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historyとlocalに関するknoのブックマーク (57)

  • 仙台の古墳、なぜ太白区に集中? 全45ヵ所中 断トツの27ヵ所 | 河北新報オンライン

    仙台市内には大小さまざまな古墳が45カ所確認されている。中でも太白区は27カ所と5区で断トツに多い。その謎を解きに、まちの景色に溶け込む古墳を訪ね歩き、専門家に見解を聞いた。(報道部・鶴巻幸宏) 5世紀、広瀬川南岸に勢力 ヤマト政権と関係も 圃場に水が流れ込むと、中央に小さな孤島が浮かび上がった。 …

    仙台の古墳、なぜ太白区に集中? 全45ヵ所中 断トツの27ヵ所 | 河北新報オンライン
    kno
    kno 2023/08/19
    “古墳文化は大崎平野が北限で、県内では仙台平野周辺が中心地の一つだったことは確か」と明言する。古墳時代中期の5世紀に入ると、古墳の造営地は広瀬川北岸から南岸に移り、古墳自体も小型化したという”
  • 仙台に「大手門通り」を 東北大・平川名誉教授が中心部2kmを提唱 その道のりと歴史 | 河北新報オンライン

    国内最大級の花と緑の祭典「第40回全国都市緑化仙台フェア」(26日~6月18日)を前に、主会場となる仙台市青葉区の青葉山公園周辺は公園センター「仙臺緑彩館(せんだいりょくさいかん)」が整備されるなど景色が大きく変化しています。2036年をめどに仙台城跡の大手門が復元される予定もあり、今後、観光地と…

    仙台に「大手門通り」を 東北大・平川名誉教授が中心部2kmを提唱 その道のりと歴史 | 河北新報オンライン
    kno
    kno 2023/04/27
    ”今は商店街ごとにハピナ名掛丁やクリスロード、マーブルロードおおまちと名前が付けられています。「モダンな商店街名に、江戸時代から残る古い地名が隠れてしまっている」”
  • 地域特有の偉人っているよな

    京都で小中学校に通うと必ず習う「田辺朔郎」なる人物がいるんだが、他の県、京都でも舞鶴とか上の方の人になると全く知らない人が多い。 田辺朔郎は簡単に言うと疎水(琵琶湖から水引くやつ)作った人。 その話をフォロワーにしたら全然知らなかった。 しかしフォロワーは「佐倉惣五郎」なるご当地偉人を知っていた。 面白い。 というわけで、これを読んでいる人、全国的には知られてないだろうなあと思う偉人を知っていたら教えて欲しい。 追記 思ったよりいろいろ出てきてびっくりした!ひとつずつ調べてみます。ありがとう!

    地域特有の偉人っているよな
    kno
    kno 2020/10/25
    うちの近辺だと川村孫兵衛かな/貞山運河を作った人だと思ってたけど、違うらしい…?
  • 河北抄|11月7日 - 宮城県内の県立高校は「宮城県○○高校」と… | 河北新報オンラインニュース

    宮城県内の県立高校は「宮城県○○高校」と、名称に「立」の字がない。他の多くの県は「立」の字が入っている。図書館などの施設名もそうだ。この違いは何から生まれたのだろう。 県図書館の佐尾博基さん(44)は「宮城以外では北海道と長野県ぐらいなんですよ」と言う。県立の図書館で「立」が付かないのは、宮城、愛知、岐阜など。 県図書館では企画展「宮城『県立』図書館から宮城『県』図書館へ」を10日まで開催中だ。1919年に従来の名称から「立」を削り、現在の名前になった経緯を所蔵資料などで紹介している。 「宮城書籍(しょじゃく)館」として1881年に創立された同館は、名称に費用負担者名を表示せよとの文部省令を受けて「宮城県立図書館」と改称。さらに省令廃止を機に再改称した。県立の学校名から「立」が削られたのもこの時だという。 「『立』の字を削った歴史は分かりました。ただ、なぜ削ったのか、その理由は推測の域を出

