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掃除・片付け
visco110.hatenablog.com
浅田彰『構造と力』といえば、ポスト構造主義の前史から当時の最前線までを扱った優れた思想史の書と見做されており、実際に紙幅の多くはラカンやドゥルーズ=ガタリといったポスト構造主義者の理論に対する議論に充てられている。だが本全体の底流にはマックス・シェーラーやゲーレンらの人間学、またシュレディンガーやウィーナーらの生命論といった文脈が流れていることを、ある人は微かに感じ、またある人は強く意識するであろう。 蛮勇を畏れずに要約するならば、ここで用いられる人間学とは「ヒトは本能を失った生き物であり、それを補うために文化を創造した」というテーゼであり、生命論とは「生命とは負のエントロピーを摂取することによって全体のエントロピー増大に抗う局所系である」というテーゼである。 先日のいわゆる〝バズった〟ブログ(『不自然な男の性欲』)は、この人間学のテーゼを前提としている。人間学によれば、本能を喪失した動物
ゲームが「頭にいい」らしいことは薄々気付いていた。しかしなぜ・どのように「頭にいい」のか、今までは語る語彙を持ち合わせていなかった。ある日いつものように気ままに読書していて偶然パズルのピースが嵌まり、幾分か語れる語彙を得たので書いてみることにする。 * きっかけは一冊の本だった。 「ウルティマオンライン」「ウルティマオンライン ザ・セカンドエイジ」の制作主任、「スターウォーズ・ギャラクシー」のクリエイティブ・ディレクターを務めた他、文学修士号を持ち、シンガーソングライターでもあるという異色の経歴を持つラフ・コスターの『「おもしろい」のゲームデザイン』という本を手に取ったところ、こんなことが書かれていた。コスターいわく、 脳の働き方を調べて私は自分なりの答えを見つけました。文献によると、脳は非常にどん欲にパターンを食い続けていく代物で、いわば柔らかくて丸々と太った灰色のパックマンみたいなもの
かつてオナニーはおそろしい害をもたらすと信じられ、怖れられていた。 18世紀のローザンヌの医者であるティソの『オナニスム マスターベーションが引き起こす病気について』(1760)は、オナニーを「科学的に糾弾」する時代の扉を開いた。それまでは、オナニーはたしかに致命的な罪ではあったが、教会で告解すればどうにか消し去ることのできる罪であった。だが身体に根拠をもつ疾病となると、もはや告解では解決しない。 『オナニスム』の次のようは記述は、のちにずらずらと出てくる類書にも見られる、典型的なものだ。ここで犠牲になるのは「十七歳まではすこぶる健康だった」時計職人の少年。だが彼は不幸なことにオナニーに熱中し、毎日行い、ときには一日三回に及ぶこともあったという。そして一年が経つと…… このころ私は一度会ったことがあるのだが、まず受けた印象は、生きている人間よりは死体に近いというものだった。体を動かすことも
ピエール・ルジャンドルの下で博士論文を執筆し、パリ第十大学法学部教授にして法制史・宗教史から現行のフランス民法に及ぶ該博な学識で知られるジャン=ピエール・ボーは、その著書『盗まれた手の事件 肉体の法制史』のなかで、フランスの現行法のルーツとなったローマ法の、さらにその知的枠組を形成したギリシア哲学について「すべての学派が一様に肉体を心の底から軽蔑し、肉体を魂の「牢獄」、あるいは「墓場」、あるいは「敵」であるとして告発した」と述べている。 これはどう見てもグノーシス主義的だ。そして、あの有名な「健全な精神は健全な肉体に宿る」(orandum est, ut sit mens sana in corpore sano)というユウェナリスのエピグラフも、そうしたグノーシス主義的な観点(ボー自身はグノーシスという言葉を使っていないが)から解釈している。すなわちボーによれば、この言葉の真意は、 清潔
