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ブックマーク / blog.szk.cc (56)

  • 愛にできることはまだあるか ー 『すずめの戸締まり』をめぐって « SOUL for SALE

    公開直後に観に行って、ほんとうに声を上げて泣く寸前まで嗚咽したのが、新海誠の最新作『すずめの戸締まり』。過去2作と比べてもエンターテイメント性の高い、アクションありコメディあり感動ありの高い完成度には舌を巻いたし、ものすごいスクリーン数で公開されていたことを考えても、興行収入は記録的なものになるだろうという印象を持った。周囲に聞くと人によっては「難しい」という声もあったのだけど、公開直後から良質なレビューブログもたくさん書かれていたので、以前のような考察を書くほどでもないかなと思っていた。 ただ、少し時間がたってあらためて振り返ってみると、自分の気になっていた点について論じている人があまりいなかったことや、それが自分自身の考えてきたこととシンクロする論点であることにも気づいてきて、それならば、と少し書いてみることにした。以下では作品へのネタバレを含むものの、作品そのものへの批評や感想ではな

    愛にできることはまだあるか ー 『すずめの戸締まり』をめぐって « SOUL for SALE
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    noreply 2022/11/26
  • 続・社会学は何をしているのか

    以前のエントリで触れたように、社会学という学問は往々にして誤解にさらされるものだ、と、当の社会学者自身が思っている。社会学が他の学問より誤解を受けているという証拠はないけれど、少なくとも研究対象になるものが、専門家以外でも触れることのできる、多くの人が経験したことのある出来事だからこそ「社会学者の見方は間違っている」と非難されることが多くなるのは確かだろう。その非難は、学術を専門としない当事者だけでなく、同じ対象を扱っている他分野の研究者からなされることもある。 たとえば昨年開催された日社会学会におけるシンポジウム「社会学への冷笑と羨望――隣接分野からのまなざし」は、そのような他分野からの視点を学会的に取り入れようという意欲的な試みで、僕自身は参加しなかったのだけれど、とても刺激的なやりとりがあったようだ。学会員向けのニュースレターによると、環境経済学の専門家から指摘されたのは、環境問題

    続・社会学は何をしているのか
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    noreply 2021/02/02
  • 社会学は何をしているのか

    「何をしているのか分からない」 社会学部の教員をしているとぶつかる壁のひとつに「社会学を宣伝することの難しさ」がある。社会学部の教員も学生も、「社会学部って何をするところ?」とよく聞かれるのに、それに答えられないというのだ。もっとも「じゃあ経済学部では何を勉強するか知ってる?」と聞いても「経済のことを勉強するんでしょ」という、おそらく経済学者なら間違いだと言うだろう回答しか返ってこないわけだから、「社会学は説明が難しい」というのも思い込みでしかないのだけれど。 一昔前の日の教科書では、「社会学は常識を疑う学問です」なんて書かれていた。けれどこの説明も、もう古臭いものになっている(この辺についてはこのや講義動画を参照)。最近の説明としては、日社会学会の社会学部への進学を考えている人向けのサイトで示されている「異なる価値観をもった人間たちが多数集まって形成されるこの社会を解き明かす学問」

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    noreply 2021/02/02
  • 「自分の仕事」がいつも後回しになる理由

    抱えた仕事が整理できない、と感じるようになったのは20代の後半だった。25歳で物書きの仕事をいただくようになり、を出版してからは講演や学会への招待といった「替えのきかない仕事」も増えた。それぞれの分野で同じような仕事をしている先輩もほとんどおらず、まして、自分と同じようなレンジで仕事の手を広げている人に会うことなどなかった。必然的に、自分の仕事をどのようにマネージするかについて日々考える場面が増えた。 このブログでも、何度かそうしたことについて触れてきた(古いところでは7年前の記事)。とりわけこの数年は組織の副所長、所長といった仕事を引き受けることになったために、よくネットの記事なんかで上がってくるタスク管理術というよりも、いわゆるマネージャーとしての管理術に関心を持つようになっていった(たとえばこちらの記事)。当たり前のキャリアなんてなかった僕らの世代だけど、標準的にはマネジメントに移

