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note.com/tanahashi
何かをちゃんとデザインしようとすれば、様々なことを言語化することを想像以上にはるかに多く強く求められる。 いま誰を対象として考えているのか、問題をどのように捉えているのか、何を問題の原因と捉え、どのようにそれを解決しようと考えているのか。それはいったい、どのような価値がある何をデザインしようとしているのか。 これらを言語化するのは誰か説明するためというより、自分の想像力をより明瞭にするためだ。複数人でデザインに関わっているなら、チームとしてのイメージをクリアにするためである。 もちろん、デザインには言語化するよりもそれ以外の方法を取った方がいい部分はたくさんある。ただ、そうしたものを除いても、デザインの過程においては言語によって明らかにすべきことは想像をはるかに超えてたくさんある。 わかるということは、次に何のアクションをすればよいかがわかること例えば、自分が何のためにデザインしようとして
世の中には2つのタイプがいる。 正しさを前提として議論をする人と、決まった正しさなどはないからその前提で議論の中で何を選択するかを決めようとする人と。 僕は明らかに後者だ。 正しさというものを前提にしようと思うことはほとんどない。何かを決めなくてはいけないのだとしたら、その取り決めに影響がある人、責任を持つ人で話し合って決めればよいと思ってるし、話し合って決めるしかないと思ってる。その話し合いにおいて基準になるような正しさなんてないと思っている。 それは多神教の国の人だからとか言ってみたいが、残念ながら多神教の国にも何か明らかな正しさがあると仮定して自分の議論の正しさを主張する人がいる。神以外に正しさを求めているとしたら、一体なににその根拠を認めているのだろうか?と不思議に思う。 ルールは正しくなさだけを明示するもちろん、僕も社会にはいろんなルールが存在していて、そのルールにおいて正しくな
自分で何か視覚的なものをデザインしたり、ディレクションしたりする際に、自分自身に見る目がなければ、当然ながら、つくるもののクオリティーは上がらない。 利休の観察力はあまたの茶人の歴史でも群を抜いている。岡倉天心や幸田露伴ならいざしれず、とても利休にはかなう者はいない。あの造形力は観察の賜物である。器物を見る目はむろんのこと、きっと人の器量を見る目も鋭すぎるほどだった。と、松岡正剛さんは『日本数寄』で書いているが、まさに千利休が茶の達人だったのも器をはじめとする茶道具の目利きができただけでなく、茶会においてどうたち振る舞うとよいかだったり、そもそも茶会には欠かせない人というものを見る目があったからなんだろう。 数多くの器の型の切抜きをつくり、見たものを自分の中で整理することを怠らなかったのだろう。見たものの意味がディテールや要素間の関係性なども含めて理解できていなければ、それを自分の創作にな
仕事をする上でチーム作りって大事だなと、あらためて今日思った。 人ってそもそもモチベーション次第で仕事のパフォーマンスはがらりと変わるけど、じゃあ、そのパフォーマンスを高く保つキーは何かというと、チームの関係性だとか、雰囲気なんだと思う。 互いに、いい仕事をし合って全体のクオリティを上げるには、互いが信頼し合って、言うべきことをちゃんと言えたり、それぞれが積極的に自分の仕事を作り、互いに刺激になるような提案をし合う環境をいかに作るかだと思う。 人間関係のストレスのない環境をつくるいろんなチームの作り方があると思うけど、僕はとにかく楽しく、なんでも面白がって仕事をし合える関係性でいられるチームが好きだ。いい時はほめて、ダメだったら違うって、そんなに気を遣わず言える関係性。上下関係とかもほとんど気にならないようにしたいし、誰が言ったことなのかとではなく、本当に良いアイデアを採用していける状態を
今朝通勤途中に歩いていて、ふと思った。日本のビジネスの現場には、最終的に何かを作りだすことがゴールであるかのような幻想があるのではないだろうか?と。 ものづくりへの過度な期待も、クリエイティブということばの独特な捉えられ方も、デザインやアートの持ち上げられ方も、何か具体的なモノ(非物理的なデジタルなものも含め)をアウトプットすることそのものがゴールであるように捉えてしまう、間違った考えが常態化してしまっているからではないだろうか。 だから、とにかく作ろうとしてしまう。何を作りましょうか?といきなりくる。 いったい、何のために? そう、問うてもまともな答えは返ってはこない。作ること自体が目的になってしまっているのだから。 本来なら、何のために?が定められていないまま、好き勝手につくったものが何かのゴールであるはずはない。 何かができたとしても、まだ何もはじめられていないし、スタート地点にさえ