※筆者は医療の専門家ではなく、本稿は医学的な責任を負うものではありません。診断・治療については専門の医療機関にお問い合わせください。 ↑ 怒られないおまじない どうもこんにちは、安田鋲太郎です(・ω・)ノ 依存症ビジネスについてさまざまに読んでゆくと、ついドーパミンは短絡的な快楽に人を依存させる〝闇の快楽物質〟で、エンドルフィンは刺激に乏しいが長期的な幸福感や充実感に繋がる〝光の快楽物質〟だ、というような善悪二元論に陥りがちなのは私だけでしょうか。 もちろんどちらも今日までヒトの脳内で機能し続けているということは、しかるべき役割を持つ脳内物質なのであって、ドーパミンを悪だというのはたとえば「砂糖は悪」だとか「脂肪は悪」だというような、そんな単純な話ではないわけですね。 そんななかで今回はエンドルフィンについて――こちらも単純に全き善き快楽物質だとは言えない、もっと多義的なものだということで
どうもこんばんは、安田鋲太郎です。 さて今回は男の三大欲求すなわち性欲、性欲、性欲のうちの一つ、性欲についてお話します。 僕は性欲はなにかと男女非対称なものだと思っているので、基本的には男側の視点からの話になりますが、スッキリした文章にするために「この部分は男性のみ」とか「ここは男女共通である」といった注釈はほとんど入れていないので、その点については適宜頭のなかで補完してください。 では書いていくー(・ω・)ノ🌸 * 射精するとプロラクチンという脳内物質が放出され、ドーパミンの働きを阻害するので、一時的に性欲だけでなく何に対しても冷静になり、したがってオスはすみやかに天敵が近付いていないか等をチェックすることが出来る。この仕組みが弱かった先祖は、セックス後に恍惚としているうちに熊や大蛇に食べられたり餓死してしまったのだろう。 この、いわゆる「賢者タイム」(しかしこの言葉はあまり好きではな
洪水のように快楽が与えられている、と70年代生まれの僕には形容したくなる。 YouTube、ネットフリックス、オンラインポルノ……そうした様々な無料あるいはサブスクリプション・サービスに加え、その気になればスマホひとつで始められるマネーゲーム、あるいはソシャゲー、同じくスマホ一つですぐに届くピザやマクドナルド、24時間どこでも安価で手に入るアルコール、すぐに他人と繋がれるSNS。 脅威的な娯楽の増大に僕もすっかり慣れてしまった。それらは本物の洪水のように際限なく、人を押し流す。といっても、それらを(「依存症ビジネス」への警鐘には同意するにしても)根底から否定したいわけではない。 IT技術が人の生活に与えた変化については、三つの立場があるとされている。いわゆるテクノ礼賛者、その対極にあるネオラッダイト(IT技術は原則的に人間疎外であると考え、それ以前の生活へ回帰しようとする)、そしてその中間
ゲームを侮ってはならない。ゲームは年々加速度的に複雑・高度化しており、ゲームをするときに脳が行っている認知的作業は、ある面においてハイカルチャーをも凌ぐからだ――という議論は、2005年の段階ですでにスティーヴン・ジョンソンが『Everything Bad Is Good For You』(邦題「ダメなものは、タメになる」)で述べ、当時大きな反響を呼んだ。 この本のなかでジョンソンは、ゲーム独自の(したがってハイカルチャーにはない)要素として、「調査(プロ―ピング)」と「テレスコーピング」の二つを強調した。 「調査(プロ―ピング)」とは、ジョンソンの用法では「ゲームのルールを解読する作業」のことである。すなわちゲーム世界におけるさまざまな事物を、歩き回ったりクリックしたりして調査し、それらがどのような意味を持つのかについての仮説を立てる。そして仮説をもとに追試し、ゲーム内での真実に近づくべ
