挿絵で読む平家物語 Ⅰ はじめに ― 平家物語の世界へ Ⅱ 妖しきものたちの 平家物語 Ⅲ 広がる平家物語 Ⅳ おわりに ― 平家物語とその時代 系図で見る主な登場人物 治承・寿永の内乱 年表 資料一覧
挿絵で読む平家物語 Ⅰ はじめに ― 平家物語の世界へ Ⅱ 妖しきものたちの 平家物語 Ⅲ 広がる平家物語 Ⅳ おわりに ― 平家物語とその時代 系図で見る主な登場人物 治承・寿永の内乱 年表 資料一覧
NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』が、とうとうクライマックス「本能寺の変」を迎える。昨年発売され大ヒットした『日本史サイエンス』は、豊臣秀吉の「中国大返し」の難易度を科学的に検討し、「秀吉は本能寺の変を事前に察知していた」という結論を導いた。意外なことに、歴史学の研究成果もこの科学的な主張を支持している。「本能寺の変」研究の第一人者である藤田達生氏がこの説を徹底検証した、2020年10月25日の記事を再掲する。 実際の行程を推定してみる 本能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、天下の趨勢を決したのが「中国大返し」だった。それは、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城(岡山県岡山市)から、光秀との決戦の場となった山崎(京都府大山崎町)までの常識を超えた高速の行軍だったとされている。
はじめに 織田おだ信長のぶながや豊臣とよとみ秀吉ひでよしや徳川とくがわ家康いえやすといった戦国武将に関しては、だいたいこういう人物だろうというイメージを皆が持っている。その人物像は小説やドラマ、映画などに淵源えんげんしていることが多いので、人それぞれ違う、ということはあまりない。秀吉は人たらし、家康は狸親父たぬきおやじといったイメージが世間一般に広く流通している。 だが、そうした人物像は必ずしも固定的なものではない。昔からずっと同じイメージで語られてきたわけではなくて、時代ごとにイメージは変わっている。我々が抱いている信長像や秀吉像は何百年も前に作られたものではなく、意外と最近、たとえば司馬しば遼太郎りょうたろうが作ったイメージに左右されている、ということが結構ある。そこでこの連載では、信長像や秀吉像が時代によってどう変遷したかということと、実際はどういう人だったのかということを、述べたい
※本日の記事は千代田区観光協会の提供でお届けします。 余計な事を聞いたりもしました。最終回に向けてがぜん盛り上がっている大河ドラマ「どうする家康」(NHK)ですが、これにあやかって千代田区観光協会から「千代田区×徳川家康プロジェクト『家康、千代田城入城』のひとつとして徳川家康ゆかりの地を紹介して欲しい!」という依頼がありましたので、とある場所に早速やって来ました。 おや……? ここは……? はい。 というわけで本日は徳川宗家第19代当主、徳川家広さんにお越し頂きました。「徳川家康ゆかりの地を巡るならその子孫に案内してもらおうぜ」という雑な思い付きから飛び出した企画です。大変申し訳ございません。 徳川家広……徳川記念財団理事長、長崎大学国際連携研究戦略本部客員教授、特定非営利活動法人公共政策調査機構顧問、作家、翻訳家、徳川宗家第19代当主。 ヨッピー おおおお!なんていうか、似てますね……!
