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「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録されたのは、2013年のことだ。僕らも和食というと、なんとなく古くからの日本の伝統的な料理であるという理解をしているのではないかと思う。 しかし、実際にはそうではない。『食べものから学ぶ世界史 人も自然も壊さない経済とは?』で著者の平賀緑さんは、 ご飯がパンに代わったというより、精米した真っ白ご飯を中心として野菜や魚介類のおかずを充実させた、今「和食」の名でイメージされるような「日本型食生活」が、実は戦後に確立されたと考えられます。と書いている。 日本食はたかだか昭和50年代頃に確立されたもの農林水産省のサイト「日本型食生活のすすめ」でも、それは「昭和50年代ごろの食生活のこと。ごはんを主食としながら、主菜・副菜に加え、適度に牛乳・乳製品や果物が加わった、バランスのとれた食事です」と紹介されている。 昭和50年代、西暦でいえば1
コミュニティは、社会と個人のあいだにあって、外である社会と個人をつなぎ、内で個人同士のつながりをつくる。 昔であれば小学校の学区レベルでコミュニティが機能していたり、商店街を中心にコミュニティができていた時代もあった。時代が下っても、すこし前までは、カイシャやイエがこの資本主義の世の中においてもコミュニティとして機能していた。 生産のコミュニティと生活のコミュニティについては、都市化・産業化が進む以前の農村社会においては、両者はほとんど一致していた。すなわち、稲作等を中心とする農村の地域コミュニティが、そのまま「生産のコミュニティ」でありかつ「生活のコミュニティ」でもあったのである。やがて高度成長期を中心とする急速な都市化・産業化の時代において、両者は急速に"分離"していくとともに。「生産コミュニティ」としてのカイシャが圧倒的に優位を占めるようになっていった。現役のサラリーマンに”あなたの
デジタル通貨が普及はじめたいま、お金に色をつけることは可能になっている。 色をつけるとはどういうことかというと、誰がそのお金をいつどこで何のために使ったかを明らかにできるという意味でだ。色をつければ当然不正な利用、やましい利用はできなくなる。なぜ富む者がさらに富み、貧する者がさらに貧しくならざるを得ないかも明確になるはずだ。税金が何に使われ、支払った代金、寄付したお金の利用用途も明確になり、お金はいまより良い使われ方をするようになるのではないかと思う。 しかし、もはや技術は十分に利用可能なものになっているはずなのに、それが実現の方向に進まないのはお金のデザインの問題だ。 昨今、資本主義やら経済成長偏重を問題視する言説が目立つが、その問題が具体的にどういう問題かを言わず、お金のデザインの問題を問わないのは問題解決を目指そうとする観点からは明らかに片手落ちだと思う。そこを問わずにコモンズがどう
2020年6月28日のパリ市長選で、現職だったアンヌ・イダルゴ市長は選挙公約に「車を使わず、日常生活を自転車で15分でアクセスできる街にする」という環境に考慮した都市計画政策を盛り込むことで再選を果たした。 多くの観光客が訪れ、交通渋滞も深刻なパリでは、大気汚染のために市民の寿命が6ヶ月短くなると言われている。また、パリ市民の平均通勤時間は45分と言われ、自動車通勤の人も多い。 ただし、自転車で15分圏内で行ける生活空間の確立を目指すこの計画は、脱炭素などの環境面の配慮だけの観点から提案されたものではない。買い物や仕事、娯楽、教育や医療などの日常的な生活に必要な施設へのアクセスが徒歩や自転車などで可能な生活圏の設計は、地域コミュニティの再生などの面からも求められたものだ。 このパリの例のみならず、北欧のさまざまな都市やスペインのバルセロナ、アメリカ・ポートランド、オーストラリアのメルボルン
1753年、アイルランド出身の医師でありアイザック・ニュートンの後を継いで王立協会会長を務めた科学者でもあり古美術蒐集家でもあったハンス・スローン卿の死後、そのコレクションをもとに大英博物館=ブリティッシュ・ミュージアムは設立された。 スローンがイギリス政府に寄贈した蔵書、手稿、版画、硬貨、印章など8万点が、その他政府所有の蔵書とあわせて展示された博物館が1759年に開館することになったのである。 世界初の公立の博物館の誕生だ。 それから100年あまりのときが過ぎ、イギリスの植民地政策が進み、世界中の植民地より自然なもの、人工のもの問わず博物館に展示したくなる品々が集まってきたことで、1881年には自然史博物館が分館されている。 本書、バーバラ・M・スタフォードによる『実体への旅 1760年―1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』は、まさにこの大英博物館の誕生と発展の歴史にぴっ
