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社会と思想に関するinumashのブックマーク (12)

  • 「まなざし」って何?

    文責:べとりん 当会の当事者研究では、「まなざし」という用語がしばしば登場するので、これについて説明します。 基的には代表のべとりんが好んで使っている用語ですが、実感を上手く説明するのに使い勝手がいいので、しばしば他のメンバーにも広まって使われています。 感覚的に使っているので、もしかしたら間違っているかもしれませんが、とりあえず要望が多かったので掲載しておきます。 「まなざし」とは、それそのものは日常的にいつも感じている身近なものですが、 それが果たしている機能は多岐に渡り、全てを記述することはできません。とりあえず、このページでは、哲学者(主に現象学者)の思想をいくつか引用しながら、主なものを羅列していきたいと思います。 ・まなざしの定義1:「見る側の視点」で対象を見るように仕向けるはたらきのこと。 参考:サルトル「石化」 具体例: Aくんは今とてもご機嫌。深夜、他に誰もいないと思い

  • ひとふでがきの覚え書き - 地を這う難破船

    ⇒「人権」っていつから信仰の対象になったんだっけ? - 想像力はベッドルームと路上から ⇒当の当に大切なことには、理由があってはいけない - 過ぎ去ろうとしない過去 自明云々は措き、理論的には人権概念は脱構築できない。カントなので。で、哲学理論の外部において事実性として「脱構築」されかねないことに対する危機感が、「脱構築」しうるものと「私は」「貴方は」認めるか認めないか、という「主体的な」問いとその分岐へとスライドしてしまうものか。むろん、サルトルにおいてはそれは正しいけれど。 「脱構築」しうるものと認めることそれ自体が人権概念に鑑みて後退であり時に体制順応主義を帰結する、というのはゼロアカは知らんがその通りだけれど、人権は超越論的な定言命令であるからして脱構築しうるものでない、というのが理論的な応答として限定されることも確か。ゆえに「財源が無いなんて言ってられない」のはその通りで、そ

    ひとふでがきの覚え書き - 地を這う難破船
    inumash
    inumash 2008/09/19
    なんにせよ、中身に手をつけないとどうしようもないなぁ、と思う。
  • 「人権」についてポイントのみ - shinichiroinaba's blog

    ・法学的な意味での「人権」と政治思想上の、あるいは日常道徳的な用語としての「人権」とは意味が違う。 ・それどころか憲法(国家レベルの公法)と国際法(国際公法)とでは、また国内法レベルでも憲法(公法)と民法、刑法等々では「人権」の意味が異なる。(憲法上の「人権」と、国際法上の「国際人権」は違う、というのが憲法学者の間で有力な説[高橋和之(「国際人権の論理と国内人権の論理」ジュリスト1244号69頁(2003年)、等]。民法や刑法では法律用語としての「人権」自体不要かも? つまり政治的・道徳的な意味での「人権」の面倒を憲法(上の「人権」)がすべて見ることはできないし、見る必要もない。適宜他の法律あるいはその他の政策手段が動員されれば十分、ということか?) ・だから一部の憲法学者は「人権」の語に換えて時に「憲法が保障する権利」といった言い方をする? ・人権が何であれ、それはそこからすべての権利が

    「人権」についてポイントのみ - shinichiroinaba's blog
  • 革命的非モテ同盟跡地

    inumash
    inumash 2008/09/16
    毎回その結論に至るという「芸」も大分年季が入ってきた感じだねw
  • 本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない - 過ぎ去ろうとしない過去

    http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080915/p1 inumashさんの議論については様々な問題があります。質的なところでは http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080404/p1 につきるのですが、あれから全然反省しているようには見えませんね。まあいいでしょう。 何故「自称中立」か?については極めて簡単な解答がだせて、つまりたとえばこれが歴史修正主義の問題だったらどうか考えればいいのです。 南京大虐殺があったというのは自明です。しかし、それに対する否定論に我々はどう対処すればいいのでしょうか。ホロコースト否定論についてはもうはっきりしていて、無視すればいい。なぜなら否定論と議論すること自体が否定論が論として成立していることを認めることになるからです。 http://d.hatena.ne.jp/rna/20080104/p1

    本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない - 過ぎ去ろうとしない過去
    inumash
    inumash 2008/09/16
    ああ、やっぱりまともな話にはならなかったか・・・。このエントリ読む前に追記書いたんだけど・・・もちっとバカにして書いておけば良かったかな? http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080915/p1
  • 中岡望の目からウロコのアメリカ » ウィリアム・バックリーと保守主義運動:なぜアメリカの保守主義は蹉跌したのか

    アメリカの保守主義は大きな転換点にあります。1950年代に始まった保守主義運動は1981年のレーガン政権の誕生で大きな成功を収めました。以降、アメリカは急速に保守主義路線を走ってきました。保守主義の思想を支えてきたのは、ラッセル・カークなどのアメリカの思想家とヨーロッパから亡命してきたハイエクやみーゼス、さらに自由主義者でマネタリストのフリードマンなど錚々とした経済学者などです。保守主義運動については拙著の『アメリカ保守主義革命』を参照してください。そして保守主義思想と政治と結びつける役割を果たしたのがウィリアム・F・バックリーJrでした。しかし、現在のアメリカの保守主義は理念を失い、迷走しているように見えます。2008年2月にバックリーは逝去しました。晩年の彼はブッシュ政権などの保守主義に批判的な立場を取っていました。彼の死は、アメリカの保守主義の蹉跌を意味するものかもしれません。大統領

