サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
Appleイベント
note.com/nhk_syuzai
ここは「うどん県」香川。 ランチには1杯200円でおいしい讃岐うどんが食べられるし、飲んだ後も〆にはカレーうどんが定番です。 NHKに入ってから、函館、福岡、東京ときて、香川県の高松放送局で4か所目の勤務。未踏の地だったけど、瀬戸内海に面した風光明媚な土地だし、いい場所に来たなあ。 高松から東南アジアに進出するうどん店の経営者を追って、小型カメラ片手にシンガポールに出張したこともありました。カメラマン人生、満喫! そんな時、ある怪しい話を聞いてしまったのです。 「秋に高松で開かれる国際学会に、アフリカからおかしな参加申請が相次いでいる」 これは匂います、事件の匂いが…。 その暑い夏の日から、私の調査報道が始まったのでした。 楽しい高松生活、それが…高松に赴任して2年が経った、2015年夏のこと。 現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」が開かれ、街中で外国人観光客の姿をよく目にするようになって
メディアの仕事の在り方を変えようという試み、いろいろと試しています。こちらも合わせてご紹介します。(前編はこちらから) 地方の記者を孤独にしない 支援の仕組みも地方局の記者からは、仕事の負担だけでなく、こんな悩みも耳にします。 ① 調査報道などをやろうとしても、人手も時間も足りない。 ② デスクと方向性が合わず、やりたいことができない。 ③ 上京して取材したい案件があるけど余裕がない。そこでまず私たちが考えたのが、①を解消する方法です。 地方局というのは、実はネタと現場の宝庫。「社会の課題は地方でこそ顕在化する」とさえ思っています。そこでの記者の「気づき」を逃さず捉えて、全国に訴えることができれば…。 そこで始めたのが「全中展開」という取り組みです。どこかの地方局の記者が気付いた問題について、全国に取材を広げ、社会的な課題として警鐘を鳴らしたり、解決につなげたりしようというものです。 地方
いろんな感想を持つ人がいると思いますけど、私は揺さぶられました。ちゃんと答えなきゃ、と思いました。 この記事が書かれたきっかけとなったのが、私が書いたこちらです。 この記事の趣旨は、調査報道の価値を訴えるものです。発信後、大きな反響をいただきました。調査報道をやっている仲間たちはもちろん、読んでもらいたいと思っていた地方の若い記者たちや、霞ヶ関の最前線で取材している記者たちから、数多くのメールやメッセージをいただきました。何年も前に一緒に番組を作ったディレクター、沖縄時代の友人・知人からも。ありがたいことです。 ただ、前出の「やめたくなかったんだ」という記事を目にして、当初の趣旨とは少しずれるテーマではあるものの、心に突き刺さるものを感じました。これはちゃんとアンサー記事を書かなければ、と思いました。(獅子まいこさんとも直接、個人的にやりとりをさせていただきました。ありがとうございます)
ネットにはときどき極端な意見の人と、それに追随する人たちがいます。私はこれまで「排外主義的な言論」を主張したり、時には行動で訴えたりする人たちについての取材を多く手がけてきました。 例えば4年前、弁護士に全国から13万件もの懲戒請求が送られた問題です。 2018年10月に「クローズアップ現代+」で放送しました。 そしてあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」の内容を巡って大量の苦情や問い合わせなどの電話、いわゆる“電凸”が寄せられ、展示が一時中止に追い込まれた問題や、慰安婦問題を扱った映画「主戦場」の上映について映画祭がこちらも“電凸”を懸念して一時中止にした問題。 去年はテレビ朝日の情報番組「羽鳥慎一 モーニングショー」のコメンテーターの大谷医師が、PCR検査を巡る発言で炎上して一時出演できなくなった問題も取材し、7月に朝の ニュース番組で放送しました。 どれもこれも、いわゆる「