準備できてるから仕事が早い仕事が早い人はたいてい驚くほど前から準備をしてる。何の準備がいつ必要になるかが予測できてるから、つねに準備は万端だ。 どの準備を何時ごろまでに終わらせておかないと他の準備との関係で間に合わないかを把握できているから準備が間に合わないということはない。 準備が間に合ってるからこそ、ちゃんと仕事ができる。 準備ができていれば、その場ではあまり考えなくてもすらすらと仕事ができたりする。 ようは準備というのは、実際に仕事をするときに考えるべきを、先にある程度考え終わっておくということでもある。あとは実際に動けばよいだけにしておけば、仕事は早く進む。 それだけではない。どれが何の準備かもわからないような準備を事前にできていることさえある。準備の必要性を予測していなくても準備するわけで、だから予想もしてなかったことが起きた場合でもいつでも仕事に取り掛かれる。不足の事態でもそれ
この年になっても身につけていてよかったと思えるのは、自習することができる能力だと思う。 子どもの頃から学校の授業には興味をもてなかったから、自分で好き勝手な方法で勉強したものだ。 そのおかげで大人になっても誰かに教えてもらわなくても、書籍=教科書に書かれているようなことは自分の好きなタイミングで学べるし、やってみて学ぶのも自然に身についた。世の中の環境が変わっても、仕事でぜんぜん違う業界のプロジェクトに入る場合でも、自分でいろいろ調べてとりあえずのキャッチアップはできるので、仕事の面では生きるのに困ることがすくない。 同様に、料理だっていろいろレシピを調べればおおよそのものは作れるし、そもそもいろんな料理に興味があるのでレシピ本をみるのも楽しいのでうちには本自体それなりに揃ってる。 だから、いまのように外食がしづらい状況でも自分でいろいろつくって美味しいもの食べられるで、ほとんどストレスを
バーバラ・マリア・スタフォードの『実体への旅 1760年―1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』を読んでいて、ちょっと興味をそそる記述を見つけた。 こんなものだ。 ジョン・イーヴリンには『煤煙対策論』(1661)があって、英国産瀝青炭を燃した指すだらけの蜘蛛がいかに「いつも空を圧す」かを論じていた。イーヴリンに言わせれば、ロンドンはエトナ山、鍛治神ウルカヌスの仕事場、ストロンボリカザンそっくりだ。地獄というのもこんなふうなのだろう。「怖ろしい煙霧」はこうして、あらゆる発散気の上に悪評を招く。同様な偏見が、霧も風も雨も、雹も雪も、暖も寒も旱魃も、人間の汚れた手によって自然の構造の中にもちこまれたものとする環境保護論をうんだ。川の流れを変え、沼を涸らし、縦坑を掘り、山を貫き、港をつくることで自然の静謐を掻き乱し、しかも人間干渉と商業のもたらす害は地球大である。こういう議論は明らかに
そもそも人間はそう簡単に自分の外にある対象を自分の中に受けとめることができないのだろう。 いま多くのことを理解しているつもりになっているとしても、それは歴史上多くの人たちが苦労を重ねて理解できるようにしたことを単に、その理解の結果を借用して自分で理解したかのようなつもりになっているだけのことだ。 そうした積み重ねがまだ不十分であったヨーロッパ中世の人々は、いまよりはるかに少ない理解で、世界、社会で起こる様々な出来事を受け止めなくてはならなかったのである。 その前提に立って中世の人々の様子を眺めれば、それがどんなに今と懸け離れた奇妙なものに映ったとしても、仕方がないと考えられるのではないだろうか。 何か理解していないことを理解した状態に移行させるのにも、それなりに労力がいる。 その労力をかけて何か新しいことを理解するかどうかは、かかる労力と労力をかけて得られる価値を天秤にかけて判断しているの
