昨日も「『日本語らしさ』と訳文の完成度」で説明したが,日本語文法の知識・理解が訳文の完成度を大きく左右する。しかし,母語である日本語の文法知識は意識的なものではないので,自分の頭で考えてもなかなか利用できない。そこで考えるべきなのが,何とか「感覚」で対処できないかということである。以下の2つの日本文を比べて,どちらがより「日本語らしい」かを考えてみてほしい。 私は純子に会って,彼女は写真を何枚か見せ(てくれ)た。 私は純子に会って,写真を何枚か見せてもらった。 おそらくは2.のほうがより自然だと感じるのではないだろうか。なぜかはわからなくても,そのように感じるのではないかと思われる。 では,その理由を考えてみよう。「『日本語らしさ』と訳文の完成度」のときもそうであったが,「~は」という要素の影響は文末まで及ぶ,という文棒規則と関係がある。つまり,1.では文頭の「私は」が「会って」の主語には