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「え、壁がなくなってる・・・」 馬が急な坂を駆け上がる、三重の多度大社に伝わる伝統の「上げ馬神事」。 この神事がSNSで“炎上”していることを取材して記事にしたところ、「NHKは動物虐待を擁護するのか」といった批判が多く寄せられた。 「ここまできたら、やりきります」と上司に言ってさらに取材を進めた。が、馬が乗り越えるあの壁が、こんな展開になるとは。 ※記事の前半はこちら 記事はなぜ“炎上”したのかあらためて自分の書いた記事を読み直した。 思ったのは、今回は上げ馬神事についてSNSで広がっている情報のファクトチェックをすることが主な目的だったので、私は一つ一つの情報の真偽に焦点を絞って記事を書いた。 例えば「近年になって馬に壁(崖)をのぼらせるようになったという、SNSで拡散している情報は誤りだ」というように。 一方でSNSであがっている批判には「神事そのものが動物虐待で問題だ」という意見が
「NHKは動物虐待を擁護するのか」 「ひどい偏向報道で許せない」 「記者の取材がまったく足りていない記事だ」 SNSの画面に次々にあがってくる批判、批判、批判。肯定的な意見はほとんどない…。心臓がドクンと鳴り、スマホを持つ手がふるえた。 三重県桑名市の多度大社で、馬が急な坂を駆け上がる伝統の「上げ馬神事」について、去年「動物虐待だ」と神社などに批判が相次ぎSNSなどで “炎上”となった。 そのことをニュースとして放送やウェブ記事で伝えた。動物虐待などあってはならないことは十分踏まえたうえで、関係者に取材し、神事で起きたことや過去の経緯をまとめ、客観的に伝えたつもりだった。 予想以上に大量の火の粉が飛んできた。 冒頭のような厳しい意見や批判がSNSやNHKのコールセンター、投稿フォームなどを通じて全国から寄せられ、それは今も続いている。 ”炎上”のいわば当事者となって批判も受けながら約10か
去年4月中旬、ウクライナに取材に入った私たちがはじめに向かったのは、西部の都市、リビウ。 ポーランドから国境を歩いて渡ったあと、車で向かった。その前日、リビウにある自動車整備工場が、ロシアによるミサイル攻撃を受けて死者が出ていた。 (前編の記事はこちらです) はじめて嗅いだ「戦場」の匂いロシアによるミサイル攻撃を受けた工場前日に攻撃を受けたばかりの工場は、焦げ臭い匂いがした。 真っ黒に焼けて元の形がわからなくなった自動車の数々。 初めて目にして匂いを嗅いだ「戦場」だった。 がれきの上に、亡くなった人の数のろうそくがともされていて、祈る女性がいた。 この人は亡くなった人の家族なのだろうか。話しかけることはできなかった。人が殺された戦争の現場に初めて足を踏み入れて、私はおじけづいていた。 がれきを黙々と片付ける男性がいた。攻撃を受けた自動車整備工場の従業員のようだった。インタビューしてみよう。
「入ったら15秒で死ぬビルがある」などといわれるのに「日本よりここがいい」と家族が話すヨハネスブルクで支局長が見た南ア社会の深い断絶 おととし(2022年)の末から南アフリカのヨハネスブルクに駐在している。去年からは妻とふたりの子どもたちも日本から合流した。 ネットで「ヨハネスブルク 治安」などと検索すると、「世界一治安が悪い」「最恐都市」「入ったら15秒で死ぬビルがある」などと物騒なタイトルの記事が表示される。確かに治安がよいとはとても言えないから正直、家族を呼ぶことはためらった。 それが今では妻も子どもも「日本に帰りたくない。ずっとヨハネスブルクがいい」などと話すほどになじんでいる。 そこに、ヨハネスブルクが抱える巨大な矛盾があるのだけど。 いつかはアフリカに先月(2月)11日、私は西アフリカのブルキナファソの首都・ワガドゥグに向かっていた。ウクライナへの軍事侵攻を続けるロシアがアフリ
