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科学を人類学的思考の俎上にのせて|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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科学を人類学的思考の俎上にのせて|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
「人類学者には西洋を民族誌学的に研究することは不可能である」と書く、ブルーノ・ラトゥールの『虚構... 「人類学者には西洋を民族誌学的に研究することは不可能である」と書く、ブルーノ・ラトゥールの『虚構の「近代」』が、なかなか面白い。 「自分たちから見た異文化に対しては問題なく遂行できる研究でも、西洋文化(「自然-文化」と呼ぶべきか)に対してはなかなか遂行できない」というラトゥールは、自分たち西洋人が生み出した人類学という人間の文化・社会がどんな基盤の下に成立しているかを分析する方法が自分たちの外の異文化には適用できても、自分たち自身の文化にはうまく適用できずにいることを指摘する。 自然-文化その要因としてラトゥールがあげるのが、西洋近代が絶対的なルールのように囚われている決して交わることのない「自然-文化」という二元論的なものの存在だ。"文化人類学"として、そもそも文化の軸から異文化における自然と文化の混淆をみる既存の人類学では、以下の図の上半分に示されたように、人間の文化と異なるものとして