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    noreply 2019/05/18
  • これから起きる9つのトレンド

    Photo by Priscilla Du Preez on Unsplash 未来を予測するのは困難なことだ。だが人生は未来にしか続いていかず、改善は未来においてしかなし得ない。そのため僕たちは、手元の限られた材料から未来を予測し、そこから逆算して現在の行動を決定する。それは僕たちの普遍的な振る舞い方だと思うけれど、学術と実業の2つの領域に足をかけている立場からは、両者の未来予測には質的に異なる部分があることをまま感じる。学者、特に社会科学者が、できる限り確からしい情報を集め、それらを根拠に論理的に導ける、すなわち科学者ならば誰もが同じ結論に至るであろうことを述べるのに対して、実業の世界では、競合に対する競争力を発揮するために、自分しか思いつかないこと、手元の材料では言い切れないことの方に軸足を置いた予測をしがちだ。実業者に見られるこうした「暗闇への跳躍」は、イノベーションの源泉だと考え

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    noreply 2019/05/18
  • 二度目の人生なんてないから « SOUL for SALE

    調子に乗りやすいタイプだという自覚はある。研究はどちらかと言えばストイックな営みだから、現在の自分にも環境にも満足せず、ついついシニカルになったり、自分の情動にブレーキをかけたりするタイプの人が多いように思うけれど、僕の場合は納得のいかない環境を力ずくでも変えてやろうと感情的になることが多い。たいていの場合はポジティブな方向に感情的だけれど、大教室授業で騒がしい学生を叱責したときなんかは、「こんなことで状況がよくなるわけないのに」という後悔と、感情的になった反動で、しばらく動けなくなるくらいに疲れてしまう。 昨年から今年にかけて、いくつもの仕事が立て続けにうまくいかなくなり、自分が原因でないことも含めて、ずっと心を痛めていたように思う。「傷ついた人たち」について考えていたのも、そんな自分の状況が反映されたものだった。そういうときには自分が何をしても裏目に出るように感じてしまうし、目の前で起

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    noreply 2019/05/01
  • 雑記20190304-02 « SOUL for SALE

    2冊目に手にとったのは、ジグムント・バウマンの遺作となった『退行の時代を生きる――人びとはなぜレトロピアに魅せられるのか』。バウマンの著作にはいつも独特の癖があり、またそれゆえに読解の難しいものであるのだけど、今作も非常に頭を使うだった。 社会学の巨人が遺した最期の言葉。 社会には暴力が歯止めなくあふれ、格差は拡大の一途をたどり、 弱くなる国家や強まる自己責任論は人びとをよりいっそうの不安と孤独へと追いやっている。 前途が見えず、過去に憧憬をいだく時代に、わたしたちはどこに向かうのか。 巨人がみつめた、いま、そして未来。 【目次】 プロローグ―レトロトピ... なぜバウマンの著作は読みにくいのか。それは、まず彼の記述がリニアではない、言ってみれば思いつきの羅列にすら見えるような、散漫なものだからだ。それは彼自身が実証主義的社会学者ではなく、多くの人々のアイディアをつなぎ合わせ、その隙間か

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    noreply 2019/03/07
  • 雑記20190304-01 « SOUL for SALE

    インプットの日ということで、まずは話題書『FACTFULLNESS』を読む。事前に聞いていた評判のせいかもしれないけれど、予想通りに問題の多いだった。 著者は、医師であり公衆衛生の専門家。データに基づくと世界の生活環境の多くが改善されているにもかかわらず、先進国の人びとがその事実を知らず、数十年前に定着した「先進国と途上国」という区分で世界を見ていることを問題視している。挙げられているデータは基的なものだし、そのうちのいくつかは自分も講義で触れてきたものだ。また、多くの人々が世界の生活環境の改善について知らないというのも、また講義を通じて痛感してきた。 だから主張そのものに異論はない。問題は、その主張を通すための手段だ。書では、たとえば人々が世界の環境に対して様々なバイアスを抱いていることを「チンパンジー以下」という言い方をする。これはつまり、三択問題であればランダムに選ぶと33%は

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    noreply 2019/03/07
  • 誰かの一年の一部であるということ « SOUL for SALE

