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  • 戦国時代『騎馬隊』はあったの、無かったの?(=”兵種別編成”はあったの?)どうやって戦場の手柄を論証するの?〜戎光祥ヒストリカルセミナーより

    戦国時代「騎馬隊」は無かった、いやあった、とかって、地味に歴史クラスタで話題が続いてますよね。そんな議論を見つけたので保存させてもらいます。時系列がちょっと前後しますのでご注意ください

      戦国時代『騎馬隊』はあったの、無かったの?(=”兵種別編成”はあったの?)どうやって戦場の手柄を論証するの?〜戎光祥ヒストリカルセミナーより
    • 旭川中2女子死亡、市教委「報道受けて再調査」認める…いじめ疑いの「重大事態」認定 - 弁護士ドットコムニュース

        旭川中2女子死亡、市教委「報道受けて再調査」認める…いじめ疑いの「重大事態」認定 - 弁護士ドットコムニュース
      • 鉄の来歴に想う 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(11) - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

        鉄について語らぬ訳にはいかない。人間の営みを観察する限り無視し得ない対象である。 鉄は、農機具への使用は農業生産力を、武器への利用は殺傷能力(戦闘能力)を、飛躍的に高めた。無論、それに留まるものでは無いが、鉄は為政者には国力増強と生活者には多くの利便をもたらした。鉄を制するものは国をも制する、である。 日本の製鉄は弥生時代には既に始まる(製造量は僅かにしても製鉄炉を有していた)。鉄資源は如何にもたらされ、如何に製鉄を可能ならしめたか、については既に周知のところである。古来、鉄は地表から鉄鉱石(赤鉄鉱等)と砂鉄(磁鉄鉱等)とのそれぞれ違う形状で手に入れて来た。酸化鉄が堆積して出来たか、元々岩石に含まれていたものが風化して出来たか、の違いである。 砂鉄には、川砂鉄、浜砂鉄、山砂鉄がある。川砂鉄と浜砂鉄は母岩が風化して水と反応して出来たものであるが、山砂鉄は母岩そのものを砕いて直接抽出したもので

          鉄の来歴に想う 中世豊後及び海部郡・郷土史研究用資料(11) - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜
        • 佐々木鏡石@『がんばれ農強聖女』コミック第1巻、11/1発売 on Twitter: "今某所で、 「なろう系小説が中世ヨーロッパ風世界でフライドポテト作ってた! 中世では油は貴重品で容易に手に入るわけがない!」 という意見がありましたが、実はこれはまっっったくの誤りです。皆さんはこれからも遠慮なく異世界でフライドポテト作ってください。 理由は後述。→"

          今某所で、 「なろう系小説が中世ヨーロッパ風世界でフライドポテト作ってた! 中世では油は貴重品で容易に手に入るわけがない!」 という意見がありましたが、実はこれはまっっったくの誤りです。皆さんはこれからも遠慮なく異世界でフライドポテト作ってください。 理由は後述。→

            佐々木鏡石@『がんばれ農強聖女』コミック第1巻、11/1発売 on Twitter: "今某所で、 「なろう系小説が中世ヨーロッパ風世界でフライドポテト作ってた! 中世では油は貴重品で容易に手に入るわけがない!」 という意見がありましたが、実はこれはまっっったくの誤りです。皆さんはこれからも遠慮なく異世界でフライドポテト作ってください。 理由は後述。→"
          • 胡麻 on Twitter: "もう百万人くらいに言われてそうけど、王朝貴族の作法やしぐさ、 ・貴人への文書の受渡しは文刺で ・扇さし隠し ・御簾越しで距離をおいた対面 ・這い伏し(食器と口元を覆い隠す女房の食事作法) などがすべて「飛沫感染対策」の一言で説明で… https://t.co/pPvThvtx6W"

            もう百万人くらいに言われてそうけど、王朝貴族の作法やしぐさ、 ・貴人への文書の受渡しは文刺で ・扇さし隠し ・御簾越しで距離をおいた対面 ・這い伏し(食器と口元を覆い隠す女房の食事作法) などがすべて「飛沫感染対策」の一言で説明で… https://t.co/pPvThvtx6W

              胡麻 on Twitter: "もう百万人くらいに言われてそうけど、王朝貴族の作法やしぐさ、 ・貴人への文書の受渡しは文刺で ・扇さし隠し ・御簾越しで距離をおいた対面 ・這い伏し(食器と口元を覆い隠す女房の食事作法) などがすべて「飛沫感染対策」の一言で説明で… https://t.co/pPvThvtx6W"
            • ウズベキスタンの王、アワがゆ食べていた? 食料庫発見:朝日新聞デジタル

              ","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"

                ウズベキスタンの王、アワがゆ食べていた? 食料庫発見:朝日新聞デジタル
              • 「中世日本の火薬庫」~近畿周辺(伊賀、吉野、大和etc)はなぜ、権力が恐れる「魔境」になりがちなのか?