記者になって5年、宮城県で東日本大震災の復興の取材を続けてきた。 しかし、自分は被災地のほんの一部しか知らなかったと、気付かされることになる。 地震直後の被災地を取材するのは、実は能登半島地震が初めてだった。 地震直後の被災地は・・・ 元日に起きた能登半島地震から2週間後。私は石川県輪島市にいた。被災地取材の応援だった。 2019年、仙台放送局で記者として働き始めた私は、東日本大震災の時はまだ中学2年生だった。 震災から10年のタイミングで気仙沼支局に赴任し、当時の状況や街の復興の様子を伝え続けてきた。 自らの命を省みず、高齢者施設の利用者を救出した高校生たち。 新たな取り組みで復興を目指す水産業者。 10年たって初めて亡き夫について語った女性。 さまざまな角度から東日本大震災と向き合い、発信してきたつもりだった。 しかし能登半島で目の当たりにした地震直後の光景は、衝撃的だった。 1月14
ウォーターゲート事件の内幕を描いた映画「大統領の陰謀」(1976)の一場面に、ワシントン・ポストの記者と、「ディープ・スロート」と呼ばれる情報提供者との印象的なやりとりがあります。 互いの表情もはっきりしない薄暗い駐車場で、事件の核心に早くたどり着きたいと焦る記者に、ディープ・スロートは短くこう告げます。 “Follow the money.”(カネの流れを追え) 「大統領の陰謀」「カネ」が政治権力の重要な資源であり、その流れを追うことが政治的現象の理解に資することは、昔も今も変わりません。 現在、政治資金パーティを巡る不透明な「カネ」のやりとりが問題になっていますが、私が政治にまつわる「カネ」を調べるきっかけになったのは、島根県議会の「政務活動費」の取材でした。 県議会のベテラン議員が不正な工作によって140万円を受け取っていたことを明らかにし、報道の翌日に議員が辞職という事態になりまし
大学時代に書いた自分の卒業論文が、記者として初めての調査報道につながった。 森林の保全や活用に欠かせない、法律が定める自治体の「森林整備計画書」について大量の公開文書を調べたら、多くの自治体がどこかの文書を丸写ししていたことがわかったというもの。 日本の森林を守るための大事な行政の文書が「コピペ」…あらためて思った、 「日本の森林ってこのままでいいの?」 コロナ禍で見つけた卒論テーマNHK前橋放送局記者の田村華子です。 私がこの「森のネタ」を見つけたのは3年前、大学4年生のころでした。 学生生活で最後の新学期が始まったばかりの4月、新型コロナの「緊急事態宣言」が出て大学の授業も中止になり、困ったのが「卒業論文」です。 私の専攻は「森林環境資源科学科専修」といって、実際に森林に出て植物や動物の分布などを調べる「フィールドワーク」が主体でした。 北海道の実習先ででもフィールドワークはおろか外出
ジョブズよ、なぜ、語ってくれていなかったのか・・・ ジョブズは、2011年に亡くなっている。私が取材してきた「新版画」とのつながりについて、本人が直接話したり、書き残したりしたものは見つかっていなかった。 「ジョブズが直接、新版画に言及しているカギカッコがないことが最大の弱点でしたね」 これは、英語番組を一緒に制作した同僚の言葉だった。マッキントッシュの開発チームのメンバーやアップル社の幹部でさえ、誰も知らない。そう思わざるをえないほど、新版画とジョブズとのつながりは極めてプライベートで、ベールに包まれていた。 けれど、“状況証拠”はある。ならば、それを積み上げていくしかない。アメリカ取材に必ず行く。ビル・フェルナンデスさんがいるニューメキシコ州のアルバカーキがロケの最終目的地だ。50分の日本語番組は、きっとできる。 前年のリポートから番組まで一緒に仕事をしてきた荒木真登あらきまさとディレ