    僕にとって大晦日というのは、「死ぬ日」ということになっている。もちろん抽象的、あるいはスピリチュアルな意味で、なのだけれど。 このブログで年末の記事を書くのも10年目。前身のブログを始めたのが大学生の終わり頃だから、もう20年、こうして年末になると、自分の人生の最後の時間のことを考えながら、記事を書くということを続けている。その間に歳もとったし、周囲にいる人にも、死がリアルな、身近な出来事になっているような方々が増えてきた。そう考えると「もしも今日が人生最後の日だとしたら」という想定も、なんだか呑気な話のように思えてくる。実際、数字の上での年齢は重ねても、健康や体力といった面で年を感じることはほとんどないわけで。 命の蝋燭は日々目減りしているのだろう。けれど、人生に軟着陸なんてないなとよく思う。ある日突然、思うように体が動かなくなり、生き方のステージが変わるのかもしれない。さすがに中二臭い

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    noreply 2019/01/13
  • 〈ほんもの〉性を提供する 〜オーセンティシティと現代社会 « SOUL for SALE

    要約 消費に対する付加価値化のトレンドの底流にあるのは〈ほんもの〉性の提供 〈ほんもの〉性は商品そのものに宿るだけでなく、消費者との関係からも生じる 情報ネットワークの発達は、〈ほんもの〉性が生まれる様相を複雑化させる 1.表層的トレンドに踊らされていないか? 12月末というのは、大学教員にとって、少なくとも僕にとっては最大の繁忙期だ。大学の授業も大詰めになるし、20人以上の卒論指導を抱えて、オンライン、オフラインの時間ともに教育業務に集中することになる。ただそれだけに、その年にやってきたことを振り返るのはいい時期でもあって、毎年この時期には、集中的に取り組むテーマを変えているゼミでの研究を中心に、ブログ記事にまとめることにしている。 2018年に取り組んだテーマは「コト消費に価値が生まれるメカニズム」だ。こういうテーマを立てたのには理由がある。昨年の記事で振り返ったように、昨今の「脱モノ

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    noreply 2018/12/30
  • 「傷ついた人たち」の自己受容 « SOUL for SALE

    オンラインにあふれかえる悲鳴 2018年も、そろそろ振り返りの時期に入った。今年後半はブログも書かずに、なんならネットも見ないで過ごしていたせいで、すっかり世相からは離れてしまった感があるのだけれど、その背景には、オンラインで白熱する議論や対立に、心苦しいものを感じてしまったからだと思う。 政権に対する批判であれ、ヘイトスピーチへの糾弾であれ、あるいはジェンダーを巡る意見や立場の対立であれ、内容としては考えさせられることや、勉強になる部分は多い。それはある面では、ヒートアップしたり炎上したりしたそれぞれの言論の主たる作用なのだと思う。でも、そこで大きな声を上げる人たちの「言い分」の方に、僕の意識は引っ張られてしまった。みな、「私はその言論によって傷ついた」ということを主張したり暗に示唆したりしている、そんな風に見える。私を分かってほしい、という悲鳴のような感情に、冷静な「議論」の仮面が被せ

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    noreply 2018/12/16
  • 「みんなで盛り上がる」音楽 « SOUL for SALE

    Image from Unsplash 始まる前にはいろいろと議論のあったサッカーW杯。蓋を開けてみれば、学生たちは寝不足になりつつも試合に見入っていたようだし、内容的にもポジティブな話題が多かったように思う。僕に関して言えば今回、開会前後に複数のメディアから「また若者は渋谷で盛り上がりますか」という内容の取材依頼をいただいたのだけれど、ごく初期のものと、知人の番組を除いてすべての取材をお断りした。理由のほとんどは「スケジュールが合わないから」ということだけれど、そもそも東京に住んでいるわけでもなく、またサッカーの専門家というわけでもないので、よほど自分の専門に寄せた話ができるのでなければ、的はずれなことしか言わないだろうと思ったのもある。あとテレビに関しては、発言の内容と自分の見た目が重ね合わせられて誤解を生みそうだなあと思ったとかも。 それなりに考えていることはあった。大きな動向として