織田信長(「Wikipedia」より/Quark Logo) 主君、織田信長を討った謀反人。明智光秀のそんなイメージはここ十数年で見直されるようになり、歴女にも人気になっている。現在放送されているNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では光秀の生涯が描かれている。 3月18日、NHKで『本能寺の変サミット2020』が放送された。光秀はなぜ織田信長のいる本能寺を襲い、自刃に追い込んだのか。司会は爆笑問題。東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏を解説に迎え、天理大学准教授・天野忠幸氏、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館学芸員・石川美咲氏、熊本大学文学部教授・稲葉継陽氏、東洋大学講師・柴裕之氏、滋賀県立安土城考古博物館学芸員・高木叙子氏、大山崎町歴史資料館館長・福島克彦氏、三重大学教授・藤田達生氏ら研究者が一堂に会し、さまざまな説を検証した。 俎上に上がったのは、「怨恨説」「イエズス会共謀説」「徳川家康共謀説」
JRA京都競馬場淀寮の増築工事に伴い、京都市埋蔵文化研究所が調査したところ、淀城跡の家老屋敷が発掘された。18世紀後半に水害対策としてかさ上げ工事が行われていた事実や、1868年の鳥羽伏見の戦いでの火災跡も確認された。当時の防災のあり方や、鳥羽伏見の戦いの状況を知ることができる非常に貴重な史料だ。 見つかったのは、18世紀中頃から後半に、地下1メートル40センチのところで使われた家老屋敷の跡。その後、同じ場所の70センチ高いところに再び屋敷を建てており、軟弱地盤に対応するために生まれた石柱を立てる蝋燭(ろうそく)基礎という工法でかさ上げ工事を行われていた事実も確認された。 今回検出された工法は、当時、関西にはなく、江戸周辺や下総国に多くみられたもの。江戸時代中期に稲葉家が淀藩の藩主となる前、下総国佐倉藩の藩主であったことが関係していると考えられている。淀城は桂川、宇治川、木津川の合流点に接
京都市伏見区といえば、日本酒の酒蔵や、伏見稲荷大社などで有名な町だけれど、我々のような地名好きにとってたまらない町でもある。 「武蔵」「長門」といった、旧国名のついた町名がたくさんあるのだ。 伏見区を一日中ぶらぶらして旧国名の地名を集めたら、天下統一できるかもしれない。 豊臣秀吉の城下町、伏見 伏見にやってきた。 伏見駅近くのアーケード 伏見桃山駅を出ると、アーケードの商店街がまっすぐ続いている。 日本各地には、もはや息も絶え絶えといったアーケード商店街がたくさんあるなか、それなりの賑わいが感じられる。 今回は、旧国名の町名を探すのが目的だ。 街角にある住居表示の看板や街の掲示板など、旧国名の町名が書いてあるものを発見すれば、その国を盗ったということにして、最終的に、どこまで国盗りできるのか……というのが今回のさんぽの目的である。 そうこうするうちにさっそく町名を発見。 東大手町を発見 「
小学生から新学習指導要領で受験する高校生、さらには社会人までを読者対象とする、気鋭の若手研究者たちが監修した『講談社 学習まんが 日本の歴史』(全20巻)シリーズが好調に売れています。監修者のひとりであり、21日には大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代考証を務めることが発表された歴史学者の呉座勇一氏は、明智光秀が「敵は本能寺にあり」などとは言っていないように、日野富子は悪女ではなかったと力説します。 なんのために歴史を学ぶか 「学習まんが」というと、一般的には小中学生が読むものというイメージが強いと思います。しかし、実際にはもっと年齢が上の人たち、高校生、大学生、さらには、社会人でも、歴史を学ぶ上での導入として読まれる方がかなりいらっしゃいます。 今回、私が中世時代を監修させていただいた『学習まんが 日本の歴史』は、大人の読者も想定し、「学習まんが」としては知識量、情報量が多くなっています。