                素朴に考えると、首都の置かれた場所にあれだけ距離が近いなら権力の支配・統制が行き届いた、安定した地域になると思うのですが…確かに、なんでせしょう

                  「中世日本の火薬庫」~近畿周辺(伊賀、吉野、大和etc)はなぜ、権力が恐れる「魔境」になりがちなのか?
                • 水晶 on Twitter: "武士の暴力性云々の論は時々見かけるのだけど、中世庶民の暴力性や庶民同士での上下関係や諸々の不条理がスルーされてるのが個人的にモヤッとするのですよね…。昭和期に流行った"権力者と対峙する無辜の民衆"という価値観を中世に投影しすぎてる気がするというか。 (唐突なお気持ち表明)"

                  武士の暴力性云々の論は時々見かけるのだけど、中世庶民の暴力性や庶民同士での上下関係や諸々の不条理がスルーされてるのが個人的にモヤッとするのですよね…。昭和期に流行った"権力者と対峙する無辜の民衆"という価値観を中世に投影しすぎてる気がするというか。 (唐突なお気持ち表明)

                    水晶 on Twitter: "武士の暴力性云々の論は時々見かけるのだけど、中世庶民の暴力性や庶民同士での上下関係や諸々の不条理がスルーされてるのが個人的にモヤッとするのですよね…。昭和期に流行った"権力者と対峙する無辜の民衆"という価値観を中世に投影しすぎてる気がするというか。 (唐突なお気持ち表明)"
                  • @忍者研究第3号.indb

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                    • 塩土化 - Wikipedia

                      塩土化 (えんどか、英語: Salting the earth, Sowing with salt)は、征服した街や土地に二度と人が住めない土地とするために塩をまく呪いの儀式[1][2]。古代近東で生まれ、中世のさまざまな民話のモチーフとなった[3]。塩分を含んだ土で育つ植物がほとんどないことを元にした儀式であるが、実際に土地が利用不可能になるほど大量の塩がまかれた例は確認されていない。 都市の破壊[編集] 敵の都市を滅ぼし破壊したのちに、その土地を清め神に捧げるため、またはその都市を再建しようとする者を呪うために塩をまくという習慣は古代オリエントで広く行われたが、塩を用いる理由については当時の史料からはよく分かっていない。 ヒッタイトやアッシリアの文書には、ハットゥシャやタイドゥ(英語版)、アリンナ(英語版)、フヌサ[2]、イッリドゥ(英語版)[4]、スーサ[5]など滅ぼした諸都市に塩や

                      • 【新書のきゅうしょ】「語られない人々」に焦点をあてる 阿部謹也・網野善彦・石井進・樺山紘一著「中世の風景」上下巻(中公新書、1981年)(1/2ページ)

                        1970年代後半から80年代前半、読書界で中世史ブームがあった。西洋史で阿部謹也の『中世を旅する人びと』、日本史で網野善彦の『無縁・公界・楽』などが話題を呼んだ。支配者や武士の目から見た政治・経済を描くのではなく、農民・漁民や市井の職人、非定住民など今まで語られなかった存在に焦点を当てる社会史的な著作の出現は新鮮だった。本書は、その頃、盛り上がった「中世」を研究する学者4人の討議スタイルの書である。 「海・山・川」と題された章で石井は、北越後地方に伝わる貴種流離譚を紹介する。その地域の川の流域にはワタリと呼ばれ、船を操り交易や物資の運搬に従事して遠隔地と商取引を行った人々がいたと語る。ここで私がしごく懐かしい気分になるのは、幼少時「少年マガジン」で愛読した白土三平の漫画「ワタリ」を思い出すから。髪が斜めに流れる少年忍者の活躍に惹かれた。同時期に彼が別雑誌で連載した「サスケ」の方だったかもし

                          【新書のきゅうしょ】「語られない人々」に焦点をあてる 阿部謹也・網野善彦・石井進・樺山紘一著「中世の風景」上下巻(中公新書、1981年)(1/2ページ)
                        • イタリア人が「ドイツ人」のことを馬鹿にして呼んだ「侮蔑の言葉」(菊池 良生)

