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哲学に関するfrog2696のブックマーク (10)

  • スピノザとニンテンドースイッチ 佐々木典士

    おもしろいゲームは何時間も続けてやってしまうので、時間泥棒である。 こうなると「ゲーム=悪い」と言いたくなってくる。しかし、それだけでいいのだろうか? 「ぼくたちは習慣で、できている。」では、やめるべき習慣をジャンルで決めつけることはできないと書いた。たとえばゲームでもプロゲーマーの梅原大吾さんのように、プレイごとにメモを取り、あらゆる方法を試し、フィードバックしていく。そんな真剣な取り組み方は、まさにプロのアスリートと変わらない。人生のすべてをそこから学んだと言えるようなものなら、どんな娯楽にも価値はあるのだろう。 良いか悪いかは人による。そして、自分にとってゲームはそこまで徹底してやってきたものではない。この「人による」「自分にとって」という言い方をもっとすっきりとさせられないものかと思っていた。 善悪の起源は「組み合わせ」 そこでスピノザの登場である。今放送中の「100分de名著」の

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  • 画像と言語のアナロジーはどこまで/どれだけ有効なのか - obakeweb

    描写=画像表象の振る舞いを、言語(語や文)のそれに見立てる見解および、これに対する異論のサーベイです。具体的には、『芸術の言語』(初版1968, 改訂版1976)におけるNelson Goodmanの枠組みをめぐって、70年代に展開された論争の一部をまとめています。トピックとしては、以下でも参照する松永ドラフトへのフォローアップです。 1974年には『The Monist』誌、1978年には『Erkenntnis』誌で、相次いでLanguages of Art特集が組まれている。そちらでもうかがえるように書のインパクトは凄まじく、名だたる論者たちが総出でこのと格闘していたことが伝わってくる。 とりわけ、第一章が絵画の表象に関する分析から始まることによって、『芸術の言語』は今日の「描写の哲学」にとってのメルクマールとなった。John Kulvickiのような直接のフォロワーでなくとも、『

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  • 文学の哲学にはどのようなトピックがあるのか - Lichtung

    文学の哲学は、存在論、認識論、倫理学、心の哲学、そして美学から、哲学的に文学を考察する研究ジャンルである。 物語とは何か、物語は人生の何を教えてくれるのか、作者とは誰か、詩的想像力とは何か、フィクションとは何か、詩の深遠さとは何か、キャラクタになぜ惹かれるのか、文学作品はどんな存在なのか、そして、文学とは何か。 稿は、The Routledge Companion to Philosophy of Literature*1 を参照しながら、主に英米圏における文学の哲学の主要な32のトピックを紹介する。文学の哲学について関心のあるひとがさらに学びを深めるために、あるいは、美学や文学の研究者の方が研究の手がかりとするために役立てばと思う。計三万字強あるので、頭から読んでいただくのもうれしいが、気になるところからすきな順番で読んでもらえればと思う*2。 定義とジャンル 1. 文学の概念 2.

    文学の哲学にはどのようなトピックがあるのか - Lichtung
  • 20/6/5 Vtuberオワコン論はオワコンか? 『リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん』を受けて - LWのサイゼリヤ

    Vtuberオワコン論はオワコンか? https://t.co/V49R6fAEj1 "はっきり言うと、VTuberは、『馬鹿な女をおもちゃにして楽しむコンテンツ』になりつつある。自由に茶化せる配信者。何を言ってもいい女。英語ができない女に単語テストをやらせて、馬鹿な回答をしたら「草」と書くコンテンツになっている。" — LW (@lw_ru) 2020年6月3日 『リアリティーショーを批判しているオタクVTuber見てんじゃん』(以下『リアV』)が面白かったので、適当な一節を引用してシェアしたらそれがやたら伸びた。このブログを読むような人はもう既に目を通しているだろうと言ってしまってもいいくらい伸びた。 俺はこの記事を書いた人ではないが、そんなことは気にしないリプライや引用RTが怒涛のように押し寄せてくる(引用主=俺を名指しで攻撃するものも稀にある)。Twitterはそういうものなの

    20/6/5 Vtuberオワコン論はオワコンか? 『リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん』を受けて - LWのサイゼリヤ
  • Deportare Partners|デポルターレパートナーズ