現在の三重県に拠点があった「長島一向一揆」を攻略するため、織田信長が大軍で攻める時期を家臣に示した書状が残されていたことを東京大学史料編纂所の研究者が確認したことがわかりました。 戦国武将の織田信長は各地で起きた「一向一揆」と激しく争い、現在の三重県桑名市を拠点にした「長島一向一揆」では3回目の合戦で信長が大軍を差し向けて攻略しています。 書状は、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授がインターネットオークションで見つけて確認したもので、信長が「長島一向一揆」との3回目となる合戦に向けて準備をしていた天正元年(1573年)に、一揆の拠点近くの城にいた家臣、鎌田新介などに宛てた書状だということです。 この中では、翌年にあたる天正2年の1月から3月ごろに拠点を攻めることを示したうえで、それまで城にとどまり、守りを固めるよう指示しています。 書状は、朱印と呼ばれる末尾の赤い印が切り取られていますが、
愛知県の国宝 犬山城の天守は、秀吉と家康が争った小牧長久手の戦いの直後に建てられたとみられ、これまで考えられていたより50年ほど新しいものの、現存する最も古い天守であることが裏付けられたことが名古屋工業大学大学院などが行った建築材の調査で分かりました。 愛知県犬山市にある犬山城の天守は、昭和36年から行われた大規模な修理に伴う調査の結果、2階までの下層階は1537年ごろに織田信長の叔父の信康が建築し、3、4階はそのおよそ60年後に増築されたという説が有力でした。 犬山市の依頼を受けた名古屋工業大学大学院の麓和善教授らが、おととしから初めて年輪年代法という手法で分析したところ、柱やはり、床板など天守の主な建築材は、いずれも西暦1585年からの3年間に伐採されていて、1階から4階まで一気に建設されたとみられることが分かったということです。 この時期は、豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦い
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ほんごう・かずと/1960年、東京都生まれ。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。 ニュース3面鏡 インターネットの登場以来、以前にもまして巷にはニュースがあふれ返っています。そうしたニュースや出来事の中から、DOL編集部が気になる出来事を厳選し、正面のみならず右から左から、価値あるニュース、楽しいニュースをお届けします。 バックナンバー一覧 鎌倉時代、2度にわたってモンゴルに攻め入られた日本。そんな大国の侵攻から日本を救った英雄とみられているのが、北条時宗だ。しかし、モンゴルが日本に攻め入った経緯を
織田 万里 @sashikae 長女(5歳)から「なんでご先祖さまは死ななくちゃいけなかったの?」という質問を受けたので、今晩は絵本読み聞かせをキャンセルして織田家大反省会を開催したいと思います。 2021-02-07 21:13:22 織田 万里 @sashikae 読書とゲームとぬこが好き。 本業はゲームデザイナー、シナリオプランナー、時々、ライター、編集者、その他雑用 担当業務についてはお答えできないと思います! 近著『ファイナルファンタジーXIVの絵本 ナマズオとだれもみたことのないもの』『光の回顧録 Chronicles of Light』 line.me/S/shop/sticker… 織田 万里 @sashikae なお、末裔と言っても系譜と多少の口伝が伝わるだけで、客観的な資料による裏付けがある訳でもありませんので、話半分でどうぞ。 特に中興の祖とされる四代目の出自は、物語
History of Japanese Honeybee Beekeeping. 我が国におけるニホンミツバチの養蜂、およびハチミツ利用の黎明期〜明治・大正時代までの歴史を概観します。 また、参考となる歴史的史料は、表にまとめてページの下に掲載しています。 特に江戸時代のニホンミツバチの養蜂を伝える重要資料である、「蜂蜜一覧」明治5(1872)年版、(丹波修治:編撰、溝口月耕:図画)については、日朝(ひあさ)秀宜(ひでのり)氏(日本女子大学附属高校教諭)のご協力を経て、絵図のキャプションも含めて、全文の翻字(文字起こし)を行いましたので、合わせてご覧ください。 これは、国内各地域の物産・名産を浮世絵風に印刷した「教草(おしえぐさ)」の中の1枚であり、ウィーン万博に出品されたもの。岐阜県の渡辺養蜂場さんのHPから、渡辺孝氏の解説つきで、絵図を購入することができます。 セイヨウミツバチ導入以前
