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note.com/tanahashi
行動から感覚へのフィードバック。 生きていく環境の中で何かを知り、有益な行動とそれに伴う結果を得るためには、行動とそのフィードバックを得ながら仮説を組み立てては検証するというループがまわる必要がある。 その際、わからないことを曖昧なまま残すというのは、この生存戦略からすると馬鹿げた戦略だ。生きることにリスクを残し、チャンスを失っているかもしれないままに、周囲の環境やら、他の人たちとの関係性を拒んでいるということになるのだから。 そんなふうにまわりを見ず、自分しか見ないで、周囲との関係から逃げる選択は自分自身の破滅どころか、自分を含むコミュニティそのものを危機に晒しているのだということを、そうした自分勝手な個体は気づかないのだろう。 そんなことを考えるのは、引き続き、ピーター・ゴドフリー=スミスの『タコの心身問題』を読んでいて、知性の在り処はつまり、そのあたりにあるのではないかと思ったりして
"エコロジーは、もしそれが何事かを意味するのだとしたら、自然がないことを意味する" 年末からすこし読み始め、一度中断して、また年明けすこし立って読むのを再開していたティモシー・モートンの『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』。 ようやく読み終えたが、この400ページ弱のそれなりの分量の本のなかで、モートンが現代のエコロジー的な思考法や態度の源泉を19世紀のロマン主義の芸術に認めて、その美的な距離感を批判しつつ、最終的に提唱するダークエコロジーの倫理観がものすごくしっくりきた。 ダークエコロジーは、対象を理念的な形式へと消化するのを拒絶する、倒錯的で憂鬱な倫理である。ダークエコロジーは、この穢れた大地をそのままに、ここに立つ自分たち自身の存在を含め、受け入れる態度だ。それは美化され、それゆえに人間存在のことさえ思考から除外して、その美しさを追求しようとするディープエコロジーの陥り
前にも紹介したけれど、スティーヴン・シャヴィロの『モノたちの宇宙』という本にこんなことが書かれている。 科学の実験や発見の光に照らしてみても、人間中心主義はますます支持できないものになっている。今やぼくらはこの地球上の他のありとあらゆる生きものとどれほどぼくたちが似ていて緊密に関係しているかを知っているので、自らを他に例のない独自の存在と考えることはできなくなっている。だから、ぼくらは、その境界をとうてい把握しえない宇宙において、コスミックな尺度で生起している様々な過程と、自分たちの利害や経済を切りはなすことはできなくなっている。 この文中に書かれている「人間中心主義」。 なんとなく、その響きやシャヴィロの本での用いられ方、その他最近読んだグレアム・ハーマンやエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロらの本から勝手にどういう主義なのかを想像していたが、昨夜あらためてWikipediaをみて
2018年もいろんな本を読んだ。 ちょうど1年前の年末年始にかけて読んだのはゲーテの『ファウスト』(書評)だった。19世紀初頭に書かれた、この作品はあらためて近代という、人間と世界のあいだに亀裂が認識された世界が明確に描かれていた。 「ありとあらゆる道徳観念が、耐えがたいまでの重荷を負わされ」、「たえず、神の権威と、直接、関係づけられ、「罪という罪は、極微小の罪にいたるまで、宇宙世界と関係づけられる」と書くホイジンガの『中世の秋』(書評)やジョルジョ・アガンベンの『スタンツェ』(書評)が描く中世ヨーロッパの世界のあまりに激情的で残酷でもある世界と人間が直結した世界とは好対照である。 文学史における名作という点ではメルヴィルの『白鯨』(書評)も読んでみたし、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』(書評)も読んだが、いずれもゲーテ『ファウスト』と同じく19世紀の作品。前者が1851年、後者が