やりたいことがあっても、 壁にぶつかり、突き返されてしまう。 そんな悩みを抱えたことは、誰しも、一度や二度ではないと思う。 記者歴30年超の私もしかり。2015年から4年かけて調べていた、スティーブ・ジョブズと「新版画しんはんが」との結びつきについて、アメリカ取材を目指して番組提案をするも、採用されなかった。 しかも、次なる機会をうかがっているうちに、世界はコロナ禍に突入。齢よわい五十六。定年まであと3年半、もう残された時間は多くない。でも、あきらめてたまるもんですか。 前編はこちら アップル初期のメンバーも知らない2020年3月11日、WHO・世界保健機関は世界のコロナ感染症の流行を「パンデミック」と認定。ニュースもコロナ関連一色になりつつあった。アメリカ取材に行ける状況ではなかったが、何もしないわけにはいかなかった。 関係者の連絡先を見つけては、「ジョブズ」と「新版画」との結びつきを問
しかし、これは、 どう考えたって、変な組み合わせだ- 1984年1月24日。 スティーブ・ジョブズはステージの上にいた。 「これがあれば、なんでも思い通りに表現できる」 と、自信たっぷりに聴衆に訴えている。それは、アップル社が「マッキントッシュ」を世界にデビューさせた瞬間をうつした、過去の映像だった。 ただ、私の視線は、ジョブズではなく、マッキントッシュの画面に集中していた。そこに映っていたのは、1枚の絵。描かれていたのは、流れるような黒髪をくしでとかす妖艶な日本人女性だ。 「マッキントッシュ」に映し出された日本人女性の絵その絵は「新版画しんはんが」と呼ばれる日本の木版画だった。 ジョブズは、会社の命運を賭けた場に、なぜ、この絵を使ったのだろうか? このネタに私が出会ったのは、2015年のこと。以来8年間、ジョブズの知られざる素顔に迫ろうと、WEBの特集記事を書き続けた。日本語だけで7本。
ことし2月、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から1年がたったころ、私のスマホにメッセージが届いた。 「あなたのためにウクライナのアクセサリーとハーブティーを買ったの。届けるにはどうしたらいい?」 彼女はウクライナ人。去年3月、私が隣国のモルドバでの取材中に知り合って、同世代ということもあって今もときどき近況を報告してくれる。 彼女と初めて会ったとき、私たちはロシア語で話していた。でも今は互いに英語しか使わない。 ウクライナでの取材中に目にした貼り紙が忘れられない。 ロシア語は使いません。ロシア語は「血の匂い」がする言葉だから。 学生時代に多くの時間をかけて学び、あれほど好きだったロシア語を使うのが、私は今でも少し怖い。 不思議の国に近づきたくてロシア語が好きだったといっても別にロシア文学のファンじゃない。何しろドストエフスキーすら読んだことがない。「それでもロシア語の学習者?」と言われそ
去年12月、国際部の提案会議に2本の取材提案を出した。 「ウクライナの兵士たちの心のケアの課題を探る」という提案と、もうひとつは私の前任地、福島県の子どもたちと、ウクライナの子どもたちとの手紙を通じた交流を取材するという内容だった。 取材提案を出したのはこれが初めて。 福島県から東京の国際部に異動して4か月あまり、国際情勢を3交代で24時間モニタリングする仕事にも慣れてきたが、海外の現場に行かずに情報だけで原稿を出し続けることに、何か違和感も抱くようになっていた。 だから現場に行って取材したい。 …という熱意がデスクたちに伝わったかどうか、提案は採用されて、初めてウクライナへ取材に行くことになった。 家族や友人はそれは心配した。首都や各都市にロシアのミサイル攻撃が相次ぐ場所に行くなんて、特に親にしてみれば気が気ではなかっただろう。 準備を進める間も、現場を取材したいという気持ちと、戦時下の