計画でも、デザインでもいいのだけど、外の現実を内なる思いに沿うよう変えようと考えるなら、その前提として、外と内との間に何らかの照応が必要になるはずである。 例えば、名前だとか、重さや長さあるいは性別や年齢のような対象となるものの属性データだとか、対象となるものの写真とか、対象に関する調査資料とか。これらは外にあるものを内側で把握するために必要なものだ。 一方で、実際に計画だとかデザインだとかを考えようとすれば、例えば、建築なら平面図や断面図、アクソメなどを使って内なるイメージを外へ投射するための方法として使うし、スケッチだとかモックアップといったもので、内なる考えをどう外に実装しようとしているかのイメージを検証したりもする。 そもそも遠近法だとか、1つ前の「文書に書きだしながらプランを練る」で話題にしたプロジェクトマネジメント計画書なども含めて、内なる考えを外で実現しようとする際に媒介とな
まず循環がある。 循環があるからつながり、変化が起こり、生成が生じる。 社会があるのではない。社会という固定化された何ものかがあると仮定して、それを探そうとするから見つからない。そうではなく、社会が生成されてくる様に目を向けてみるといい。いや、目を向ける必要がある、その把握しきれないほど天文学的な数の生成の複数性に。 ブリュノ・ラトゥールが本書『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』で伝えてくれることを大まかに示せばそういうことになるだろうか。 むずかしい内容ではあるが、さまざまなところに応用可能な考え方が詰まった本だと思った。 アクターネットワーク理論の射程たとえば、「訳者あとがき」に、こうあるとおり、その考え方は、経営や組織を考えることにも有効だと思った。 アクターネットワーク理論は、その出自である科学論(科学社会学)の境界を越えて、さまざまな分野の社会学(都市社会学、
KJ法がちゃんとできる人って少ないよね、という話になった。 川喜田二郎さんの『発想法』って50年も前に書かれた本なのに、すごいことが書かれているよねという話の流れのなかで。 実際、KJ法といいつつ、多くの場合、ただの分類で終わってしまっているのではないかと思う。その分類さえ、まともな意味をなさない分類になることだってある。そもそも作業を進めていくなかで、すこしも思考が展開されていかない。いや、情報をどう扱っていいかが分からず、グルーピングしたり標識をつけたりする作業がままならないケースも少なくない。 そもそも発想法としてのKJ法なのだから、実施してみて、何かそこから新たな発想や理解が生まれないなら、それはうまくいっていないということになる。 けれど、ほとんどの場合、そこからなんら新たな発想、理解が生まれなくても平気で終わりにしてしまう。 その程度のことだと思っているなら、はじめからやらなく
日常の生活のなかでの体験を今よりすこし良くしようとすることは、同時に何かこれまでの常識的な生活のあり方を変えるということでもある。この必ずしも受け入れやすくはない変化を受容しなければ、良い方向への変化も受容することはできない。 いまで言えば、仮想通貨に関することでも、モバイルでの個人間取引に関しても、はたまた音声UIに関しても、何か新しいメリットを受容しようとすれば、これまで当たり前に思ってきたことを諦めたり、捉え直したりすることは免れえない。変化はポジティブな方向にのみ起こるのではなく、ネガティブな方向にも同時に作用する。 マクルーハンが遺作の『メディアの法則』で示した、新たなメディアが登場する際に起こる変化の4つ組「テトラッド」(「を強化する」、「を反転させる」、「を回復する」、「を衰退させる」)は、まさにこのポジティブ/ネガティブな両側の変化が同時に生じることを示す指針のようなものだ
「先進技術を発展させた文明は、平均してどの程度長く存続できるのか?」 この問いは、1961年にアメリカの天文学者フランク・ドレイクによって考案された、この銀河系に存在し、地球に生きる僕たち人類とコンタクトできる可能性をもった地球外文明の数を推定するための方程式における、7つあるパラメーターのうち、最後の1つだ。 他の6つは、 1.この銀河系で1年間に誕生する恒星の数 2. ひとつの恒星が惑星系を持つ割合 3. ひとつの恒星系がもつ惑星のうち、生命の存在が可能となる状態の惑星の平均数 4. 生命の存在が可能となる状態の惑星で、実際に生命が発生する割合 5. 発生した生命が知的レベルにまで進化する割合 6. 知的なレベルになった生命体が星間通信を行う割合 となっている。 この6つのパラメーターに、さらに、そうした生物が現在もなお存続している割合として、先の7項目を掛け合わせれば、自然と地球外生