                          ​神聖ローマ帝国の初代皇帝について、世界史の授業などで耳にしたことがあるのではないか。そう、オットー1世である。 11月新刊『ドイツ誕生』では、ドイツをつくった男として知られるオットーの激動の人生から、ドイツ国家の成立までを紹介している。 今回は、オットーが行った第3次イタリア遠征について、本書の第10章を一部抜粋してお届けしよう。 ポー平原の野戦 九六五年一月、オットーがイタリアを引き上げてからたったの数週間足らずでイタリアはまたもや不穏な情勢になってきた。 まず、三月一日、教皇レオ八世が亡くなった。ローマ市民は次の教皇にハンブルクに流されているベネディクト五世の復位を願った。もちろんオットーはこれを拒否する。教皇選出が遅れる。 この混乱を利してパヴィア伯ベルンハルトらの貴族が蜂起した。彼らはコルシカにいるアーダルベルトをイタリア王に担ぎ出した。アーダルベルトの弟グィードもこれに呼応して

                            イタリア人が「ドイツ人」のことを馬鹿にして呼んだ「侮蔑の言葉」(菊池 良生)
                          • 源平合戦の英雄・源義経の孤立と没落は「必然」だった!?(呉座 勇一)

                            『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、先週放送の第18話「壇ノ浦で舞った男」、昨日放送の第19話「果たせぬ凱旋」をまとめて解説。さまざまな史料や学説を参照しつつ、一ノ谷の戦いから壇ノ浦の戦いに至る一連の流れや、源平合戦が展開する中で源頼朝・義経兄弟の間に生まれた亀裂の理由に迫ります。 『鎌倉殿の13人』の第18話では平家滅亡と腰越状、第19話では源義経の挙兵失敗が描かれた。誤解とすれ違いの積み重ねによって悪化の一途をたどる源頼朝・義経兄弟の関係を、北条義時は何とか修復しようとするが、果たせなかった。歴史学の観点から第18・19話のポイントを解説する。 屋島の戦い 一の谷合戦後、紆余曲折を経て、源頼朝は弟の範頼を平家討伐に起用する。範頼軍は元暦元年(1184)8月8日に鎌倉

                              源平合戦の英雄・源義経の孤立と没落は「必然」だった!?(呉座 勇一)
                            • 財宝出土のサットン・フー遺跡、英国「最後」の豪勢な墓だった

                              サットン・フーで発掘された見事な兜。7世紀初頭、上層階級の戦士あるいは王だったかもしれないアングロ・サクソン人の持ち主とともに埋葬された。(PHOTOGRAPH COURTESY BRITISH MUSEUM) 1939年、英イングランド南東部のサットン・フー遺跡で、1400年前のアングロ・サクソン戦士のものとみられる墓が発見された。そこには、まるごと1隻の船の痕跡があり、目もくらむほどの豪華な品々が埋葬されていた。 この壮大な発見は、中世初期の英国に対する理解を「一挙に変えてしまいました」と、これらの遺物を大英博物館で管理している学芸員のスー・ブラニング氏は言う。 イングランド南東部にあるサットン・フーの最初の発掘調査で撮影された写真。写っているのは約1400年前に土中に埋められた木造船の痕跡。(PHOTOGRAPH COURTESY BRITISH MUSEUM)

                                財宝出土のサットン・フー遺跡、英国「最後」の豪勢な墓だった
                              • 書評『100年かけてやる仕事 中世ラテン語の辞書を編む』 地道で手間がかかる仕事をなぜやるのか(小林恭子) - エキスパート - Yahoo!ニュース

                                毎日新聞の元欧州総局長で、現在は編集編成局次長の小倉孝保氏との初顔合わせは、5年ほど前になる。 当時は在ロンドン・欧州総局長で、在英日本人が集まるイベントが終わり、食事会のためにレストランに入った時だった。小倉氏が少し離れた席で、とても楽しそうに会話をしている姿が見えた。なんだか面白そうな人だと思い、別の日に友人たちとの夕食にお誘いした。 英国の新聞の「長い訃報記事を愛読している」という小倉氏は、常に面白いおかしい話を引き出しに入れており、大笑いしながら食事をすることになった。 新聞記者である一方で、小倉氏は数々のノンフィクション作品も書いており、ある会食時には「三重スパイ」の取材のために自腹でお金を使い、あちこちに出かけたことを話してくれた(これはのちに、講談社から『三重スパイ イスラム過激派を監視した男』として出版された)。 過去の本も含めて小倉氏の本を読むようになり、『がんになる前に

                                  書評『100年かけてやる仕事 中世ラテン語の辞書を編む』 地道で手間がかかる仕事をなぜやるのか(小林恭子) - エキスパート - Yahoo!ニュース
                                • カール大帝は何語をしゃべっていたか?: 極東ブログ