  • 大澤真幸『不可能性の時代』 - らいたーずのーと

    不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))作者: 大沢真幸出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2008/04メディア: 新書 ■ 大澤真幸といえば、(特に東浩紀フォロワーにとっては)「理想の時代」「虚構の時代」といった時代区分を考案した人物として重要である*1。1945年の終戦から1970年までを「理想の時代」、1970年から1995年を「虚構の時代」であると大澤は区分した。では1995年以降の時代を大澤はなんと呼ぶのか。東浩紀はこの時代区分を継承し、1995年以降を自らの語彙を用いて「動物の時代」と名づけた。大澤はこの時代区分に一定の理解を見せるも、「反現実」としての命名法からはずれているとして、大澤自身新しい時代区分の創造を目指していた。 それがついに2000年代半ばになって完成し、大澤はそれを「不可能性の時代」と名づけた。1995年以降の時代に名づけられたこの「不可能性」と

  • 「思想地図」創刊記念シンポジウム「国家・暴力・ナショナリズム」を読んで

    「思想地図」創刊記念シンポジウム「国家・暴力・ナショナリズム」を読んで 眼病を患っております。 というと大げさですが、角膜びらんという症状で、目ん玉の表面の皮がかわいてズルっと一部むけてしまうのです。ドライアイみたいなもんを想像してもらえればいいでしょうか。寝ている時に目の中がかわくので朝起きるときまぶたを開けるのと同時に、ズルっといってしまうのです。その瞬間目に激痛が走ります。 半年くらいまえから2カ月に1度くらいのペースでくりかえしており、「再発性角膜びらん」などといわれています。まあ、そのまんまの名前ですけど。ふつうは朝だけでケロっとなおります。ごくたまにそこが炎症をおこすのかどうかわかりませんが1日中眼球を動かすたびに激痛が走る症状が続くことがあり、目のなかにガラス片を入れたような痛さです。 それでも痛みはふつう1日、長くても2日でおさまりました。ところが今回は2日ほどで痛みはひい

  • 米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望 - macska dot org

    ここ数年、米国の宗教界でもっともめざましく支持を拡大している勢力は、無神論者の集団だ。進化科学者のリチャード・ドーキンスが書いた『神は妄想である』はじめ、クリストファー・ヒッチェンス『God Is Not Great (神は偉大ではない)』、サム・ハリス『The End of Faith (信仰の終焉)』といった書籍が続々とベストセラーになるとともに、無神論を掲げるグループが全国で結成され、若い人を中心に多くの支持者を集めている。 論で「無神論」と訳されている言葉は atheism だが、この語の来の定義は「神が存在しないと信じる」ことではなく「神が存在するという信仰を持たない」ことであることを考えれば、「無神論」ではなく「無宗教」と訳した方がより正確かもしれない。そこをあえて「無神論」と表記するのは、ただ信仰がなく宗教に無関心といったニュアンスのある「無宗教」という言葉では、新しい無

    米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望 - macska dot org
  • 「姜尚中トラメガ事件」を考える - the deconstruKction of right

    少数派の存在は具体的な構造矛盾をあらわにする起爆力をもつ点で重要だが、少数派の自己主張がまたぞろ新たな多数派権力を構成するのでは元の木阿弥である。 藤一勇「ドゥルーズ・ガタリ――マイナー性のために」(『現代思想入門』) 先日のネグリの来日不可記念シンポジウムでこんな事件が起こった。一緒に行った松平君がレポートを書いているのでまずは見ていただきたい。 「姜尚中トラメガ事件――安田講堂2008年革命」 もちろん、彼はこの人たちと知り合いなのでその辺はさっぴいて考えるとしても。この事件は確かにこのシンポジウムのクリティカルポイントになりそうな感じがした。そこで、ちょっとこれをきっかけにして考えたことを書いてみることにする。 まず最初に感じたのは、これは「反権力が権力になっていることの矛盾が出ちゃったな」ということだった。反権力の運動を、「在日と女性」が、国の金を使って国の事業でやっているという

    「姜尚中トラメガ事件」を考える - the deconstruKction of right
    inumash
    inumash 2008/03/31
    あー、俺もこの感覚に近いかな。というか「マルチチュード」って言葉を「ヤジの正当化」に使うとか単なる短小化じゃねーの?トラメガでがなって相手の言動を抑圧するとかさ、それ「警察権力」の振る舞いじゃん。
  • 合理性の暴力から逃走する - sekibang 1.0

    否定弁証法posted with amazlet on 06.10.19テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 木田元 渡辺祐邦 須田朗 徳永恂 三島憲一 宮武昭 作品社 売り上げランキング: 138,628 Amazon.co.jp で詳細を見る アドルノ*1が7年の歳月をかけて書き下ろした大作『否定弁証法』。彼の思想的な基姿勢がつまった集大成的著作である。素晴らしかった。恥ずかしながら読んでいてマジで二度ほど泣いた。 この「作品」の主な論点は訳者、徳永恂による解題にすごく簡単にまとめられている。アドルノは「非同一性の人」とよく呼ばれるのだけれど、このでも基はそう。合理的理性(ラチオ)による同一性の認識に対しての疑問のまなざしが注がれ、カントやヘーゲル、そしてハイデガーに対して「限定的否定」としての「批判」がされている。とくにヘーゲル的弁証法(否定の否定は肯

    合理性の暴力から逃走する - sekibang 1.0
  • しあわせのかたち - 追い抜いちゃった人たち

    ハリイカの焼売と中華炒め ハリイカをよく、見かけるようになりましたよ。生け簀で、泳いでいたものを一杯購入しました 立派な大きな墨袋や肝は冷凍保存して 柔らかな身は季節のお豆、お野菜と合わせて中華の炒めものに。新鮮なにんにくの茎は刻み、香り高く欲そそられますね 下足はミンチにし…

    しあわせのかたち - 追い抜いちゃった人たち
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