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昭和と事件に関するkurobuchiのブックマーク (3)

  • 袴田事件

    [ 事件 index / 無限回廊 top page ] 袴田事件 1966年(昭和41年)6月30日未明、静岡県清水市(現・静岡市清水区)の「こがねミソ」製造会社専務である橋藤雄(41歳)の自宅が放火され、焼け跡から藤雄、のちえ子(38歳)、長男の雅一郎(まさいちろう/14歳)、次女の扶次子(17歳)の一家4人が刺殺された姿で発見された。長女の昌子(当時19歳)は祖父母の家にいたため難を逃れていた。遺体はいずれも何者かに突き刺されるなどの致命傷を負ったのち、油を浴びて焼かれたものと判明した。静岡県警と清水署はただちに合同捜査部を設置し、調査にあたった。そこで、橋宅から集金袋1個が所在不明と分かった。また、現場には、雨ガッパと小刀用の木鞘(きざや)が焼けずに落ちており、屋内では黒く焦げた、くり小刀の刃体が見つかったが、捜査部はこれを犯人の遺留品と見ていた。 翌日の7月1日には早く

    kurobuchi
    kurobuchi 2014/04/04
    袴田事件もこのまとめを見ると死刑判決が出るのが不思議で仕方ないが、今だからこそ思えるもの?真犯人がいるとしたら、どこでどう生きているのか気になる。
  • 紅林麻雄 - Wikipedia

    紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年〈明治41年〉 - 1963年〈昭和38年〉9月)は、日の警察官。担当した事件において、数多くの冤罪被害者を生み出した。 人物[編集] 現在の静岡県藤枝市出身。 自身が担当した幸浦事件(死刑判決の後、無罪)、二俣事件(死刑判決の後、無罪)、小島事件(無期懲役判決の後、無罪)、島田事件(死刑判決の後、無罪)の各事件で無実の者から拷問で自白を引き出し、証拠を捏造して数々の冤罪を作った。その捜査手法は紅林の部下も含めて静岡県警の警察官に影響を与えることになり、紅林自身は直接捜査に関与しなかったが袴田事件(死刑判決の後、再審が決定)などの冤罪事件を生む温床ともなった。 あらゆる手段を用いて被疑者を拷問し、自白を強要させるなどしたことから「拷問王」と称されている[要出典]。 紅林はさまざまな拷問の手法を考案したが、実行には直接関与せず部下に指示を出していた

    紅林麻雄 - Wikipedia
    kurobuchi
    kurobuchi 2014/04/04
    数々の難事件を解決した名刑事と言われたが、裏では拷問による自白の強要で数々の冤罪事件を作っていたと言われる人物。恐ろしい…
  • 瀬戸内シージャック事件 - Wikipedia

    瀬戸内シージャック事件(せとうちシージャックじけん)は、1970年5月12日から5月13日にかけて広島県と愛媛県間の瀬戸内海で発生した旅客船乗っ取り事件。乗っ取られた船の名称から「ぷりんす号シージャック事件」とも呼ばれる。 警察官が犯人を狙撃することによって人質を救出し、解決した事件として知られる。 事件の概要[編集] 「ぷりんす号」乗っ取り前まで[編集] 1970年5月11日、事件の主犯となる男Xは仲間の少年2人と共に、福岡市内で盗んだ乗用車に乗って広島方面に向かっていた。しかし、同日午前12時20分ごろ、山口県厚狭郡山陽町(のちの山陽小野田市)の国道2号の検問で追い越し禁止区間で追い越しをする交通違反をし停車命令を受け、盗難車を運転していたことが発覚して逮捕された。3人はパトカーと盗難車に分乗して小野田警察署に連行されたが、盗難車に乗せられていたXと少年Aは、隠し持っていた猟銃[注釈

    kurobuchi
    kurobuchi 2009/10/04
    1970年に起きた事件。逃げるうちにどんどん大きく展開していってる。
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