あともういくつ寝ると、年末年始の休みというところで、風邪をひいた。休みだと思って気が抜けると、熱とか出しやすいのは昔からだ。昨日ちょっと気が抜ける出来事があったからかもしれない。 今日は朝から頭が痛いなと思っていたが、午前中仕事をするうちに熱っぽくなってきたので、午後から早退させてもらって、家で寝ていた。 早めに薬を飲んで寝てたこともあって、昼間よりは体調もマシになった。 それもあって、数日前に手に入れた円城塔の『エピローグ』を読みはじめた。風邪であまり頭が冴えないので、むずかしい哲学書をお休みして、小説くらいにしておこうと思ったわけだ。 まだ冒頭すこし読んだだけだが、これがなかなか面白い。 訳あってSF小説を読む必要があり、何を読もうかと思って選んだのが、人工知能の高度な発展により生まれたオーバー・チューリング・クリーチャ(OTC)と人間が共生する世界を描いた作品。まだ前半ちょっとしか読
旧来的な組織に対して、これまでにない新しい物事を実現しようとすると、人というものはやはり見たこと、体験したことのないものに抵抗しがちであるがゆえに、あまりに事を急いてしまえばかえって物事が前に進まなくなる傾向がある。 一気に高いところに登ってくださいといっても、不安の方が先にある立つのは、自分で何かを変えるということをしたことがない人にとっては自然なことだと思う。 けれど、いまや変わらずに済ませられる状況などはこの日本にはほとんど存在しないはずだ。 だから俗に言う「小さくはじめる」が大事になる。 意識的に自分たちを変えたたことがない人でも待ったなしで変化せざるを得ないのだから、「小さくはじめる」が有効なのだ。 新しい体験をちょっとずつちょっとずつしてもらう。気がつくと最初にいた場所からはずいぶん高い位置まで登っていたとなるようなプログラムをつくる。 そういう小さなステップを踏んでもらうこと
しばらく前から続いてる新しい哲学書を読み進める私的プロジェクト。 新たに読み終えたのは、思弁的実在論(Speculative realism)の地平を開いたカンタン・メイヤスーの『有限性の後で』だ。 2006年に書かれたメイヤスーの処女作である本書では、カント以降の哲学が、「相関主義[correlationisme]」に支配されているとされ、それとは異なるあり方として思弁的実在論が提唱されている。そのことをメイヤスーは非常に数学的・論理的な方法をもって証明していく。 前提はこうだ。 カント以来の近代哲学の中心概念が相関[correlation]になったのはいかなる点においてであったか、ということを把握できる。私たちが「相関」という語で呼ぶ観念に従えば、私たちは思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、一方の項のみへのアクセスはできない。したがって今後、そのように理解された相関の乗り越え
まわりを見ていると、この人は学ぶのが上手だなと思える人と、逆に、この人はちょっと学ぶのが上手くないなと感じる人がいる。 シンプルに言うと、得意な人は基本的に間口が広い。 他人の意見に耳を傾けるのが上手だし、自分とは違う他人の指摘をちゃんと受け入れられる。 そもそも学ぶことに貪欲だと、自分のいまの考えにこだわるより、自分がいま持ててはいない捉え方を他人から得る方を選べる。 つまり、何かがうまくいかないとき、うまくいかない理由を他人の側、外側に見るよりも、自分の側に問題がないかをちゃんと検討することができる(もちろん、単に自分に自信がもてないというのとは違う)。他人の悪いところに目を向けて非難するか、他人の良いところに目を向けて見習おうとするか。どちらに学びがあるかは一目瞭然。プライドはそこでは邪魔だ。 その姿勢があると、他人との意見の違いにちゃんと向き合うことで、異なる意見がどういうところか
