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「コウモリやトカゲがご馳走で、ムカデ以外はなんでも食べた」…極限の戦場を生き延びた「旧日本海軍の軍人」が、戦後についた「意外な職業」(神立 尚紀) @moneygendai
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「コウモリやトカゲがご馳走で、ムカデ以外はなんでも食べた」…極限の戦場を生き延びた「旧日本海軍の軍人」が、戦後についた「意外な職業」(神立 尚紀) @moneygendai
「コウモリやトカゲがご馳走で、ムカデ以外はなんでも食べた」…極限の戦場を生き延びた「旧日本海軍の軍... 「コウモリやトカゲがご馳走で、ムカデ以外はなんでも食べた」…極限の戦場を生き延びた「旧日本海軍の軍人」が、戦後についた「意外な職業」 目の前で見た日本海軍の敗北 ――前田の脳裏には、戦争中に遭遇した三つの場面が、晩年を迎えてなお、強烈な残像として残っていたという。 一つは、昭和17(1942)年6月5日のミッドウェー海戦。真珠湾攻撃以来、無敵を誇った日本海軍機動部隊の「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻の空母が被弾、炎上し、水平線の彼方を紅蓮の炎を上げながら、いっせいに風下に向けて航走していた姿である。機動部隊を直衛する戦艦「榛名」に、少尉の通信士として乗組んでいた前田は、この悪夢のような光景の一部始終を艦橋から見ていた。 二つめの局面は、昭和18(1943)年4月3日、重巡洋艦「青葉」に、中尉の甲板士官(艦内の軍紀、風紀、雑用いっさいを取り仕切る)として乗組んでいたときのこと。この日、