    河北抄|11月7日 - 宮城県内の県立高校は「宮城県○○高校」と… | 河北新報オンラインニュース
    kno
    kno 2019/11/08
    県外で履歴書を書いたときに「立が抜けてますよ」みたいなことを言われた思い出が/“『立』の字を削った歴史は分かりました。ただ、なぜ削ったのか、その理由は推測の域を出ません”えー
  • 二階堂トクヨ - Wikipedia

    二階堂 トクヨ(にかいどう トクヨ、1880年12月5日 - 1941年7月17日)は、宮城県大崎市(旧・三木町)出身の体育指導者・教育者。日女子体育大学の創設者にあたり[9][10]、「女子体育の母」と称される[9][13]。日初の女子オリンピック選手である人見絹枝のほか、8名のオリンピック選手を育てた[14]。 イギリス留学で学んだスポーツの普及に努め、女子のスポーツとしてクリケットとホッケーを日に初めて紹介した[10][15]。 経歴[編集] 体操嫌いの文学少女(1880-1904)[編集] 1880年(明治13年)12月5日に宮城県志田郡桑折村(現・大崎市三木桑折)にて父・保治、母・キンの長女として生まれる[4][16]。父方・母方ともに会津藩士の家系であった[17]。三木は豊かな自然に囲まれた山あいの里であり、トクヨはどんな花の名所よりも美しいと讃える歌を残している[

    二階堂トクヨ - Wikipedia
    kno
    kno 2019/05/26
    三本木の人だったのか
  • 伊達政宗が秀吉から受け取った愛刀 仙台市に寄贈 | NHKニュース

    戦国大名、伊達政宗が豊臣秀吉から受け取り、生涯愛用したことで知られる刀が仙台市に寄贈され、15日に報道陣に公開されました。 1589年に、鷹狩りが得意だった伊達政宗が豊臣秀吉に鷹を贈った際にお礼として受け取ったもので、政宗が晩年まで愛用していた刀の1つです。 刀剣研究家の小笠原信夫さんが所有していましたが、去年、亡くなったことから、小笠原さんの遺志で仙台市に寄贈されました。 仙台市博物館には秀吉の花押が入った政宗あての書状も残されていて、今月19日から刀と書状をあわせて公開することにしています。 仙台市博物館の高橋あけみ学芸普及室長は「大変価値のある刀が寄贈されました。秀吉と政宗の関係がうかがえる貴重な資料なので多くの人に見てもらいたい」と話しています。 (※「はばき」=『金示且』1字にしたもの)

    伊達政宗が秀吉から受け取った愛刀 仙台市に寄贈 | NHKニュース
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    kno 2019/03/16
    “今月19日から刀と書状をあわせて公開”
  • 伊達家碑文、市民が解読 墓所「無尽灯廟」報告書発行 家臣らの逸話発掘  | 河北新報オンラインニュース

    仙台市太白区の大年寺山にある伊達家の墓所・無尽灯廟(びょう)で、市民有志が4代藩主綱村らの墓碑や石灯籠に刻まれた碑文を読み取り、関係する一族や家臣の略歴などを紹介する「無尽灯廟の墓碑・石灯籠等調査報告」を発行した。 廟には今年300回忌を迎えた綱村と5、10、12代藩主夫の墓が計7基、灯籠95基、ちょうず鉢1基がある。管理する市は土・日曜、祝日に無料公開しているが、碑文の詳しい調査はされていなかった。 風化が進む前に解読しようと、清掃奉仕に参加する太白区の間市郎さん(77)が昨年8月、郷土史を学ぶ仲間らと7人で調査会を結成。約50回集まり、灯籠の奉納者について人名辞典や市町村史などで調べた。 報告書はA4判118ページ。墓碑と灯籠の配置を図で示し、7基の墓ごとに奉納された灯籠の写真と碑文、親族や家臣の略歴、逸話を紹介した。 5代藩主吉村の正室冬姫に灯籠を献じた娘の村子姫は、「母親譲りの