                                  以前、『英語の現在完了は、なぜ、「have + 過去分詞」なのか?』という記事を書いたことがある。そのなかで、こう触れた。 カロリング朝ルネサンスというなら、その中心は、「カール大帝」である。で、「シャルルマーニュ」である。え? どっち? さすがに、Charles the Greatはなしだが、Karl der Großeなのか、Charlemagneなのか? 当然、どっちも違って、ラテン語で、Carolus Magnusとしたいところだし、公式にはそれでいいのだろうが、さて、彼自身はどう捉えていたか? というか、カール大帝は、何語を喋っていたのか? ここで、歴史好きなら知っているだろうが、カール大帝の母は誰かわかっていない。母語、mother tongueは? だが、おそらく、ここは、カール大帝の母の言葉ではなく、彼の教育係の言葉だろうし、それはラテン語だろうが、日常会話はどうだったかと

                                  • そのローマ教皇の死体はなぜ裁判にかけられたのか

                                    フランス人画家ジャン・ポール・ローランスが描いた死体裁判の一場面。フォルモススは教皇服を着せられ、被告人席に座らされている。(PHOTOGRAPH BY BRIDGEMAN/ACI) そのローマの漁師は、よほどたまげたに違いない。伝説によると、哀れな漁師がテベレ川で引き揚げたのは、元ローマ教皇フォルモススの死体だった。死後9カ月経った亡骸を掘り起こして裁判にかけるという、カトリック教会史上類を見ない異常事態の主役となってしまった教皇だ。その死体を川で見つけるなど、いったい誰が想像しただろうか。 フォルモススが死後に受けた屈辱の物語は、9世紀後半にイタリアで繰り広げられた権力闘争を象徴する歴史の一幕である。 当時の教皇のリストを見れば、ローマとバチカンはキリスト教の説く協調とは程遠く、いかに混乱の時代にあったかがわかるだろう。西暦872年から965年の93年間に、ローマ教皇は24回も交代した

                                      そのローマ教皇の死体はなぜ裁判にかけられたのか
                                    • チリンガム城”Chillingham Castle”~英国屈指の人気幽霊城の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

                                      イングランド王国の北辺、スコットランド王国との境界近くに位置するチリンガム村は古くから両国の対立・紛争に巻き込まれてきた。チリンガムを領したのはチリンガムよりさらに北にあるヒートン城”Heaton Castle”を守るグレイ” Grey”家で、彼らによって十三世紀頃、チリンガムに城が築かれた。1297年、スコットランド軍に包囲されて多くの犠牲者を出し(注1)、1298年、イングランド軍がスコットランド軍を破りスコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスを捕らえたフォルカークの戦い(1298年7月22日)に向かうイングランド王エドワード1世がチリンガム城に滞在した記録が残る(注2)。 現存するチリンガム城は十四世紀に築かれたもので(注3)、1344年、イングランド王エドワード3世よりヒートン城主トマス・グレイ” Thomas Grey”に対し、チリンガム城の築城とクレネル化(注4)の許可が下され

                                        チリンガム城”Chillingham Castle”~英国屈指の人気幽霊城の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー
                                      • 戦国時代と江戸時代 異なる時代の姿が共存 鳥取城(1) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

                                        日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は鳥取市の鳥取城。山上にある戦国時代の城と、山麓(さんろく)にある江戸時代の城が共存する、珍しい城です。 鳥取城は、豊臣(羽柴)秀吉の三大城攻めのひとつ“渇(かつ)え殺し”の舞台として知られる。1581(天正9)年、信長の命令を受けた秀吉は、大軍を率いて吉川(きっかわ)経家や城兵ら約3400人がこもる鳥取城を包囲。鳥取城への援軍や兵糧の搬入を断ち、飢餓状態に追い込む兵糧攻めで開城させた。城内が餓死者の山と化す、戦国史上もっとも悲惨な籠城(ろうじょう)戦といわれている。 山麓一帯には石垣や水堀が残るが、これらは籠城時の鳥取城の名残ではない。経家が籠城した戦国時代の鳥取城の中心は、久松公園内にそびえる標高263メートルの久松山の山頂にあった。山麓の

                                          戦国時代と江戸時代 異なる時代の姿が共存 鳥取城(1) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
                                        • 中世ヨーロッパの築城形式「モット・アンド・ベイリー式城塞」のまとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー

                                          モットは自然の丘陵地の上に設けられる場合もあれば、盛り土を築いて造られる場合もある。高さは最大のもので約30メートル、平均すると6~9メートルのものが多く(注1)、形状は円形や楕円形など様々だが、頂上部を平坦に、斜面を急坂に造成して作られた。モットの頂上には土・木製の居館が築かれ後に石造の城塔へ発展した。通常、モットへは外部から直接行く通路が無く、周囲に築かれたベイリーを通る必要がある。 ベイリーは、モットの下部に位置する平地部分で兵士たちや職人、領主の使用人などの住居、馬屋、納屋、礼拝堂、広場などが築かれている。ベイリーの周囲には土塁と壕をめぐらし、土塁の上に木造のパリサードが設けられている。壕には通常跳ね橋が架けられ外部と繋がっていた。モットを持たないベイリーは「環状構築物(リングワーク” Ringwork”)」と呼ばれる。また、ベイリーは非常時には近隣住民の避難地としても機能していた