ブルジョワ民主主義システムの崩壊と、科学という宗教への不信感。 この2つでこれからの世界は大きく変わる。 『私たちはどこにいるのか? 政治としてのエピデミック』と題されたこの本で、ジョルジョ・アガンベンが提示してくれていることはそういうことかなと僕は読んだ。 アガンベンと非常事態宣言全部で19の小論(前書き含めると20)からなるこの本をアガンベンは「エピデミックの発明」という最初のものから最後の「恐怖とは何か?」に至るまで、2020年の2月26日から7月13日にかけて発表している。 いうまでもなく、彼の住むイタリアでコロナが感染拡大し1月31日に非常事態が宣言された後から、夏を前にいったんは収束をみた時期にかけてである。 最初の小論「エピデミックの発明」の書き出しをアガンベンは「コロナウイルス由来のエピデミックと仮定されたものに対する緊急措置は、熱に浮かされた、非合理的な、まったくいわれの
先に予告。 今回と次の回では、戦争あるいは内戦をめぐる2冊の本を紹介しようと思う。 まず今回紹介するのは、ブリュノ・ラトゥール『諸世界の戦争――平和はいかが?』。 ラトゥールを読むのはひさしぶりだ。 911日本語版が出たのは昨年10月のことだが、元になっているのは2002年に英訳で出版されたものだ。英訳としたのは、さらにその元になった2000年の講演原稿がフランス語で発表されているためである。 その原稿にラトゥールは、「911」という第1章を付け加えている。そう。講演と出版のあいだの2011年9月11日に起こった出来事への言及を加えた短い章を。 ラトゥールはいう。 「2001年の9月以来、人はあの日と同じ911という緊急コールを呼び続けている」と。 そうだ、そのとおりだ。それはラトゥールがこの本を発表した2002年の時点がそうだっただけでなく、おそらく緊急コールはいまだ一度として止んでいな
いくつの不思議な物語によって構成された本だけど、こういう博覧強記な知識に裏打ちされた本って、日本ではあまり書かれていないように思うので良いなと思った。 訳者あとがきでも評されていたが、まさに書かれた「驚異の部屋=ヴンダーカンマー」だった。 僕が好まないわけがない。 そういうわけで、旧東ドイツに生まれた現在40歳になる女性作家にしてブックデザイナーであるユーディット・シャランスキーによる『失われたいくつかの物の目録』は、ドイツで最も権威のある文学賞ヴィルヘルム・ラーベ賞を受賞するとともに、「もっとも美しいドイツの本」にも選ばれているのだけど、読んでみて納得の一冊だった。 ツンとして読み物っていうのは、あんまり安易で、わかりやすすぎないのが良いと思う。 簡単に感動したり、心に響いたりなんてことを読み物に求めるのは好きじゃない。 もっと孤高に、読み手を拒むくらいのツンとした感じが好みだ。 そんな
まだ読み途中だけど、これは絶対読んだほうがいい。 そう、声を大にして言いたいくらい、持続可能な社会を問う上で素晴らしく、かつ独自性のある提案をしているのご、斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』だ。 ひとことで、その特徴を言うなら、斎藤さんはこの本で持続可能性の実現のためには、資本主義を停止させ、脱成長の経済へと移行する必要があると言っていることだ。 『資本論』以降のマルクスその思考の根底をなすのが、『資本論』以降の著書に結実していないマルクスの思考だ。 晩年のマルクスは資本主義の先に社会主義の発展をみる進歩史観を捨て、まさに協同的な富を共有するコミュニティによる脱成長的な社会の思想をもっていたという。 マルクスによれば、コミュニズムにおいては、貨幣や私有財産を増やすことを目指す個人主義的な生産から、将来社会においては「協同的富」を共同で管理する生産に代わるというのである。これは、本書の表現
仕事でのミーティングの場で、まわりの人が言ってることが理解しきれず、その輪のなかに入っていけない、そんな経験は誰にだってすくなからずあるのではないでしょうか。 そのとき、話がわからないのは単純に知識がないことだけが要因ではないはずです。 では、何が問題で、どうしたらミーティングの話の輪に入ることができ、ひいては、仕事の輪に入ることができるのか?ということについて考えみようと思います。 言葉の意味はググればわかる話されてる言葉の意味がわからないということが話がわからない理由ではないことは、次のようなことからわかるのではないでしょうか。 というのも、いまのようにzoomなどのツールを使ってのミーティングであれば、話のなかでわからない言葉がでてきたら、自分でこっそりググることができます(それ、やってます?)。それで相手が使っている言葉がどういうことなのか概要くらいは知ることができます。 でも、そ