✨🍊🎍明けましておめでとうございます。安田鋲太郎です(・ω・)ノシ🎍🐅✨ 新年一発目はエリエザー・J・スタンバーグの『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?』(原著2015/邦訳2017)という本を紹介します。 というのもこの本、去年読んだなかで総合的に見て一番良かったんじゃないかと思うんですね(次点は立花隆の『中革VS革マル』)。何人か友人に勧める機会もあったけれどおおむね好評でした。 そんなわけで、なにがそんなに良かったのかを述べてゆきます。 人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか? 作者:エリエザー・J・スタンバーグ 竹書房 Amazon Kindle UInlimitedだと現在無料で読めるらしく、勧めた友人はみんなそちらで読んでました。時代ですね。 さてこの本は、脳科学の最新の成果をわかりやすい文章で紹介した科学ノンフィクションということになります。 まあ最新といっても、何月にどこそこ
本を読むということは、知識を得るだけではなく、著者の知性と対峙することである、というのは当たり前のように聞こえるが、では著者の知性と対峙するとは実際にどのような読み方をすればよいのか。その理想的な例は、中野孝次『ブリューゲルへの旅』(昭和五十一年、河出書房新社)と、それにたいする高階秀爾・中村雄二郎・山口昌男らの書評(『共同討議 書物の世界』、昭和五十五年、青土社)に見出せる。 『共同討議 書物の世界』は、それぞれ美術史家、哲学者、文化人類学者である三人が鼎談方式でさまざまな本に論評を加えてゆくものだが、それに留まらず対象となる書物群を生み出した文化状況を問うことや、書き手の姿勢、また書評とはいかにあるべきかといった問いを同時に検討してゆくという意欲作だ。 いっぽう『ブリューゲルへの旅』は、文学者である中野孝次の思索的エッセイである。戦中派の一文学者である中野が、さまざまな西欧文化(とりわ
どうもこんにちは、安田鋲太郎です(・ω・)ノ ウェーイ さて僕はたいへん研究熱心な性格なので、仕事や家事や読書の合間を縫って、いや元来ならそれらに充てるべき時間の一部まで割いて、精力的にAVをフィールドワークしています。 それでつねづね思うんですが、AV女優って人前で脱ぐことを恥ずかしがってないように見えるんですね。 それは一体何故なのか。慣れなのか。本当は恥ずかしいけどそうではないように演技しているのか。あるいはもともと羞恥心の希薄な人がAV女優になるのか――というようなことをつらつら考えていたら、昔、パイセンに澁澤龍彦の『エロティシズム』を貸した時のことを思い出しました。 今ならなんということもない話だけどそこは昭和生まれの学生。『エロティシズム』に出てくる次の言葉にパイセンは強い衝撃を受けたのでした。 ところで注意すべきは、花とは植物の性器である、という事実だ。 (澁澤龍彦『エロティ
※注意! 筆者は医療の専門家ではなく、また当記事は文化史エッセイに属するものであり医学的内容に責任を負うものではありません。治療に関する判断は専門機関にご相談ください。 α.はじめに 自分の病気の成立に自分自身が能動的に関与しているということを本気で考える人がいたら、それによって病気の理論が変わるだけでなく、その人の世界との関係も一変するだろう。彼の倫理的、宗教的、政治的な態度も変化するに違いない。 (ヴァイツゼッカー『病いと人』) 偶然にも本稿では採り上げていないが、オリヴァー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』といえば、脳科学・奇病エッセイの古典的名著であるという評価に異論を差し挟む者は少ない。しかし、いつだったかネットのレビューで、かの「名著」に対する苦言を目にしたことがある。 細かい文言は忘れてしまったが、それはおよそ次のようなものであった。 「これは現代のエレファント・マンにも喩