言語というものは何にも増して思考の道具であるのだから、言語の完全性、普遍性を問うたヨーロッパにおける試みの歴史を辿るこの一冊が自然とヨーロッパ思想史となるのは当然だと感じたのは、500ページを超えるこの大著『完全言語の探求』を5分の3程度読み終えるか終えないくらいだっただろうか? とにかく読んでよかったと思える一冊だった。 「ヨーロッパ史の始まりを確定するのに十分なデータはどこに見いだされるのであろうか」とエーコは問う。「政治や軍事にかんする大事件では十分でないとするならば、言語にかんする事件ではどうだろう」と。 近代的な意味でのヨーロッパに語ることができるようになるのはローマ帝国の解体によって、ローマ人と野蛮人が混ざりあった諸王国が生まれて以降だとエーコはいう。つまりヨーロッパという統一体はローマ帝国というアジアやアフリカにまで及ぶ統合によって生じたのではなく、それがバラバラになって統一
高山宏さんの文庫とは珍しい。 この『殺す・集める・読む』以外だと、『近代文化史入門 超英文学講義』くらいしかないのではないか。 その点、ほかの値段が高い単行本形式のものよりは、高山さんの本の初心者でも手に取りやすいのではないかと思う。 「推理小説の粗筋を要約してしまうのは、ある知人の弁によると死にも値すると不粋なのだ」と本書中にあるが、コナン・ドイルやアガサ・クリスティ、そして、江戸川乱歩など、数々の推理小説を扱いながら19世紀後半から20世紀前半にかけての文化史を問う、推理小説の推理ともいえるこの本のあとがき中にあるこんな一文を先に引用してしまうのも、もしかすると「死にも値すると不粋」なのかもしれない。 ぼくが本当に皆さんに知っていただきたいのは、学問や文化やにだれることなく、素朴な疑問を持って、それを解決する「方法」そのものを模索する、永遠に新しく、楽しい作業です。不粋になることを理解
わかるためのたった1つの方法。 それは、わかるまでちゃんと、わかろうとすることをあきらめずに、自分でわかるための思考作業を続けることだと思う。 自分自身でわかるようになるしかない。 このシンプルな真実を忘れずに、わかるための思考努力を放棄せずにいられるかということでしかない。 何か外から答えのようなものを持ってきて、それでなんとなくわかった気になることばかり続けていればいるほど、わかる方法から遠ざかるだろう。 わかるための自分自身での思考努力の方法とは結局、 「情報を集める」 「集めた情報を整理する」 「整理を通して見つけたことの組み合わせから、仮説を組み立てる」 を段階的に何度も繰り返す作業でしかない。 自分でわかる方法が身についていない大抵の人は、集めるだけ集めて整理しない。集めた情報の量がに溺れてよけいに混乱したりする。 だが、整理という作業を通さずに「わかる」という瞬間はやってこな
リスクを負えるか。 保守的にならずに、いまを破壊する選択ができるかどうか。 リスクを取れるかどうかもあるし、そもそも保守的な自分の思考の枠を飛びだしてリスクを孕む発想に向かえるかもある。 亭主の仕事は気配のありかたと趣向の盛り付けをきわめることにある。これは景色をつくるということである。 こうしてやっと主客の一線が淡々と見えてくる。そして、遊ぶものと遊ばれるものの交感が生きてくる。それには亭主は、つねになんらかのリスク・テイキングをするべきなのである。 亭主がリスクを負わない遊びには、客も加担を感じられないものなのだ。 と書くのは、『日本数寄』での松岡正剛さんで、もはや、10年以上前に読んだこの本のことをいまだに引用したくなるくらい、亭主としてリスクをとった提案ができるからこそ、場に出迎えた人とのあいだで変化が生まれる。その場は小さなミーティングの場でも、社会という大きな場に対してでも同じ
