何故はてなには哲学と言うジャンルがないのだろうと私は哲学的にはてなと思考して試行して思考する。 哲学といえばはてなであり人類といえばはてなでありはてなといえば人類であり哲学であるのにはてなには哲学がない。 増田文学はあると言うのに増田哲学はない、いや、あるだろうありとあらゆる増田哲学。 私はここよりはてなに哲学を与えたいと提唱する。冷静に考えると大して要らないと踏んでも提唱する。 はてなとは哲学ありきであるべきだ。
◆ビーフに至るまでの経緯神だけどお前らから著作権料を徴収しにきました。 rna ニーチェが神を殺したのが1883年頃だからとっくに著作権切れてるだろ。 mckassyi あれ、神様は死んだって昔、ニーチェさんが。 KariumNitrate ニーチェが亡くなる1900年までに死亡が確認されてるので色々時効ですね。 →ワックなはてなーのdisに神さんマジ激おこ「まだ死んでねえっつの!!」 →ニーチェにバトルをふっかける ◆バトル前コメントニーチェ「いやー負ける気? がしないっスね。もう終わりでしょ正直神とか。前世紀が全盛期だったでしょ。今日は調子いいですわ。全身が口になったみたいな、断崖の高みから落ちる渓流の轟みたいな感じ。はやく俺のフロウを谷へ向かって流し落としてえ気分でーす」 神 a.k.a. Shit する God「人類? 最近頑張ってじゃないんですか(笑)。でも、まだちょっと、ちょっ
「哲学上の諸問題と言われるもののほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」というのは、L.W.ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における中心的な主張。そして『言語ゲーム』というのは、そのヴィトゲンシュタインの作った言葉であり、論である。 そこまでは正しい。 だけど、「言語ゲーム論」というのは、「論理哲学論考」を書いたあと、「これで全ての疑問は解かれた」と宣言して田舎に引っ込んだヴィトゲンシュタインが(田舎で小学校教師をやっていた)、小学生とのふれあいの中から、自分の過去の論(すなわち「論理哲学論考」における思想)の欠陥に気づいて、その欠陥を説明するために作った論なのね。その後彼は、「哲学探究」という本を出して、「論理哲学論考」が見落としていた問題について説明しようとした。それが成功したという人もいれば失敗したという人もいるが、この本も20世紀哲学史に残る偉大な書であることは間違いない。
一応20世紀の哲学者だけど、最後の本である『哲学探究』を書いたのが、確かギリ第二次大戦の終わり頃だったと思うから、最近というほどでもない。「初歩的な勘違い」と言うけどさ、20世紀の初めごろなんて、それこそ「科学万能」の期待がまだあって、ヴィトゲンシュタインさんの分野である論理学にしても、「論理学が完全に言語の曖昧さを解消し、哲学の問題を解決する」という期待感だって、まあ、あったわけ。 というか、むしろ、それからたった半世紀で「言葉には定められた『意味』がある、というのは幻想だ」ということが常識として定着しちゃったということ自体が、すごいことなんだよ。 それに、前期の哲学だって、全く無効というわけではないんだよ。ごく日常的な場面とか、あらかじめルールが定まった言語の世界…たとえば、コンピューターによる日常言語の分析みたいな分野で、大きな力を発揮してる「生成文法」の考え方(N.チョムスキーさん
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