新春おめでとうございます。安田鋲太郎です(・ω・)ノ✨ 僕は春になるとテンションが上がって、まるで新入生のように様々な新しいことにチャレンジしたくなります。そんなわけで『WIRED』の最新号で最先端(?)の世の中の動向をキャッチしようかな、と買ってみたわけです。特集は「Web3 所有と信頼のゆくえ」。そうしたら、次のような言葉が飛び込んできたわけですね。 プラットフォームに搾取されてきたWeb2.0時代のクリエイターはNFTを武器にWeb3へと〝大脱出〟しようとしている。作品の〝所有〟はクリエイターに戻りファンやパトロンは単なる支援者から作品をともに〝所有〟し、収益を得られる世界へと進出する。 (『WIRED Vol.44 特集:Web3 所有と信頼のゆくえ』、以下太字は安田による) 現在のわたしたちを取り巻く「Web2.0」は、中央集権型の時代だ。要するに、グーグルやフェイスブック(現在
さまざまなUMA(未確認動物)を眺めていると、意外な背景を持っている者がちらほらいる。政治、宗教、あるいは狂気……そういった人間社会の闇から、それらの生物はしばしばやってくる。たとえばジャージー・デビルとクエーカー教徒の内紛、天池水怪とSARS(2003年、感染症の流行によって訪中観光客が激減した直後にこの中国版ネッシーは一斉に20頭も姿を現わした)といったような。 そんな中で、今回はモノスというUMAについて触れたい。というのも、モノスの抱える闇はUMAのなかでもひときわ深く、複雑な事情を孕んでいるように思えるからである。 * モノスは1920年、南米ベネズエラの未開の森で人類の前にはじめて姿を現わした。 このUMAは全身毛むくじゃらの、二足歩行をする巨大な猿ような生き物であり、探検隊の隊長フランソワ・ド・ロワの友人であった人類学者ジョルジュ・モンタンドンの発表によれば、既知のいかなる動
雨宮純氏の『あなたを陰謀論者にする言葉』のなかで、一見無害に見える「ボードゲーム」が、じつは闇落ちのきっかけとなるというさわりを見て気になり、すぐに注文した。 いきなり余談だがこの本は新書なのに381頁もあって、標準的な枚数を大きく上回っているのは著者のパワーなり編集者の意気込みなりとにかく「何か」があるに違いないという読書歴30年の直感も即ポチに影響したことは間違いない。そして届いてみたら、これは入門書を包括する「メタ入門書」みたいなものであった。通常なら一章が一冊の入門書になるところであろう(「ヒッピーの時代」とか「ニューソートとは何か」とか「マルチ商法に騙されるな!」とか)。ところが著者はそれをぜんぶ一冊にぶち込む。当然ながらかなり薄く広い感じになっているのだが、「薄い」といっても敢えてやっていることで、一つ一つのトピックを詳細に取り上げるよりもそれらの繋がりを描いて全体の相関図を示
いつも「時間がない」あなたに (ハヤカワ文庫NF) 作者:センディル・ムッライナタン,エルダー・シャフィール,大田直子 早川書房 Amazon この本は書名から時間術みたいなハウツー本だと思われがちだが、実際には時間、金銭、人間関係などの「欠乏」(SCARCITY)を考察した本である。 内容は多くの人にとって役立つと思えるが、300ページにわたる本文および何百もの文献や調査・実験・URLを載せた註にまともにつきあうのは、それこそ「いつも時間がない」人たちには難しい。そこで当記事では、僕なりに本書の要点をざっくり解説するので、より詳しく知りたくなった方は直接本書に当たっていただきたい。 それでは、୧(・ω・)૭ ケッツボー!!! 本書の重要なコンセプトの一つは、時間にしろお金にしろ人間関係にしろ欠乏は欠乏を生み、負のスパイラルに陥るということである。 このなかで一番わかりやすいのはお金の欠乏
小学生の頃、うちは貧乏だった。 服は親戚からのお貰い、晩御飯はしばしばただイモを練って焼いたものだとか具のないうどん、家は「蹴ったら倒れそうな家」とからかわれるような家。 当時、ビックリマンシールが流行っていて、友達はみんなシールのコレクションを見せ合ったり、なかには専用バインダーを持ってる金持ちの息子もいたが、その頃の僕には定まった小遣いがなく、近所の子らと遊んでいても誰かが「よし駄菓子屋へ行こう」と言いだすと、家に帰って一人でチラシの裏に絵を描いたり(わが家は赤旗しかとっておらず、隣りに住んでる祖母がチラシを溜めてくれていた)、妹たちと遊んだ。 ある日、友達の家でビックリマンシールの交換会をするというので、僕も見るだけ見せてもらおうと友達の家に向かったところ、ふと側溝の乾いたところに何かが落ちていることに気付いた。 驚いたことにそれは数十枚のビックリマンシールだった。 ※画像はイメージ