「人類学者には西洋を民族誌学的に研究することは不可能である」と書く、ブルーノ・ラトゥールの『虚構の「近代」』が、なかなか面白い。 「自分たちから見た異文化に対しては問題なく遂行できる研究でも、西洋文化(「自然-文化」と呼ぶべきか)に対してはなかなか遂行できない」というラトゥールは、自分たち西洋人が生み出した人類学という人間の文化・社会がどんな基盤の下に成立しているかを分析する方法が自分たちの外の異文化には適用できても、自分たち自身の文化にはうまく適用できずにいることを指摘する。 自然-文化その要因としてラトゥールがあげるのが、西洋近代が絶対的なルールのように囚われている決して交わることのない「自然-文化」という二元論的なものの存在だ。"文化人類学"として、そもそも文化の軸から異文化における自然と文化の混淆をみる既存の人類学では、以下の図の上半分に示されたように、人間の文化と異なるものとして
「誰でも知っているとおり、長く働いたからといって仕事がはかどるとはかぎらない」。 この科学技術全盛ともいえる21世紀に、僕らはいまだ科学的にみたら不合理だらけな仕事や生活をし、社会や環境のデザインをしてしまっている。 そんな考えが、最近僕自身のなかで徐々に否定しがたく明らかになってきて唖然としている。 自分たちがこれからも健やかに生きる環境というものを、最近の科学の研究結果を参照して考えてみた場合そう思うのだ。 僕らは健やかに生きる環境というものをもっと科学的にみてデザインし直さないといけないと。 サバンナに生まれた種にとってのブラックな労働環境例えば、この『サピエンス異変』。 この本では、腰痛や2型糖尿病のような現代人だけがかかる病気の要因を作っているのが、何百万年も前にサバンナに生まれ、狩猟のために歩き回る生活に適応するよう進化した人間の身体が、1日15時間を超える時間をじっと座ってい
『空間の文化史』でスティーヴン・カーンが使っている「積極的消極空間」という概念が面白い。 美術評論家は、絵の主要な題材を積極空間、その背景を消極空間と呼ぶ。「積極的消極空間」という意味は、背景自体がひとつの積極的要素であり、どの部分と比べても同じ重要性をもっているということである。こんな意味でカーンは、背景としての空間の価値をあらためてフォーカスしているのだけれど、この感覚は所謂UXというものを考える上でも大事な感覚だと思う。 空間の些細な違いとそれがUXに与える影響に気づけない人は少なくない。人びとの生活のなかでほとんど意識されない--つまり、背景として消極的にしか存在しない--空間が、実際にはどれほどそこにいる人びとの思考や行動に影響を与えているか。そのことに鈍感な人は、おそらく人びとの体験というものがもつ価値をうまく理解できないのではないかと思う。そんな意味で空間感覚というのは、UX
21世紀になっても人びとの、わからないことへの対処はとにかくオカルト的になりがちだ。 いま読んでるカルロ・ギンズブルグの『闇の歴史』という本に14世紀のフランスにおいて、ハンセン病患者とユダヤ人が共謀して、貯水槽や井戸や泉に毒物を散布したという嫌疑がかけられ、罪に問われた件が話題にされている。とにかく、歴史的には、嫌疑をかける側の証言ばかりが残ることになるわけだから、本当の事の次第を読み解くのがむずかしく、その事自体が歴史の真実を隠し、それゆえに冷静なはずの歴史家までもがオカルト的な思い込みで真実を捻じ曲げてしまう。 その状況を打破しようというのが、本書の試みと言っていいが、その中で、ギンズブルグはこんなことを書いている。 こうした話のすべてに、キリスト教世界の境界外にのしかかる、未知の脅威に満ちた世界がかき立てる恐怖がかい間見られる。不安をかき立てたり、理解し難い出来事はすべて、不信仰者
designという語が英語として登場してくるのは、16世紀後半から17世紀初頭にかけてのことだと言う。 いずれにしろOEDによると、英語としてのdesignが出てくるのは1593年が最初です。「絵」の用法では1638年が最初。要するにその界隈ですね。そしてぴったりその時期の1607年、「ディゼーニョ・インテルノ disegno interno」という言葉が、マニエリストのフェデリコ・ツッカーリ(1542-1609)の「絵画、彫刻、建築のイデア」というエッセーの中に登場しました。今まで長い間、ヨーロッパのデザインは基本的に外界にあるものをたくみに写す技術、ミメーシスの技法でやってきた。ところが1607年の時点で、英語にすると「インナー・デザイン」、この講義だったら「インテリア・デザイン」としかいいようのないイタリア語のディゼーニョ・インテルノ、「内側にあるもののデザイン化」という意味が出てき