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    noreply 2018/07/05
  • 「関わり続ける」ということ « SOUL for SALE

    議論する、とか、意見の違いについて確認する、といったコミュニケーションには、とても体力を要するのだなあと思うことが多くなっている。オンラインにせよオフラインにせよ、自分にとって当たり前のことが、別の人にとってとてもセンシティブな話題であることを学ぶ機会が増えたせいでもあると思う。若い時分にはそういうことに臆さないことが偉いと思っていた…わけでもなく単に何も考えていなかったから、ほうぼうに恨みを買っていただろうし、そのことでいまの自分の評価に影響しているとしても言い訳はできない。 他方で知恵がついたせいもあって、明らかな間違いや、それがその人の好き嫌いの問題では済まない場合、教育上の配慮を必要とする場面においては、何かを言わなければならないこともあって、学者が一般に直面するような徒労感や失望感に苛まれることも多い。こういうときに「真-偽」のコードを用いても、相手は「快-不快」「好-嫌」のコー

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    noreply 2017/03/07
  • 2016年の音楽を偏った形で振り返る

    あちこちで言及してきたように、今年はひたすらライブハウス通いを続けた1年だった。ワンマンライブをできるかどうかギリギリというレベルのバンドをたくさん追いかけ、若い女性が中心のお客さんに混じって拳を上げ、イベントライブ後の物販に並ぶメンバーとお話をするなんて、40過ぎてやることかと言われると恥ずかしいけど、いままでもそうだったように、自分がやってみたいと思ったことは、ゼロの気持ちで、そこに来ている人と同じ感覚で参加してみたいので、結果的にライブハウスに行き始めたばかりの高校生みたいなことばかりしてたかもしれない。 とはいえ、そうやって同じ目線で参加してみて、ああこういうことかと分かることもたくさんある。そのすべてを体系的に説明することはできないけど、たとえば今のシーンでソーシャルメディアがどう使われているかとか、関東と関西では微妙にウケている曲の傾向に差があるとか、それらが組み合わさって地方

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    noreply 2017/01/04
  • AI時代には「ナイス」な人が必要だ

    竹槍突撃から抜けられない日 2016年は、AIやロボットが僕たちの雇用を代替するという議論が一般に大きく取り上げられた年だったということになるだろう。この手の話は数年前から盛んに論じられていたけれど、政府の「第四次産業革命」なんてビジョンも出てきて、データ活用の分野を中心に、日海外勢の下請けになるかリーダーになるかの分岐点だなんて話になった。テクノロジーによる雇用の代替をテーマにした授業やゼミは人気になり、学生たちの関心が高いこともうかがえる。他方、シェアリング・エコノミーの分野でも民泊を中心に議論が進んだし、仕事を分け合うという点では「ギグエコノミー」なんて言葉も定着しつつあるようだ。 しかし実際のところを見ると、こうした掛け声とは裏腹に、何度も指摘されてきた「日的な問題」がここにも顔を出しているように見える。つまり『失敗の質』などに登場する、集団的な意思決定の難しさだとか、長

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    noreply 2016/12/30
  • 体感消費とは何か

    消費というものに着目したときに、この数年の間に起きている現象はとても興味深いものが多い。一方に目をやれば訪日外国人の旺盛な消費意欲やハロウィンなどのイベント消費があり、他方では「若者の消費離れ」だとか「ミニマリスト」のように、消費しないことが現代の特徴に挙がる場合もある。もちろんどちらも現代のいち側面を表しているのだろうけれど、消費するにせよしないにせよ、その背後にどのようなメカニズムがあるのかは、あまり取り上げられることがない。 自分自身はこの数年、消費社会論を軸にしながらテーマパークやショッピングセンター、観光、といった対象を扱ってきた。こうした消費は、近年「コト消費」などと呼ばれ、モノの消費ではなくて体験が消費価値の中心になっていると言われている。僕としてはその背景に、ネットで情報があふれるようになったことで、行かないと分からない、体験しないと分からないことを消費するマインドが顕在

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    noreply 2016/12/29
  • 組織が変われないのは、替わりがないから――組体操が止められない理由 « SOUL for SALE