この本の趣旨は別のところにあるのだろうが、何と言っても同書を読んでぼくが一番に受けたインパクトは、関東大震災における朝鮮人の虐殺について書かれた部分である。 民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代 (中公新書) 作者:藤野 裕子 発売日: 2020/08/20 メディア: 新書 ぼくはこの事件について自著『不快な表現をやめさせたい!?』で次のように書いている。 不快な表現をやめさせたい!? 作者:紙屋 高雪 発売日: 2020/04/06 メディア: 単行本(ソフトカバー) ヘイトスピーチの怖さは、例えば「在日韓国人」「ユダヤ人」という「人種」としてくくられた人たちが丸ごと「二級市民」と見なされるようになって、その社会の中で「どう扱ってもよい存在」にされてしまうことです。これは単に個人が攻撃されるというだけにとどまらず、社会が壊れてしまうことを意味します。現に日本では、関東大震災の折に「人種
政治的に「右」か、「左」か。そんなことにこだわる時代は、もう終わったのではないだろうか。日本の歴史における天皇という存在、そしてその「初代」とされる神武天皇についても、戦後歴史学が積み上げてきた成果と方法によって研究すべき課題がたくさん残っているのではないか――。講談社選書メチエの新刊『神武天皇の歴史学』は、そうした思いを新たに抱かせてくれる意欲作だ。著者の外池昇氏に話を聞いた。 そんなに毛嫌いしなくても… ――まず、最初にお聞きしたいのですが、神武天皇って、実在したのでしょうか。 外池 それがいつも、まず聞かれることなんです(笑)。私の答えは、歴史上の他の人物と同様の意味では「いない」、ということになりますね。それはつまり、同時代の史料や考古学的資料で存在が確認できない、ということです。 ただ注意したいのは、『古事記』と『日本書紀』に共通して初代天皇と位置付けられている。もちろん、記紀の
日本の古典文学や古文書などの「くずし字」を解読する人工知能(AI)に注目が集まっている。情報・システム研究機構が開発したAIは、くずし字を瞬時に現代の文字に変換する。今後、国文学研究資料館などと協力し、大量の古典や古文書を解読するプロジェクトに乗り出す。(中居広起) 「古典の解読は、専門家でも1ページあたり10分程度はかかります。このAIなら、1ページを1秒間ほどで解読できます」 くずし字解読AIのソフト「KuroNet(クロネット)」を開発した同機構人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)のカラーヌワット・タリン特任助教はそう話す。 タリンさんのパソコンの画面に、兼好法師の「徒然草」を表示してもらった。現在私たちが使っている文字とは異なる形の字が多いうえ、上下の字がつながっていてなかなか読めない。 この画像をKuroNetに取り込むと、即座に解読が終わり、くずし字の横に赤字で現代
伊田チヨ子(いたちよこ) @chiyocooooo73 『ベルと紫太郎』『ジョーのグッドニュース』(角川)『美女も野獣』(comipo)東京150年祭初音ミク衣装デザイン、『懐溜諸屑』(個人出版)ほか沢山。お仕事依頼→ itachiyoko0421♡https://t.co/MnyA4sFYIX へ。詳しいお仕事履歴はnoteにまとまってます! https://t.co/O4qBVCzege 伊田チヨ子(いたちよこ) @chiyocooooo73 【女学生は袴にブーツなのか】 これは【大正時代の女学生は袴にブーツ】という現在の一般的イメージに関しての私の自由研究なので話半分にふーんて聞いて欲しいのですが、【袴にブーツ】が流行っていたのは明治末期〜大正中期あたりまで、それ以降は袴にブーツは廃れている傾向にあるようです。(続) 2019-11-07 14:20:35 伊田チヨ子(いたちよこ)
この3月に駒澤大学仏教学部を定年退職しましたが、コロナ禍ということもあって最終講義はやらず、感染がおさまってきたところで学部の公開講演会での講演という形でやることになっていました。 しかし、いつになっても感染者が減らず、また他の事情も重なったため、Web会議の形でやらざるをえなくなりました。そこで、本日19日に、学部の仏教学会の第2回定例研究会でのリモート発表という形で聖徳太子に関する重要な発見の紹介をおこない、資料をPDFで配布した次第です。 この研究会は会員中心ですが、一般にも公開されていましたので、聖徳太子研究に関わっている他大学の研究者の方たちや、太子関連の特集をしている新聞、関連番組を作成しているテレビ局の方なども、多少参加されていました。ただ、リモート会議室は入れる人数の制限があるため、このブログでは告知していませんでした。 発表の題名は、 聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんと
学校に住む子供先生がいた 明治時代、小学校教師の数が足りない時期があった。これを解消するため、小学校を卒業した後に資金の問題で進学が出来ない村一番の秀才の子供を、そのまま教師にしてしまう流れができた。 周囲の大人が勉強を続けたいのであれば代用教員になればいいのではないかとアドバイスをし、その気になった子供が学校に住み込みで働く。見方を変えると子供を騙して学校に幽閉し授業をさせながら、次の犠牲者を探すように見えなくもないが、とにかく日本にはこういった人材が求められていた時期があった。 一四歳で学校に住み込み働く少年の中には、大きな夢を抱く者もいた。今は小学校の先生だが、学資をためていずれ東京に出て出世しようという野心を持つ者たちがいたのである。当時は日本全体が成長への熱気に浮かれ、誰もが出世できるのだと思えるような時代であった。出世のための手段として上の学校を卒業するというルートが形成され、
出たばかりの本だが、ネットで高評価が並んでいる。『日本史サイエンス』(講談社ブルーバックス)。日本史にはさまざまな謎があるが、「蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和」の真相について科学の目で迫り、実はこうだったのではないかと解き明かしている。理系のブルーバックスだが、歴史ファンにとっても見逃せない一冊だ。 船に関わり続ける 「蒙古襲来」は「元寇」とも呼ばれ、1回目は1274年の「文永の役」、二回目は1281年の「弘安の役」として知られる。かつては、「神風」が吹いて、蒙古軍が撤退したといわれていた。戦前の日本では、最後は「神風」が吹く先例として語られ、国民を鼓舞する材料になっていた。 本当に「神風」が吹いたのか――。近年、歴史家の間でも検証が続いている。BOOKウォッチで紹介済みの『蒙古襲来と神風』(中公新書)も定説に疑問を提起、そもそも文永の襲来では嵐が来ていないこと、弘安の襲来ではたしかに嵐
コロナ禍で各地の寺社が、初詣にも「分散参拝」をよびかけている。警察庁が2009年まで公表していた全国の初詣の参拝者は、正月三が日で9939万人。のべ人数ではあるが、日本国民の4分の3以上に当たる。ふだん神社にお参りすることがなくても、初詣だけは別という人も多いのではないか。正月くらいは、古来の習慣にしたがって由緒正しい伝統行事を・・・そう考えられているかもしれないが、初詣の「歴史」は意外に新しいという。『初詣の社会史』『鉄道が変えた社寺参詣』などの著書がある神奈川大学准教授の平山昇さんは「初詣の伝統を見つめ直して、それぞれの寺社の由緒や歴史を尊重すれば、自然と『分散参拝』は実現するはずだ」と説いている。(聞き手/樋口大二・朝日新聞オピニオン編集部) 「いつ・どこに」参拝するかの大転換があった ――大晦日の晩から元日にかけてに始まって、正月三が日に近所にあるのではない大きな神社やお寺に出かけ
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で仏教美術考証を務める塩澤寬樹さんの新連載『運慶の風景』! 第1回は伊豆の願成就院からはじまります 日本の彫刻史の集大成の時代と呼ばれてきた鎌倉時代。それを牽引したのが昨今の仏像ブームのなかで絶大な人気を誇る仏師運慶うんけいです。運慶が造る仏像は写実的で「まるで生きているようだ」としばしばいわれます。仏像における写実とは何でしょうか。鎌倉時代の仏像は本当に運慶による日本彫刻史の集大成・終結点なのでしょうか。その事情をひもといていきます。筆者は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で仏教美術考証を務める塩澤寬樹さん。運慶人気の秘密を探り、日本の美術史研究の道筋もふりかえりながら、運慶の時代を豊かに見渡す新連載です。 第1回 「鎌倉殿」の時代の仏像願成就院の大御堂には5体の国宝の運慶仏がまつられている[画像提供:願成就院]はじめに NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の1
冷泉家に伝わる古今伝授箱から見つかった藤原定家直筆の「顕注密勘」=京都市上京区で2024年4月16日、加古信志撮影 鎌倉初期を代表する歌人、藤原定家(1162~1241年)が自筆した「古今和歌集」の注釈書「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」の原本が見つかった。子孫の冷泉家(京都市上京区)で保管する木箱を約130年ぶりに開けたところ、収められていた。同書の写本の中には国重要文化財に指定されているものもあり、原本について専門家は「国宝に値する」と評価している。 定家らの古典籍を研究・保存する冷泉家時雨亭文庫が発表した。 顕注密勘は、最初の勅選和歌集・古今和歌集について和歌の先人による注釈に、定家が自説を書き加えた注釈書。上・中・下の3巻からなる。木箱にあった3巻のうち中・下巻が、筆跡や紙の製法などから原本と判断された。上巻の原本は火災で焼失したと伝わっており、同時に見つかったものは写本だった。