ジャンルを超える。 新しいものが、ジャンルの超越から生まれてくることは多い。 だから、いかに複数のジャンルをまたいだ/結びつけた形で発想するか、活動を行うかを考えることが大事。けれど、フィルターバブルに自分からはまりにいってしまうというか、つい自分がいるひとつの狭い領域にしか興味を示さず、すべてをその世界の論理、常識で考えてしまう人は少なくない。 それをやってしまうと、非常識でエモーションをかきたてるようなアイデアが生まることはほぼ期待できなくなる。いや、そういうアイデアの兆しをとことん潰す方向で、すべての思考や行動を行なってしまう。 いわゆる異業種から学ぶとかいう無難な話ではなく、異なる業種、異なる職域、異なる研究領域に飛び込んでみたら何が起こるかというリスクを伴うアクションが必要だ。 残念ながら、未知に対して必要以上に臆したり、失敗を過度に怖れることが許されるような余裕はもはや誰ももて
2018年もいろんな本を読んだ。 ちょうど1年前の年末年始にかけて読んだのはゲーテの『ファウスト』(書評)だった。19世紀初頭に書かれた、この作品はあらためて近代という、人間と世界のあいだに亀裂が認識された世界が明確に描かれていた。 「ありとあらゆる道徳観念が、耐えがたいまでの重荷を負わされ」、「たえず、神の権威と、直接、関係づけられ、「罪という罪は、極微小の罪にいたるまで、宇宙世界と関係づけられる」と書くホイジンガの『中世の秋』(書評)やジョルジョ・アガンベンの『スタンツェ』(書評)が描く中世ヨーロッパの世界のあまりに激情的で残酷でもある世界と人間が直結した世界とは好対照である。 文学史における名作という点ではメルヴィルの『白鯨』(書評)も読んでみたし、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』(書評)も読んだが、いずれもゲーテ『ファウスト』と同じく19世紀の作品。前者が1851年、後者が
「中世の心理学によれば、愛とは本質的に妄想的な過程であり、人間の内奥に映し出された似像をめぐるたえまない激情へと、想像力と記憶を巻きこむ」とジョルジュ・アガンベンは『スタンツェ』で書いている。 中世の騎士道物語で騎士たちは、手の届かぬ貴婦人たちに愛を捧げて闘いに赴く。その姿は当の貴婦人たちを愛するというより、自分の心に映った貴婦人たちのイメージを愛しているように見える。時には泉の表面や鏡にその姿を投影して貴婦人たちのことを思ったりもするが、とうぜん、実際に映っているのは自分の姿であるわけで、神話のナルキッソスと変わらない。 アガンベンは「ナルキッソスの物語もピュグマリオンの物語も」という。 ともにいわば愛のアレゴリーであり、本質的に鏡像への強迫的な憧憬にとらわれるという愛のプロセスの妄想的な性格を、ある心理理論の図式にしたがって、典型的なかたちで示してくれているのである。その心理理論の図式
しばらく前から続いてる新しい哲学書を読み進める私的プロジェクト。 新たに読み終えたのは、思弁的実在論(Speculative realism)の地平を開いたカンタン・メイヤスーの『有限性の後で』だ。 2006年に書かれたメイヤスーの処女作である本書では、カント以降の哲学が、「相関主義[correlationisme]」に支配されているとされ、それとは異なるあり方として思弁的実在論が提唱されている。そのことをメイヤスーは非常に数学的・論理的な方法をもって証明していく。 前提はこうだ。 カント以来の近代哲学の中心概念が相関[correlation]になったのはいかなる点においてであったか、ということを把握できる。私たちが「相関」という語で呼ぶ観念に従えば、私たちは思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、一方の項のみへのアクセスはできない。したがって今後、そのように理解された相関の乗り越え