昨日の岸本聡子さんと林篤志さんをゲストに迎えてのオンラインセミナー「コモンズを民主化する」は、とても深いお話が聞けて、僕自身、さまざまな刺激をもらえて、やってみてとてもよかったと思う。 その内容は別途レポートするとして、その中でも議題の中心のひとつとしてあったのは、コモンズの利用に限らず、時間の猶予なく突きつけられている気候変動やそれに複雑に絡みあった経済格差や人権、移民などの問題の回避に向けて、限られたコモンズ(物理的なものだけでなく知的なものも含めて)をどう効率的かつ倫理的かつ持続可能な形で利用できるようにし管理していくための新たなしくみづくりをどう行なっていくかということだ。 そうした観点での新たなしくみのプロトタイピングを以前にお話を伺ったときよりもはるかに大きな規模かつさまざまなバリエーションで展開されている林さんたちNext Commons Labの実践は素晴らしいし、岸本さん
シンプルで、わかりやすく、とてもためになる本だ。 この本の先になら、未来が見える。 『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』は、以前に絶賛した『人新世の「資本論』を書いた斎藤幸平さんが、マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソンという、それぞれ『なぜ世界は存在しないのか』、『〈帝国〉』、そして『ポストキャピタリズム』という世界的名著を世に出した気鋭の3人の新実在論の哲学者、政治哲学者、経済ジャーナリストと対談した内容を1冊にまとめたものだ。 どんな内容かといえば、資本主義を乗り越えるための民主主義の可能性について議論が交わされている本だ。 前からこの本の存在は知っていたけど、この表紙のデザインがどうも表面的な軽い印象を受けてたので買わなかった(笑)。 でも、今回、まあ読んでみるかと思って読んでみたら、とても興味深い内容で、読み始めたその日中にあっという間に読み終
2021年、あけましておめでとうございます。 2020年、社会が大きな危機に晒されるなか、デヴィッド・グレーバーに出会えたことは僕にとって大きな出来事だったと思う(その彼が9月に亡くなってしまったことも含めて)。 グレーバーが『民主主義の非西洋起源について』で書いていた、こんな言葉が新しい年になったいまでも僕の頭のなかを占拠している。 何かが起こっている。問題は、それに呼び名を与えることだ。この動きの主要原理の多く(自己組織化、自発的結社、相互扶助、国家権力の拒絶)は、アナキズムの伝統に由来する。ところが、今日これらの発想を受け入れている人びとの多くは、自分たちを「アナキスト」と呼ぶことに乗り気ではないか、必死で拒絶している。実は民主主義という言葉もかつてはそうだったのだ。 アナキズムとしての民主主義。 僕はそれを「自治」だと理解していて、その可能性について、それ以来ずっと考えている。 も
これは本当に元気をくれる一冊だった。 『水道、再び公営化! 欧州・水の闘いから日本が学ぶこと』。 ここ最近、民主主義的であるためにはこれから何が必要なのだろうかとずっと考えてきたが、この本からはそのヒントをたくさんもらえた。 水道事業の民営化によって水貧困層が生まれた著者の岸本聡子さんは、アムステルダムに本拠地をおく政策シンクタンクNGO「トランスナショナル研究所」に所属しながら、新自由主義や市場原理主義に対抗する公共政策や、ヨーロッパ各国ですすむ水道の再公営化に関するリサーチや、それにともなう市民活動と自治体をつなぐコーディネートに携わってきた方だ。 斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』を読んで気になっていたヨーロッパでのミュニシパリズムという自治体による市民運動のグローバルな連携について調べていて知ったのが、岸本さんで、この本を出していることも木曜日に知って、すぐにamazonに注文し
人間の思考はどんなふうに作られているか?を問うことがライフワーク。とりわけヨーロッパ文化史に興味あり。中世後期から19世紀あたりまでを広く守備範囲に。渋谷のロフトワークという会社で働く人文学系ビジネスマン。
最初に書いておこう。 この本はとにかくみんな読んだほうがいい! その理由はあとで説明するが、この本を読んで、まあ、世の中は、こんなにも「クソどうでもいい仕事」であふれているのか!とまず唖然とした。 この作業、本当にやる必要があるのだろうか?と思うことは、僕の日常にだってある。 でも、自分の仕事全体的でそれが「クソどうでもいい仕事」だとは思わない。幸運なことに。 そう。それは幸運なことかもしれない。 デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』。 この本に掲載された、ブルシット・ジョブに自分がたずさわっていると自覚している多くの人からの「訴えの声」を読むと、「自分たちの仕事はなんの影響も及ぼしていない」と考える人がそんなにもいるのかと驚く。 すくなくとも、ここで紹介されているイギリスとオランダでの調査にもとづけば、一国の労働人口のうちの37%から40%が自分たちの仕事がブルシットだと感じて