香川元太郎が描いた歴史考証イラスト(城など)を、簡単な解説を添えてご紹介します。 イラストのナンバーは元太郎が保管する原画の整理番号です。 イラストについてのご質問は、番号と合わせてMAILでお問い合わせください。 2000番以降のイラストは、団体または個人が原画を所有しているものです。 管理人 さちたろう 地域別索引 索引 お知らせ 著書のご紹介 お問い合わせ
【間もなく再放送】 [NHKBSプレミアム] 2020年09月16日 午前8:00 ~ 午前9:00 (60分) 戦国時代の越前・一乗谷に都さながらの都市を築いた大名・朝倉義景。その力を頼ってきたのが将軍候補・足利義昭。義景に軍を率いて上洛し幕府再興を助けるよう求めてくる。 エピソードへ 出演者ほか 【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】呉座勇一,真山仁,中野信子,【語り】松重豊 詳細 織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、天下人への道を歩み始めたことは有名だが、信長の前にそのチャンスを得た大名がいた。越前の国主で、一乗谷に都さながらの都市を築き繁栄を謳歌していた朝倉義景だ。義景は義昭に軍勢を率いて上洛するよう求められるが、みすみす好機を逃してしまう。その後は義昭を奉じる信長と対立、2度も信長を倒すチャンスを手に入れるが果たせず、ついに滅ぼされてしまう。義景失敗の理由を探ってゆく。
(編注)9月25日の「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」のテレビ放送にともない、昨年11月28日に掲載された記事を一部編集のうえ再掲します。また「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」の内容を含んでいます。 英語版でも「名言」だった 「今度は君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ」 「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」において、煉獄杏寿郎は竈門炭治郎たちにこの言葉を贈った。鬼殺隊に所属する煉獄杏寿郎は、「柱」と呼ばれる、最も位の高い九名の剣士の一人である。 そもそも、煉獄杏寿郎たち九名の剣士は、なぜ「柱(はしら)」と呼ばれるのであろうか。考えてみれば、こうした実力者を表す言葉として、「柱」というのは聞き慣れない。 以下では、「柱」という呼び名に込められた、2つの意味を考えてみたい。1つは、多くのファンが漠然と感じている意味。もう1つは、「柱」という言葉が昔から持っている意味である。 実は、「柱」という呼び名の
民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代 (中公新書) 著者:藤野裕子 出版社:中央公論新社 ジャンル:新書・選書・ブックレット 民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代 [著]藤野裕子 暴力はいけない、それは間違いない。ただ、それだけでいいのか。過去に民衆がふるった暴力を、安易に正当化するのでも、あるいは単に否定するのでもなく、まずは理解し、その上で暴力とは何かを考えようとするのが本書である。江戸の百姓一揆を助走に、新政反対一揆、秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺の四つの事件について、最新の研究の知見をもとに詳細な検討が加えられる。 江戸の百姓一揆はやみくもに暴力をふるうものではなかった。訴願を聞き入れられるよう一定の作法があり、領主の側にも百姓の生業を維持する仁政イデオロギーがあった。やがて商品経済が発達する中、作法を逸脱する一揆も出てきたが、明治維新後に起きた新政反対一揆
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