「同じ場所に何年もいて、よくモチベーションが保てますね!私には絶対無理です」とおっしゃる方もいます。 でも私の場合は 「あれをやりたい、これもやりたい」 「これはやらなきゃいけないのに、できていない」 常にネタに追いかけられていて、モチベーションの下がるヒマなんてありません。 毎年、自分の「プチテーマ」を設けることも、モチベーションが下がらない理由の1つかもしれません。 例えばことしは「琉球舞踊」を取材しよう、ことしは「しまくとぅば(沖縄に伝わる各地のことば)」、ことしは「沖縄民謡」とか。 昔、あるデスクに「長くいるのに、そんなことも知らないの?」と言われたことがきっかけかも。 苦手な分野からプチテーマを設定して、その分野でお知恵をいただける人と知り会えるのが楽しいですし、苦手な科目が毎年ひとつひとつ減っていくのも、自己満足かもしれませんがちょっとした達成感があります。 後編ではそんなちょ
震災の発生から数か月、各地で復旧の動きが始まるなかで、私(後藤デスク)の遠藤さんご夫婦への取材は続きました。2011年の末には美恵子さんが「ストレスケア」という資格を取得するため、仮設住宅で被災した人たちを訪ねる様子を取材しました。 (前編の記事はこちらです) 手紙には、にじんだ文字で「ありがとう」資格の取得という目標を見つけた美恵子さんは、「娘が頑張った分、その思いに背かないよう生きていきたい」と話して、笑顔も見られるようになっていました。 でも年が変わってしばらくすると口数が少なくなり、家に閉じこもることが多くなりました。 どうしたのですか?と美恵子さんに尋ねると、ぽつりぽつりと、3月11日が近づいてくるにつれて娘を失った悲しみや、役場への就職を勧めたことへの自責の念がこみ上げてくること、眠れない日が増えてきたことを話してくれました。 私は週に数回ご自宅を訪ねては、清喜さんと美恵子さん
2011年3月11日。 その日、私は11回目の誕生日を迎えていました。 宮城県の内陸部の小学校5年生で、学校が終わったら焼いたスポンジケーキに母と一緒に生クリームを塗って、誕生日ケーキを作る予定でした。 でも、大きな揺れがあって、各地に被害が出て、もちろんケーキを食べるどころではありませんでした。 それ以来ずっと、誕生日の「おめでとう」に違和感をもつようになりました。 そんな私は記者になり、今年初めて取材者として震災と向き合うことになり、2人の兄弟を取材したのです。 その取材で私は、この被災地でずっと変わらないもの、変わってゆくものをずっと見つめ続けていきたいと思うようになりました。 こらえた涙12年前のあの日、私は学校の体育館で卒業式の練習に参加していました。 急に、揺れが襲ってきて椅子の下に隠れましたが、その椅子もあちこちに動いていて、必死で押さえていました。 何が起きているかわからず
「…で、その人は誰を亡くされたの?」 デスクは私を見ずに、企画の提案内容が書かれた紙にことばを落とした。 ひどいことばだと思うかもしれない。誤解が生まれないよう説明を加えると(説明したところで誤解しか生まないのだけど)そのデスクも、決して亡くなった人がいるかどうかで提案を見ているわけではない。ただ、、 報道カメラマンとして災害現場を見てきた私たち3人はあるときそろって、デスクが却下しそうな「地味な話」の提案を出した。自分より他人のことを優先して、被災地を支えてきた人たちの話。 災害現場にはいつも多くの「名も無きヒーロー」たちがいる。 そしてヒーローものにはいつも「続き」がある。 1人目のヒーローはひたすら自転車を修理し続けた 「お金はいいから、いいから」 そう言ってお客さんからの代金は受け取らずに膨大な数の自転車を無償で修理し続ける男性。 2011年3月19日、宮城県石巻市でNHKが撮影し