今朝通勤途中に歩いていて、ふと思った。日本のビジネスの現場には、最終的に何かを作りだすことがゴールであるかのような幻想があるのではないだろうか?と。 ものづくりへの過度な期待も、クリエイティブということばの独特な捉えられ方も、デザインやアートの持ち上げられ方も、何か具体的なモノ(非物理的なデジタルなものも含め)をアウトプットすることそのものがゴールであるように捉えてしまう、間違った考えが常態化してしまっているからではないだろうか。 だから、とにかく作ろうとしてしまう。何を作りましょうか?といきなりくる。 いったい、何のために? そう、問うてもまともな答えは返ってはこない。作ること自体が目的になってしまっているのだから。 本来なら、何のために?が定められていないまま、好き勝手につくったものが何かのゴールであるはずはない。 何かができたとしても、まだ何もはじめられていないし、スタート地点にさえ
見えないものをデザインすること。 見えないというか、とりわけ人間のやることのデザイン。しかも、いわゆるUXとかをデザインすることではなく、ルーティンなオペレーションのデザインでもなく、多くは一度きり実行されることのデザイン。 例えば、プロジェクトのデザインであり、その中の小さなタスクのデザインだったり、はたまたワークショップのデザインだとか。 そういうもののデザインも結局はデザインだから、うまく考えてデザインしないと、どれも良い感じには動かない。機能しない。これぞという目的を生みだすようには機能しない。 だから、ちゃんとデザインしてあげる必要があるんだと思う。 と同時に、こういう対象をデザインすることがどういうことなのかを考えると、逆にデザインとはどのように行うとよいかの初歩的なヒントが得られるのではないかと思ったりもする。 だから、ちょっと見えないもののデザインについて、書いてみようと思
21世紀になっても人びとの、わからないことへの対処はとにかくオカルト的になりがちだ。 いま読んでるカルロ・ギンズブルグの『闇の歴史』という本に14世紀のフランスにおいて、ハンセン病患者とユダヤ人が共謀して、貯水槽や井戸や泉に毒物を散布したという嫌疑がかけられ、罪に問われた件が話題にされている。とにかく、歴史的には、嫌疑をかける側の証言ばかりが残ることになるわけだから、本当の事の次第を読み解くのがむずかしく、その事自体が歴史の真実を隠し、それゆえに冷静なはずの歴史家までもがオカルト的な思い込みで真実を捻じ曲げてしまう。 その状況を打破しようというのが、本書の試みと言っていいが、その中で、ギンズブルグはこんなことを書いている。 こうした話のすべてに、キリスト教世界の境界外にのしかかる、未知の脅威に満ちた世界がかき立てる恐怖がかい間見られる。不安をかき立てたり、理解し難い出来事はすべて、不信仰者
「第一次世界大戦が起きた原因のひとつに外交の失敗があり、その失敗の原因のひとつが、外交官たちが電信の量と速度についていけなかったことである」とスティーブン・カーンは『空間の文化史』のなかで書いている。 マクルーハン的メディア論がベースになった僕のモノの見方的には、こういう話は大好物だ。新たなメディアが更新する拡張された人間の感覚が、その感覚を用いる人々の古い思考をあっさりと超えていく。そして、その感覚と思考のギャップが、時として悲劇的な勘違いを生じさせてしまう。 冒頭に言及された第一次世界大戦の要因をつくった1914年の状況もまさにそうしたギャップが生み出したものだ。 1914年に外交官であった貴族やその侍従たちはいろいろな意味で頭が古く、新しい技術に対して及び腰であった。一部の将軍が最新の武器や戦略に消極的な態度をとったのと同じだった。将軍たちが長距離砲弾や機銃の威力を理解できず、騎兵隊
いま興味があることは何かと訊かれたら「世直し」と答える。 いや、恥ずかしいので内緒にすることの方が多そうだけど、ほんとにそうだ。 でも、これは自分にとって意外だった。基本的に目の前にいる人にしか関心を示せない僕ほど、世直しなんてものに興味を持たなそうな人はそうそういないと思ってたからだ。 だから、最近、世の中をもうちょっと元気にしたいとか、面白いことを自分で考え、生みだせる人を増やし、そういう人がちゃんと経済的にも満たされた仕事ができる環境をつくりたいとか思いはじめていることに自分で気づいて、とにかく意外だった。 とはいえ、人への興味のなさは、他人に対して以上に、自分自身に対しても同様ではある。意外に思っても、なんでそうなのか?を問うこともなく、興味の赴くままにして、なぜ興味をもつのかという点は放置しておいた。 居心地の良い世界を確保するでも、昨日、ひさしぶりに話すのが楽しい昔の同僚と会っ