記者は取材すべきことを、客観的に見なければならない。だから、当事者は取材に関わるべきではない。そう思い続けてきた。 記者になって10年以上が経過し、その考えが変わったきっかけがある。 わが子が小児がんを患ったことだ。 娘は小学1年生の時に小児脳腫瘍を発症した。彼女の闘病生活、そして同じ病と闘う子どもたちを見て、私は初めてこの国の小児がん医療の現実を知った。 “かかった病院や医師によって、その子の運命が変わってしまう” この現実を何としても変えたいと思った。ただ、当初は患者の父親という「当事者」の自分が取材するべきではないと考えていた。 しかしさまざまな人とのつながりに導かれるように、私はその一線を越えていくことになった。 「事件記者として生きていく」はずだった1993年に記者になった私は、これまでの記者生活のほぼ半分を事件取材に費やしてきた。 初任地の札幌で過ごした5年のうち、4年は警察・
沖縄は暑い。暑いのは嫌いだ。 汗、くさい。夜回りの車の中では、なおさら匂う。 どうして俺はこんなところにいるんだろう。 この思い、いま内ポケットに辞表を入れている君らにも聞いてもらいたい。 1年生記者が辞表を書くまでNHKに入ってから1か月の研修を終え、配属先を決めるとき、俺は沖縄放送局なんて希望していなかった。同期たちには一番人気だったようだが、本土復帰の経緯もよく知らず、米軍基地問題についても勉強不足だった。当時の人事は、なまじ知識があるよりはいいと考えたようだ。 大学時代はひたすら「文学」に浸って、学生に人気の学者や評論家のことばを振りかざしていた。政治を嘲弄し、経済を嗤い、メディアなんて俺が変えてやると思っていた。 入局の際の面接では「NHKに文化部を設立する」なんてことを言っていた。 それが…3か月で辞表を懐に入れていた。 もうやめる。やめるしかない。 サツ回りで「かわいがり」1
東日本大震災の発生直後に、凄惨な被害を撮影したNHK仙台の報道ヘリ。搭乗した鉾井カメラマンと小嶋カメラマンの体験を、3月に「取材ノート」に掲載したところ、多くのメッセージをいただきました。 ネットでは報道ヘリについて厳しい意見を目にすることもあり、正直、記事を書く前は賛否が分かれると思っていました。しかし報道ヘリの役割について考えるきっかけになったというコメントが多く寄せられ、撮影した2人に届けさせていただきました。コメントを送っていただいた方、記事を読んでいただいた方に、改めて感謝申し上げます。 さて、記事にはたくさんの質問も寄せられました。 「報道ヘリって救助の妨げになっているのでは?」 「救助を求めている人の様子をテレビで伝えて、それで終わりなの?」 「NHKの報道ヘリ態勢ってどうなっているの?」 確かに、災害報道の際「報道のヘリの音で、現場で救助を求める人の声が聞こえなくなるのでは
「バイリンガル」な教育方針で日本語に自信がなくなった私を救ったのは、「特攻隊員」が人生を捧げた夢だった 突然だが、「人生、うまくいかない」と思い詰めて、自分ではどうしようもなくなる経験、みなさんにはないだろうか。 15歳の私が、そうだった。私は「言葉の壁」に直面していた。 外国人の親を持つわけでも、海外で育ったわけでもない。日本で生まれ、日本で育った。けれど、ある点が他の多くの子どもと違っていた。 その「壁」を超え、今の私がいるのは、ある「特攻隊員」の存在があったからだと後になって気づいた。そのことについて、語らせてほしい。 母の「特殊な」教育方針私の生い立ちは、少々変わっているのだと思う。 山梨県甲府市で、小学校の教員の日本人の父と、英語塾を経営する日本人の母の間に生まれた。至って平凡な家庭だ。 特殊だったのは、母の教育方針。 母は大学で認知心理学を専攻し、子どもがどのように言語を認知し