    運動会シーズンということで、お天気も微妙な日々が続く中、やきもきしている人も多いと思う。僕はと言えば、子どもの頃は何かに向けて打ち込んで、その成果を出すことに対する意欲がまったくない人間だったので、運動会が楽しみだったとかいう記憶もなく、したがって前日にお天気でやきもきした覚えもない。ところが親になると、朝の9時に運動会を実施するかどうかは7時のメールで連絡する、なんて言われて、ぎりぎりまでお弁当の用意の算段がつかないとなるわけで、否が応でも敏感になってしまわざるをえない。なんでそうなるのかというと、「できる限り実施できるようにしたい」と関係者が考えているからであり、少なくない数の親が「子どもがこの日のために頑張ってきたのだから、なんとか予定通り実施して欲しい」と思っているからなのだろうと推測する。 こうした感情が、いわゆる「組体操問題」をややこしくしているのだろうと思う。内田良先生の大活

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    noreply 2016/11/01
  • 希望の時代の中で―『シン・ゴジラ』雑感

    少なくとも周囲では話題だし、期待もしていたのでさっそく『シン・ゴジラ』を鑑賞してきた。「館長庵野秀明 特撮博物館」にも何度か足を運び、「巨神兵東京に現わる」を会場で何度もリピートした経験があったからか、この映画を通してしたかったこと、撮りたかった絵に対する切実さがすごく伝わるものだった。たぶんあのカットやこのカットがスクリーンに投影されていれば満足という向きもあると思うので「考察」みたいな無粋な真似はするべきじゃないと思うのだけど、他方で真面目に「社会派映画」として見る向きがあることも確かなので、その点も含めややネタバレを含む感想を。注意しておくとストーリーなどの詳細な解説はしないので、見に行くかどうか迷ってこの記事にたどり着いた人には、未見の人はマジで劇場に足を運んだ方がいいと思うってことは伝えておきたい。 さて、作品を見ながら真っ先に思い出していたのは『パトレイバー the Movie

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    noreply 2016/09/03
  • 位置情報連動型ゲームにおける広告プラットフォームの可能性

    前のエントリでは基的に学術的な関心から「空間」と「情報」の話を論じたのだけど、その一方で僕も、「ポケモンGO」のような位置情報連動型ゲームが広告プラットフォームとしてどのような役割を果たしていくのかについては強い関心を持っている。これまで広告プラットフォームとして大きな影響力を持っていたソーシャルメディアとは異なり、リアルの店舗に直接的に送客を見込める広告は、競合する媒体も活用の仕方も独特のものになると思われるからだ。 先に結論だけを述べておくと、こうした位置情報連動型ゲームと結び付いた広告は(1)様々な場所に移動する可能性の高い大人がプレイする傾向が強いため、新規顧客の獲得には強いが、リピーター獲得には弱い、(2)リアル店舗を展開する業態は、新規客であってもリピーターの見込みが低い来訪者を歓迎しない場合がある、(3)普段の立ち回り先での広告展開を考える場合には、プライバシーへの配慮が重

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    noreply 2016/07/24
  • 現実をポケモンが徘徊する〜電脳コイル化するポケモンGO

    ポケモンGO」ファーストインプレッション まだ2日くらいしかたっていないのだけど、各所で歩きスマホする人を見かけるようになったのは、「ポケモンGO」のリリースの影響なのだろう。他方で、既に述べていたように神社などではこのゲームのプレイを禁止するところも出てきて(記事)、それ自体は神社側も予想できていたことだとはいえ、非常に興味深い動きになっているなと思う。 勤め先の大学でも、試験期間中とはいえリリース直後は祭り状態だった。話を聞いてみると、学内を一周するとちょうどポケストップが回復するらしく、歩きスマホする学生が多数。数人のグループで「えっこれどうやるの」などと話しながら歩いていたり、サークルを作って座り込んで画面を見せ合ったり。この世代って約10年前のモンハンブーム(ポータブルの2nd〜2nd G)くらいに小学校高学年〜中学生くらいのはずなのだけど、塾の帰りとかに輪になってモンスター狩

    現実をポケモンが徘徊する〜電脳コイル化するポケモンGO
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    noreply 2016/07/24