                                            中世ヨーロッパの築城形式「モット・アンド・ベイリー式城塞」のまとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー
                                          • 何故、アーサー王のイメージカラーは青色なのか? | Call of History ー歴史の呼び声ー

                                            神話・伝承「アーサー王の紋章」(十六世紀)/ "Armoiries du roi Arthur. Détail du folio 3 recto du manuscrit français 5233 de la BnF. D'azur à trois couronnes d'or disposées en pal." 古くからアーサー王は青い色の衣服を身に着けて描かれることが多かった。最近でも、人気のFateシリーズでアーサー王をモチーフにしたキャラクターであるセイバーことアルトリア・ペンドラゴンが青色を基調とした衣装で描かれているため、多くの人に青色のアーサー王は馴染みが深いだろう。アーサー王と青色は伝統的な組み合わせであった。アーサー王が青色の衣装を身にまとって描かれるようになるのは十三世紀のことで、これはヨーロッパにおける青色の地位の向上と流行を背景としている。

                                              何故、アーサー王のイメージカラーは青色なのか? | Call of History ー歴史の呼び声ー
                                            • 「マーロウ・ウォーロード」と呼ばれるアングロ・サクソン人有力者の墓が発見 | Call of History ー歴史の呼び声ー

                                              イングランド南東部バークシャーにあるテムズ川中流域の町マーロウの丘陵地で六世紀頃のアングロ・サクソン人有力者の墓が発見された。調査にあたったレディング大学がプレスリリースで発表し、The Gurdian他各紙で報じられている。 発見された墓には装飾された鞘と鉄製の剣、および青銅製のボウルやガラス製の容器、衣類の金具、槍の穂先など多くの副葬品とともに身長6フィート(約1.8メートル)の男性の遺骨が埋まっていた。Live Scienceによると、当時のイングランドの男性の平均的な身長が5.7フィート(約1.7メートル)であったといい、平均的な身長よりかなり高い。研究者はこの遺骨の人物を発見された地名にちなんで「マーロウ・ウォーロード(Marlow Warlord,注1)」と呼んでいる。 調査にあたったレディング大学のガボール・トーマス博士は「この男は、当時の他の男性に比べて背が高くがっしりして

                                                「マーロウ・ウォーロード」と呼ばれるアングロ・サクソン人有力者の墓が発見 | Call of History ー歴史の呼び声ー
                                              • 源平合戦で木曽義仲の活躍支えた「謎の参謀」正体

                                                治承4(1180)年9月、信濃国の木曽義仲は挙兵し、平家方の武将を次々と破っていく。越後の豪族・城氏を横田河原合戦(信濃国)で破り、寿永2(1183)年には、越中国の砺波山で平維盛(平清盛の孫)率いる北陸追討軍と激突することになる。 勢いにのる義仲は信濃にありながら、越前国に「火打城」を築かせる。『平家物語』によるとその数6000余騎、平泉寺の長吏(寺の長)、斎藤太、林六郎、富樫入道らが城に立てこもったという。彼らは、横田河原合戦後に義仲の直属の家来になった。義仲は、彼ら北陸の武士たちに火打城を守らせ、平家の大軍の侵攻に備えようとしたのである。 平家の軍勢は城を囲むも、城の前後は山で、川も流れている天然の要害であったので、容易に攻めることはできず、日数が経つばかりであった。 平泉寺の長吏・斎明の裏切りで落城 勝敗はその後もなかなか決しないかに見えたが、城内にいた平泉寺の長吏・斎明が実は平家

                                                  源平合戦で木曽義仲の活躍支えた「謎の参謀」正体
                                                • MSN

                                                  • 切り売りされる「素の自分」 リアリティー番組の危うさ:朝日新聞デジタル

                                                    ","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"

                                                      切り売りされる「素の自分」 リアリティー番組の危うさ:朝日新聞デジタル
                                                    • 和歌山毒物カレー事件、林眞須美死刑囚の長男が綴る「冤罪」の可能性とその後の人生