「美談にしないでね」 ことし1月、母校で開かれた同窓会で、同級生たちから言われた言葉だ。 12年前のあの日、ぼくの母校は津波に襲われ、地域で多くの人が亡くなった。 そして、ぼくと家族はすぐに県外へ移った。 「ぼくは被災者なのか」 「あの日のことを伝えていいのだろうか」 記者として、ひとりの人間として、ずっと考えながら生きてきた。 あの日ぼくらはこの学校にいた石巻市立門脇小学校。「門小」の名前で親しまれていた、ぼくの母校だ。市内でも歴史ある小学校として知られ、かつてはおよそ300人の児童が通っていた。 しかし、東日本大震災で津波に襲われ、その後、児童数の減少によって閉校に。津波の痕跡を大きく残す校舎は、保存と整備を経て、去年4月から震災遺構として一般公開されている。 焼けた教室の壁。骨組みだけになった机やいす。 真っ白だった校舎は黒く変色している。 でも、確かにあの日、ぼくらはこの学校にいた
「津波が襲来しています。高台へ、避難してください」 「海岸付近には、絶対、近づかないでください」 あの日。 巨大な津波に街が飲み込まれていくなかで、ぎりぎりまで町の建物に踏みとどまってスピーカーから避難を呼びかけ、津波の犠牲になった女性がいた。宮城県 南三陸町の職員だった遠藤未希さん(当時24)。 あれから12年、未希さんの両親にずっと寄り添い、時にはすぐそばに座って朝から晩まで話を聞き、時には遠くから連絡をとりあい、取材し続けている記者の、「決してメモをとらない」取材ノート。 12年たっても襲われるあの日の恐怖はじめまして、後藤岳彦といいます。現在はNHKの「災害・気象センター」で勤務しています。 あのとき、3月11日の午後2時46分。 NHK仙台放送局で記者をしていた私は、立っているのが難しいほどの激しい揺れに見舞われました。 震災発生当時の仙台局のニュースフロアしばらく立ち尽くしたま
「念のための避難です」 「直ちに影響はないということです」 政府や東京電力の説明をなぞる報道は「大本営発表」と呼ばれた。 あれから12年。あのときのことを人に聞かれると、自分の無力さをさらけ出す恥ずかしさや悔しさ、申し訳なさにさいなまれ、つい実際以上に美化して話してしまう。 私はあのとき、原発報道を担当する記者だった。 (科学文化部 ニュースデスク 大崎要一郎) 「被害の情報はない。原子炉は停止している」2011年3月11日午後2時46分。 私は東京・渋谷のNHK放送センターにいた。 激しい揺れを感じ、ニュースセンターへ向かって走り出す。 ニュースセンターの建物につながる渡り廊下が左右に蛇行して揺れている。今にも落下しそうだ。それでも誰かが渡ったのを見て、意を決して続く。 ニュースセンターは大騒ぎだった。 壁際や机の上にあるモニター類がガタガタ揺れるのを、皆で懸命に抑えていた。 私は携帯電
「すごいです。釜石が、釜石市の市内が、すごい土煙におおわれています」 カメラが捉えた、釜石を襲った東日本大震災の巨大津波。 撮影したのはトクさんこと徳田憲亮さん、NHK釜石支局の通信員だ。 私がトクさんのいる釜石に転勤してきたのは、震災から10年余り経った2021年11月。初任地の沖縄から縁もゆかりもない東北の岩手に来た、文字どおり右も左もわからない不安だらけの私を迎えてくれた。 取材先からも信頼され、私に多くの人を紹介してくれたトクさん。 でも、そのトクさんはもういない。 38分間トクさんは大分県出身。岩手大学工学部に進学したが、まじめな学生ではなかったようだ。在学中は演劇に熱中し、単位が足りず6年かけても卒業できなかった。 そしてその頃から、NHK盛岡局でカメラマン補助(ライトマン)として働くようになり、のちにスタッフカメラマンとなった。 転機は2010年秋。岩手県沿岸の釜石支局(当時
