2009.02.09 地図にない街の謎 カテゴリ:地図 「地図にない街」が尼崎市にある。 阪神尼崎駅の所在地、東御園町だ。 一般の地図で駅周辺を見ると、この地名は見当たらない。 隣接する神田中通1か御園町かで迷うはずだ。 同市南部の臨海地区にも、一般の地図には掲載されておらず、近く本当に消える地名がある。 新しい工場があるのに、一体なぜ? 地図にない街の謎を追った。 阪神尼崎駅南側は、1930年に東御園町と西御園町などに区分。 戦災復興に伴い、58年に東御園町の大部分が新たに御園町になった。 区画整理の対象外の駅と線路だけが東御園町として残った。 だが、私が取材で持ち歩く昭文社(東京都千代田区)の「ニューエスト兵庫県都市地図」をはじめ、一般に売られている多くの地図には東御園町が載っていない。 同社大阪支社地図編集部によると、住宅がない所や、地図デザインをする上で見づらくなる場合は地名表記を
浅野家江戸藩邸の絵図。100以上の部屋が配置され、四十七士の部屋がみつかる可能性もある(龍野歴史文化資料館提供) 忠臣蔵で知られる赤穂藩主浅野家の江戸藩邸の絵図二枚が、相生市内の関係者宅から見つかった。浅野家断絶で史料が散逸しており、江戸藩邸の絵図が見つかったのは初めて。専門家は「忠臣蔵の登場人物や江戸での暮らしぶりを知る貴重な資料」と評価している。(古根川淳也) 二〇〇七年、資料数千点が相生の浅野家分家の子孫宅で見つかり、たつの市立龍野歴史文化資料館に寄贈。同館の調査で江戸藩邸の絵図二枚が確認された。元禄十四(一七〇一)年に取りつぶしとなる直前に描かれたとみられる。 大きさはいずれも縦二百センチ、横百四十三センチ。一枚には江戸藩邸を指す「鉄砲洲上屋敷」の表題がある。二枚は建物の配置が異なっており、同資料館は「一六五七年の大火で藩邸が全焼した後、再建や改築の過程で作られたのでは」と推測。一
江戸時代から昭和初期にかけ、庶民の身近にあった地図はどのようなものだったのか。日本列島が描かれた伊万里焼(いまりやき)の皿や、当時ベストセラーとなった木版の図などを並べた企画展「地図を楽しむ」が、神戸市中央区京町の市立博物館で開かれている。(井原尚基) 同館は、八千点以上という日本有数の古地図を所蔵し、地図をテーマとする企画展を定期的に開いている。今回は、過去の人々と同じように地図を眺めて楽しむ場にすることを狙ったという。 会場に並ぶ四十二点のうち、まず目を引く作品は、「エレキテル」で知られる平賀源内(一七二八-七九年)が考案したとされる「源内焼」の日本地図と世界地図。現代の地図と比べて陸地の形がややいびつなものの、緯度目盛りが記されるなど、当時としては高度な技術が用いられている。 また、十点展示されている伊万里焼の絵皿は、じっくり見ると、日本列島の北に「小人国」、南に「女護(にょご)国」
男女とも混戦模様 鳥取マラソン2024 あす号砲 男子・大崎(鳥取育英高出、中電工(高山(MORE)ら 女子・岡(タカヤマラソンRC)池亀(住電RC)ら
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