                                                      <21年前に日本中を騒がせ、4人が死亡した毒物混入事件は、冤罪だったという説がある。ツイッターを始め、『もう逃げない。』という著書を出版した長男は何を語るのか> 『もう逃げない。~いままで黙っていた「家族」のこと~』(林眞須美死刑囚長男・著、ビジネス社)の著者は、今から21年前の1998年7月に発生した「和歌山毒物混入カレー事件」の犯人として逮捕された、林眞須美死刑囚の長男。 事件当時は小学5年生だったが、同年10月4日の早朝に両親が逮捕されてからは、高校3年生まで和歌山市内の養護施設で暮らし、現在は会社員として働いている。 67人が中毒症状を起こし、4人が死亡した和歌山毒物混入カレー事件については、林眞須美が無罪を訴えつつも、2009年に最高裁判所で死刑が確定しているが、実は冤罪だったのではないかという説がある。林夫婦が事件以前に大掛かりな保険金詐欺を働いて巨額の富を得ていたことは事実で

                                                        和歌山毒物カレー事件、林眞須美死刑囚の長男が綴る「冤罪」の可能性とその後の人生
                                                      • <川口いじめ訴訟>頭たたき、耳引っ張る…愛情表現で体罰ではない 市側、校長らの陳述書を提出|埼玉新聞|埼玉の最新ニュース・スポーツ・地域の話題

                                                        川口市立中学校のクラブ活動で同級生の暴力や顧問教諭の体罰が原因で不登校になったのは学校や市教委の対応が不適切だったとして、元男子生徒(17)が市に損害賠償を求めている訴訟で、市側が顧問教諭の体罰について「愛情の表現だった」とする校長や顧問らの陳述書を提出していることが8日までに分かった。

                                                          <川口いじめ訴訟>頭たたき、耳引っ張る…愛情表現で体罰ではない 市側、校長らの陳述書を提出|埼玉新聞|埼玉の最新ニュース・スポーツ・地域の話題
                                                        • 「公会議主義」の登場から退潮まで~中世末期教会改革の挫折

                                                          公会議(ラテン語” Concilium Oecumenicum”,英語” Ecumenical council”)は以下のように定義される。 『カトリック教会において全世界の司教が教会の最高指導者として集まり、信仰とキリスト教生活に関して規範となるような議決を行う教会の最高会議。教皇が召集・主宰し、決議を承認すると規定されている』(注1) 325年の第1ニカイア公会議を最初の公会議として、教皇の下で教義の制定や教会行政上の決定、異端の排斥などの機能を担ったが、十一世紀以降の教会改革を経て教皇権が強化されると、教皇の悪政を抑止する機能を公会議が持つとする見解が生じ、十三世紀頃から教皇至上権に対し公会議こそ教皇より高位の権力を持つとする理論が提唱されるようになり、1378年から「教会大分裂(大シスマ)」時代に入ると、公会議が教会における至上権を持つとする「公会議主義(” Conciliaris

                                                            「公会議主義」の登場から退潮まで~中世末期教会改革の挫折
                                                          • コルチェスター城~ローマ帝国の栄光を受け継ぐノルマン征服の象徴 | Call of History ー歴史の呼び声ー

                                                            「カムロドゥヌムにあるローマ時代(一世紀)の門、バルケルン門の復元図」 © Carole Raddato from FRANKFURT, Germany / CC BY-SA (wikimedia commonsより) コルチェスター城があるコルチェスター市の歴史は非常に古く、紀元前一世紀、ケルト系の戦争神カムルス” Camulus”が祀られた聖地カムロドゥノン” Camulodunon”であった。一世紀、ローマ帝国軍の侵攻が開始した時はトリノヴァンテス族の主要な集落(オッピドゥム” Oppidum”)となっており、ブリタニア属州が成立すると属州全体の州都カムロドゥヌム” Camulodunum”としてローマ式の城塞都市(カストルム” castrum”)が築かれた。 西暦60年または61年、イケニ族の女王ブーディカ” Boudica”の反乱に際して、ブーディカ軍がカムロドゥヌム近郊の戦いで

                                                              コルチェスター城~ローマ帝国の栄光を受け継ぐノルマン征服の象徴 | Call of History ー歴史の呼び声ー
                                                            • 藤木久志さん死去:朝日新聞デジタル

                                                              藤木久志さん(ふじき・ひさし=立教大学名誉教授・日本中世史)28日、敗血症で死去、85歳。葬儀は10月3日午前10時30分から神奈川県鎌倉市大船2の17の15の鎌倉ファミリーホールで。喪主は妻香代子さん。 奴隷狩りが日常的に行われていた戦場の実態を描いた「雑兵たちの戦場」など、新たな戦国時代像に…

                                                                藤木久志さん死去:朝日新聞デジタル
                                                              • アフリカで花開いたヨルバ芸術、発見時の解釈は偏見に満ちていた

