充等時局関係社債一覧表では、東京電気、三菱重工業、古河電気工業、芝浦製作所、中島飛行機、日本製鉄といった有力企業がずらりと並び、4・3%の利回りなど示しています。
大正11年3月15日、「増加恩給増額請願、廃兵全部無賃乗車請願示威運動」が陸軍省や貴族院で行われました。こちらは、その様子を伝えるチラシです。 日本は明治維新以来、対外出兵の連続でした。征台の役(明治7年)、日清戦争(明治27・28年)、日露戦争(明治37・38年)、第一次世界大戦(大正3年)、シベリア出兵(大正7-11年)と、戦争続きです。その中で、負傷して障碍者となった元兵士「傷痍軍人」も続出しています。こちらは、示威運動に合わせ、松本亭(日比谷の松本楼のことか)に集まって撮影した写真です。 「足1本月9円」「盲目のデクの棒 月たった12円」など、それぞれが首から下げた紙に書き込んであります。「足 この勇士月たった9円 203高地」との札もあり、日露戦争の負傷兵が参加していたことが分かります。 こちらは、陸軍省正門前での示威行動です。「一将功成り万骨枯る」「閣下踏み台連」といった表現が
「信州戦争資料センター 長野県から伝える戦争の姿」ブログの各種コンテンツを収蔵しています。問い合わせや情報提供は「オーナーへメッセージ」からお願いします。 長野市で2018年3月3-4日に開く「全国ボランティアコーディネーター研究集会2018」の分科会に向けた準備も大詰めです。本日は、戦時下の物資統制や内容の指導によって、出版物がどう変化したかを伝えるため、一番人気のあった婦人月刊誌「主婦之友」を抜き出しました。 昭和12年7月に日中戦争が勃発。昭和13年7月、新聞雑誌の用紙制限が始まります。昭和16年には雑誌や新聞の統廃合が進み、昭和17年末には雑誌の4割減ページ。どんどん本が細ります。昭和12年8月号と昭和20年7月号とでは、ここまで差が出ます。発行部数も大幅に減りました。 制限は用紙にとどまりません。内務省警保局は昭和13年9月、雑誌編集者らと懇談会を開き、股旅物と通俗恋愛物の氾濫に
「信州戦争資料センター 長野県から伝える戦争の姿」ブログの各種コンテンツを収蔵しています。問い合わせや情報提供は「オーナーへメッセージ」からお願いします。 日本の戦時下の資料を集めていますと「愛国」と付けた品がいろいろ出てきます。これらは、いずれも愛国貯金通帳ですが、長野県内のものやそれ以外の物もあります。戦車や飛行機を使ったデザインは似ています。で、愛国貯金通帳といっても、利息の何パーセントかを国に寄付とかいうものではないようです。あくまで「愛国貯金通帳」であって「愛国貯金」ではない様子。 こちら、長野県にあった銀行のチラシで、愛国定期預金ですが、さっぱり実態はわかりません。鉄兜と刀をあしらい、いかにも何か国の役に立つという雰囲気を出しています。しかし「貯蓄と違い最も有利な」と宣伝しているので、単なる資産運用に有利な定期預金でしかない様子です。 以上、金融関係は、それでも貯金をして浪費を
「信州戦争資料センター 長野県から伝える戦争の姿」ブログの各種コンテンツを収蔵しています。問い合わせや情報提供は「オーナーへメッセージ」からお願いします。 こちらは、昭和19年2月23日付毎日新聞朝刊。トップ記事は東条首相が閣議で「戦局の現段階はまことに深刻」「一大勇猛心をもって突進するのとき、そこには必ずや難局打開の途があるのである」などと発言したことを据えています。ところが、この新聞は発禁処分となります。 「勝利か滅亡か」の記事では、米軍が太平洋の島伝いに進行してきている現実を地図と併用して解説。「緒戦の赫々としたわが進攻に対する敵の盛り返しにより、勝利か滅亡かの現実にならんとしつつある」と強調した。そして「大東亜戦争は太平洋戦争であり、海洋戦である。(略)本土沿岸に敵が進攻し来るにおいては最早万事休すである」とし、遠く離れた海上の島を争う戦闘こそが焦点であることを説いた。 これを受け
「信州戦争資料センター 長野県から伝える戦争の姿」ブログの各種コンテンツを収蔵しています。問い合わせや情報提供は「オーナーへメッセージ」からお願いします。 日中戦争で物資が不足し、あらゆるものが高騰しているタイミングで「格安処分」とPR。戦争景気で儲かっている人たちも大勢いる情勢を見ており、なかなか抜け目ありません。 昭和12年10月、国は企画院を設けて総力戦を意識した物資動員計画の策定を始めています。そして軍需工場の動員が強められる中「4畳半に4人、6畳に6人という過密状況」も生まれていました。こうした状況を打破するため、資材確保の観点から「木造建築統制規則」(昭和14年11月8日)を施行。農家は48坪、一般家屋は30坪以上の新築および増築に許可制を敷いています。 ところが、別荘はこの大きさに当たらないものがほとんどで、いくらでも建てられました。必要な住宅は許可制で縛るのに、不急の別荘は