宇宙を研究していた理論物理学者がAIについて考えると、こんなにも大きく常識をこえて未来の世界を想像することができるのかと驚きつつも、ワクワクしながら読むことができた1冊。 『LIFE3.0』は理論物理学者でMITの教授であるマックス・テグマークが、人工知能を3番目の生命の進化系と捉えた上で、宇宙規模における生命と世界のこれからを想像して、その可能性や危険性、僕たち人間が取り組むべき事柄は何かを考えた本だ。 1965年、数学者のアーヴィング・J・グッドは、人間の知能を超えた機械について、こんなことを書いているのだという。 「どんなに賢い人間の知的活動もはるかに凌ぐことのできる機械を、超知能マシンと定義しよう。機械の設計はそのような知的活動のひとつなのだから、超知能マシンはさらに優れた機械を設計することができる。すると間違いなく『知能爆発』が起こり、人間の知能は大きく水をあけられることになるだ
僕の心のなかの悪魔は 凛と呟いた あいつのなかの悪魔は お前を食いつぶすとくるりの「心のなかの悪魔」の歌詞の一部だ。 何年か前に読んだ高山宏さんの『アレハンドリア』所収の「悲劇か、喜劇か 悪魔のいる英文学誌」を読み返しているとき、このくるりの曲がちょうどSpotifyから流れた。 17世紀のシェイクスピアやベン・ジョンソンの時代を中心に英文学に現れた「悪魔」について考察する小編のなかで高山さんは、こんなことを書いている。 1620年代に入り、清教徒の力が強まっていくにつれて、実存主義に向けての一種のすりかえ、近代化がおこなわれていくんですね。ハンス・ゼードルマイヤーのいわゆる「地獄の世俗化」だね。きみが行く所に即ち地獄があるのだ、と。 ピューリタニズムというのは、人間の内面的なものを価値の中心に置くわけで、外在的な神は案外無視していく傾向にある。それと同じように、悪魔もまた人間の心の中にあ
この記事が400記事目らしい。 なんかうれしい。 さて、東京都現代美術館で開催中の「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展に行ってきた。 これも開催前から楽しみにしてた展覧会。 はじまるかどうかのときにコロナ禍に突入。 当初の会期が終わるころにはじまるかたちで会期が変更されて、2ヶ月あまり。 様子見してたらこの時期に。 そして、昨日、混雑を避けるため、平日の早めの時間を狙って行ってきた。そのために仕事は休みにして。 計画してたとおり、人もそう多くなく、ゆったりリラックスして観れた。 期待もしてたけど、思ってた以上に良かった。 平日の午前中おすすめ。 親近感これまでもオラファー・エリアソンの作品には、いろんなところで出会ってきた。 金沢の21世紀美術館で、 パリのフォンダシオン ルイ・ ヴィトンで、 同じくパリのポンピドゥー・センターでも。 だから、オラファー・エリアソンには親近感が
滅多に読まない経済学の本を読んだ。 2019年のノーベル経済学賞を受賞したアビジット・V・バナジー & エステル・デュフロという男女2人の経済学者による『絶望を希望に変える経済学』という本だ。 経済学の本は滅多に読まないどころか、これまでの人生でたぶん5冊も読んでいない。 そのくらい狭い意味での経済学にはあまり興味がない。 でも、経済学って、ほんとはすごいし、優しいなとも、この本を読んで感じた。 経済学とはそもそも人間学そもそも近代経済学の父と言われるアダム・スミスからして、ほんとは人間学を研究したかったのだ。最初からいわゆる経済学という言葉から想像されるものを研究しようとしたわけではない。 時は18世紀のなかば、1759年にスミスが出版したのは『道徳感情論』という本だった。 ちょうど資本主義社会が芽生えてきた頃である。 株主に企業へと投資させる株式会社のシステムはオランダから始まった。1