                                                                ヨルバの王「オニ」の頭をかたどったブロンズ像。12~15世紀ごろ。ナイジェリア国立イフェ博物館蔵。(ANDREA JEMOLO/SCALA, FLORENCE) アフリカの民族ヨルバ人が、神々が創造し、人類が発祥した聖なる地と信じている場所がある。イフェだ。 ナイジェリア最大の都市ラゴスの200キロ北東に位置するこのイフェで、20世紀前半、考古学者が古代の頭像を発見し、ヨルバ文化の豊かな歴史に光を当てた。 素材は金属だったり素焼きだったりと様々だが、頭像は正確に左右対称であるのが特徴だ。顔には線や模様が施され、髪形も精巧に作られており、いずれも堂々とした威厳を感じさせる。 しかし、ヨルバ人にとって頭部がいかに重要かを、1910年にこれらの像を初めて見たドイツの民族学者レオ・フロベニウスは知らなかった。頭像の起源についての彼の説は、凝り固まった人種差別的な考えに基づいていたものの、彼がヨルバ

                                                                  アフリカで花開いたヨルバ芸術、発見時の解釈は偏見に満ちていた
                                                                • 京都文化博物館「~室町幕府滅亡後450年〜足利将軍、戦国を駆ける!」のポスターに小さく辛辣なことがサラッと書かれていた「大内さんはね…」

                                                                  リンク コトバンク 大内義興(おおうち・よしおき)とは? 意味や使い方 - コトバンク 朝日日本歴史人物事典 - 大内義興の用語解説 - 没年:享禄1.12.20(1529.1.29)生年:文明9(1477)戦国時代の武将。幼名亀童丸。官途は周防権介,左京大夫。政弘の子。明応3(1494)年,政弘の病により家督を継ぐ。周防・長門・豊前・筑前・石見などの守護。同5年から6年にかけて少弐政資が筑前に...

                                                                    京都文化博物館「~室町幕府滅亡後450年〜足利将軍、戦国を駆ける!」のポスターに小さく辛辣なことがサラッと書かれていた「大内さんはね…」
                                                                  • https://twitter.com/baccheuo/status/1460540735489396742

                                                                      https://twitter.com/baccheuo/status/1460540735489396742
                                                                    • 中世の英オックスフォードは「殺人街」だった、犯人は主に大学生

                                                                      特徴的な柄からボロックナイフ(こうがんナイフ)と呼ばれる14世紀のナイフ。中世ヨーロッパで食器、道具、武器として広く使われていた。「キドニーダガー(腎臓短剣)」という別名もあり、英オックスフォード大学の学生の多くが携帯していただろう。そのなかには、明らかに殺意を抱いている者もいた。(PHOTOGRAPH BY THE METROPOLITAN MUSEUM OF ART) 英国オックスフォード大学の学生にとって、中世は死と隣り合わせの時代だった。中世英国のほかの街と比べて、殺人を犯したり、惨殺されたりする確率が約3倍も高かったのだ。 9月28日に「中世殺人地図」プロジェクトにより発表されたこの驚くべき統計は、当時の法的記録に基づいている。殺人が多かったのは、若い独身の男子学生が多かったことと、凶器、アルコール、セックスワーカーが身近だったせいだと研究者は考えている。 プロジェクトの主任調査

                                                                        中世の英オックスフォードは「殺人街」だった、犯人は主に大学生
                                                                      • NHKドキュメンタリー - BS世界のドキュメンタリー 選「完全再現!黄金期のフランス古城」

                                                                        2019年5月23日(木) 午前0時00分(45分) 2019年6月12日(水) 午後5時00分(45分) 2019年7月20日(土) 午後10時00分(45分) 2020年2月12日(水) 午後11時00分(46分)

                                                                          NHKドキュメンタリー - BS世界のドキュメンタリー 選「完全再現!黄金期のフランス古城」
                                                                        • 「なぜいま、「幕府」を問うのか?」 〔前編〕 東島 誠|本がひらく

                                                                          近年、一般向けの歴史書が何度目かのブームを迎えています。その中で問われないままに終わっている最大の存在「幕府」について、根本から問い直してみましょう。 ※本記事は、NHK出版より刊行予定のNHKブックス、東島誠『「幕府」とは何か』から、「はじめに」と序章「いま、なぜ中世史ブームなのか、そして、なぜあえて幕府論なのか?」を先出しでお届けするものです。 歴史学に何が可能か「歴史学に何が可能か」。これは、二〇一二年、つまり東日本大震災の翌年に與那覇潤と語り合った、雑誌対談のタイトルである。震災後、與那覇が『中国化する日本』(文藝春秋)を出し、私が『〈つながり〉の精神史』(講談社)を出したところで、この対談が実現した。内容的には、第二次大戦後、歴史学の最良の部分が、その時代時代のどのような知の営みとタイアップして展開されたかを中心に、縦横に語り明かしたもので、翌二〇一三年刊行の『日本の起源』(太田