延慶三年(1310)夏、法隆寺の蓮城院(れんじょういん)に強盗が押し入った。 当時はこうした場合に国の警察権力が解決するということは望めず、当事者である法隆寺が捜査に乗り出したが、誰が犯人なのか皆目わからないので、周辺十七の村に「落書起請」(らくしょきせい)を送った。 これは当時しばしば行なわれていた犯人検挙の方法で、近隣の住民に犯人について目撃したこと、あるいは噂されていることを問うというものだ。嘘を書けば神罰が下るということで皆、知っているかぎりのことを書き送った。 落書では、いちおう犯行そのものを目撃したとか盗品を隠しているところを見たという類いのものを「実証」といい、たんに誰が犯人であるという噂を聞いたというのは「風聞」といって、その重みには差がつけられていた(「実証」といっても証拠というより証言にすぎないことに留意されたい)。そしてこのたびの事件では「実証十通」または「風聞六十通
生活や業務のための最小限の「連絡」は別とし、およそ人間関係と呼びうるものは、友人も、恋人も、すべてコミュニケーションに始まりコミュニケーションに終わることを考えると、その巧拙が人生の浮沈に与える影響には甚大なものがあると言える。会話上手になりたい、というのは多くの人が願うところだろう。 けれども「どうすればコミュニケーションが上手くなるか」という問いは猥雑なものとして、表だっては語られない傾向がある。その理由は、おそらく話が上手いということに(とくに日本人は?)「お調子者」だとか「口先で儲ける奴」といったネガティヴな印象を抱くからであろう。沈黙は金、寡黙なことは奥ゆかしい、父親は背中で語る、というわけだ。だが休符が音楽の一部であるように沈黙も発話の一種であり、時宜を見て黙ることが感銘を与えたり、あるいは気まずくなったりすることを考えれば、沈黙の使い方もコミュ力に他ならない。 またコミュ力と
いっとき「告ハラ」(告白ハラスメント)という言葉が流行った。いやそれほど流行ってもいないのだが、ようは告白というのは相互の好意の最終確認であって、あくまで儀礼的なものであり、ダメもと、あるいは自己満足で想いのたけをぶちまけるのはハラスメントである、というような話だ。 その是非については「まあ場合によりますね」としか言いようがないのだが、それにしても最終確認のつもりがとんだ一人よがりだった場合は「告ハラ」になるのか、あるいはやぶれかぶれの告白が存外にも受け入れられた場合はそのかぎりではないのか、といった疑問が生ずる。 つまり「告ハラ」かどうかは告白する者の内心に関わりなく、他者によって策定されるものなのだ。この論理を認めるならば、我々は告白をするかぎり、どのような内心であろうと、またどれだけ相思相愛の状況証拠が揃っていようと(実際、恋愛における"脈あり"判断ほど勘違いの多いものはない)ハラス
高校生の頃、『D&D』(ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ)はアメリカでは悪魔崇拝的なゲームではないかと疑いの目で見られていると聞いて、何故そんなことになるのかまったくわからなかった。当時の僕にはアメリカ社会のことなど知るよしもなかった。 「RPGの父」とも称されるゲイリー・ガイギャックスは、TRPG指南の書である『Role-Playing Mastery』(邦題『ロールプレイングゲームの達人』)のなかで、『D&D』に対する宗教的批判に答えるための文章を記しているが、これは邦訳では割愛されている。その割愛の理由について、訳者の多摩豊があとがきで述べているのが、僕がそのことを知るきっかけとなった。 さて、原書には本書で訳した以外にもう一つ付録記事がついていました。これは、ロールプレイング・ゲームに対する宗教的批判にどうやって対応するかに関して書かれたものだったのですが、日本の状況とあまりにもち