    伊達家碑文、市民が解読 墓所「無尽灯廟」報告書発行 家臣らの逸話発掘  | 河北新報オンラインニュース
    kno
    kno 2018/06/26
    大年寺山“土・日曜、祝日に無料公開しているが、碑文の詳しい調査はされていなかった。”
  • <仙台藩>面影歩いて体感 河原町地元商店街が地図作製 | 河北新報オンラインニュース

  • 【2017年10月1日~11月19日】登米懐古館秋の企画展~伊達政宗公生誕450年を記して~政宗と登米伊達家『政宗の懐刀白石宗実と宗直』 | とよま振興公社とよま振興公社

    【2017年10月1日~11月19日】登米懐古館秋の企画展~伊達政宗公生誕450年を記して~政宗と登米伊達家『政宗の懐刀白石宗実と宗直』 “記念講演会”のお知らせ「伊達政宗生誕450年を記して」 登米伊達家16代当主伊達宗弘氏による記念講演会を下記日程で行いますのでご来場お待ちしております。 ・日にち  12月10日(日) ・時間   14:00~15:30 ・場所   とよま観光物産センター遠山之里 主な展示 ・登米市重要刀剣/太刀(備前長船恒弘)など ・白石家戦陣略記 ・大坂冬の陣・夏の陣、陣旗・馬印 ・千利休書状 刀剣解説会・相談会 11月12日(日) ・解説会 13:00~13:30 ・相談会 13:30~15:00 《刀剣解説》 佐藤一典氏:(公財)日美術刀剣保存協会理事 公認刀剣等指導員 宮城県美術刀剣保存協会副会長 株式会社とよま振興公社 〒987-0702 宮城県登米市登

    kno
    kno 2017/08/26
    明治村でもまーくん450歳記念
  • 米従軍医、1951年に宮城の浜をカラー撮影 貴重な写真ネットで公開 | 河北新報オンラインニュース

    米国人が1951年、宮城県沿岸部の人々や風景を撮った貴重な写真がインターネット上で公開されている。撮影者はカリフォルニア州の医師だった故ジョージ・バトラーさん。米軍松島キャンプ(東松島市、現航空自衛隊松島基地)に駐留した際に撮りためた写真を、長男で建築家のアランさん(68)が英語のウェブサイト「MIYAGI 1951」にまとめた。 バトラーさんは朝鮮戦争さなかの51年3~12月、従軍医として松島キャンプで過ごした。愛用のカメラを手に石巻や女川、仙台、塩釜などの町や村、島を巡り、約2000枚撮影した。 写真は日に焼けた漁師、屈託なく笑う子ども、はにかむ若い女性らの表情を生き生きと切り取った。60年後の東日大震災で大きな被害を受けた商店街、農村漁村の姿も写している。国内ではまだ普及していなかったカラー写真が多い。 すっかり親日家となったバトラーさんは帰国後、自宅に日庭園を設け、盆栽を熱心に

    米従軍医、1951年に宮城の浜をカラー撮影 貴重な写真ネットで公開 | 河北新報オンラインニュース
  • <多賀城跡>創建期の城壁 檜扇発見 | 河北新報オンラインニュース

    多賀城市の国指定特別史跡多賀城の発掘調査をしている多賀城跡調査研究所は15日、創建期(724~62年)の政庁外郭南辺の城壁跡を発見したと発表した。付近で、県内初めての文字入りの檜扇(ひおうぎ)も見つかった。  城壁跡の土台の幅は約4.5メートル。土の築地塀とみられる。高さ約40センチの基礎部分の上に黄褐色と黒い土が交互に積み上げられていた。  8世紀後半、新しい城壁が南に移ると古い城壁は上部が除かれ、盛り土して通路として使われた。近くでは過去に材木塀も発見されていて、場所によって工法が異なる可能性が出てきた。通路となった城壁跡につながる西側丘陵部には施設があったと想定される。  通路脇から見つかった檜扇の素材は不明。扇の骨の部分となる長さ24~28センチの木の板が少なくとも11枚分あった。役人が文字の練習をしたとみられる。見つかったものにも「誦誦誦」などと同じ文字を書いたものがあった。  