仕事を方法化するのはあまり好きじゃない。やり方を画一化すれば、結果も画一化したものになりがちだからだ。 画一化されたものしか生まれない世界って美しくないと思う。いや、もとい、そういう世界は醜い。 だから、仕事を方法化することはできれば避けたい。けれど、方法化しなくては、伝達、移転ができないという面もある。伝達や移転ができないと規模を拡大することがやはりむずかしい。 規模を無制限に大きくすることなんて醜いから、そんなことは望んではいないけど、それでもある程度の大きさは、仕事を楽しむためにも必要だと思う。そうした観点から、うまく方法化された仕事と属人的な部分の調和を図る形が作れると美しいと思っている。 考えずに済む方法化ではなく、考えるための方法化いま僕自身が直面しているのは、そういう課題だ。 そもそも方法(の明文)化が嫌いだし、苦手な僕が、仕事を方法化しなくなくてはならない必要性を感じている
「見ることと考えることの歴史」についての本の執筆を数年前に企画し、断念した。断念はしたが、だいたい8割くらいは書き上げていたのではないかと思う。その原稿はずっと眠ったままだった。なので、これから、すこしずつここで公開していこうと思う。 まずは、そのプロローグから。 プロローグヨーロッパの絵画の歴史的変遷を現代から遡ってみたとする。その際、13世紀から14世紀の前半あたりの時代で急に遠近法が稚拙になるのを見つけて面白く感じる。さらに時代を遡れば遠近法的構図はまったく消えてなくなる。つまり、絵画の歴史においては13世紀から14世紀の前半あたり、ちょうどルネサンス前夜にあたるゴシック期に遠近法的表現がはじまるということだ。 しかし、初期の頃の遠近法的描写は稚拙である。そのほとんどが歪んでいて違和感がある。代表的なのはイタリアのチマブーエやドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャらの作品。チマブーエが1
昨日「中国にボロ負けして400年の衰退へ向かう日本。食い止める術はもう無い」なんて記事を読んだせいもあるかもしれない。あるいは、最近の仕事で未来の社会を考えるために、これから人びとの暮らしや仕事がどう変化するか、社会の状況がどう変わり、それに応じて社会のしくみや人びとの意識、文化や倫理観がどう変わっていくかなどといった事柄を言葉にすることばかりやっているからだろうか。はたまた、単に風邪をひいて、すこし頭がぼんやりしているせいもあるだろう。 『ゲーテとの対話』のなかに、ゲーテのこんな言葉を読んだとき、感じるものがあったのは。 これから何年か先に、どんなことが起こるか、予言などできるものではない。だが、そう簡単に平和はこないと思う。世の中というものは、謙虚になれるような代物ではない。お偉方は、権力の濫用をしないではおれないし、大衆は漸進的改良を期待しつつ、ほどほどの状態に満足することができない
世の中には2つのタイプがいる。 正しさを前提として議論をする人と、決まった正しさなどはないからその前提で議論の中で何を選択するかを決めようとする人と。 僕は明らかに後者だ。 正しさというものを前提にしようと思うことはほとんどない。何かを決めなくてはいけないのだとしたら、その取り決めに影響がある人、責任を持つ人で話し合って決めればよいと思ってるし、話し合って決めるしかないと思ってる。その話し合いにおいて基準になるような正しさなんてないと思っている。 それは多神教の国の人だからとか言ってみたいが、残念ながら多神教の国にも何か明らかな正しさがあると仮定して自分の議論の正しさを主張する人がいる。神以外に正しさを求めているとしたら、一体なににその根拠を認めているのだろうか?と不思議に思う。 ルールは正しくなさだけを明示するもちろん、僕も社会にはいろんなルールが存在していて、そのルールにおいて正しくな
