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書評に関するmizu-odori_from1993のブックマーク (3)

  • 『ニッポンの音楽』が描く“Jポップ葬送の「物語」”とは? 栗原裕一郎が佐々木敦新刊を読む

    「史観」という言葉がある。「唯物史観」であるとか「自虐史観」であるとか、音楽の場合だと「はっぴいえんど史観」であるとか、歴史に対するときに採られる見方や立場、価値判断のことだ。これが極端に偏ると、捏造に基づく偽史や、悪い意味での歴史修正主義に陥ったりするわけだが、無数にある史実のどれを選び、どう評価するかということだけでも、史観は自動的に生じてきてしまうものではある。学校の歴史教科書にも史観はあるし、たとえば、あらん限りの資料を渉猟し、できうる限りそれらをそのまま提示して、1968年という「政治の季節」を実証的に丸ごと描き出そうとした小熊英二の『1968』にだって史観は存在している。 結局、人それぞれに史観はあり、史観の数だけ歴史はあるわけで、主観と客観は史観の強弱のグラデーションでしかないということもできるだろう。 歴史を描こうとする者は、このグラデーションの幅のどこかに自分を置くことに

    『ニッポンの音楽』が描く“Jポップ葬送の「物語」”とは? 栗原裕一郎が佐々木敦新刊を読む
    mizu-odori_from1993
    mizu-odori_from1993 2015/02/26
    こちらの本は少し前に購入し現在読んでいる最中。
  • 山田太一『空也上人がいた』 - ぼうふら漂遊日記

    優柔不断な性質に加えて、普段から世の中との関係や縛りが淡い、無責任で個人的な生き方を選んできたから、いつだってそうだと言えばそうなのだが、今のように世の中に中途半端な危機感があると特に、周囲を気にして軽薄に格好の良いことを言い過ぎているのではないか、あるいは、克己発展の可能性としんどさに端から逃げを打って、臆病、怠惰に開き直っているのではないかと、無駄に逡巡ばかり繰り返している気がする。 こうしたことを吐露すること自体すでに言い訳がましいのだけれど、やはり、自分がどこから物を言っているのか、自己申告といえども一言明示しておかなければ、嘘っぽくて落ち着かないので仕方がない。 こんな時、「こうだ」と定義した途端に嘘になってしまいそうな、人の内心の揺れや微妙な襞を見つめながらも、くだけ過ぎず崩しすぎない、むしろ硬く引き締まった記述に収めて行こうとするような、山田太一の文章の独特の緊張感は、清々し

    山田太一『空也上人がいた』 - ぼうふら漂遊日記
    mizu-odori_from1993
    mizu-odori_from1993 2011/07/08
    ライター河田拓也さん(id:bakuhatugoro,@hitokirigoro)の5月の日記で山田太一が書き下ろしの新作小説を出していた事を今頃知った。しかも「最後の」…らしい。気になるのでAmazonの欲しい物リストに追加。
  • レビュー:村上龍「逃げる中高年、欲望のない若者たち」―純化する欲望と自殺回避― | None.

    村上龍の新刊「逃げる中高年、欲望のない若者たち」を貰ったので読む。 発売数日ですでに重版が決定したほどの人気らしい。 村上龍のエッセイは縁あって新刊が出るごとに読んでいるが、刊を重ねるごとにつまらなくなっていく気がする。 なぜか。 このの根幹でもある彼の若者論は、実情とあまりにずれているからだ。 若者の欲望は退化した? 第一章の「草系と肉系というごまかし」等でも述べているけど、村上の持論では「今の若者はつまらない、それは若者の欲望が退化しているからだ」。 例として彼が挙げているのは「若者が車を買わなくなった」事。 若者が車を買わなくなったのは、欲望が退化して質の高い物を求めなくなったし、そもそも貧乏だから車を買うお金がないせいだと村上は分析する。 私はそれは違うと思う。 彼の言う「退化」は、“欲望の量的な減少”を指すのか。それとも“欲望の質的な悪化”を指すのか。 量的な減少については

    mizu-odori_from1993
    mizu-odori_from1993 2010/12/04
    id:ealさん経由でブクマ。村上龍かぁ。昔一時期私淑していたこともあったけど最近はさすがに読むのがツラくなってきた。カンブリア宮殿とかも見てて腹が立つことが少なくないし。そんな私は親を介護する中年ニート。
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