「僕らはこうして“不正”を⾒つけた」地方局の若い記者たちは、どうやって重鎮議員のカネの問題を明らかにしたのか 調査報道の裏側を紹介するシリーズ、前回は、多くの記者を動員しての「政治とカネ」の取材手法をご紹介しました。でも、それって大手メディアしかできないのでは? いえいえ、地方で、少数精鋭でもできます! 今回は、その実例。私たちが調査報道の手法を紹介するきっかけになった記事をご紹介します。 書いたのは、松江放送局(当時)の安井俊樹記者。彼はもともと、報道局の科学文化部で文化やサブカルの取材を専門としている記者でした。それが松江放送局への異動をきっかけに、地元の有力議員の「カネ」をめぐる問題に興味を抱くようになりました。 このスクープのあと、彼は異動した長崎放送局や、現在いる岡山放送局でも「政治とカネ」をめぐる独自の報道を続け、いまや調査報道「界隈」では知られる存在に。NHK内での研修や、ジ
4)資産や所得の報告書 国会議員が個人で持っている財産や、どんな収入を得ているのかも文書でわかります。国会議員資産公開法という法律で、「資産等報告書」「所得等報告書」「関連会社等報告書」の提出が義務づけられているからです。 不動産や株、ゴルフ会員券、それに車や船なども持っていれば一目瞭然。借金の額まで書かれています。ただし、これはHPなどで公開されてないんですね。衆議院や参議院に行って、閲覧するしか見る方法がありません。 この4種類さえ見れば、完全にわかる!という訳ではもちろんありません。本当の「裏金」は痕跡さえ見当たらないこともありますし、事実と違うことが記載されていたケースも多々あるからです。(そういうカネの情報を集めるのも、プロである国会記者の仕事ですが、その話はまた後日) ただ、「カネは必ず足跡を残す」とも言われていて、この4つの基本資料を読み解くと、「足跡」が見えてくることがあり
「命を救うため、決して破ってはならない規則を破った」10年以上前の告白を確かめに行った記者、彼が聞いた真相とは 「命を救うため、私はルールを破った」 その話を彼から聞いたのは、記者になって4年半が過ぎたころ、仙台でのことだった。誰よりも空の安全を守ってきたはずの男の告白。ただ「本当は墓場まで持って行くつもりだった」という話を、私はどう扱っていいか分からず、書くことができなかった。 それから11年余り。外務省担当の記者になった私は、「極秘」の指定が解けて公開された「天安門事件」に関する外交文書を見て、驚いた。 これはあの時、彼から聞いた話ではないのか…。 私は意を決して、すでに引退していた彼に、会いに行くことにした。 その人は、空を守るその人の名を、赤木徹也さんという。 初めて出会ったのは、2008年11月1日。北海道を拠点にする航空会社エア・ドゥが、新千歳空港と仙台空港を結ぶ路線を開設した
初めて目の前に現れた津波は、波ではなく、巨大な水の塊だった。 その塊は、コンクリートの壁を乗り越え、暴力的な強さと勢いを持つ激流となって、町に流れ込んでいった。 直前までそこにあった生活の証し、家や店など町並みだったものが粉々に破壊され、木材のかけらや、捻じ曲がった金属片になりかわった。 そして、多くの人の命が奪われていった。 ついさっきまでいた場所。 現実感がわかないまま、カメラを回し続けた。 これは、記者になって3年目、突然、ひとり災害取材の最前線に放り出された私の記憶だ。 2011年3月11日、午後2時46分。 宮城県石巻市にある報道室に勤務していた私は、2日前に起きた震度4の地震の影響を、雄勝町という小さな港町で取材していた。50センチの津波、それでも養殖業などには手痛い被害が出ていた。 「助け合って復興したい」 そう話す養殖業者のインタビューを撮り終えたあとだった。 突然、巨大な
「来ていますよ、津波。来ている、来ている! 川を上って来ていますよ! 正面」 それまで冷静だったパイロットの緊張した声で、カメラを前方へと向けると、名取川を津波が遡上してくる様子が確認できた。 午後3時54分。ヘリの映像が、テレビで生中継され始める。 白波がザーッと川を上ってくる様子の撮影を続けていると、再び前方の席に座るパイロットと整備士の叫び声がした。 「海、海、海。もっと左、左、左」 カメラマンの座席は後部右側。真ん前や左側はよく見えない。指示された側にカメラを振ると、黒い津波が陸上にも押し寄せていた。 東日本大震災の津波の恐ろしさに、世界中の人が気づいた瞬間だった。 撮影できたのは「偶然」この映像を撮影したのは、当時入局1年目の鉾井喬だ。ヘリでの撮影は研修を含めてこの日が4回目。4回といっても、実際に放送に使われたのは、前日に撮影した海岸の不法投棄現場の映像が初めてだった。 NHK