これからの仕事においては、会話力がよりいっそう大事なビジネススキルになると、ひとつ前の「会話とチームワーク」で書いた。 そして、会話の中で、自分が話すことと同じくらい、他人の話を聞く力も大事なことだと指摘し、次回はそれについて書くと予告しておいた。つまり、今回だ。 という本題に入る前に、もう一度、前提を確認しておこう。 会話力が大事になる前提として、まず、これからはひとつの目的に向かってプロジェクトを進めるチームを結成する際、従来のように、ただたまたま同じ組織や部署に属しているというだけで、別にその目的に向かうチームメンバーとして最適ではない人たちとチームを組むことにこだわる必要はもはやないという仕事の仕方の変化が関わっている。 今後はそうした目的に向かうワークをいっしょにやるのに、組織や部署の枠組みをこえて、外部からスキル面でも価値観やコミュニケーションの面でもふさわしい人をメンバーとし
仕事をする上でチーム作りって大事だなと、あらためて今日思った。 人ってそもそもモチベーション次第で仕事のパフォーマンスはがらりと変わるけど、じゃあ、そのパフォーマンスを高く保つキーは何かというと、チームの関係性だとか、雰囲気なんだと思う。 互いに、いい仕事をし合って全体のクオリティを上げるには、互いが信頼し合って、言うべきことをちゃんと言えたり、それぞれが積極的に自分の仕事を作り、互いに刺激になるような提案をし合う環境をいかに作るかだと思う。 人間関係のストレスのない環境をつくるいろんなチームの作り方があると思うけど、僕はとにかく楽しく、なんでも面白がって仕事をし合える関係性でいられるチームが好きだ。いい時はほめて、ダメだったら違うって、そんなに気を遣わず言える関係性。上下関係とかもほとんど気にならないようにしたいし、誰が言ったことなのかとではなく、本当に良いアイデアを採用していける状態を
考える力には、言葉を操る力が不可欠だ。 で、その言葉を操る力には2つの側面がある。 文章という形や口頭での話言葉の形で自分の考えや主張をひとまとまりの言葉として組み立てる力がひとつ。 もうひとつは、文章を読んだり話を聞きとったりする力だ。 関連するところもあるが、それぞれ独立してもいる。読んだり聞いたりの方は、自分の文脈とは異なる、相手の文脈を予測する力が必要だから。 この他人の文脈を読みとるのが苦手で、聞く力、読む力に欠ける人は少なくない。 でも、これは経験なので、卵が先か鶏が先かのところはある。苦労してでも相手が何を言おうとしてるかを考えつつ、話を聞いたり文章を読んだりするしかない。 その中で他人の文脈のパターンが引き出しに増えるから、聞く力、読む力がついてくる。 そのつもりで努力が続けられるかどうかだ。 文章からはじめてみるさて、しゃべったり話を聞いたりも大事なんだけど、考える力をつ
日々あらゆることが起きている。 だが、そのことを本当に起きていることにするには、ちゃんと「起きている」と弁明する必要がある。 声に出さなくてもいい。 とにかく、自分の頭の中でだけでも「起きている」と言葉にする必要がある。 弁明がなければ、何も起きていないことになる。なるというか、起きなかったのだ。 確かに何かが起こったと認識可能な出来事は起きていたのかもしれない。けれど、言葉にしなかったというのは、たぶん、認識可能だった出来事を見過ごしたのだろう。 見過ごしたことは果たして起きたといえるのか? 誰もいない森で倒れた木は音を立てたのか? 希望がない「現象世界は多様な姿をとって眼前にある」というのは、エルネスト・グラッシである。「それは解釈を要する」とグラッシは『形象の力』で書く。ここでいう解釈は弁明だ。言葉にすることだ。 実際、グラッシもそう言っている。 この解釈が実行されない限りは、ないし