                                                                            「なぜいま、「幕府」を問うのか?」 〔前編〕 東島 誠|本がひらく
                                                                          • パンタポルタ: 風呂なし! 男尊女卑は当たり前! 創作ではぼかしておきたい中世ヨーロッパの事情まとめ

                                                                            中世ヨーロッパ風の世界観を舞台に創作するなら、やっぱり実際の中世ヨーロッパの様子を参考にしたいもの。ですが中世の人々は現代人とは価値観が異なるため、全ての設定を史実と同じにすると書きにくくなってしまうことがあります。 今回はそんな「中世ヨーロッパでは当たり前だったけれど、ファンタジー世界観に盛り込むと自分が書きにくくなる設定」をまとめてご紹介しましょう。あなたは設定として採用しますか? しませんか? ①ノミ・シラミだらけ 風呂にはあまり入らなかった きらびやかなドレスに身を包む王侯貴族、質素ながらも清潔な服装をしている街や村の住人――ちょっと待ってください、それはRPGの世界だけの話かもしれません。 中世ヨーロッパでは自宅に風呂がある者は少なく、入浴する時は風呂屋まで行かねばなりませんでした。水の便の良い地方では風呂屋の数も多かったものの、農民などの中には入浴を惰弱な行為だと考える者がいた

                                                                              パンタポルタ: 風呂なし! 男尊女卑は当たり前! 創作ではぼかしておきたい中世ヨーロッパの事情まとめ
                                                                            • 司史生@停滞中 on Twitter: "歴史クラスタで話題にされるキレる中世人問題、これ自力救済の概念を押さえてないと、ただのネタ話にしかならない。権力や法によって自分の権利が保護されず、権利侵害に対する公正な処罰や救済が期待できない社会になったら、すぐぶっ殺す自力救済社会の中世人に回帰しますよ。"

                                                                              歴史クラスタで話題にされるキレる中世人問題、これ自力救済の概念を押さえてないと、ただのネタ話にしかならない。権力や法によって自分の権利が保護されず、権利侵害に対する公正な処罰や救済が期待できない社会になったら、すぐぶっ殺す自力救済社会の中世人に回帰しますよ。

                                                                                司史生@停滞中 on Twitter: "歴史クラスタで話題にされるキレる中世人問題、これ自力救済の概念を押さえてないと、ただのネタ話にしかならない。権力や法によって自分の権利が保護されず、権利侵害に対する公正な処罰や救済が期待できない社会になったら、すぐぶっ殺す自力救済社会の中世人に回帰しますよ。"
                                                                              • 「肥満帝」フランク皇帝カール3世 大版図だが贅肉だらけ 佐藤賢一 - 日本経済新聞

                                                                                カール3世は9世紀の東フランク王ルートヴィッヒ2世の息子である。それでも自身はフランク皇帝として歴史に残る。実質ドイツ王にすぎない皇帝でなく、カール大帝やルートヴィッヒ敬虔(けいけん)帝と同じ、「大フランク帝国」の皇帝として、である。今のドイツ、フランス、北イタリアと分裂していた帝国を、カール3世が再統一したことは、確たる史実なのである。「カール大帝」と呼ばれても不思議でない。曽祖父と同じで紛ら

                                                                                  「肥満帝」フランク皇帝カール3世 大版図だが贅肉だらけ 佐藤賢一 - 日本経済新聞
                                                                                • チェコ最強の武将ヤン・ジシュカとフス戦争 - 歴ログ -世界史専門ブログ-

                                                                                  農民軍を率いて十字軍を何度も撃破した伝説的なチェコの武将 「世界史で最強と思う将軍は?」 という質問を歴史ファンにした時に、もしかしたらヤン・ジシュカの名前を挙げる人もいるかもしれません。 1419年から15年間続いたフス戦争において、初期のフス派を率いて十字軍の攻撃を何度もはねのけたのがヤン・ジシュカです。彼の活躍によってフス派はチェコ独自の教義としてチェコ人のアイデンティティとなっていくため、この人がいなければもしかしたら、現在チェコという国が成立しなかったかもしれないほどの重要人物でもあります。 話はヤン・フスが異端審問の末に殺害された1415年7月以前に遡ります。 1. フス派運動の始まり ヤン・フスの登場 チェコ出身の神聖ローマ皇帝カレル4世(1316-1378)は、金印勅書の発布やプラハ大学の創立など近代的改革を行った男で、開明的な君主の下チェコの都プラハは黄金時代を迎えました

                                                                                    チェコ最強の武将ヤン・ジシュカとフス戦争 - 歴ログ -世界史専門ブログ-