"わたしたちは実際にポストヒューマンになっている。あるいはわたしたちはポストヒューマンでしかない。" しばらく前から明確に、いまの時代にあったことをしたいし、いまの時代が必要とすることをするべきだと思うようになっている。そんななか、このロージ・ブライドッティの『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』は、いまの時代に何を考え、何をなすべきかを問うための1つの方向性を提示してくれる1冊だった。 「人間」という時代遅れの枠組みいまや「人間」というあり方がゆらいでいる。 技術によって高度化された義肢や、VRやARなどをはじめとする人間の感覚・認識を拡張するツールなどにより、従来の人間の身体的な限界は更新され続けている。AIやロボットの技術革新は人間と機械の境界をぼやかしつつあるし、彼らに人間の権利であった仕事も奪われつつある。人間と人間が作りだす機械の境界はますます曖昧になり、たがいに融合してい
実は、「正しさ」なんてものを信用したことは一度もない。 何かがその時々の状況に応じて「適切である」ことはあって、その選択がその条件のもとで正しいことはあっても、何かが無条件に正しいなんてことはないと信じている。 だから前回「牛、蜂、そして、百合の花」で書いたような、古代エジプト人たちが「変身」という思考装置を用いて世界を理解していたという話にしても、いまの僕らにとってはまったくもって「あり得ない」ことだとはいえ、その思考が「正しくない」なんてことはないと思うし、その思考は十分その条件下においては論理的だし「正しい」。 そういう思考のオルタナティブを示してくれるからこそ、そうした過去の人類の信仰や文化に触れたりすることは楽しい。自分たちがいかに凝り固まった考えに囚われているかに気づかせてくれるから。 それに、現代の僕らの判断だって、状況をどう捉えるかによって、一見「正しい」と思えるものが「正
ゲーテの『ファウスト』。 その「第2部 第1幕 遊苑」の場面、皇帝の居城でこんな会話が繰り広げられる。 大蔵卿 お忘れでございますか、親署遊ばされたではございませんか。昨夜のことでございます。陛下はパンの神に仮装せられまして、宰相が私どもと一緒に御前に罷り出で、こう奏上仕ったではございませんか。「この盛大なる御祝祭のお慶び、人民の幸福を嘉せられて、一筆の土地御願い申上げまする」陛下は墨痕もあざやかにお認め遊ばし、その御親署を、昨夜のうちに奇術師をして何千枚にも至らせました。御仁慈が遍く等しく及びまするようにと、あらゆる種類の紙幣に御親署を捺印し、10、30、50、100クローネの紙幣が出来上がりましたのでございます。(中略) 皇帝 ではこの紙切れが金貨として通用するのか。軍隊、帝室の費えがすべてこれで賄えるのか。奇怪至極のことと言わざるをえぬが、よしとせずばなるまいなあ。 財政が破綻した帝
「第一次世界大戦が起きた原因のひとつに外交の失敗があり、その失敗の原因のひとつが、外交官たちが電信の量と速度についていけなかったことである」とスティーブン・カーンは『空間の文化史』のなかで書いている。 マクルーハン的メディア論がベースになった僕のモノの見方的には、こういう話は大好物だ。新たなメディアが更新する拡張された人間の感覚が、その感覚を用いる人々の古い思考をあっさりと超えていく。そして、その感覚と思考のギャップが、時として悲劇的な勘違いを生じさせてしまう。 冒頭に言及された第一次世界大戦の要因をつくった1914年の状況もまさにそうしたギャップが生み出したものだ。 1914年に外交官であった貴族やその侍従たちはいろいろな意味で頭が古く、新しい技術に対して及び腰であった。一部の将軍が最新の武器や戦略に消極的な態度をとったのと同じだった。将軍たちが長距離砲弾や機銃の威力を理解できず、騎兵隊
前にも紹介したけれど、スティーヴン・シャヴィロの『モノたちの宇宙』という本にこんなことが書かれている。 科学の実験や発見の光に照らしてみても、人間中心主義はますます支持できないものになっている。今やぼくらはこの地球上の他のありとあらゆる生きものとどれほどぼくたちが似ていて緊密に関係しているかを知っているので、自らを他に例のない独自の存在と考えることはできなくなっている。だから、ぼくらは、その境界をとうてい把握しえない宇宙において、コスミックな尺度で生起している様々な過程と、自分たちの利害や経済を切りはなすことはできなくなっている。 この文中に書かれている「人間中心主義」。 なんとなく、その響きやシャヴィロの本での用いられ方、その他最近読んだグレアム・ハーマンやエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロらの本から勝手にどういう主義なのかを想像していたが、昨夜あらためてWikipediaをみて