考えて必要な答えを出すのには、普段の準備が大事だ。 最近やってる仕事のなかでもあらためてそれを感じる。準備しているのとしていないのでは到達可能な地点がまるで違ってくる。 準備には、 ①多様な知識に可能な限り濃い密度で触れておく ②触れた知識同士の関係を小さな単位でいいので普段から考えておく ③1か月か数ヶ月の単位で1回くらいは、集めた知識や小さな単位でつなげた知識同士の関係性をあらためて整理し、俯瞰的な視点で何が言えるかを図式化したり記述したりすること の3段階があると僕は思ってる。 この準備を日常的にやれてるかどうかで、思考力、発想力は大きく変わってくるのだから、日々をどう過ごすかはとても大事なことだ。 僕もどこまでやれてるかわからないけど、このnoteを通じて見えているくらいと、プラスアルファくらいにはやれているから、なんとかなってるけど、あらためてこう書いてみるとまだまだできるなと思
仕事に関する話題としては、世の中、リモートワークに関することで持ちきりだ。 もうオフィスワークや、それに伴う通勤には耐えられないという声はよく聞く。 もちろん、共感する部分はある。 でも、仕事について、そんな話ばかりに終始する気には到底なれないし、リモートワークを過度に要求したいという気持ちにもならない。 とりわけリモートワークかオフィスワークかという二者択一的な話はどちらの形態にだっていいところがあるので、どちらかを選ぶという話はナンセンスすぎるように思う。 それより、何の仕事をどう生産的にするかの話をしようよという気持ちだ。 ほんとに必要な働き方改革は?何の仕事をするかをもっと大事にしたい。 その仕事の結果、何を生みだすことができるか?という観点から自分たちがどんな仕事をするか?という議論をしたい。 リモートワークかどうかとか、働きやすさとかは、もちろんあるに越したことはないが、それな
自分で自分の考えをつくれること。 同時に、他人の考えにもちゃんと耳を傾け、たとえ、それが自分の考えとは異なっていたとしても、ちゃんと受け入れ理解はすること(同意するかは別として)。 これはずっと感じていることだけど、あらためて最近特に強く大事だなと感じるようになったことだ。 いまのコロナ禍でのさまざまな状況や、今回の都知事選の機会でもあらわになったのは、自分で考えてある程度は自分の責任を感じて行動できる人と、自分で考えられないから上やまわりに責任を押し付け文句ばかりを言い続け何もしようとしない人との二極化だと思う。 もちろん、はっきり二極に分かれているというより、実際は両極のあいだでグラデーションになっているし、前者のほうが圧倒的に少数派なような気がしている。 危機の認識何がまずいと感じるかといえば、この危機的な状況(コロナ禍ではない、人類の持続可能性だ)を打開するアクションが求められてい
よい仕事をする上で、自分ごと化が大事だとはよく言われる。 対象となる課題の解決に、当事者意識をもってコミットできるかということである。 当然、当事者意識を持つためには、対象となる課題についての理解が必要だ。 理解のためには知識がいる。 誰もが知っているように有効な知識の獲得と理解にはそれなりの労力がいる。 つまり、知識の獲得と理解がそもそも課題解決にあたる以前の課題となるわけだ。 だから、実際の仕事に取りかかる前の、知識の獲得と理解というそれなりに労力が必要なことをするという初期課題に対しても、当事者意識は必要になる。 自分の知らないことを知ることが、自分ごととして捉えられるかどうか、だ。 「知らない」ことに向きあうしかし、自分ごとの範囲を広げることが求められる、知識の獲得や理解のために、自分の関心を外へと向けることができる知的体力が普段からある人は、僕の経験上、そう多くない。 広げなくて
話を聞いたり、物事を見たりして、集めた情報からなんらかの共通点を抜きとって、その傾向を一般化する。 ようするに、抽象化する思考の働きなんだけど、これがあんまり得意じゃなかったり、やらなかったりする人が時々いる。 でも、抽象化を頭のなかでそれなりの頻度で日々やらないと、物事の理解ってなかなか進まないし、いろんな発想をするのにもきっかけがつかめなくて苦労するはずだ。 自分で自分が何の仕事をすればよいかを見つけられなくて、前にやったことがある仕事以外は、仕事の形を決めて用意してもらわないと、仕事ができない。 そして、自分で抽象化して、ああこれはこういうことなんだなというのがつかめないから、外から定義してほしくなる。 抽象化することができるかどうかってほんと大事なことだ。 抽象化なしだと個別対応なんて面倒なことになる抽象化をしないということは、極端な話、個々の事象にいちいちひとつひとつ向き合うだけ
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