毎日めまぐるしく変わる新型コロナウイルスのデータを、24時間いつでも、誰にでも、わかりやすく伝えることは簡単ではありません。 NHKの新型コロナウイルス特設サイトの担当エンジニアとして奮闘しているのがこの「ジャージ男」。テクニカルディレクターの斉藤一成くんです。サッカー好きの彼のことをここでは「カズ」と呼ばせてもらいます。 NHKのエンジニアのほとんどは「放送」に関わる仕事をしていますが、そのなかでカズはウェブ周りのシステムの設計から開発、運用までを手がけるいわゆる「フルスタック」のエンジニアとして異彩を放ちまくっています。 「できるものはすべてオープンにしたい」というカズの提案で去年12月に始まったのが、NHKのサイトにある新型コロナ感染者のデータを誰でも自由にダウンロードできる取り組みです。 下のページにアクセスするとグラフの下に「データーのダウンロードはこちら」というリンクがあるのが
「あっ揺れた…地震!」 「この大雨いつまで続くのか…大丈夫だろうか」 そんな時、すぐにNHKをつけて情報確認をする方もいらっしゃると思います。 NHKの報道の根幹のひとつは、間違いなく災害時の報道です。 初任地に赴任したNHKの新人職員。 職種問わず、まずたたき込まれるのが災害報道への心構えと行動です。 大きな揺れを感じたら、呼び出される前に出勤。大雨や台風の時は、気象台や各市町村、警察・消防と連絡を取り合って情報収集。 技術チームはいち早く中継態勢を組みます。 総務チームは取材態勢を支えるロジに全力投球。 各部署が力を携えて24時間態勢で情報の発信を続けるのです。(働き方改革は大事ですが、災害時は全力投球です!) NHKのレゾンデートルともいえる災害報道。 今回登場するのはその中心人物。 激務とされる報道局の災害担当デスクを支える、この言葉。 “おまえの原点は何だ?” こんにちは、金森大
「どうしても見せたいものがある」 そういって男性が連れてきてくれたのは、フロリダ州ペンサコーラにある全米屈指の航空博物館だ。見せたいものとは、そこに展示されている旧日本軍の戦闘機「ゼロ戦」だった。 「ゼロ戦と空中戦を戦ったアメリカ軍のパイロットは例外なく、その機体の高い運動性能を恐れていた」 美しい流線型の機体の説明書きにはそう記してあった。 だが私は、ゼロ戦を見るために首都ワシントンから出張してきたわけではない。目的は一つ。トランプ氏を熱狂的に支持した人たちが、選挙のあとどうしているかを知るために、会いに来たのだ。 アポイントをとった退役軍人の男性は、取材を快く引き受けてくれた。そのあとで、ぜひ見せたいものがあるという。 「私は湾岸戦争で、空母艦載機のパイロットをやっていたんだ」 コロナ禍で博物館が公開を制限する中、私が来るのに合わせて、中に入れるようわざわざ担当者に話をつけてくれていた
幼少期からチョウを追いかけてひょんなことからNHKの記者になり、取材でつかんだ「幻のブータンシボリアゲハ」の生息情報に、興奮した勢いで専門家による調査隊を自ら結成。周囲のありがたい手助けでついにブータンに降り立ったという、はい、斎藤基樹です。 (前編の記事はこちらです) 8月4日 みんなそろって首都出発!2011年7月に羽田を発ち、ブータンに到着してからの数日は関係機関との取材交渉に追われました。というのもブータンシボリアゲハが生息するとみられる谷は中国やインドとの国境近くにあり、外国人の立ち入りが厳しく制限されていたのです。 交渉は難航しましたがなんとか許可されたのは、私とやりとりしていた農林大臣が調査の重要性などを内務省に直にかけ合ってくれたおかげだと聞きました。感謝です。 そして調査隊のメンバーや番組の取材班も、ビザ発給のドタバタもあったりしつつなんとか全員入国して8月4日、私たちは