    Creating the possibilities of humans and society, Like sports. CEO Dai Tamesue 人間と社会の可能性を拓く、 スポーツのように。 タイムというはっきりとした結果が出る競技を追求しながら、人間の限界はどこにあるのだろうかと考え続けてきました。伸び悩んだり、重圧に苦しんだりする中で、限界は自分自身の思い込みが作っているのではないかと、そう思うようになりました。 社会を見渡せばそんな出来事が溢れています。思い込みによって制約がかかり可能性が狭まっている。自分がスポーツと向き合ってきた方法が、人間と社会の可能性を拓く上で活かせるのではないかと思い、会社を始めました。 私は「スポーツとは身体と環境の間で遊ぶこと」だと定義しています。遊びには計画も、義務もありません。面白いから行われる自由な活動です。そんな「遊ぶ」という感覚が

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  • アシモがハーゲンダッツを食べる日 - アシモがハーゲンダッツを食べる日(フロクロ) - カクヨム

    「あっ博士、おかえりなさい」 博士が夕飯の買い出しから帰宅すると、奥から声がした。 「ただいま、アシモ。今日はいいものを買ってきたぞ」 アシモ。博士がそう呼んだのは、リビングのソファで寛ぎながらテレビを見ている一人の……もとい、一台のロボットだった。 「いいものってなんですか。この前みたいな臭いのはもう勘弁ですよ。センサーが壊れます」 「鮒寿司の件は悪かったよ。今回は曲者じゃない、高級品だ」 そういいながら、博士はアシモのスムーズな受け答えに満足した。 アシモは博士が長年の苦心の末完成させた2足歩行ロボットで、その名前は博士が幼い頃活躍していたロボットからとったものだ。先月完成したアシモは人間のように動き、人間のように受け答えする人工知能を搭載していたが、あいにく今の時代そんなロボットは五万といる。そんな中で博士が注力したアシモ最大の特徴は「人間のべ物からもエネルギーを得られる」というと

    アシモがハーゲンダッツを食べる日 - アシモがハーゲンダッツを食べる日(フロクロ) - カクヨム
  • 「地位はあるけど教養がない」人たちの末路

    教養なビジネスパーソンは「危険な存在」 近代以降、ヨーロッパのエリート養成を担ってきた教育機関では長らく哲学と歴史が必修とされてきました。今日に至っても、たとえば政治・経済のエリートを数多く輩出しているオックスフォードの看板学部「PPE=Philosophy, Politics and Economics」(哲学・政治経済学科)では、哲学が三学領域の筆頭となっていますし、フランスの高等学校課程=リセでは、理系・文系を問わずに哲学が必修科目となっており、バカロレアの第一日目の最初に実施されるのは伝統的に哲学の試験とされています。パリにしばらく滞在した人であれば、バカロレアの哲学試験にどのような問題が出されたか、自分ならどう答えるかがオフィスやカフェで話題になっているのを耳にしたことがあるのではないでしょうか。 あるいはアメリカに目を転じても、エリート経営者の教育機関として名高いアスペン研

    「地位はあるけど教養がない」人たちの末路
  • 【漫画】下校時刻の哲学的ゾンビ | オモコロ

    「哲学的ゾンビ」とは何かについてわかるかもしれません。わからないかもしれません。

    【漫画】下校時刻の哲学的ゾンビ | オモコロ
  • 稀代の仏教哲学者・鈴木大拙が今こそ読まれるべき理由(安藤 礼二)

    折口信夫と西田幾多郎への多大な影響力 まさか自分が鈴木大拙を主題として一冊のを書き上げることができるとは思ってもいませんでした。 そもそも大拙に関心を抱いたのは、折口信夫について調べている過程で、でした。折口信夫は、大学の卒業論文として『言語情調論』を提出します。後に国文学者にして民俗学者となる人物からは想像もつかないような破格の言語論で、詩的言語発生の条件を社会学的かつ心理学的に探求していこうとしたものでした。 折口は、言語のもつ機能を二つに分けます。日常のコミュニケーションを成り立たせている間接性の言語と、非日常のコミュニケーション(つまりは詩)を成り立たせている直接性の言語です。両者の違いは、言語のもつ「意味」にダイレクトに迫っているか否かという点にあります。 日常のコミュニケーションでは、言語のもつ「意味」を正確に伝えるために、「意味」の表層に間接的にしか触れません。非日常のコミ

    稀代の仏教哲学者・鈴木大拙が今こそ読まれるべき理由(安藤 礼二)
  • シニフィアンとシニフィエ - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "シニフィアンとシニフィエ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年9月) シニフィアン(仏: signifiant)とシニフィエ(仏: signifié)は、フェルディナン・ド・ソシュールによってはじめて定義された言語学の用語。また、それらの対のことを、シーニュ(仏: signe)と呼ぶ。 概要[編集] シニフィアンは、フランス語で動詞 signifier の現在分詞形で、「指すもの」「意味するもの」「表すもの」という意味を持つ。 それに対して、シニフィエは、同じ動詞の過去分詞形で、「指されるもの」「意味されているもの」

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