NPO法人周防大島郷土大学は、山口県周防大島町出身の民俗学者宮本常一(1907~81年)の没後40年を記念し、「2022年の宮本常一」と題した3回シリーズの講座を18日から開く。
山口県周防大島町久賀の「八幡生涯学習のむら」で、昭和30〜40年代の旧東和町の景観や暮らしを当時の写真を通じて考える企画展が開かれている。町出身の民俗学者宮本常一たちが撮影した写真を使ったパネル約30枚が並ぶ。3月27日まで。入場無料。
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大草の州浜家の集落から,矢上へは国道をさけて,ちょうどいこいの村の宿舎の下になる一本木峠をぬけた。峠といっても道はトラバースするように山肌をたどって,急坂はツヅラになっている。走りやすい。 矢上盆地といわれる,旧石見町は東にむかって下る斜面になっている。中央に小山になる場所に諏訪神社がある。この東からが中野,西が矢上という二つの地名がある。 矢上は中野の人たちが,川上から,矢が流れてきて,この上流に人がいると気付いてつけた名だという。桃太郎や一寸法師の民話のようだ。 香木の森公園と入浴施設のあるあたりを鹿子原とよぶ。鹿はロクで,これはロクロをつかっていた木地師とよばれる人たちのなごりだといって,中国山地にはこの鹿のつく山中の地名が多い。森がしげっていた時代を感じさせる。そこに香木と呼ぶ公園があることと,なにか関係あるのかもしれない。 州浜一族が建立したという安楽寺はすぐに見つけられた。この
日本を代表する民俗学者、故宮本常一さん(1907~81年)の「没後30年フォーラム~その学びと実践のまなざし~」が6月4日午後1時から、府中市の府中グリーンプラザけやきホール(府中町1)で開かれる。「宮本常一を語る会」の主催。福岡、岡山、滋賀に続く全国展開の一環で、宮本さんが晩年を過ごした府中市が最後となる。同会代表世話人の長岡秀世さん(61)は「宮本さんの民を大切に思う『済民思想』は、東日本大震災に見舞われた今の日本に必要な思想。改めて問い直す機会になれば」と話している。 フォーラムでは、全国を調査で歩いた宮本さんが指導育成した新潟県佐渡市の和太鼓集団「鼓童(こどう)」のメンバー7人が演奏を披露。パネルディスカッションでは「宮本常一が渋沢栄一から学んだもの」をテーマに、吉田公平・東洋大教授ら3人のパネリストが参加。宮本さんの「済民思想」に焦点をあて、近代日本の立役者となった実業家・渋沢栄
その宮本常一は生涯に10万点の写真を残していて、私はそれを全部見ましたが、膨大な写真は「おまえにこの写真が読めるか」と問いかけていました。 ふつう「読む」と言うと、本や活字を思い浮かべますが、人間は他人の気持ちを読むし、危険を察知するのも読む力だし、目の前の風景から何かを感じとるのも読む力です。このことを宮本ほど身にしみて感じていた人はいないと思います。 宮本はこんな写真を残しています。昭和35年に佐渡島の北端に願という非常にひなびた漁村があって、そこの渚で撮った一枚の写真です。その写真には、浜に打ち上げられた大きな流木が写っています。たぶんそこを通った人は、だれ一人、流木なんかに目を向けなかったでしょう。 では、なぜ宮本は変哲のない流木にレンズを向けたのか。よく見ると、その流木の上には小さな石が載せてある。ある流木には三角の石が置かれ、別の流木には丸い石が置かれている。じつはこれらの石は
ヘルマン・ヘッセに、"Knulp. Drei Geschichten aus dem Leben Knulps"という原題を持った長編小説がある。 私の手元にあるのは新潮文庫の高橋健二訳で、タイトルは「クヌルプ」。 一時期繰り返し読んだ、私にとっては忘れられぬ一作だが、他にもいくつかの翻訳によって異なる邦題を持っている。 それは次のようなものだ。 「漂泊の魂」「漂泊の人」「さすらひ」「さすらいの記」 翻訳を担当した先生方が、作品の内容を窺わせるようなタイトルをお考えになったのだろうと思われる。 「クヌルプ」というのでは、あまりにも素っ気なさすぎる。そう思われたところで不思議はない。ふむふむと私はうなずく。どれも間違ってはいない、と思う。苦心の跡がしのばれる邦題だとも思う。 しかし、私はこれらの題にひっかかるものを覚える。 「漂泊」「さすらい」。一言でいって、これらの単語からは悲愴感が強く立
宮本常一の日記*1に出てくる戦後の図書館を見てみる。 昭和21年4月15日 それより西宮に行き田岡氏とはなす。田岡氏図書館長となる。 「田岡氏」は田岡香逸、「図書館」は西宮市立図書館と思われる。 昭和22年4月21日 バスで鳥取へ出て更に若桜行のバスにのり八東に行く。(略)坂尾正巳氏をとう。(略)坂尾氏は乃木、東郷の信者で、図書館など経営している。考はいいのだが視野は必ずしも広くないようである。(略)坂尾氏は山林経営家、出来ることなら更に高い理想を以て進んでいたゞきたいものである。 4月22日 朝、図書館を見る。下は山林組合になっている。(略)併し二階の書棚はあまりにも雑然としている。もっと整理出来ないものか。 「図書館」は不詳。戦後まもない頃の地方の私立図書館は、誰ぞでも調査は難しいかしら。 昭和23年2月7日 鳳−西宮。(略)清文堂へ寄って中江君にあい、郷里の図書館へ送る本を18冊注文
[評者]田口 洋美 (東北芸術工科大教授・人類学) ■確かな生の脈動を伝える なぜ、今、宮本常一の民俗学の仕事、中でも写真が注目されるのか。宮本は澁澤敬三の教えを受け、記録性と再現性に優れた映像媒体を庶民の生活と文化を研究する仕事に取り入れた。だが大切なのは、写された対象の懐かしさや、今や希少性をも含む記録性だけではない。そこには長い歴史の果てにたどり着いた当時の日常の断片が映されているからに違いない。写真の中に懐かしさを見いだすのは、そこに映された時代を共に生きた人々に与えられた特権である。また記録性に注目するのは研究者やその時代を探求しようとする人々にとっての価値である。 しかし宮本の写真は、決して同時代の体験の共有者または知的探求者だけにとどまらず、その後に生まれてきた人々にも語りかける力がある。その力は、日常の何げない風景の中に歴史があり、文化があり、そこに生きていた人々の確かな生
宮本常一の日記*1によると、 昭和41年1月31日 アチックへゆく。かえりに渋谷で『木佐木日記』『岡本太郎の眼』などを買う。『サンカ物語』も。これは『サンカの社会』よりもおもしろい。私はこれほど1つのものを追いかけたことがない。 とある。『サンカ物語』は、三角寛『山窩物語』(読売新聞社、昭和41年1月)のことと思われる。三角寛『サンカの社会』は朝日新聞社から昭和40年11月刊行。 宮本がサンカについて、書いたものとしては、「サンカの終焉」(『山に生きる人びと』(未来社、昭和39年1月)所収)が知られている。宮本はそこでは、 なおサンカについては三角寛氏の厖大な研究があるが、私はまだそのことについては何もうかがっていない。 と記している。個人的には、宮本には三角サンカについてもっと言及してほしかったが、学者としては深入りしなくて正解であった。 ところで、筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』(
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