まずい、間に合わない。どうしよう。 その日、私は初めて訪れたシベリアで、荒野の中をとばす車の中にいた。 7月なのに、寒い。登山用の防寒着を着ているのに、肌にまで寒さがしみこんでくるようだ。でも、それはまだいい。 車がとんでもなく揺れる。道があったとしても、舗装されていないのだ。1つ数キロある撮影用の機材が、幾度となく跳ね上がる。まるで体全体に強い重力がかかっているようで、特にお尻が痛い。もうだめ。ワゴン車の座席に寝転がってしまった。 これまでの記者人生、岡山でサツ回りをしていた時も、東京に上がって夜中の張り番を繰り返していた時も、体力的にきついと思ったことはなかったのに…事前にあれだけ調べたのに、4時間かけて最初に訪ねた村が目的地と違っていたというショックも、拍車をかけているのだろうか。 ボーッと窓越しに、シベリアの原野を見る。こんなところに、しかも真冬に抑留されていた人たちは、いまの私に
国の「不都合な真実」を暴いた報道の裏側を公開します!記者たちが3年かけて厚労省の壁に挑んだ「作戦」とは? こんにちは。 NHKでデスクをやっている熊田といいます。(こんな人です) テレビのニュースって、1分半ほどの短い時間でいわば要点を伝えているだけなので「それって何を根拠に言っているの?」という声を最近よく聞きます。「どうせ当局のリークでしょ」と言われて、いやいや違いますよと、ガックリすることもしばしば。 ならばと、この「NHK取材ノート」で、私たちがどんな取材をして、何を根拠にどう発信しているのか、報道の裏側を公開するシリーズを始めることにしました。 第1回目に登場するのはこちら、木村真也デスクです。 彼がリーダーとなって報じた「戦没者遺骨取り違え問題」は、国にとっての不都合な真実を暴き、再発防止策を打ち出させるなど国を動かした報道として、ことしの新聞協会賞を受賞しました。 木村くん、
幼少期に出会った1頭のモンシロチョウが導いた憧れの地、ブータンの秘境。NHKの報道現場で好きなことを追い続けて20年、変わり種と言われながら40半ばの今も新たな情熱と興奮が止まらない。そんな私の「取材ノート」をご覧ください。 鉄道少年が「チョウ」と衝撃の出会いはじめまして斎藤基樹といいます。チョウが好きでこれまでの人生をチョウと過ごしてきました。 子どものころは駅近くの小さなアパートに暮らし、毎日母親にせがんでは線路沿いの金網にへばりついて電車を見るのが好きな鉄道少年でした。それが唐突にチョウに目覚めることになったあの時の光景は、40年以上たった今も脳裏に焼きついています。 母親と買い物に出かけようと外に出たとき、日暮れてピンクや青や黄色の混ざった複雑な色の空を見上げた私の目に、不意に緩やかに舞うものが像を結びました。「そいつ」は残照の光を浴びて銀色に鈍く輝きながら、止まろうともせずふわふ
NHKのニュースや番組をつくっている私たちが取材に込めた思いや取材手法などをお話します。一緒に「取材ノート」をつくっていきましょう。サイトはhttps://www.nhk.or.jp/d-navi/note/ 利用規約はhttps://nhk.jp/rules
はじめまして、「NHK 取材ノート編集部」です。 ご覧いただきありがとうございます! このたびNHKの報道の記者を中心に「公式note」を立ち上げることになりました。 キャッチコピーは「取材ノート、ひろげます」 この記事は「NHK 取材ノート編集部」の最初のページです。 まず私たちがなぜ「note」を立ち上げたのか、どんな場所にしていきたいのか。「取材ノート、ひろげます」というコンセプトに込めた思いとともに、お話します。 どうしてNHKの記者たちが「note」を?編集部は全員が「報道記者」としてキャリアを重ねてきました。20代、30代が多く、行政や医療、災害、デジタルなど、専門分野はさまざま。全員に共通しているのは「テレビ」というメディアを主な場所として「ニュース」を伝えてきた経験です。 「テレビ」 このメディアが持つ影響力の大きさや魅力を私たちは実感し、信じ、誇りを持ってニュースを伝えて
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『NHK取材ノート|note』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く