ジャンルを超える。 新しいものが、ジャンルの超越から生まれてくることは多い。 だから、いかに複数のジャンルをまたいだ/結びつけた形で発想するか、活動を行うかを考えることが大事。けれど、フィルターバブルに自分からはまりにいってしまうというか、つい自分がいるひとつの狭い領域にしか興味を示さず、すべてをその世界の論理、常識で考えてしまう人は少なくない。 それをやってしまうと、非常識でエモーションをかきたてるようなアイデアが生まることはほぼ期待できなくなる。いや、そういうアイデアの兆しをとことん潰す方向で、すべての思考や行動を行なってしまう。 いわゆる異業種から学ぶとかいう無難な話ではなく、異なる業種、異なる職域、異なる研究領域に飛び込んでみたら何が起こるかというリスクを伴うアクションが必要だ。 残念ながら、未知に対して必要以上に臆したり、失敗を過度に怖れることが許されるような余裕はもはや誰ももて
今日、ふと思った。 映しだされた情報を見るか、情報を身体に浴びるのか。そんな2つの情報への接し方がある、と。 前者はこちらが見ているのだが、後者はあちらから見られているという感覚。あるいは前者は情報を得るためフォーカスしてるのだが、後者はぼんやりと情報に包まれているような感覚。 マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』で、活版印刷以前と以降を比べて、光との関係で論じていたことから連想したイメージだ。 視覚とそれ以外の感覚「グーテンベルク以後、視覚があらたに強調されたために、すべてのもののうえに光を要求することとなった」とマクルーハンはいう。 一方で、グーテンベルク以前の中世人なら「瞑想によって聖なる光を見るのではなく、それを浴びるのだ、という風に考えたであろう」と書く。 この対比。これは視覚情報と聴覚情報の違いだと想像するとイメージがわくはず。目は情報をこちらから拾いに行くが、耳は向こうか
昨日は、World IA Day 2018 Tokyoでの「曖昧さと不確実性」というタイトルでの講演だった。はじめて逐次通訳が入る形での講演だったが、話の仕方や時間コントロールがむずかしかった。 イベント自体のテーマが「IAの倫理と哲学」だったので、「情報はそもそも曖昧で不確実なものである」ことを伝えたいとして話をした。 背景としては「常識だと思っていたものが大きく変化する時代」において、「どうデザインするか? 何をデザインするか? 以上に、何故デザインをするのか?が問われている」と考えていることを話した。それゆえ、既存の枠組みから情報をいったん解放し、「変身=隠喩」的に異なるもの同士をつなぎあわせ、新しい思考を生みだしていくことが必要であり、「隠喩を生むノイズ」をどうプロジェクトに取り入れ、「共創の場で異なる視点を取り込む」ような仕掛けを設計しておくかを大事にしているということを伝えた。
ノイズって大事だ。 穏やかすぎる均質な状況からは、クリエイティブなものは生まれてこないんだなと感じる。思考を刺激する異質なものの存在は思考の枠組みを柔軟なものにするためには必要だ。 もちろん、ノイズだらけで、どこにも主旋律的なものが存在しない状況では話にならない。でも、次にどんなものが飛びだしてくるかわからない緊迫感は、創造的なアウトプットが必要なプロジェクトには欠かせない。 プロジェクトには波風が必要だ。 あまりに似たもの同士、適度に利口な人が集まると、逆にプロジェクトは停滞するのでは?と思っている。 多様性のある人たちの交わらない見方を取り入れるだから、僕は、外の人を巻き込むかたちのプロジェクトデザインが好きだ。 ある程度、多様性をもった人たちが参加する共創的な取り組みに価値があるのも、ノイズを混ぜることができるという観点からだと思っている。ノイズは思考の可能性を広げてくれる。 多様性
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