哲学というのは決して「みんながそう言っているから正しい」というものではなく、むしろその正反対のものであるはずなのだが、それでも流派のまったく違う哲学的著述のなかに奇妙な一致や類似を見出すことは、たいへん刺激的なことである。ましてやそれが、人間とは何かとか、人生の意味とは、といったような事柄に関係してくるならなおさらだ。珍しい鉱石のように、代わる代わる手に取って比べてみたくなる。 近頃ひさしぶりにそんな思いをしたのは、『現代思想 特集:「陰謀論」の時代』という、数ヵ月前に出た本を手に取って眺めていたときのことである。収録されている、栗田英彦という人の書いた「革命理論としての陰謀論」のなかに、次のような記述があった。 田中は初期マルクスの『経済学・哲学草稿』に徹底して依拠し、労働概念の唯物論的規定を行った点に特徴がある。田中によれば、人間とは、その身体――「人間的自然」――の欲求が「環境的自然
幾人かの、このブログを読んでくれそうな人たちの顔を思い浮かべながら書いている。 じつは、今回でこのブログも百本目になるので、ちょっとした反省をまず書いておきたい。このブログは、少々かたちを整えすぎている。そのせいで書くのも読むのも堅苦しくなってしまっているんじゃないかと思う。理想を言うと、南方熊楠の土宜法龍宛書簡のように、あるいは ベロアルド・ド・ヴェルヴィルの『出世の道』のように(これについては以前ブログで紹介したことがあるのでリンクを貼っておく。ただそこでも書いたように、けっしてこの本をお勧めはしない。滅茶苦茶読みにくいからである。ただ、この本の持つごった煮的、祝祭的雰囲気に強烈に魅かれるのだ――そういう本も世の中にはある)自由奔放で気ままな書き方がしたい。「風呂に浸かるくらいの感覚」でスイッと書きたいのだ。そのほうが、読むほうも「風呂に浸かるくらいの感覚」でスイッと読めるのではないだ
小田晋『精神鑑定ケースブック』のなかに、他のインパクトのある事例に混ざって、ほんの数行だけ素っ気なく触れられている事例がある。 一見他愛ない話なのでさっさと書いてしまうが、小田が精神鑑定をしたその被告人は、詐欺の再犯であった。彼は水道工事請負業だったが、資金繰りが苦しくなると債権者には「何月何日には入金するから」と告げ、 そのうちに金を持ってくるはずの架空の注文主を喫茶店や銀行のロビーで待ちわびて一日を潰すようになった。 (小田晋『精神鑑定ケースブック』) というのである。 精神鑑定のさいにはその妄想? は治まっていたようで、「なぜあんな気になったものかわからない」と述べたという。 小田はこの詐欺犯の話を、四人の犠牲者を出した(起訴されなかった分も含めるともっと殺している可能性がある)、悪名高い「埼玉愛犬家連続殺人事件」(1993)との比較で持ち出している。もちろん、ことの凶悪性は比べ物に
まず、怖い話をひとつ。 時は昭和四十年頃、所は八王子。鈴村喜平さんの娘で当時高校一年生だった喜代子さんが行方不明になった。 それからしばらく後、鈴村家では奇妙なことが起こるようになった。頻繁に石鹸がなくなるのである。誰かが盗んでゆくのだろうか。しかしたかが石鹸のことで波風を立てたくなかったので、鈴村家の人びとは近所にその話をすることもなかった。 その日もまた石鹸がなくなった。夫婦で不思議がっていると、お婆さんのクニさんが仏壇で線香をあげながら言った。 「ひょっとすると喜代子はもう死んどるんじゃないかねえ」 お婆さんいわく、石鹸がなくなるのは決まって二の日(安田:二日、十二日、二十二日のことか?)であり、それは喜代子さんが行方不明になった日付(十二日)なのである。 喜代子は、行儀作法にうるさいクニさんとあまり仲が良くなかった。喜代子は派手好みでおしゃれなタイプで、学校から男女交際の問題で注意