【防災 x #ハッカソン 開催します】 防災や減災に関するデータを使って 災害から命を守る新しいサービスの可能性を探ります お申し込みはこちらまで!開催は10/22 , 23ですhttps://t.co/zBTJ3pSYCK 防災減災に関心ある方、プログラミングやデザインスキルある方などなど、ご参加お待ちしています! — NHK生活・防災 (@nhk_seikatsu) September 28, 2022 はたして参加してくれる方がいるのだろうかと、不安な気持ちでしたが… なんと50を超える申し込みが! チーム一同ガッツポーズ。貴重な休日にも関わらず、ありがとうございました! 「エンジニアではないけれど防災に関心があります。参加してもいいですか?」と勇気を出して参加してくださった方もいました。 エンジニア、デザイナー、中・高・大学生、防災に関心のある方、多様な専門性をもった参加者が大集結
「ご覧いただいている映像は、地震が起きたときの神戸放送局の放送部の様子です」 画面全体が激しく揺れている。机も椅子も棚も波打つようにスライドしていく。 「大きな揺れが繰り返し襲っているようです。いろいろなものが棚から落ちたり机から落ちたりしています」 放送局の泊まり当番で仮眠中の記者に向かって本棚が倒れてくる。 記者が間一髪に飛び起きると、次の瞬間、周りが真っ暗になる。停電だ。 直後、記者は電話へと飛びついた。 1995年1月17日午前7時に放送された、朝の全国ニュース「おはよう日本」。 震度7を観測した阪神・淡路大震災の揺れのすさまじさが初めてテレビで全国に伝えられた瞬間だった。 地震発生からすでに1時間あまりが経っていた。あの日、いったい現場で何が起きていたのだろうか。 錯綜する情報 混乱する現場午前5時46分。阪神・淡路大震災が発生。 NHK大阪放送局がテレビとラジオで放送を開始した
「被災者の方からお話を聞かれていましたが、どう感じましたか」 大学生だった私に記者から繰り返し投げかけられた言葉です。 何と答えていいか分からず、どう答えたかもよく覚えていません。 大学1年生の時から、阪神・淡路大震災の追悼行事「1.17のつどい」にボランティアとして参加していた私。 毎年、取材で、同じような質問に何度も何度も答えるたびに・・・ 「私たちは何のためにやってるんだっけ…?」 もやもやした感覚を抱いていました。 そんな私は、今年、取材する立場として阪神・淡路大震災と向き合うことになりました。 「撮影を手伝ってほしい」私、三砂安純が生まれたのは1998年。兵庫県で生まれましたが、阪神・淡路大震災が発生した当時はまだ、母のお腹の中にもいませんでした。 震災の知識といえば、小学校の時に見た映像が恐ろしくて、見るのが嫌だったなあという程度。 そんな私が震災と向き合うきっかけとなったのは
私、佐藤翔かけるは宮崎放送局の記者として、日々防災・減災の報道に取り組んでいた。 福島県出身で、取材の原点は地元での東日本大震災。防災報道に携わりたくて、NHKに入った。災害への備えを繰り返しニュースで伝えることで、被害を減らせると信じていた。 はずだった、はずだったのだが、、、 防災って、ちゃんと伝えるの難しくない・・・? 防災が大切だと言えば、否定する人はいない。 ことが起きれば、誰もが恐怖を抱く。 だけど、何も起きていないときに、考えてもらうにはどうしたらいいのだろう?プロフェッショナルだけでなく「興味がない」と思っていたかつての私のような人にも。 そんな悩みを抱えながら取材していたら、なぜか学校で子どもたちに防災を教える「先生」になるよう命じられてしまった。その経緯はこちら。 ふだんニュースでは何万、何十万という「マス」に向けて発信していた記者の私が、1人の先生として9人の生徒と歩