大日本帝国における軍隊への徴兵は、基本的に個々の事情が斟酌されませんでした。大日本帝国憲法下の日本では、国民は「臣民」であり、天皇の「赤子(子ども)」であるので、個人の事情より国家の事情が優先されたからです。徴兵制に基づく国民皆兵とは、そういうものです。この考えに沿うあまり、優秀な研究者でも一兵卒として投入するという、近代戦、総力戦にはおよそ向かない事態を引き起こしています。こちらは、燃料開発を請け負っていた関西の会社から陸軍に提出された書類「応召職員召集解除方御斡旋嘆願ノ件」です。 大阪帝国大学を卒業して入社した社員の一人が、昭和17年(1942)8月1日から5か月の教育召集によって職場を離れているが、これによってアルコールから高オクタン燃料をつくる研究が滞っていると強調。召集解除を懇願しています。日付が10月ですから、しばらくは待っていたものの、納期も切迫してきているのでしょう。 「誠
「信州戦争資料センター 長野県から伝える戦争の姿」ブログの各種コンテンツを収蔵しています。問い合わせや情報提供は「オーナーへメッセージ」からお願いします。 徴兵制度があった戦前には、徴兵保険という保険がありました。男児が対象で、20歳の満期時に徴兵されれば保険金が下りるという保険。徴兵が免除されていた場合にも、満期金が下りるという仕組みでした。こちらは、富国徴兵保険相互会社の徴兵保険PRポスター。基金の額から、創業まもない大正12年―13年ごろの販促ポスターとみられます。 20歳という年齢は、既に職場では仕事も覚えて十分戦力として期待される世代。特に大多数を占めた農家では、大変貴重な働き手です。これが2年間の兵役に出るとなると、家計の痛手は免れません。家族経営の商店など大変なこととなり、個人経営の職人だったりすると、顧客をライバルに奪われて大きな影響を受けるということもあったようです。また
昭和23年8月10日発行の長野県内発行月刊誌「信毎情報」は、「忘れられる人々」と題し、グラビアで傷痍軍人の姿をルポしています。こちらは、バス車内の傷痍軍人の写真です。 「かつてわれわれをたたえた彼女たちは冷たくも座席に腰かけ、私はこうして不自由な身体で立っていく…」と写真説明。なんとなく納得できそうに思えますが、こうした反応は決して終戦を境に変わったのではありません。 昭和15年8月13日付信濃毎日新聞の投書を紹介します。(読みにくい漢字を適宜現代字やひらがなに変え、句読点を入れてあります) 「長野電鉄にて ▼このごろの長野電鉄線は、いつも満員です。その日も湯田中からの都会人、しかもリュックサック背負った体位向上?をもって自ら任ずる若き男女でしたが所せまきまでにひろがり、私たちは中途から乗るので腰かける場もありませんでした。▼ちょうど延徳駅と思いました。傷痍軍人章をつけたご老人が足を引きず
「信州戦争資料センター 長野県から伝える戦争の姿」ブログの各種コンテンツを収蔵しています。問い合わせや情報提供は「オーナーへメッセージ」からお願いします。 長野県内の国民学校では、太平洋戦争開戦とシンガポール陥落を題材にして児童たちに作文を書かせました。昭和17年、相次いでその成果をまとめた本が出来上がります。信濃教育会がまとめた「大詔奉戴感激録」は、長野県全域の国民学校や中等学校などから集めた作品288編を掲載した、294ページの本格的なものです。ほかにも各学校やクラスでまとめた文集がありました。 まず、大多数は開戦を喜び、米英撃滅に向けて勉強や貯金を頑張ることを決意しています。各家庭でも、うきうきした雰囲気があります。 <ハワイ大海戦のニュースがあったので今度はうれしくて、うれしくて、ラジオに向かって兵隊さんありがとうと言っておじぎをしました。家の人たちは夢のようだといって居りました。
大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災の混乱の中で行われた、朝鮮人虐殺。長野県へはどんな情報が流れ、どんな動きがあったのでしょうか。写真は、長野県内の関東大震災第一報となった9月2日付信濃毎日新聞夕刊(1日発行)。当時の信濃毎日新聞で関連記事を探してみました。 <9月4日付夕刊(3日発行)> 最初の朝鮮人関連記事が載ります。「朝鮮人400名捕縛 爆弾を持てるもあり」と見出し。「3日午後3時高崎よりの情報によれば2日午後11時、東京市内の不逞鮮人約400名は捕縛され爆弾若干その他のものを押収されたと」という内容。東京の話を高崎で聞いたという伝聞の伝聞記事で、具体性がありません。 <9月4日付朝刊> 「不逞鮮人脱獄し軍隊と大衝突」という記事が載ります。横浜監獄の「不逞鮮人」が全部脱獄して市内を横行しているので歩兵第34連隊が出動、朝鮮人400人との間に大衝突をしたというもの。衝突し
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