    <多賀城跡>創建期の城壁 檜扇発見 | 河北新報オンラインニュース
  • 東北学院大施設が重要文化財に - NHK 東北 NEWS WEB

    仙台市の大学敷地内にある明治時代に建てられた宣教師の住宅「東北学院旧宣教師館」が国の重要文化財に指定されることになりま した。 これは国の文化審議会が文部科学大臣に答申したものです。 国の重要文化財に指定されることになった「東北学院旧宣教師館」は、仙台市青葉区の東北学院大学の敷地内にあります。 仙台でキリスト教の布教にあたったアメリカ人宣教師のために明治20年ごろに建てられた木造2階建ての住宅で、宣教師の名にちなんで「デフォレスト館」とも呼ばれています。 開放的なベランダを設けた「コロニアル・スタイル」と呼ばれる西洋の建築様式を基にしながらも玄関に鬼瓦が飾られるなど日家屋の様式も取り入れた和洋折衷が特徴です。 国の文化審議会は日に残る最初期の外国人宣教師住宅として希少な上、歴史的な価値も高い点を評価したということです。 一方で、5年前の東日大震災で内部の壁や天井がはがれ落ちるなどの被

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  • 被災地の歴史後世に 古文書読み解き編さん | 河北新報オンラインニュース

    東日大震災の被災地の歴史を後世に残そうと、NPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク(仙台市)が刊行した冊子「よみがえるふるさとの歴史」の最終巻が完成し、シリーズ全12巻が完結した。震災後に収集した古文書と従来の歴史資料を読み解き、被災地の歴史文化を叙述形式でまとめた。ネットワークのメンバーは「土地に根差した歴史文化を復元させて次世代に伝えたい」と話す。  最終巻は「大災害からの再生と協働-丸山佐々木家の貯穀蔵建設と塩田開発」と題し、ネットワーク事務局長を務める東北大災害科学国際研究所の佐藤大介准教授(日近世史)が担当。飢饉(ききん)の際、石巻市の北上川河口の旧家が住民らと協力し、地域の再生に取り組んだ事例を紹介する。  大学教員ら県内のネットワークメンバー12人がそれぞれ執筆し、仙台市の出版社「蕃山房」が2014年から年4冊ずつ出版を重ねた。  地震と津波、武士団、武士社会、物流、居

    被災地の歴史後世に 古文書読み解き編さん | 河北新報オンラインニュース
  • 宮城)工事現場で発見の骨、室町か江戸時代の人骨:朝日新聞デジタル

    昨年10月、七ケ浜町花渕浜の護岸工事現場で見つかった男性の白骨遺体が、考古学で使われる「放射性炭素年代測定」の結果、室町時代か江戸時代の人骨だったことが25日、県警への取材でわかった。胴体の骨を調べた結果、体の右側に大きな負担がかかっていたことも判明。男性が、かごやもっこで人や荷物を運んでいた可能性もあるという。 震災関連事業として、県がかさ上げをしていた小豆浜護岸工事の現場で作業員が頭骨を発見。捜査員が付近を調べると胴体や足などの骨も見つかった。頭骨に複数の陥没骨折の痕があったことから、県警が殺人事件の可能性もあるとみて捜査していた。 捜査1課によると、骨折が生前のものか死後についたかは不明で、死因も不詳。刑法が改正されて殺人事件の時効がなくなる前の古い事件で、すでに時効が成立している可能性が高いとする文書を検察庁に送る方針。遺体は町に引き渡すという。

    宮城)工事現場で発見の骨、室町か江戸時代の人骨:朝日新聞デジタル
  • <ぶら歩き七郷>「六丁の目」弘法の伝説 | 河北新報オンラインニュース

    (3)地名は語る  通称「産業道路」を仙台市若林区六丁の目から少し入った市七郷六丁目コミュニティ・センターに向かう。敷地の一角に小さなほこらを見つけた。  格子状の扉から中をのぞくと、鎮座した石碑に「南無阿弥陀仏(あみだぶつ)」と彫ってある。左右が逆の鏡文字だ。「弘法大師の筆」と言い伝えが残るこの6文字が「六丁の目」の由来らしい。  石碑は1685(貞享2)年、橋の架け替え工事の最中に橋の土台部分から見つかった。地元の郷土史研究者松木達雄さん(69)は「発見後は『六字の銘』と呼ばれ大切にされてきました」と解説する。  つまり、音便が変化して「六丁の目」。ほかにも「陸奥国分寺(若林区木ノ下)から6丁離れているから」という説もあるという。いずれにしても「若い人や新住民は知らないでしょうね」と、近所でそば店を営む佐藤孝太郎さん(68)がこぼした。  荒井地区に引き返し、鎌倉時代に新田開発の拠点と