昨日は、World IA Day 2018 Tokyoでの「曖昧さと不確実性」というタイトルでの講演だった。はじめて逐次通訳が入る形での講演だったが、話の仕方や時間コントロールがむずかしかった。 イベント自体のテーマが「IAの倫理と哲学」だったので、「情報はそもそも曖昧で不確実なものである」ことを伝えたいとして話をした。 背景としては「常識だと思っていたものが大きく変化する時代」において、「どうデザインするか? 何をデザインするか? 以上に、何故デザインをするのか?が問われている」と考えていることを話した。それゆえ、既存の枠組みから情報をいったん解放し、「変身=隠喩」的に異なるもの同士をつなぎあわせ、新しい思考を生みだしていくことが必要であり、「隠喩を生むノイズ」をどうプロジェクトに取り入れ、「共創の場で異なる視点を取り込む」ような仕掛けを設計しておくかを大事にしているということを伝えた。
恥ずかしいので、あんまりおおっぴらには言いたくないのだけど、プロジェクトの最初にプロジェクトのマネジメント計画を文書として書きだす作業は好きだ。 恥ずかしいのは、いちおPMBOKの体系を意識して書いているものの我流だから。ただ、PMBOKの正しい使い方ができているかという点では不安だが、プロジェクトを成功に向けて導くという意味での最初の計画としての文書としては、いろいろ目が行き届いているし、プロジェクトの流れの中でデザイン(広義の意味)がどう組みあがっていくかを示せていて割と書けてると思うので恥ずかしさはない。 どうしたら、プロジェクトを期待するゴールに導けるか、それにはどういう方法をどういう手順で進めるか。それぞれのタイミングで何をポイントにすればクオリティが上がりそうか。必要なものは何で、必要な役割は何か、とか。あとは最初の時点で見えていない部分は、どうやって見える化し、計画へと組みこ
これからの仕事においては、会話力がよりいっそう大事なビジネススキルになると、ひとつ前の「会話とチームワーク」で書いた。 そして、会話の中で、自分が話すことと同じくらい、他人の話を聞く力も大事なことだと指摘し、次回はそれについて書くと予告しておいた。つまり、今回だ。 という本題に入る前に、もう一度、前提を確認しておこう。 会話力が大事になる前提として、まず、これからはひとつの目的に向かってプロジェクトを進めるチームを結成する際、従来のように、ただたまたま同じ組織や部署に属しているというだけで、別にその目的に向かうチームメンバーとして最適ではない人たちとチームを組むことにこだわる必要はもはやないという仕事の仕方の変化が関わっている。 今後はそうした目的に向かうワークをいっしょにやるのに、組織や部署の枠組みをこえて、外部からスキル面でも価値観やコミュニケーションの面でもふさわしい人をメンバーとし
考える力には、言葉を操る力が不可欠だ。 で、その言葉を操る力には2つの側面がある。 文章という形や口頭での話言葉の形で自分の考えや主張をひとまとまりの言葉として組み立てる力がひとつ。 もうひとつは、文章を読んだり話を聞きとったりする力だ。 関連するところもあるが、それぞれ独立してもいる。読んだり聞いたりの方は、自分の文脈とは異なる、相手の文脈を予測する力が必要だから。 この他人の文脈を読みとるのが苦手で、聞く力、読む力に欠ける人は少なくない。 でも、これは経験なので、卵が先か鶏が先かのところはある。苦労してでも相手が何を言おうとしてるかを考えつつ、話を聞いたり文章を読んだりするしかない。 その中で他人の文脈のパターンが引き出しに増えるから、聞く力、読む力がついてくる。 そのつもりで努力が続けられるかどうかだ。 文章からはじめてみるさて、しゃべったり話を聞いたりも大事なんだけど、考える力をつ
今日、ふと思った。 映しだされた情報を見るか、情報を身体に浴びるのか。そんな2つの情報への接し方がある、と。 前者はこちらが見ているのだが、後者はあちらから見られているという感覚。あるいは前者は情報を得るためフォーカスしてるのだが、後者はぼんやりと情報に包まれているような感覚。 マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』で、活版印刷以前と以降を比べて、光との関係で論じていたことから連想したイメージだ。 視覚とそれ以外の感覚「グーテンベルク以後、視覚があらたに強調されたために、すべてのもののうえに光を要求することとなった」とマクルーハンはいう。 一方で、グーテンベルク以前の中世人なら「瞑想によって聖なる光を見るのではなく、それを浴びるのだ、という風に考えたであろう」と書く。 この対比。これは視覚情報と聴覚情報の違いだと想像するとイメージがわくはず。目は情報をこちらから拾いに行くが、耳は向こうか
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