NHKで災害担当デスクをつとめています、金森大輔です。生まれも育ちも伊豆大島です。 10歳のころに体験した、伊豆大島の噴火災害と全島避難の鮮烈な記憶について以前こんなnoteを書きまして、たくさんのお便りをいただきました。 私たち災害報道の担当者の目的は、 報道によって命を救うこと、被害を減らすこと です。 だから台風!豪雨!暴風!地震!噴火!大雪!などの大規模な災害が起きたとき、私たちは「いま何が起きているか」だけでなく、必ず「命を守るためにみなさんにどう行動してほしいか」を伝えます。 一方で私たち報道機関がテレビやラジオ、ネットなどを通じて「避難してください」と呼びかけても、どうしても届かないところがある、限界があるということも常に感じています。 ご家族や知人からも「すぐ逃げなきゃだめだよ!」と呼びかけてもらえたら、より確実に命を守ることにつなげられます。 そう考えると、実は気象災害に
NHKのニュースや番組をつくっている私たちが取材に込めた思いや取材手法などをお話します。一緒に「取材ノート」をつくっていきましょう。サイトはhttps://www.nhk.or.jp/d-navi/note/ 利用規約はhttps://nhk.jp/rules
“仕事第一”と習い事も社外の活動もあまりしてこなかった私。 社会人20年目を目前にした去年5月、「NHKの職員って課外活動してもいいんだっけ」と内心びくびくしながら、取材先の方とともに、SNSであるコミュニティを立ち上げました。 「オストメイトといっしょ!秘密結社アッと♡ストーマ」 なんていいいながら…全然 秘密じゃないですけれど。 メンバーは70人ほどで、会社員や通訳、主婦、医師、看護師、理容師、トリマー、弁護士など職業も年齢もさまざま。 名前の通り、オストメイトと、そうでない人たちが一緒になっていろいろな活動をする集まりです。 どんな活動かというと・・・ デコってみたり “デコパウチ”というモノなんですが、見たことありますか? オストメイトが使う「パウチ」という装具を、スタンプやイラスト、シール、編み物などでデコレーションしたものです。 われらが“秘密結社”のビッグイベントのひとつが、
番記者、それは特定の取材対象者に密着して取材を行う記者のこと。 スポーツ取材の分野では、プロ野球の球団ごと、サッカーのチームごと、それぞれ“番記者”がいる。政治の世界にも総理番、大臣番・・・、経済や社会の分野にも。 でも、独自の路線を歩む記者もいる。それがこの私。「プロレスラー番」だ。 もちろん、NHKは専属の「プロレスラー番」を置いていないし、あくまで自称。これまでの取材の中で、何かとプロレスラー議員に縁があったことが、そう名乗るようになったゆえんだ。 こんな運命をたどっているNHK記者は、たぶん私だけなんじゃないか。 なんで私がプロレスを・・・そもそも私は女子校出身で、毎日「ごきげんよう」と挨拶して育った。趣味は“推し”の韓国アイドルの動画鑑賞で、プロレスとは無縁の環境で生きてきた。「新日」と「全日」の違いもわからなかった。 最初の接点は、東京の政治部に配属された時、たまたまプロレスラ
福島県・福島市出身で当時19歳だった私は、1年間通った予備校に最後のあいさつに行こうと、地元から隣の宮城県仙台市に向かっていた。 その途中、電車の中で感じた強い揺れ。 午後2時46分。 その後、何が起こっているのかもよく分からないまま、雪が舞う寒さの中をほかの乗客と一緒に近くの施設へと避難した。 その場所がどこだったのかすら記憶がない。私だけではなく、車で迎えに来てくれた父親もよく覚えていないというのだから、今考えるとかなりのパニック状態だったのだろう。 「想定外」に抗いたい。 11年前、私は心に決めて記者を目指した。 …はずだった。 防災なんて何も知らなかった私、佐藤翔(さとう・かける)は現在31歳、NHK宮崎放送局に所属する報道記者だ。記者生活は8年目、若手から中堅に差し掛かっている。普段は地域の話題や日々のニュースを取材している。 その傍ら、去年10月からは県内のとある学校で、中高生
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