本来この文章は僕ら夫婦のの知人のためだけに、限定的に公開した報告書のようなものでした。 そうではない方にもパートナーをより愛すきっかけとなればと、また僕も渦中のときに同じ境遇の人の文章を漁ったりしていたのでそういう人の救いになればと思い、拡散された後も公開し続けていました。 しかし、予想以上に拡散してしまい、友人や家族にも迷惑がかかり始めていますので、ここで削除させていただきます。
2010年11月11日22:26 自分の今の現状をラーメンで例えるとどんな感じ? 1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/05(土) 02:12:46.61 ID:UEGZahJQ0 丼のみ。 7 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/05(土) 02:15:33.43 ID:uxLsFU/lP スープの仕込み開始してからこれから煮込み放置ってくらい 16 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/05(土) 02:18:15.87 ID:UEGZahJQ0 >>7 リア充ですね 12 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/05(土) 02:16:41.61 ID:jwh9PqpXO チキンラーメンにお湯を注いで2時間放置した状態 13 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りし
僕は自分の写真や存在について、すごいどころかものすごいと思っていて、そのものすごさがインターネットでは10ぶんの1くらいしか伝わっていないな、じゃあどうすればいいのか、というのが最近の悩みです。真面目にアドバイスすると、ウェブは気取ってナンボなんだから、きみもがんばれ。こうやってわざわざ質問してくるところを見ると心の中に色々なものを抱えているのかもしれないとは思うけれど、その感情を僕にぶつけたって仕方がない。悪意で他人を揶揄したってきみは何も変わらない。変わらないどころか自分でも気づかないところで己の魂を傷つけてしまっているから厄介だ。どんな感情であれそれは人間を動かすガソリンなんだから、きみにはせっかく「悪意」っていう大切な感情があるんだから、それをこんな形で発散させずにもっと悔しさとか情けなさを別の物に変換して、キーをさして、シートベルトをして、前に向かって走り出して行かないと勿体ない
東日本大震災で被災し、危機的な状況が続く東京電力福島第一原発の地元、福島県大熊町から夫婦で栗東市に避難した高屋計(こうや・かずえ)さん(80)は、事故現場から3キロほどの場所にある自宅の現状に思いをはせては途方に暮れている。原発で潤った町で築いた財産をそのまま置いてきてしまった。「原発で良い思いもしたが、その原発のおかげで悲哀を味わっている」と悔やむ日々だ。 原発から約40キロ離れた旧鹿島町(現・南相馬市)の出身。原発建設を控えて活気づく大熊町の様子を見て「ひと山あてよう」と決心。家業の材木店を親類に任せ、1967年に同町で建設会社を構えた。71年に原発の運転が始まると町は豊かな税収や交付金で潤い、ヒトとカネが集まった。住宅需要の高まりもあって事業は軌道に乗った。 妻のサチ子さん(77)もすし店を開き、県外からの上客でにぎわった。ある日、客の東電関係者に「放射能は大丈夫か」と尋ねたところ、
ガチで4年ぶりに外出した Tweet 1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/18(月) 02:46:48.53 ID:NDZt1Dqc0 もう無理無理無理無理 3:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/18(月) 02:47:42.63 ID:1lZp6fCZ0 何しに出たの? 5:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/18(月) 02:48:30.54 ID:NDZt1Dqc0 >>3 両親が法事でいなかったからコンビニにご飯買いに行こうと思った。 そしたらそのコンビニ潰れてた。 8:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/18(月) 02:50:56.12 ID:6deAxMhzO 俺も引きこもりだけど昔数年ぶりに深夜に出てみたら街の風景変わってたからな 歩いてても宙に浮いたような
岩手県野田村の海岸線近くに住む無職男性(48)は約15年間外出せず、引きこもっていた。自宅ごと流され、一時は死を覚悟したが奇跡的に生還、「幸運だった」と語った。 男性は母親(72)と2人暮らし。勤めていた東京の会社が約15年前に倒産。故郷に戻り、引きこもるようになった。「避難はおっくうだった」と男性。11日の激しい揺れの直後、「逃げなきゃだめだ」と何度も訴える母親の言葉を聞き入れなかった。母親だけが避難した直後、ドンという音とともに、自宅は流された。部屋の壁が崩れ、天井が落ちてきた。あっという間に胸まで水に漬かり、屋根の梁に手を伸ばし必死に抱え込んだ。わずかな空間で呼吸し、屋根ごと1キロ近く流された。 だが間もなく屋根は真っ二つに割れ、濁流の中に。ようやくビニールハウスの骨組みをつかみ、波に耐え続けた。どこにいるか分からなかったが、寒さに震えながら高台へ歩き、隣の久慈市の避難所に着き、母親
諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。 また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。 とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。 未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。 このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうして
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