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    kno 2015/12/11
    "「小字にはちゃんとした意味があるのに。丁目なんて味気ないよね」"んだがら
  • THE PAGE(ザ・ページ) | 気になるニュースをわかりやすく

    いつも「THE PAGE」をご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたウェブサイト(https://thepage.jp)は2018年10月1日をもってサービス終了しました。 THE PAGEの最新の記事は、Yahoo!ニュースの「THE PAGE」掲載ページでご覧いただけます。 ・Yahoo!ニュースの「THE PAGE」掲載ページ(https://headlines.yahoo.co.jp/list/?m=wordleaf) 今後も「THE PAGE」の記事をご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

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    kno
    kno 2015/11/01
    「仙台地図さんぽ」
  • 仙台市博物館 - 市史通信バックナンバー | 仙台市

    kno
    kno 2015/07/20
    ブラタモリの補足テキスト/"発行は編さん事業終了により35号で終了しています。"そうだったのか...
  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

    kno
    kno 2015/07/13
    こういう説すき
  • みやぎ地形紀行 | 河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS

    標高は約120メートル。広瀬川を挟んで仙台市街地と向き合う青葉山段丘の段丘面に1601年、仙台藩祖伊達政宗は居城の丸を築いた。東は広瀬川に面する60メートルを超える断崖、南は竜ノ口渓谷に落… (12)仙台の河岸段丘<3>四ッ谷用水城下を潤す1月26日 (11)仙台の河岸段丘<2>斜面に多数の古代窯跡1月5日 (10)仙台の河岸段丘<1>広瀬川の河床変動の跡12月15日 (9)七北田川と沖積平野(仙台・岩切)<下>環境逆手に曲がりネギ12月1日 (8)七北田川と沖積平野(仙台・岩切)<中>勾配利用、豊かな町場に11月10日 (7)七北田川と沖積平野(仙台・岩切)<上>国府の川港、市場栄える10月20日 (6)塩釜の入り江/仙台藩支えた海の玄関9月29日 (5)松島丘陵西部(国府多賀城跡)/海と平野一望、敵を監視9月8日 (4)郡山低地<下>古墳や横穴墓群が密集8月25日 (3)郡山低地<上

    みやぎ地形紀行 | 河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS
    kno
    kno 2015/07/13
    ブラタモリでやってたのがほぼ全部出てるw
  • 江戸時代の石巻の英雄 川村孫兵衛 - 復興ログ

    石巻で一番大きい夏祭りの川開き祭りは、石巻の礎を築いた、川村孫兵衛の偉業をたたえ海難事故や水難事故によって亡くなった英霊を供養するために行われている祭りです。今もなお、石巻に名を残す川村孫兵衛ですが、いったい何をしたのか?調べてみました。 ▲工事を指揮する川村孫兵衛(河南地区、八雲神社蔵) 川村孫兵衛重吉 長門国阿武郡(現在の萩)の出身で、毛利輝元に仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が大幅に減封された際に浪人となった。その当時伊達領であった近江国蒲生郡滞在中、在京していた伊達政宗にその才能を見出されて、慶長6年(1601年)に、その家臣となる。 元和2年(1616年)から寛永3年(1626年)に至り北上川の治水工事を行なって、仙台藩の石高を大きく向上させた。また、これによって陸奥北部との海運も発達した。 子孫は代々門脇村釜に住した。 川村重吉 - Wikipediaより

    江戸時代の石巻の英雄 川村孫兵衛 - 復興ログ