【ここは読み飛ばしてかまいません】 雑多な本を読み漁っていると、それぞれ別個の本が、同じ話やきわめて似通った話をしているのにしばしば出くわす。当ブログはそうした「あっこの話は別の本でも見たぞ」という符合から生み出されることが多いのだが、なぜそうした書き方を好むのかというと、おそらく三つの理由がある。二つはしょうもない理由で、一つは少し深い理由だ。 しょうもない理由としては、一つのテーマについて単一のソースではなく、複数のソースを比較したり補い合ったりして書くことは、たんなるレポートや読書感想文よりも一段高度なことをしているような気がするからだ。ただ、実際には「それならばなぜ網羅的にやらないんだ」という話であり、またソースが単一でも優れた批評というのはあり得るので、まあ自己満足に過ぎないのだが。 しょうもない理由のもう一つは、たとえ僕の議論そのものはつまらなくても、複数のソースを提示していれ
ナイジェル・ブランデルとロジャー・ボアの共著『世界怪奇実話集』は、なつかしの教養文庫「ワールド・グレーティスト・シリーズ」に収められ、ネットがない頃の子供たちを震えあがらせた怪奇読み物のうちの一冊である。今となってはどことなく牧歌的な幽霊や呪い話が収められているが、そのうちの一つ「ブラッドストーンの指輪」という話を読んで「おやっ」と思った。この話には怪奇そのものの他にも一箇所、たぶん実際は違うんだろうなと思わせる記述がある。 以下要約しつつ引用する。 話は一八七三年、イングランドのイースト・アングリアの小村ウィリシャムで起こった。そこでメアリー・グレイという花嫁が、ハネムーンに出発する日に忽然と消えてしまう。花婿が迎えに来ても二階の部屋から出てこないので、家族が鍵を壊して入ると、そこにはすでにメアリーの姿はなく、バルコニーから中庭へ続く窓が一枚空いていたのだった。 彼女の消息はわからなかっ
かつてロンドンに有名な手相見の女がいた。なんでも、よく当たるというのでかのウィンストン・チャーチルも彼女から助言をもらっていたという。そこで作家オスバート・シットウェルの友人であった士官たちが手相を見てもらったところ、彼女はなぜか突然、彼らの手を押し返して叫んだ。 「わからない、また前と同じだわ! あと二、三月で生命線が切れて、何も読み取れない!」 なんだ大した手相見じゃないな、わからないのでそんな言い逃れをしているんだ、と友人たちは思った。しかしこの話を聞いたシットウェルは、これは何の前兆であろうかといぶかしんだ。 この「事実」が起きたのが1914年だったといえば、勘のいい読者はすぐオチに気付くかも知れない。まもなく第一次大戦が勃発し、彼らはみな数か月後に戦死してしまったのである。 コリン・ウィルソンはシットウェルのこの話を紹介したあとに続け、「かなり多くの人は、この話にはいくらかの真実
統合失調症、といえば妄想や幻覚を主な症状とする精神疾患である。長年にわたって日本を代表する精神病理学者であった中井久夫は、この統合失調症の回復期にある患者が週に一、二回、数十分から二、三時間ほど妄想や幻覚を"軽度再燃"してしまうのを何度も診てきたという。 しかしどういう状況で"軽度再燃"が起こりやすいのかについては、一見どうしてそれが、と思えるケースもある。中井がある時期に関心を抱いたのは、当時研究仲間であった安永浩の論文「分裂病症状機構に関する一仮説――ファントム論について」による、自転車で人ごみのなかを突っ走ると"軽度再燃"が起こりやすいという報告についてであった(「分裂病」はいうまでもなく、統合失調症の旧称)。 中井の解説よれば、自転車で人ごみのなかを突っ走れば、追い抜く人々の会話が断片的に聞こえてくる。 この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないの
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